「一難去った」というには巨大すぎる傷が残ったキャンメルリング公爵邸では、複数の医師が集められ、ギネの右眼とアンリの左足に緊急手術が行われた。
どちらも厄介な傷であった。ギネの右眼に仕込まれていた紋章球は、直接その機能を脳にリンクしていたため、強引に持ち去られたことで、脳の機能に障害が残るのではないかと思われた。
アンリの傷は銃創であったが、そもそも弾丸による傷などはじめて見る医者ばかりであるので、最初はどう対処してよいかもわからなかった。
結局、一時的に傷を開き、弾丸を摘出するという、もっとも懸命な措置が取られたが、これにしてもアンリが独力で歩けるようになるには時間がかかるであろう。
丸二日、ギネは意識を取り戻さなかった。やはり、脳に後遺症が残ったのではないか、そう噂するものもいたが、アンリはその言葉を信じず、自分は車椅子に腰を下ろしてギネの側を離れようとしなかった。
その側に、もう一人、意外な人物がいる。賊が襲撃した当日、狙撃手の正確な位置をギネに知らせた男だ。
長身の男で、物腰も落ち着いており、この男が群島に名だたる海賊だといわれても、人によっては信じないだろう。
キカの参謀格、シグルドであった。
シグルドはアンリにできるだけ穏便に声をかけたが、返ってくるのは魂の抜けた頷きだけだった。
この二人の看病が報われたのは、三日目の朝だった。
二人が無言で見つめる中、屋敷の主人がゆっくりと左眼を開いたのだ。
「閣下!」
アンリが思わず立ち上がりかけて、車椅子から転げ落ちてしまった。自分も怪我人であるということを忘れていたらしい。
アンリを支えながら、シグルドがギネの前に立った。そして、指を三本立ててみせる。
「閣下、これが何本か分かりますか?」
「…………三本だな」
ゆっくりと力なく、だが確実に、ギネは言った。
「ではご自分のお名前と誕生日は?」
「……ギネ・キャンメルリング。八月五日の生まれだ」
「では、この女性が誰かわかりますか?」
シグルドは、脇で泣きそうな顔をしているアンリをギネに見せた。
ギネはわずかに手を動かし、その頭を触ろうとしたが、残念ながら届かなかった。
「……アンリ、君には命を救われたな。
今度ばかりは死ぬかと思ったが、何とか君のおかげで生きながらえたようだ」
そして、少し間をおいて言った。
「……ありがとう」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、アンリは何度も頷いた。
シグルドの機転ですぐに医者が呼び込まれ、ギネの精密検査が行われた。
結果、やや意識の混濁が残っているものの、脳の機能に障害はないことが確認され、シグルドとアンリを安心させた。
意識が戻ったばかりということで、最低限のものだが、ギネは三日ぶりに食事にありついた。
人間、どのような状態でも極限まで腹が減ったままでは、正しい認識はできない。
八分あたり胃が膨れると、ギネの意識も完全に近く戻ってきたようで、随分と語調もはっきりしてきた。
怪我をする前と違うのは、右眼の周囲が痛々しいほど包帯でがんじがらめにされていることだろう。
「そうか、君がキカ一家のシグルドか。アメリアやマノウォック公爵から話を聞いて、一度会いたいと思っていた。
まさかこのような出会いになるとは思わなかったがな」
苦笑じみてギネが言うと、シグルドは頭を下げた。
「私がもう少しケイトの動きに注意していれば、閣下が傷つくこともなかったかもしれません。
私の不注意でした。もうしわけありません」
「なぜ君が謝る。右眼を奪われたのは、私の不注意と不慮のためだ。
むしろ君は、狙撃手の正確な位置を教えてくれた恩人ではないか」
ギネはシグルドを嗜めた。
目覚めたギネの命令で、図書館の屋上から当日の狙撃手のものと思われる遺体が発見・回収された。
だが、その遺体は頭が砕け散っており、その素性を探るのは困難と思われた。
また、狙撃手が使ったと思われる銃も発見されなかった。恐らく、ケイトと名乗る忍びが持ち去ったのであろう。
せめて相棒の形見として持ち帰ったのであろうか。
「しかし、マノウォック公の暗殺といい、私の襲撃といい、こうも堂々と成功されると、ガイエンとしては立つ瀬もないな。情けないことだ」
「相手は手段を選ぶということをしませんからね。テロリズムを完全に防ぐことができれば、どこの国も苦労はしません」
「わが国にも、まだテロで狙われるだけの価値があったということかな。
それに気づいていないのが本人たちだけだったというのも間抜けな話だ」
ギネの側には、常にアンリとシグルドがついている。
アンリが皮をむいてくれるリンゴをほおばりながら、ギネは様々に思考をめぐらせた。
自分とマノウォック公ハーキュリーズを襲い、紋章球を奪い去ったのは、おそらくラインバッハ二世の手の者であろう。
ラズリルやオベルとは友好関係が出来上がったばかりだし、シグルドがここにいる以上、キカが自分を襲うとも考えづらい。マクスウェルの心理は不明だが、真の紋章を持つというあの青年が、いまさら「八房」の眷族紋章を集める意味があるとも思えない。
結局、ガイエンで所在が明らかになっていた「八房」の眷属紋章は、すべてラインバッハ二世の手に渡ったことになるのであろう。それが何を意味するのか、いまのギネにはわからない。
わからないがゆえに、対処も限られてしまう。
考え続けるギネの屋敷に、シドニア大公妃とアメリア、スノウ・フィンガーフート公爵が訪れたのは午後になってからだ。
シドニア妃は、ベッドに上半身を起こしているものの、顔の右半分を包帯でぐるぐる巻きにされた甥の姿がショックだったのか、よたよたと近寄りその身体を抱きしめた。
「よくぞ、よくぞ生きていてくれました、ギネ」
抱擁される側のギネは苦笑しながらも、それを受け入れた。
「私は不死身なのですよ、伯母上。最も、今回ばかりは死を覚悟しましたがね。
この群島の二人に命を助けられたのです」
と言って、車椅子に座ったままのアンリと、その隣に佇立するシグルドを紹介した。
シドニアは、大公妃という立場でありながら、群島の二人に大きく頭を下げた。
二人は恐縮したが、命の価値に身分は無関係であると、シドニアは頭をあげようとしなかった。
アメリアは、シグルドに視線を向けた。後で話がしたい、と言っているようであった。
確かに、ここではできぬ話もあるだろう。
「君にも心配をかけたようだな、フィンガーフート卿。
私が不在の間、私の仕事の一部をこなしてくれたと聞いている。
おかげで、公国の政治がストップせずにすんだようだ。改めて例を言わせてもらおう」
ベッドで頭を下げるギネに対し、スノウは恐縮した。
ギネの言っていることは本当で、キャンメルリング公の不在が確定した二日間、その政務をかわりに全うしたのはスノウであった。
ギネほどの精神的エネルギーに欠けるスノウとしては、次から次へと仕事に追い回される二日間だったが、周囲の協力もあってなんとかこなしたのである。
しかし、
「私が政務に復帰するまでには、もう数日かかる。その間、フィンガーフート卿を中心に政務を行うように」
と、ギネが正式な声明で発表してしまったため、スノウはもう何日か、胃が痛い日々を送ることになりそうだった。
さて、邸宅で甥と叔母が健康上の会話に花を咲かせている間、二人の人間が庭に出ていた。
アメリアとシグルドである。
アメリアはすでにガイエンに滞在して半年ほどになるが、これほど激動の半年になるとも思っていなかったようで、無駄だとわかっていてもシグルドに文句を向けた。
「誰かは知らないけど、私の行くところに騒動をばら撒く存在でもいるんじゃないか。
ラズリルでもクールークでも、このガイエンでも、行く先々で騒動に巻き込まれる。
そろそろ飽きてきたよ」
シグルドはかろうじて「そういう運命なのだろう」という言葉を飲み込んで別のことを言った。
「逆に言えば、活躍の場が増えるということじゃないか。
アメリア殿の勇名は、すでにキャンメルリング公も認めるところだ」
「そんなお偉いさんに認められるより、私を幸せにしてくれる一般男性に認められたいもんだね」
流浪の剣士を続けながらそんな夢を見ていたのか、と、シグルドは少々呆れた。
アメリアの剣の腕にかかれば、一般男性など相手になるまい。そういう意味では「認めてくれる」人は出てくるだろうけれども。
アメリアは庭の花を見つめていたが、シグルドのほうを向いて話題を変えた。
「さて、マノウォック公爵が戦死し、キャンメルリング公爵が重症を負った一連のテロ事件、まだ続くと思うか?」
「断言はできないが、可能性はある……と、思う」
シグルドには思い当たることはある。「八房」の紋章の眷属紋章だ。
もしも彼らの知らない誰かが、その眷族紋章を持っていれば、その誰かが次に襲われることになるだろう。
もっとも、テロリストのほうもギネの魔眼によって相棒を失っている。
銃を用いた遠距離攻撃ができないとなると、ケイト単独での行動になる。恐らく、至近距離からの暗殺に特化したテロに走ると思われる。
「しかし、ケイトがハルモニアの銃を持ち去ったらしいことは見逃せないね。
かなり特殊な技術と聞いているが、もしもだ。ケイトがそれを使いこなせるようになると非常に厄介だ」
アメリアの懸念を、シグルドも納得した。
マノウォック公爵ハーキュリーズを遠距離から射殺し、キャンメルリング公爵ギネの私室を遠距離から徹底的に破壊せしめた武器だ。ここで押さえられなかったのは痛い。
この被害をこれ以上拡大させないためには、一刻も早く「八房の紋章」の眷族紋章を探し出す必要がある。
でないかぎり、ケイト、あるいはラインバッハ二世の手による悲劇は収まらないだろう。
シグルドは、話の確信をぼかしつつも、眷属紋章のことをアメリアに話した。
現在、ラインバッハ二世が手にしているのは、ケイトが奪ったものを含めて恐らく四つ。
残りの四つは未だ行方不明のはずだ。
それをラインバッハ二世より先に見つけ出すことができれば、ラインバッハ二世の勢力を抑えることに繋がるかもしれない。
眷族紋章を捜しているということは、すなわちその上位紋章である「真の紋章」を目覚めさせようとしていることであるのだから。
「やれやれ、クールーク崩壊から一年くらいしか経ってないってのに、また真の紋章騒ぎかい。
「力」に魅入られた人間の行動力ってのには、全く呆れるね。そのパワーでボランティアでもやればいいのに」
アメリアのぼやきはもっともなものだろう。
真の紋章の存在も、その意味するところも、一般の民衆の生活には全く無関係のものだからだ。
もっともいい例が、マクスウェルの持つ「罰の紋章」だ。
許しと償いを司りながら、あの紋章が振りまいてきた破壊と惨劇の歴史を思うと、シグルドは背筋が寒くなる。
かつてマクスウェルは、真の紋章を持つことを「台風を体内に抱えることと同じ」だと評した。
シグルドが聞けば、思わず首肯するだろう。真の紋章を持つものの苦しみは理解しきれないが、もし自分が真の紋章を持ったとしても、それがもたらす影響までは責任を持ちかねる、というのが本音になるに違いない。
あるいは、ラインバッハ二世は、そこまで覚悟を決めて群島諸国を敵にまわしたのだろうか。あの現実家の策謀家が、まるでバクチのような賭けに出たのだろうか。
相変わらず、事件の真意はラインバッハ二世とグレアム・クレイの胸のうちにのみあるようだ。
これらの事件、これから起こるであろう事件の鬱陶しさを考えると、シグルドは胸が痛くなってくる。
「だが俺は、マノウォック公が守ろうとしたこのガイエン国を守ると決めた。
決めた以上は、何があっても驚かずに対処するつもりだ。
アメリア殿は群島には帰らないのか?」
「私はもともと群島に縁が濃いわけでもないからね。
一夜のねぐらがあれば、そこが私の故郷さ。
ガイエンには恐れ多くも大公家に一宿一飯の恩ができた。
それを返さない限り、ガイエンから離れられそうにないね」
言って、シグルドのたくましい胸を一度、軽く殴って見せた。
まるで照れ隠しのようだ、とシグルドは思った。
(初:16.09.09)