オベリア・インティファーダが本拠地とする無人島は、現在ラズリル・オベル連合海軍を迎え入れている。
大き目の島とはいえ、大艦隊が駐留するような住居的な余裕があるわけではないので、連合海軍は一部の中心人物を除き、自分たちが乗ってきた軍艦に、そのまま寝泊りしていた。
まるで観光地のように愛らしい猫型の建物が乱立する島に、多くの軍艦が寄り添う光景は、ある意味で異様ともいえるが、それもこれもリーダーであるマクスウェルの選択の結果だからしかたがない。
だが、ここにきて、まだマクスウェルは連合海軍の首脳部に隠し事をしている。
それは、イルヤ島から持ち帰った大量の「紋章のかけら」であり、チープー商会から買い占めた大量の武器弾薬であり、二人目の「真の紋章」の使い手だった。
これらの保管庫は厳重に施錠され、例え何人たりとも近づかせぬよう厳命された。
もっとも、マクスウェルの依頼によるジーンの研究が最終段階にはいった現在、もうすぐこの大量の「紋章のかけら」は姿を消すだろう。無論、ジーンやマクスウェルが、その事実を公開する保証はないが。
二人目の真の紋章の使い手、ミツバについては、本人の性格上、他人に近づくなと命令することのほうが無理だった。この無邪気な剣豪は、興味のあることにはどんどん突っ込んでいく。ならばせめて、「夜の紋章」を人前で使わないでくれ、と頼むのが精一杯だった。
ミツバは、難しそうな、気に入らないような複雑な表情をしたが、依頼は素直に聞き入れた。
夜。大きな満月と、飛んでいく鳩を見上げながら、マクスウェルは呆然としていた。
昼間は軍首脳部と作戦行動について緻密な連携を確認しなければならず、訓練も欠かせない。
今回の作戦では、一方のアグネス・ターニャと、もう一方のグレアム・クレイ、同じ師を持つ三人の軍師の策の読み合いになる。
アグネスとターニャは、やや棘のある応酬ながら、クレイの方針をかなり細かく読むことに自信を持っているようだ。
曰く、クレイは艦隊を港にはりつけたまま、軽々しく出てこないだろう。前回、ラインバッハ一味が痛い目を見た理由は、血に酔って艦隊を軽々に外に出したからだ。その結果、挟撃されて悪戯に数を減らした。
ならば、次は篭城作戦を取る可能性が高い。特に今回は、セツの戴冠式に出席したゲストを守るという大義名分もあるからである。
ならばどうするのか。
アグネスとターニャには策があり、その細かい準備も現在、訓練と同時に進んでいる。
罰の紋章との葛藤で、ただでさえ疲れやすい現在のマクスウェルは、これらの準備と訓練とで、疲労の頂点にある。
もちろん、それはリノ・エン・クルデスなど他の軍首脳部も同じだろうから、文句は言えないが……。
この深夜は、マクスウェルが一息つける貴重な時間帯だったのだ。
マクスウェルはユウ医師の遺髪を納めたささやかな墓石の前にたたずむと、しばらく沈黙した。
「船に乗ったら、伝染病に気をつけるように」
目を閉じれば、今でもあの声を思い出す。かけがえのない仲間だったのだ。
ロウセンに続く、二人目の知人の死。
乗り越えなければならない、高い高いハードルだった。
眼を開くと、背中に気配を感じてマクスウェルは振り向いた。
そこに、フレアがいた。リノ・エン・クルデスの娘で、オベル王国唯一の王位継承者。
その王女が、凄愴に近い表情で手を胸にあて、マクスウェルを見つめていた。
「フレア……殿下……」
つい、マクスウェルは敬称で呼んでしまった。以前は、そんなことはなかったのだ。
親しくさん付けで呼んでいた。だが、先のオベル沖海戦での自らの負い目から、マクスウェルはリノ・エン・クルデスほどではないが、この王女のこともどこかで敬遠しているのかもしれない。
フレアの反応は大きかった。髪を振り乱して大きく顔を横に振ると、涙声でマクスウェルに詰め寄った。
「殿下なんてやめて。私はあなたの上司ではないわ、友人じゃない。
そんな仰々しい呼ばれ方、されたくない。
そんなの、マクスウェルじゃない……」
フレアは親しい間柄だったからこそ、敬遠されることに戸惑いを覚えていた。
特にマクスウェルは、自分を王族扱いしない、世界でただ一人の人間だった。
一人の女性として、ミレイたちと同じように扱ってくれた初めての人間だった。
それを、フレアは喜んで受け入れていたのだ。
そんな相手から、急に敬称で呼ばれることの不自然さに、フレアのほうが耐えられなかった。
「……ごめん……」
どう言ったらいいかも分からず、とりあえず謝罪の言葉が出た。
ただそれは、敬語ではなかった。フレアの涙が、少しは届いたのだろうか。
フレアはしばらく、たくましいともいえないマクスウェルの胸に顔を埋めていた。
その鼓動を身体で感じるように、身体を密着させた。
しばらくそうしてから、涙を抑え、マクスウェルの顔を見上げた。
「……まだ死ぬつもりなのね、あなたは……」
「…………………」
いきなり図星をつかれて、マクスウェルが沈黙した。
この場合、どんな言葉を並べても、フレアを納得させることはできないだろう。
マクスウェルは論客の才能もないではないが、フレアだけは言葉ではかなわないような気がした。
マクスウェルの沈黙を「YES」と解釈したらしく、少しフレアがふて腐れた表情をつくる。
「ラズリルで約束したのに。オベルのために生きてって」
「それは……」
狼狽するマクスウェルの胸元に、再びフレアが密着した。
「……ねえ、どうすれば、あなたは生きると決心してくれるの?
どうすれば、あなたの意識を地上につないでおけるの?」
静かに責めるように、フレアが言った。
フレアも、マクスウェルの覚悟の話は聞いている。
ジュエルやジェレミーを助け出す。そのためだけに、彼は命を賭けているのだと。
ケネスやタルに殴られ、いくらか改心はしたが、それでも覚悟の下地が消えてしまったわけではないのだ。
フレアはマクスウェルに抱きついたまま、言葉を続けた。
「私は、あなたのためにオベルを失うことはあっても、オベルのためにあなたを失うことに耐えられない」
その言葉の意味するところを数秒考えて、マクスウェルが少し首を下げたとき。
不意だった。
フレアの両腕がマクスウェルの首の後ろに回され、その唇が重なった。
「………………」
どんな強敵にも驚愕しないこの男が、何が起こったかわからず、硬直した。
どうしたらいいかわからず、無駄に数秒を重ねた。
先に動いたのはフレアだ。
唇をはなし、両腕を解いて、さっとマクスウェルからワンステップ離れた。
マクスウェルの唇に、柔らかな女性の唇の感触が残っている。
フレアは、少し頬を染めてはいたが、悪戯っぽい表情を浮かべた。
「それが、新しい約束。握手じゃ足りないみたいだから、キスにした。
一緒に生き残ろうね、マクスウェル」
そういうと、身動きできないままのマクスウェルに背を向けた。
余裕のある笑顔を見せたつもりだったが、今は耳まで真紅に染まっているに違いない。
自分のしたことの意味を理解してはいるが、その結果、こんなに恥ずかしくなるとは思いもしなかった。
フレアにしても、キスの経験などありはしない。初めてである。
(あーあ、明日どんな顔でマクスウェルに会えばいいんだろう……)
足早に去っていくフレアにかろうじて視線を向けながら、マクスウェルは先ほどまでとは違う意味で呆然としている。
そして、この光景を影から目撃していた二人の少女の存在にも気づかなかった。
ミレイとポーラである。
翌朝の定例の軍事会議は、異様な雰囲気で幕をあげた。
この会議は、長テーブルを「=」状に並べ、各勢力の首脳部が対面で座る。
そして、その前面で、軍師二人、アグネスとターニャが地図を壁に貼って作戦の要所を説明していく。
誰がどこに座るかは決まっているわけではないが、自然とグループごとに固まることが多い。
だが、この朝はその時点で違っていた。片方のテーブルにポーラ、マクスウェル、ミレイ、カタリナ、ケネスの順番で座り、対面のテーブルにはリノ・エン・クルデス、フレア、オルネラ、バスク、ヘルムートの順に座っていた。
そして、全員の顔が緊張感に包まれている中、なぜかフレアだけが場違いなほどにこにことしていて、時折マクスウェルに笑顔で手を振ったりしている。隣のリノ・エン・クルデスが何事かと怪しんだほどである。
一方、マクスウェルの両隣に座るポーラとミレイは、最初から口を「へ」の字に曲げていた。不機嫌さを隠そうともしていないのだが、二人ともマクスウェルに密着するように座っていて、離れようとはしない。それでいて、目も合わせようともしない。
マクスウェルとしては、昨夜からずっとパニックに陥っていて、何がなんだかわからない。
ただ、フレアがマクスウェルに笑顔を向けるたびに、左右のどちらかから、わき腹にエルボーが突き刺さってくるのは勘弁してほしかった。音が出るほどきつい一撃ではないものの、「痛い」ポイントを確実に突いてくるので、じわじわとダメージが蓄積する。徐々に脂汗が額を伝った。
マクスウェルの百面相を、フレアは楽しんでいるようだが、さすがに軍師の二人は怪しいと思ったのだろう、アグネスが自分たちのリーダーに意見した。
「マクスウェルさん、どうしたんですか、面白い顔して。体調でも悪いんですか?」
「そ、そうだね、体調が悪いというならその通りだ。ちょっと席をかわってもいいかな」
「はぁ、そりゃご自由に」
アグネスとしては、そう答えるしかない。
そうしてマクスウェルが立ち上がろうとすると、またマクスウェルが口元を引き攣らせて座り込んだ。
誰にも見えなかったが、両隣のミレイとポーラが、素晴らしいタイミングでマクスウェルの脚の小指をカカトで踏みつけたのである。
いくら戦闘が近いとは言え、マクスウェルがいま履いているのは軍用ブーツではなく普通の靴である。その上から軍用ブーツで全力で小指を踏まれれば、いかに真の紋章の継承者といえど、人並みに痛みを感じるらしい。
かろうじて悲鳴をあげることは抑えたものの、マクスウェルは不自然に痙攣しながら、その場にストンと腰を落としてしまった。
「ス……スマン……会議ヲ、続ケテクレ……」
壊れかけの機械人形のような動きで、壊れた音程でマクスウェルは言った。
リーダーが続けろというのだから問題ないのだろう。アグネスとターニャは、説明を再開した。
「ですから、クレイは出てこないでしょうから、一方のラインバッハ二世が艦隊を出さざるをえないようにしむけます……」
結局、会議の内容は、なにひとつマクスウェルの頭に残らなかった。
会議散会後、マクスウェルはへろへろと自室に戻り、それぞれのリーダーも会議の再確認や訓練のために場所を移したが、ある建物の裏で、三人の女性が難しい顔でにらみ合っていた。
フレア、ポーラ、そしてミレイである。
フレアは、どこか余裕ある表情で、颯爽と腕を組んでいる。
ポーラは明らかに怒りと警戒心を視線に乗せてフレアを貫いていた。
ミレイは、相手が自分の上司ということもあり、困惑しながら、おろおろとしている。
口火を切ったのはフレアだった。
「二人とも見ていたよね、昨日の
二人にとっては確認するまでもない、フレアがマクスウェルにキスをしたことだろう。
「やはり、私たちがいたことを知っていて行為に及んだのですね?」
言葉に百万本の氷の針を乗せて、ポーラが言い放つが、すでに実行した者の強みか、フレアはいささかも揺るがない。
「当然でしょう。ライバルが見ているとわかっているのに、物怖じしてなるもんですか」
王女としてではない、一人の女として、フレアは凛と言い放った。
ミレイはもちろん、ポーラもマクスウェルに惹かれていることは、遠く離れているフレアも気づいていた。
一方で、フレア自身のマクスウェルに対する気持ちは不分明だった。
果たして、親しい友人なのか、親しい部下なのか、それ以外なのか。
部下ではない。それは確実だ。では、親しい友人ということで、二人の間に一線を引いていいのか。
それで、自分自身は納得できるのか?
そして、マクスウェルが独立して立場が離れてしまってから、数え切れないほど自問自答した結果、到達した答えがこれだった。
「はっきり言っておくわ。私は、マクスウェルのことが好き。
マクスウェルがジュエルちゃんを救いたいというなら構わない。
ジュエルちゃんのことが好きだと言い出しても、私は構わない。
私は私、私の気持ちをどんどん押していく。
私は、マクスウェルを幸福にしてみせる!」
それはポーラとミレイに対する挑戦状であり、自分自身の気持ちを再確認するための宣言に他ならなかった。
この勢いに負けないのがポーラだった。彼女はこの宣言を真っ向から受けて立ったのである。
「まったく、舐められたものですね。
私を誰だと思っているのです? 私が何年、マクスウェルと一緒にいると思っているのですか?
彼のことを一番よく知っているのは私なのです。私以外に、誰がマクスウェルを幸福にできると思っているのですか」
言われたフレアも、言ったポーラも、ニヤリと笑った。
決してライバル心だけを剥き出しにしている訳ではない。
相手の気持ちを正面から受け止め、同調し、理解し、なおかつ負けない。
そういった決意の再確認である。
フレアとポーラは、ミレイのほうを向いた。
ミレイは、二人の決意表明に迫力負けしながらも、自分も何か言わないと置いていかれると分かっているのだろう。
なかばやけくそ気味に、ミレイが叫んだ。
「わ、私はマクスウェル様を尊敬しています。
それが好意だといわれればそんな気もします。
わ、私はできれば子供は三人ほしいです!」
思わず、ポーラとフレアは呆気にとられた。
結局、一番大胆なことを言ったのはミレイではないか。
自分で言ったことを思い出したのか、ミレイが真っ赤になって走り去ってしまったので、自然と場は散会となった。
ポーラとフレアは苦笑し、握手を一つ交わした。
それは、単なるライバル宣言ではなかった。この先、どうなるか分からない戦争という異常な状況、マクスウェルもマクスウェルのままでいられるかわからないという状況で、必ず生き残って幸せになろうという、誓いに他ならなかった。
(初:16.09.09)