事件から四日も経つと、ギネの思考の回転も口の回転も、元来の調子を取り戻してきたようである。
重症の身であることは変わらないので、行動範囲はほぼ寝室に限られたが、大公宮を任せているスノウ・フィンガーフート公爵の手に余るような仕事が出てくると、わざわざ寝室まで届けさせて自分で決済した。
その側には、つねにシグルドとアンリの姿がある。アンリは車椅子生活のため、ギネ同様、行動範囲が屋敷の一階に限られたが、それでも執務室や台所へは入ることができたので、ほぼギネの身の回りの世話を任されている。
シグルドは、護衛・兼・秘書官といったところだ。この海賊はどうやら通常の海賊の概念から外れるようで、よくギネの相談に乗っては的確なアドバイスをした。
「驚いたな、君は本当に海賊なのか。どこかの政治家か官僚と言っても通じるのではないか」
ギネは驚いて言ったが、シグルドは苦笑した。事実、海賊になる前はラインバッハ二世のもとで官僚をしていたのである。もっとも、海賊まがいの政治的行為を含む官僚であったが。
対して、アンリにも会話の翼は広がった。
「しかし、君の知識も広範だな。ハルモニアの武器など、普通のメイドは知らないものだぞ」
ギネが笑いながら言うと、アンリはすまなさそうに頭を下げる。
「申し訳ありません。私は、この国の全ての人を騙して今まできました。
恐れ多くも、大公妃殿下の暗殺まで企てたというのに」
「それ以上言うな。あれはあくまで【アルバレズ子爵の企てたこと】だ。
君はただ踊らされていたにすぎぬ。それに、その後、私の命を救ってくれたではないか。
それで相殺だ。愚かなアルバレズは逝くべき場所へ逝ったし、気にすることはない」
「はい」
ギネは、アンリの背後に更なる誰かの影を感じ取ってはいたが、そこまでは聞かなかった。シグルドに対しても同様である。
命を救ってくれた二人を、今は信頼しておくべきだし、二人の背後にいるなら当然、群島の人間だろう。
群島の人間ならば、ギネが国を挙げてラズリル・オベルの味方についたことを知っているはずである。たとえ自分の不利が伝えられても、悪い結果にはなるまい。
それにしても、彼や彼の叔母の命を救ってくれたのが、スノウといい、アメリアといい、シグルドといい、アンリといい、全員群島に縁のある人間なのは不思議な縁であった。自分がラズリルに味方した判断は間違っていなかったに違いない。
ギネはそう信じたかった。
ギネは杖をついて窓際まで歩く。シグルドが慌ててそれについていく。
いつまでもベッドで横になって、おとなしく「おねんね」していられる性格でもない。
信頼できるスノウに任せてあるとはいえ、やはり大公宮のことも気になる。
「ところでシグルド、今後、私が再びこのようなテロ事件に遭う可能性はあるかな」
シグルドは顎に手を当てた。
「政治的な対立がもたらす結果として、閣下を暗殺しようとする事件は起こる可能性はあります。
ただ、今回の事件は、閣下の持つ特殊な紋章を狙ったものです。
同様の事件が起こるなら、それは八房の眷族紋章を持つ、他の誰かを狙ったものになるでしょう」
シグルドはマノウォック公爵家から無断で拝借した十冊近い書物をすでに読破しており、眷属紋章についてなど、それなりの知識は得ているつもりである。
「ではやはり敵は、私の持っていた紋章が八房の眷属紋章だと知っていた、ということだな」
「それは確実ですね。実際に、この国ではあまり知られていないハルモニアの武器まで動員しながら、国のトップである大公殿下に指一本触れていません。
狙っていたのはマノウォック閣下とキャンメルリング閣下のお二人だけです。
このお二人が紋章を持っていると知っていたとみるべきでしょう」
そして、シグルドはアメリアに説いたことと同じことをギネに説いた。
確実ではないが、ラインバッハ二世が持っている眷族紋章は四つ。
そして、行方不明のものが恐らく四つ。
「この四つを敵よりも先に探し出さなければ、同様のテロ事件は続くでしょう」
「真の紋章か……本当に厄介な代物だな。
アンリ、君はラズリルの人間だといったな。
なにかマクスウェル氏について、もしくは罰の紋章について知っていることはないか」
問われたアンリは一瞬、身体を震わせた。知っているも何も、自分はマクスウェルから派遣されてここにいる。
当事者の一人である。それも諜報員であり、罰の紋章についても、ある程度の知識はある。
果たして、今これをここで暴露していいものかどうか。
瞬時、アンリは迷ったが、すぐにそれを振り切った。自分はマクスウェルの利益のためにここにいるのであって、たとえ相手がギネ公爵であっても暴露すべきではないと判断した。
「残念ながら、私は群島戦争参加組みでも、ラズリルでの居残り組みでした。
マクスウェル
半分は本当である。アンリはマクスウェルが罰の紋章を使ったところを目撃したことはない。
「ふむ……」
と、今度はギネが顎に当てて考え込んだ。
シグルドが意見してみる。
「閣下、マクスウェル氏については、スノウ……公爵、が詳しいのでは?
彼ならば幼い頃からの関係と聞いております」
ギネは、顔の右半分を包帯でぐるぐる巻きにされたまま、口をあけて笑った。
「フィンガーフート卿にはすでに聞き取りをしているよ。
それに従えば、マクスウェル氏は一点の曇りも存在しない、当世の大英雄だそうだ。
氏が人の心をつかむのが上手いのは伝わってくるが、フィンガーフート卿の話はまるで子供向けの絵本のような内容だ。
客観的な参考にするには勇気がいるな」
それを聞いて、アンリが少し身をかがめた。
「一点の曇りもない」大英雄。市井のマクスウェルのイメージとはそのようなものなのだろうか。
しかし、実際にはマクスウェルはアグネスを通じて策も弄するし、自分の危機には力も容赦なく使う。
マクスウェルが苦しんでいるのは、真の紋章のことだけでなく、そのように市井に伝播する自分の虚名と実の自分のとの間に大きな差があることもあるのだろう。
彼とて、そこらの市民となんら変わることのない存在であるのに――――。
そのとき、寝室のドアがノックされた。昼食にはまだ早い。
どうやら、スノウ「公爵」の手に余る仕事が、大公宮から回されてきたようだ。
ギネの表情が、砕けた笑顔から謹直な政治家への顔へと変貌した。
そしてドアを開けるよう、シグルドに命じる。
ガイエン公国において、公爵という地位は、逃げも隠れもできない国家に対する最高責任を持つ地位である。
スノウはいま、そのことを大公宮において思い知っているであろう。そして病床にあるとはいえ、ギネも決して逃げることはできなかった。
その夜、アンリは仕事を終えて自分の部屋に戻ってきた。時刻は午後七時。
メイドの仕事としては終わるのが早いが、ギネ同様、彼女も重症の怪我人である。通常なら、働いているだけで賞賛されるべき身であった。
実際、メイドたちの間では、身体を張って公爵の命を守った一種の英雄のような扱いを受けている。この二日間で、三回もサインを求められたのも貴重な体験であろう。
本来、諜報員である自分がサインを残すなどやってはならないことのように思えたが、メイドとしての生活が長くなると、本当は自分が諜報員なのかメイドなのか分からなくなってくる。
実際、メイド服は軍服や鎧に比べれば、デザインも可愛く、機能的な着心地のいいものだった。
誰かのために働けるというのも、アンリにとっては未体験の幸福だった。
もっとも、そう感じるようになったのはキャンメルリング公爵家に引き取られてからだ。アルバレズ子爵家では、まるで爵位を持たないものは人ではないかが如く、てひどく扱われた。
人の幸福というのは、どこで決まるか分からない。
アンリは車椅子からベッドに移ると、動かない左足に苦労しながらメイド服から夜着に着替えた。
そして、ベッドに身体を投げ出した。
「いっそ、ここで一生働けって命令がこないかな……」
それもいいかもしれない。
マクスウェルのために命を張ることだけが自分にできる唯一のことだと思っていた。
しかし、キャンメルリング公爵は、それ以外の幸福があることを教えてくれた。
マクスウェルもキャンメルリング公爵も、アンリにとっては恩人である。
本来なら、大公妃にペーパーナイフを向けた時点で死んでいるはずの身なのだから。
彼女の人生計画は、そこで途切れていた。そこから先の人生設計など、考えたこともなかった。
まさかこうしてガイエンの公爵家でメイドを勤めるなど、想像もしていなかったのだ……。
そのとき、何かが窓ガラスをこんこんと軽く叩いた。
それがアンリを現実に引き戻した。慌てて車椅子に乗ると、静かに窓を開ける。
そこには、一羽の鳩がいた。ナセル鳥。ガイエン騎士団から伝統的にラズリル騎士団やマクスウェルが好んで使う連絡手段の一つだ。
この鳥が来た瞬間、アンリの意識は戦場に戻る。マクスウェルからの連絡に違いない。
アンリは、その脚にくくられた手紙を慎重に解き、読んでみる。
これまでのマクスウェルからの手紙にしては長文で、(形式上は)リノ・エン・クルデスと和解したこと、ラインバッハ一派との決戦が近いことで身内がぴりぴりしていることなどが綴られており、その緊張感が伝わってくる。そして、せめてそちらでは静かにことが進むように祈っている、と締めくくっていた。
残念ながらマクスウェルの祈りは届かず、重要な紋章が二つも敵に奪われ、自分は満足に歩けないほどの重傷を負ってしまったが。
アンリは、先日から連続してエレノア・シルバーバーグに遭遇したこと、そして自分が事件によって足を負傷し、満足に動けない身であることを手短に記すと、最後に「アンリ」ではない、本当の自分の名前を記した。マクスウェルだけが知っている、自分の本当の名前を。
その手紙をナセル鳥の脚にくくりつけ、空に放した。三日もすれば、マクスウェルのもとに届くだろう。
メイドとしての名と、諜報員としての名。どちらが本当の自分なのか、分からなくなる瞬間がある。
いや、メイドとしての名のほうが本名であってほしいという願望が、確実にこの少女の中で芽生えていた。
事件の当事者の一人として、その願望が素直にかなうとも思えなかったが……。
(初:16.09.09)