クォ・ヴァディス 99

16-5

 エレノアが今度こそガイエンを離れてくれることを祈りつつ、アンリはその日の宿に落ち着いた。
 キャンメルリング公爵邸からは遠く離れてはいるが、一応はオリゾンテの郊外に立つ古い宿だ。
 休日願いの理由が「帰郷」となっている以上、ここでキャンメルリングの家の者に見つかるとまずいのだが、マクスウェルの命令上、キャンメルリング公爵の側から離れることもできないので、やむなく遠く離れてはいるがオリゾンテ市内の宿を選んだのである。
 午後六時、アンリは活動しやすい冒険者風の衣装で宿屋に入ると、さっそく部屋にこもった。
 今日のエレノアの「助言」に自分の研究結果を加えて、マクスウェルに報告することにしたのだ。
 もちろん、マクスウェルがリノ・エン・クルデスらと起こすであろうオベル沖海戦には間に合うまい。
 間に合わないだろうが、エレノアがガイエンに出現したという事実だけでも知らせておくべきだと思った。
 アンリのもとには、一週間に一度ほどの頻度で、マクスウェルからナセル鳥(ラズリル騎士団の伝書鳩)がやってくる。
 それに返事を持たせてマクスウェルに知らせようというのだ。
 もっとも、マクスウェルとて情報には機敏な男だ。自分が知らせるまでもなく、自分の立場というものを理解しているかもしれないが。

 そうして二時間ほどテキストと格闘し、自分に文才がないことを痛感しつつ疲れたアンリは、時間を見て食事をとることにした。
 古い宿だが、宿屋の形式は守っており、一階には寂れた酒場がある。メインメニューは酒の肴ばかりだ。アンリは少しばかり酒は飲めるが、正体を失うほどは飲めないので、辛いばかりの酒の肴もあまり好きではない。
 アンリはやむなく安っぽいフィッシュアンドチップスを頼むと、古臭い壁ぎわの席に陣取った。
 果たして、ここで彼女の元諜報員としてのスキルが役立つなど、彼女自身も想像しなかったに違いない。
 注文したフィッシュアンドチップスが来るまでの時間をどう使おうかと思案しているとき、隣の席からただならぬ気配を感じたのである。
 一般人には決して感じられないだろう、冷たい空気。訓練されたアンリだからこそ感知できた、悪意に満ちた空気だった。
 アンリは相手に感づかれないよう、おそるおそる右側に顔を向けた。
 隣の席に座っているのは、男女二人組みだ。だが、どう見てもデート中のカップルという空気ではない。あまりに殺伐としていた。
 女のほうはセミロングの髪に切れ長の瞳をしており、興味深そうに男のほうを見ている。
 男のほうも髪はやや長めだが、常に不機嫌そうな視線を下に向けていた。その膝元には、なにかを置いているようである。長いバッグだろうか?
 男女は、会話らしい会話を交わすことなく、しばらく沈黙を守っていた。
 だが、アンリは女のほうに見覚えがある。
 群島解放戦争当時、自分はガイエンに残ってマクスウェルに救われた口だ。そのときは解放軍に直接は加わらず、ガイエン騎士団に残ってラズリルの防備にあたった。
 そのとき、ラズリルに上陸してきた解放軍のメンバーの中に、この女はいなかったか?
 思い出せ、思い出せ、思い出せ。
 アンリは視線を故意に揺らしつつ、記憶力を総動員して、まず現在マクスウェルの側にいるアカギとミズキの存在を思い出した。
 そうだ、たしかその二人の同郷の女忍びがいたはずだ。
 名前は確か……。

 アンリがその名前を思い出すのと、その二人組みがささやかな声を上げたのがほぼ同時だった。

「行くぞ。オリゾンテに滞在するのは今夜で最後だ」

「わかってるさ。私だって、こんなカビ臭い街より群島のほうが好みだからね、これ以上長居するつもりはないよ」

「私とて、クレイの護衛などうんざりだ。早くクリスタルバレーに帰って研究に戻らねばならん」

「なんだ、あんた、本職は研究者なのかい? 似合わないね」

「それは私の責任ではない」

 あまりに小声だったため、アンリには断片的にしか聞こえなかったが、それでも「群島」と「クリスタルバレー」という剣呑すぎる単語はしっかりと耳に入った。
 クリスタルバレーといえば、悪名高きハルモニアの首都ではないか!
 では、この二人は、やはり悪名高い「吠え猛る声の組合」の関係者だろうか?
 瞬時に思考をめぐらすが、二人が立ち上がるに及んで、さすがに身体が先に動いた。

「ごめん、マスター! ちょっと散歩してくるから!」

 慌てて宿を飛び出したアンリは、一目散にキャンメルリング公爵邸に駆けた。
 汗や衣服の乱れなど気にしていられない。距離にして約二キロ。どのくらいの時間がかかったか気にする余裕もなく、アンリは名乗りながら邸宅のドアを激しくノックした。
 ドアを開けたメイドは、アンリの慌てようと表情の深刻さに、一瞬時を忘れたが、すぐになにかあったのか問うた。アンリは休暇中だったはずである。

「私のことはどうでもいい! 早くキャンメルリング公爵様に会わせて! 一大事なの!」

 あまりに早く早くと騒ぐものだから、メイドも近衛兵も、アンリの歩を止めることができなかった。
 午後八時半、キャンメルリング公爵は、いまだ仕事をこなしている。決済の必要な書類に目を通し、重要な書類にはサインしていた。
 そこに、アンリが飛び込んできた。普通の様子ではないアンリに驚いて、キャンメルリング公爵が声をかけようとした、そのときだ。
 窓の外で、一瞬なにかが光った。危険を感じたアンリは、勢いよくキャンメルリング公に飛び掛かって押し倒したのである。

「なにをする!」

 キャンメルリング公爵が誰何しようとした瞬間、窓ガラスが派手な音をたてて、粉々に割れ散った。
 同時に、「ぱあん」というなにかが炸裂したような音が響く。
 瞬時にキャンメルリング公爵も理解した。自分は暗殺者の魔の手から命を救われたのだ。
 立て続けに破裂音が響き、部屋中の家具という家具が破壊されていく。
 そして不幸なメイドと近衛兵数名が、銃弾に倒れた。彼らは自分に何かが起こったのかわからぬまま、崩れ落ちる。

 しばらくして銃声がやむと、キャンメルリング公ギネは、まず負傷者を部屋から退出させた。
 自分がこの部屋にいる限り、狙われるのは自分だけだ。「敵」が超遠距離からの飛び道具で攻撃してくる限り、近衛兵は役にたつまい。

 ギネは、自分を救ってくれた休暇中のはずのメイドの乱れた髪を撫でてやる。
 そして、壁際に伏せたまま理由を聞いた。

「まず何が起きているのか教えてもらおう」

 アンリは、宿での出来事を話した。
 ハルモニア出身らしき二人組みの会話。
 男が持っていた長いバッグ。
 暗殺されたマノウォック公ハーキュリーズの胸についていたという小さな傷。

「男が持っていたバッグには、ハルモニアが研究しているという新兵器が入っていたのだと思います。
 おそらくマノウォック公爵閣下も、同じ超遠距離からの攻撃で斃されたのではないかと」

「それを知っている君が何者なのかが気になるが、それは後にしよう。
 今の射撃で、今夜の襲撃は終わったと思うかね?」

「いえ、彼らはオリゾンテに滞在するのは今夜が最後だといっていました。
 決着がつくまで、この襲撃は続くでしょう」

 比較的冷静に、アンリは断言した。
 この娘が、大公妃を襲い、直後に魂が抜け出たように狼狽していた少女と同一人物であると、どうしてもギネには信じられない。

「世の中には様々な人種がいるのですよ、閣下」

「うむ、今夜を生き延びることができたら、改めて勉強するとしよう」

 場違いなまでの落ち着きようで、二人は会話した。
 二人とも何度も死線を生き延びてきており、緊張感を制御する術も知っている。
 また、ギネには必殺の武器もあった。その武器に、彼は絶対の自信を持っており、自分が死ぬなどとは想像もしていないのだ。

「さて、相手の射撃位置さえ分かればこちらのものだがな……」

「射撃がきませんね……。相当の連射はきかない、ということでしょうか?」

 アンリが乱れた髪のまま、少しペン先を窓から出してみる。
 その瞬間、破裂音とともに細いペンが破裂した。アンリの背筋がぞっとする。
 遠距離からの狙撃であることを考えれば、恐ろしい腕だ。
 相手はどうやら、こちらが隙を見せるのを待って確実にヘッドショットを決めるつもりらしい。
 わずかに隙を見せればあの腕だ、一撃でこちらの命を絶ってくるだろう。

「もう一つ問題がある。相手が「二人組み」だったということだ。
 一人が遠距離から狙撃するとして、もう一人はどうするつもりなのだろうな」

「私の記憶が確かなら、もう一人の女は忍びの出身のはずです。
 それも、アンダーグラウンドからの依頼を多く受ける、暗殺のプロフェッショナルです。
 只者ではないかと」

 キャンメルリング公ギネは、思わずため息をついた。

「マノウォック公といい、その女暗殺者といい、どうも私は異性運がないようだ。
 もう一度でいいから、亡き妻のような普通の女性に愛されたいものだが」

 だが、その普通の恋愛を経験するにしても、今夜を生き延びてからだ。
 ギネは、ここで危険な賭けに出ることにした。
 遠距離から狙撃しているということは、相手はバケモノじみた視力をしているか、小さな望遠鏡のようなものを銃につけているはずだ。
 その暗殺者に自分の「魔眼」を見せ付けることができれば……。
 だが、それをするには、自分がその暗殺者と相対しなければならない。しかも、一瞬で正確なヘッドショットを決めてくる相手に、である。
 危険といえば、これ以上危険な賭けはない。
 そのときである。庭のほうから聞いたことのない男の声が響く。

「閣下! 賊は右斜め前方、大図書館の屋上から狙撃しています! 距離、約八百!」

 同時に、女の舌打ちのような音が響いた。

「どなたか知らぬが、ありがたい!」

 相手の位置と方向さえ分かってしまえばこちらのものだ。
 相手の銃は、どうやら連射はきいても次の連射まで時間がかかるようだ。
 なんとかその隙を作らせることができれば。

「私が囮になります」

 アンリが言った。

「脚力には自信がありますから、部屋中を走り回れば、相手に無駄弾を撃たせることができるでしょう」

「なぜ君がそこまでする? 君の知識でわかった。恐らく君は別の勢力の人間だろう。
 私にそこまでする義理があるのかね?」

「それがどこの勢力の人間であろうと、一度仕えた人間には義理を通すのがラズリル流なのですよ、閣下」

 アンリは微笑むと、表情を組み替え、頬を一度叩いた。そして、クラウチングスタートの姿勢をとる。

「閣下、チャンスは一度きりです。お願いします」

「わかった。いくぞ!」

「せーの!」

 一声あげてから立ち上がり、アンリは部屋中を走り回った。予想通り、それを追うように弾丸が次々と飛来する。
 逃げるほうも命がけだ。一度でも立ち止まればそこでアンリは人生という劇場から強制的に退場を余儀なくされる。
 彼女にはまだ、マクスウェルのためにしなければならない任務が残っているのだ。ここで死ぬわけにはいかない。
 だが、現実は非常である。息を切らして走り回るアンリの速度が鈍った瞬間、その左ふとももを弾丸が突き刺さった。

「きゃあ!」

 さすがにアンリがもんどりうって倒れる。しかし、それが最後の一撃だったのか、嘘のように弾丸の嵐がやんだ。

(いまだ!)

 ギネはここぞとばかりにかつと真紅の右眼を開き、指示のあった大図書館のほうに視線を向ける。
 確かに、屋上に不自然にしゃがんでいる人間の姿が確認できる。その人間は筒状の物体に何かを込めた直後のようだった。

「アンリの左足、無駄にはせぬ!」

 ギネの右眼が、これ以上ないほど兇悪な光を帯びる。その殺意を全開にして、ギネは憎き暗殺者をにらみつけた。
 距離がどれだけ離れていても、ギネの魔眼から逃れるのは不可能だ。
 直後、ギネの左目に異様な光景が映った。
 屋上の人間が、持っていた筒を顔に当てたか、口に入れたか、とにかく顔の近くに寄せたのだ。そして、「ぱぁん」という炸裂音がひびき、屋上の人間は倒れた。倒れて、動かなかった。

 ギネにとって、死体になってしまった者に興味はない。
 ギネは彼を救ってくれた少女に近寄ろうと、ふりむきかけた、そのときだ。

「閣下! 危ない!」

 先ほどの男性の声で危機を告げられたギネが再び振り向くと、一瞬にして背後に一人の女性が立っていたのだ。
 恐らく、アンリが言っていた二人組みの片割れであろう。
 女の動きは早かった。ギネが防御の姿勢に入る前に、右の手刀を構えたのである。

「その魔眼、もらったぁ!!!!」

 あっという間の出来事だった。女が手刀をギネの右眼に乱暴につきこんだのである。
 そして、その眼窩に収まっている兇悪な紋章をつかむと、無理やりにひきづり出した。
 鮮血が噴水のようにギネの右眼から上がる。
 さきほどまで兇悪な紋章があった右眼窩には、かわりに血がたまりつつあった。

「ぬううぅ!」

「閣下!」

 ギネは苦悶の声を上げ右眼を押さえつつも、鬼の形相で自分の魔眼を奪った女を凝視した。
 女は自分の仕事に満足したのか、余裕のある表情をした後、一瞬の躊躇もなく部屋から逃げ去ってしまった。

「追え! 絶対に逃がしてはならん!」

 重症の身でありながら、ギネは気丈にも命令を出し続ける。
 だが、この命令は徒労に終わった。
 一時間後、アンリと供に傷の治療を受けていたギネの元に、目標を見失った、との報告が入ったのである。

COMMENT

(初:16.09.06)