一部女性陣がエキサイトしたこの日、イルヤ島の東において、連合海軍とオベリア・インティファーダの最後の総訓練が行われた。
これは、文字通り、艦隊の動きをチェックする最後の機会であったのだが、結果的には惨憺たるものだった。
アグネスとターニャが立てた作戦は以下のようなものだ。
1、海軍がエックス商会の船を大量に拿捕したとの情報をオベル方面に流す。
クレイは動かなくとも、エックス商会はラインバッハ一味の商売活動の生命線であるから、ラインバッハ二世は必ず出てくる。
そして、敵艦隊を無人島の南の海域までおびき出す。
2、まず第一陣として、海賊のジャンゴ一家が突撃し、敵艦隊を壊乱する。
3、第二陣としてマクスウェルらオベリア・インティファーダが突撃し、壊乱する敵艦隊をすり抜け、オベル島に肉薄し、上陸を敢行する。
4、第三陣として連合艦隊が艦列を扇形に広げ、壊乱する敵に包囲殲滅戦を仕掛ける。
まず第一案を成功させるにあたって、実際にエックス商会の船が三隻拿捕された。
戦争には関わりのない商人たちだったが、この場合ラインバッハ二世に味方したことが不運だった。
彼らは自分たちの未来への投資能力の貧弱さを呪うしかできなかったが、商人たちはあくまで非戦闘員であるので、捕虜にはされても拷問や尋問の対象にはならない。
ただ、やはりラインバッハ一味の商売の重要な秘密のいくつかは喋らされたようで、リノ・エン・クルデスは政治家として、裏表で行われるラインバッハ一味の商売規模の大きさに戦慄したようである。
この尽きぬ資金こそが、ラインバッハ二世の最大の武器なのだ。
そして、この日の艦隊訓練である。
この日、最大のミスを犯したのは、あろうことか連合海軍の総旗艦オセアニセスだった。
オセアニセス艦長ミレイは、この日、どうにも集中力が続かなかったようで、指揮艦リノ・エン・クルデスの注意を何度も受けた。
「ミレイ、おいミレイ、ボーっとするな、面舵を切れ!」
「えっ、はっ!?」
「面舵を切るように指令しろ! この艦だけが置いていかれている! 連携になっていないぞ!」
「はっ、はい! 面舵一杯、全速!」
……と、始終この調子で、最後には珍しくリノが怒りをあらわにしてミレイを叱責した。
原因はもちろん、早朝の騒ぎだ。あれ以来、ミレイの心の中は、フレア・ポーラ宣言への衝撃と、自分の宣言への羞恥で一杯であり、ほかの事にとてもではないが思考がまわらなかった。
よくもまあ「子供は三人ほしい」などと人前で叫んだものだ。本心といえば本心だが、人に聞かせる類のものではなかろう。
原因は、さらにある。この宣言をした三人の中で、最も不利なのは自分ではないか、という不安がミレイにはあった。
ポーラはマクスウェルの護衛であり、いつでも彼の隣にいる。フレアは立場としてはオセアニセス所属の一戦士であるが、願い出ればマクスウェルの旗艦アリアンロッドに移乗することも可能だろう。貴重な弓矢の使い手として、戦力としてマクスウェルに求められる可能性もある。
だが、自分はそうではない。自分は旗艦オセアニセスの艦長であり、軽々しくその座から動くことはできない。マクスウェルから最も遠いのは自分ではないか、という不安である。
同じ「艦長」という立場を利用してマクスウェルに近づくことも不可能ではないだろうが、そういった作戦的な思考とは、ミレイは無縁だった。どこまでも愚直だった。
訓練後、その原因の一つであるフレアが、難しい顔でミレイに語りかけた。フレアは無論、ミレイのミスの原因に気づいている。
「ミレイさん、今日の操艦は、ちょっとダメだったわね」
ミレイはげんなりとした表情でうつむいた。
「はい……陛下からも、こっぴどくおしかりを受けました……」
「私は原因はわかっているつもりよ。マクスウェルのことが頭から離れないのなら、頭を切り替えないとダメ」
フレアはそう言うが、自分にそんな器用なことができるなら、こんなに苦労しない、とミレイは心の中でつぶやいた。
「マクスウェルを守ることと、味方全員を守ることは同じことよ。
ことに差をつけないようにね」
その肩を一つ叩いて、フレアは去った。
フレアは、そしておそらくポーラも、すでに開き直っている。
開き直って全力を尽くすのだろう。ミレイは自分の頬を一つ叩いた。
一度はマクスウェルの精神的な速度に置き去りにされて絶望した自分だ。
それが、フレアもポーラも、見捨てずにライバルとして認めてくれた。
ここで自分が奮起しなかったら、この先どこで奮起するのだろう。
特に、今回はオベルを取り戻すための重要な戦いだ。最高の舞台だ。
自分の全知全能を、今こそ尽くすべきではないのか。
ミレイは、もう一度自分の頬に喝を入れる。
――――開き直れ、自分! フレアやポーラにできて、自分にできないわけはない。
決戦は明後日、それまでに、ミレイは別人にならなければならない。
訓練を終えて島に戻ったマクスウェルは、突然背後から誰かに視界を隠された。
「だーれだ」
マクスウェルはひとつため息をつく。
「ポーラだろ」
「はい、正解です」
マクスウェルは小さく困惑のため息をつく。
ポーラは朝の会議のときのフレアのように、なぜかにこにこしてマクスウェルの隣に並んで歩いた。
「ポーラ、これ、今日四回目なんだけど、なにかの儀式かなにかかい?」
「そうですね、儀式といえば儀式です」
「なんの?」
「内緒」
マクスウェルにはわけのわからないまま、ポーラは行ってしまった。
朝の宣言は、ポーラにも衝撃を与えている。
王女という地位をかなぐり捨てて本心を暴露したライバルがいる。
恥ずかしがりながら、「子供は三人ほしい」などと大胆にもほどがあることをぶち上げたライバルがいる。
ここに来て、ついにポーラも開きなおらざるをえなかった。
――――負けられない!
全てを生き残って、生き残った「仲間」に、さらに勝利しなければならない。
その表情の奥で、三者三様の覚悟がかたまりつつあった。
そんな暢気である意味危険な女性陣の心模様とは別の場所で、別の女性がやはり危機感を表情に表して、やや大きめの建物の前にいる。
その扉は何重にも巻きつけられた鎖と、何個もの南京錠で厳重に施錠してあり、一見しただけで普通のものが保管してあるとは思えない。
しかも、それらの南京錠や鎖には、物体としての開錠キーは存在しなかった。すべて魔法で封印してあるのである。
夜。その女性は、扉の前に立った。ジーンだ。
物言わぬまま、厳しい表情をするジーンの足元から、徐々に淡く白い光が立上る。まるで淡くライトアップされる古代の彫像のような美しさだが、表情の険しさが、これから起こることの異常性を裏付けているようにも見える。
すうっと。ジーンが左手を水平に動かした。すると、扉の取っ手に巻きつけられた鎖が、まるで生きた蛇のようにするすると自然にほどけてゆく。金属でできた物質とは思えない生命力に溢れた動きで、音も立てずに鎖は解け切り、ふわりと地面に重なっていく。
次に、右手を縦にすっと動かした。すると今度は、カシャン、カシャンと音を立てながら自然に南京錠が外れていき、ぼとぼとと地面に落ちた。
その様を、表情も変えず、ジーンは見守っている。
すべての鎖と鍵が外れたのを確認して、ジーンはその重々しい扉を開けた。
大き目のドーム空間に保管されているのは、マクスウェルがイルヤ島から持ち帰った大量の「紋章のかけら」だ。それが、先が天井に着くのではないかと思われるほどうずたかく積まれている。
その総量、一トン以上。まともに生成すれば、二千個を超える紋章球が出来上がるはずである。
種類は雑多。どこの地でも採掘される一般的なものから、イルヤで初めて発見された珍奇なものまで、あらゆる種類のものが集められている。
これを、ジーンはあえてより分けなかった。より分けては意味がない。マクスウェルの依頼に応えるには、これらをまとめて使うことに意味があった。
ジーンは淡い光を発したまま、その山の前に立つ。
最近は幼ビッキーらとカレーを作ってみたり、マクスウェルらとリタポンに興じてみたりと、随分集団に馴染んできたと思われるこの女紋章師も、やはりその本質は不明の存在だった。
普通の紋章師なら、これだけの紋章のかけらを目前にすれば、腰が引けてともすれば逃げ帰るだろう。
もしくは、持ち主の精神を真っ先に疑うであろう。「狂気の沙汰である」と。
ジーンは、そうはしなかった。マクスウェルの「狂気の沙汰」に、全身全霊で付き合った。
そしてそのために理論を作り上げ、実験を敢行し、そして今夜、その「狂気の沙汰」を完成させようというのである。
「………………」
ジーンは静かに両腕を広げ、目を閉じる。そして、静か何かをつぶやき出した。
「――――――――――――――――」
ジーンの口から発せられる超高速の言語は、どこで話されるものでもなかった。
ただ今夜、このときのためだけにジーンが開発した、専用の「術式言語」であった。
ジーンの発する光が徐々に強くなり、表情も険しくなる。そしてその言語もますますスピードを上げてゆく。
変化が起こった。紋章のかけらの山から、徐々に光の粒が漂い出す。
一つ一つは小さな光の粒が、まるで蛍のように舞い、薄暗いドーム空間の中を淡い光で染めていく。
それは、純粋な魔力の成分だった。かけらから抽出された魔力の成分が、空中を漂っているのだ。
ジーンの儀式に、動きが加わった。ゆっくりと、だが複雑に腕と指とを動かし、その「術式言語」にも熱が篭っていく。
そして術式と格闘すること、約二十秒。一万を超える光の粒は、ドームの中をまるで昼間の太陽の下と変わらぬくらいに照らし出している。
その光のカタマリが、徐々に天井の一箇所に渦を巻いて集まり始めた。見るものが見れば、夜空の銀河を想像したかもしれないが、ジーンにそんな余裕などありはしない。この稀代の紋章師をして、一か八かの危険な術式なのだ。
だが、失敗するわけにはいかない。ジーンは吹き出る汗をふくこともせず、その光のカタマリを制御する。
渦を巻きながら集まり出した光のカタマリは、徐々に密度を高めながら、その大きさを小さくしていく。
「―――――――!!」
ジーンの高速言語が飛び跳ねる。アクセントを強め、最後の一言を叫んだとき、光のカタマリは、拳大の大きさになっていた。そして、ふわりとジーンの胸元に漂い寄ってくる。
ジーンは、ここではじめて目を開き、一息ついた。だが、まだ術式は終わりではない。
ジーンは再び高速言語を口にした。そして、自分の胸の前で漂う光のカタマリを、ゆっくりと両手で包み込むように撫でると……。
そのまま、ゆっくりとやさしく、握りつぶしたのである。
その瞬間だった。ドーム空間に大量に保管されていた紋章のかけらの山が、「動いた」。
まるで山頂から蒸発していくように、かけらの山が消えていく。
それはまるで、「罰の紋章」の怒りに触れた生命の終焉を思わせた。かけらの山は、わずかに黒い粒子を散らしながら、たしかに蒸発し、空中に消え去ったのである。時間にして五分間ほどであろうか。
そうして、ジーンが両手を開くと、そこには翼のような飾りがついた、キーホルダーのようなものが残った。
その中心にある一センチほどの球体が、真紅の淡い輝きを放っていた。
「……ふう……」
一息ついたジーンは、改めて疲労を感じて、よろりと壁に体重を預けた。
そして、キーホルダーを少し掲げてみせる。
これこそが。この小さなキーホルダーこそが、マクスウェルの求める救いをもたらす触媒となるだろう。
マクスウェルは、罰の紋章と自分が一体化する前に、罰の紋章を歴史の闇に消そうとしている。
それが上手くいくかは五分五分だ。誰も体験したことのない位置に彼はおり、誰も体験したことのないことに挑戦しようというのだ。
成功の可能性など、誰にも分からない。おそらく、マクスウェルも理解はしていまい。
そして成功しても、どうなるか分からない。罰の紋章が消滅でもすれば、恐らくガイエン公国の東半分を含む群島全域はその余波で消滅する。この地上から永久に痕跡すら残さず消え去る。
いや、オベル王国には「八房の紋章」が眠っており、マクスウェルの身近には「夜の紋章」がいる。最悪、波状効果で八房と夜まで消滅することがあれば、その破壊規模は試算不能である。北は旧クールーク地方・赤月帝国の全域、南はファレナ女王国のすべてが消え去るかもしれない。
当然、そこに住む人々も、この戦争に参加したマクスウェルの味方たちも、そして敵も、全員跡形もなくなるだろう
。
真の紋章とは、そういうものなのだ。
自分で作った小さな物体を、ジーンは胸元で握り締めた。
異能の力を秘めているとはいえ、マクスウェルとて人間だ。
これまで多くの人間を救い、数々の事件を解決してきたとはいえ、彼の判断の結果が必ず成功に結びつくとは限らない。
そして、常に彼が正しい選択をするとも限らない。小さな判断の誤りが、数万人の生命を左右するかもしれないのだ。
マクスウェルからの依頼は果たした。だが、これをマクスウェルに渡すかどうか、ここにきてジーンは迷っていた。
連合海軍の作戦実行は明後日。それまでに、ジーンは決断をしなくてはならなかった。
(初:16.09.09)