クォ・ヴァディス 98

16-4

 エレノアに遭遇したこの日、アンリと名乗るキャンメルリング家のメイドは、翌日からの二日間の休暇届を出した。
 メイド長は、新参で素性も知れぬこのメイドを少なからず怪しい目で見ていたが、特に注意すべき失敗も犯さず、それどころか仕事は誰よりも早いため、公に叱責することもなかった。
 普通ならば二日間も急に休暇をとるのならそれなりの理由が必要なはずだが、「緊急の帰郷のため」というこれまたあまりに普通の理由のため、メイド長もすんなりと理解してしまった。
 通常、一メイドの動向など貴族の当主が感知することはないが、この娘はつい先日、ガイエンの歴史を変えたかもしれない大事件を起こしかけている。メイド長はそのことを知らないが、このアンリという娘については、特別にその動向をキャンメルリング公爵ギネに報告することになっていた。

 ギネは機能的なテーブルにひじを乗せ、アンリの休暇届を手にして、とんとんと二回テーブルを指で叩いた。
 メイド長は、ギネが小難しい顔をするのは見慣れているため特には驚かないが、その対象が一メイドであるのは初めてだった。

「本来なら非の打ちどころのない休暇届だが……」

 ギネは顎に手を当てる。「緊急の帰郷」という部分が気になっているようであった。

「緊急の帰郷か……。彼女は果たしてどこに帰るのだろうな。
 二日で往復できる場所ならばガイエン国内に絞られるが……」

「申し訳ありません、私も彼女の郷里を聞きそびれました」

 メイド長が平身低頭で謝罪するのを、ギネは手を振って聞き流した。
 これくらいのミスで相手を咎めていては、メイドが何人いても足らないだろう。

「それで、この休暇届は受理いたしますか?」

「特別にメイドが足りていないわけではあるまい。
 一メイドの休暇も許可できぬほど、私も狭量ではないつもりだよ。
 明日から二日、アンリを自由にしてやるがいい。監視もつけなくていい」

「分かりました。アンリにはそう伝えます」

 一礼して、メイド長は静々と出て行った。
 ギネは視線でそれを見送ると、窓際からオリゾンテの街を一望した。
 オリゾンテの闇は、自分の手でほぼ一掃された。今や金権をあさる浅ましい貴族は姿を消し、それにかしずく商人もいなくなった。
 今が、一番重要なときだ。貴族に有利だった悪法を全面改正し、市民が健全な生活を送れるよう税制も改革した。
 だが、国内は未だに騒ぎの中にある。改革が急激過ぎたのだ。その余波に地方領主たちがついてこれずにいる。
 また、先日ギネの政敵であったマノウォック公爵ハーキュリーズを暗殺した者たちも捕まっていない。このいずれも、ギネが無視することができぬ事項だった。
 ことに、ハーキュリーズの遺体は、検分の結果、胸を何か小さな物体が貫通した形跡があり、さらに股間部分を切裂かれて何かを摘出したあとがあったという。
 かつてハーキュリーズ自身が明言したように、ハーキュリーズが自分の下腹に【八房】の眷族紋章を持っていたのなら、それを狙っての襲撃だったのかもしれない。だとすると、次に狙われるのは当然、自分であろう。
 ギネは、閉じたままの右眼にそっと手を当てた。自分の意志で埋め込んだ紋章だ。もちろん、その紋章の持つ意味も、効果もよく知っている。命を削る覚悟の上で、紋章を埋め込んだのだ。

(奪いにくるならくるがいい。かつてそうして死体にならなかった者はいないがな)

 ギネの表情が、わずかに邪悪さをおびた。強力な「力」に心を奪われてしまった愚かな人間たちの愚かな末路を、さんざん見てきた彼である。
 彼の目の前に、そういった人間の死体がいまさら一体や二体積み重なったところで、狼狽することはない。彼の涙は、政敵の謀略によって妻子を失った瞬間に、すべて干上がってしまっている。
 誰もいない自室で、ギネの暗い嗤いが、静かに響いた。


 正式に休暇をとったアンリは翌日、キャンメルリング公爵邸を辞去すると、その足である場所に向かった。
 オリゾンテの大図書館である。ガイエン大公宮と同じ建築家がデザインしたというこの図書館は、三階建ての豪壮な建築物で、どことなく大公宮と赴きも似ている。
 オリゾンテのほぼ中央にあるその図書館は、市民であれば誰でも自由に入ることができるが、以前は本を読むとも思えないような若い貴族が集団で出入りし、市民を蹴り出し、へたくそな詩を披露してはわざとらしく褒めあっていたものだ。
 ギネの台頭でその風潮が過ぎ去ってからは、徐々にだが市民たちが利用するようになっている。もっとも、これが図書館の建築された本来の目的であるのだが。

 アンリはまずその蔵書の数に圧倒された。静寂の中に林立する棚、棚、棚。壁一面に設置された本棚に、いったい何千冊の本が納められているのだろう。
 ラズリルの騎士訓練校にも図書室はあったが、とてもではないが規模では比較にならない。
 アンリは目的の書物を発見するのに、四苦八苦した。まず、どこになんの本が置いてあるのかを捜すのがたいへんだった。ガイド板もあるにはあるが、大雑把な位置しか書いておらず、あとは自力でなんとかしろといわんばかりである。

(どうせ税金で建てたのだから、もっと使いやすくすればいいのに)

 小市民として当然の文句をもらしながら、一時間かけてアンリはようやく目的の蔵書にたどり着いた。
 過去の群島の海戦の歴史、そして群島の外交の歴史などである。いずれも分厚い書物であり、少女が趣味にするにはいささかスケールが大きいかもしれない。

「よ……っと」

 重い本を一度に三冊も持ち、足元がおぼつかない。よろよろと後ろによろめいたとき、咄嗟に誰かが支えてくれた。

「あ、ありがとうござ……いま……」

 本の隙間から顔を出し、礼を言おうとした瞬間、アンリの表情が凍りついた。
 ある意味、最も会いたくない人物に助けられてしまったのである。
 今日も黒衣で身を固めた小柄な女性。エレノア・シルバーバーグだった。

「これはこれは、意外な場所で会うじゃないか。なにか難しい調べごとかい?」

 なんだか楽しそうに、酒やけした声で笑うエレノアに、アンリは胡乱な表情をした。
 初対面で弄ばれたせいか、どうもアンリはエレノアが苦手になってしまっている。
 だが、出会った以上は挨拶くらいしなければならない。メイドとしての礼儀でもある。
 素っ気無く「ありがとうございます」と礼を言っておいて、自分は分厚い本を長テーブルに置いた。

「最近のメイドさんは、随分難しいことを研究するもんだね。
 キャンメルリング公爵に影響でも受けたのかい?」

 軽いエレノアの質問だが、アンリはどこまで冗談で返すか迷った挙句、諦めて本当のことを言った。
 どうせ嘘をついたところで、この軍師には通じまい。

「これは、私が趣味でやっていることです。
 もしも群島でマクスウェルらが海戦になった場合、どのような結果になるのか、どのような作戦が正しいのか、自分なりに研究したかったのです」

 エレノアは妙に感心したように二回頷くと、許可も得ずにアンリの隣の席に座った。アンリの表情がさらに曇るが、エレノアは一向に気にしない。
 まず、エレノアは群島の地図を広げた。そして、自分の知っている範囲での各勢力を分析してみせる。

「まずラズリルにある連合海軍だが、ここは四カ国の艦隊が連合する大所帯だ。
 指揮系統を一本化するのはかなり難しいだろうね。指揮を取るのはリノ・エン・クルデスしか考えられないが、先の敗戦のことで彼が戦場で焦りを見せれば、最悪の場合、戦闘の最中に連合海軍は瓦解してしまう可能性すらある」

 アンリは呆れたように言う。

「それをさせないために、あなたは弟子を送り込んだのではないのですか?」

「そのとおりさ。しかし、ターニャは人をたきつけるのには向いているが、なだめることにはむいていない。
 果たしてリノ・エン・クルデスほどの傑物を、あの小娘が制御できるかどうか、そこは五分五分だね」

 実際には、リノ・エン・クルデスが本来の力を発揮すれば、ターニャの精神注入など必要もなく堂々と軍を動かすことができるだろう。
 問題は、オルネラやカタリナがその精神的な速度についてこれるかどうか、だ。

「クールーク軍の残党を有機的に使うことができれば、リノ・エン・クルデスの勝利はほぼ確定したも同然だ。
 戦略はともかく、戦術であの国王にかなう者はそうはいない」

 言って、今度はオベル王国を指差した。

「さて、今回の癌である、こいつらだ。グレアム・クレイとラインバッハ二世。
 こいつらをなんとかしなきゃ、事件に幕を下ろすことはできない」

「そのために、マクスウェルのもとにアグネスを送り込んだのだと聞きましたが?」

「そのアグネスなんだがねえ」

 ここで、エレノアは困ったように頭をかいた。

「そのアグネスがいま、私の予想を超えることをしでかしてくれていてね。
 ちょっと考えあぐねているのさ」

「予想を超えること?」

 アンリは、本気で困っているようなエレノアを見つめた。
 アグネスがマクスウェルにしたことといえば、リノ・エン・クルデスからの独立をたきつけ、その勢力の拡大に腐心していると聞いている。
 アンリが聞いているのは、海賊のジャンゴ一家を味方につけ、さらに同じく海賊のキカ一家に誰より早く接触しようとしているところまでだ。
 マクスウェルは海外に派遣した「刺客」にも細々と最新の情報を送っているため、アンリもキーンも、ある程度群島の現状を知ることができている。
 もちろん、その情報を後に焼却処分することも忘れていない。特にアンリが手に入れた情報がキャンメルリング公爵にわたるともなれば、厄介なことになりかねない。
 その点は元暗殺者のキーンも、元諜報部員のアンリも心得たものだ。証拠の隠滅は徹底している。

 さて、アグネスの目的はマクスウェルを群島の英雄として派閥を作らせ、一勢力として独立させることだったはずだ。
 アンリが見るに、その目的は順調に達成されつつあるように思えるのだが、どうやらエレノアの意図とは別方向に向かっているらしい。

「マクスウェルの強化につながる方針が、誤りだとでも?」

「いや、マクスウェルの強化はそれでいい。一定の強さを持ってこその軍閥だ。弱い軍閥に意味はないからね。
 ただ、アグネスはやりすぎている・・・・・・・んだ」

「やりすぎている?」

「そうだ。この戦争の表の主役は、あくまでリノ・エン・クルデスとラインバッハ二世。裏の主役はターニャやアグネス、そしてクレイたち軍師だ。
 わかるかい? そこに本来、マクスウェルと罰の紋章が介在する意味なんてないはずなのさ。
 マクスウェルは本来脇役で、リノ・エン・クルデスとともに戦争で活躍する一要素でしかないはずだった。
 そうでなければいけなかった」

「………………………」

「私が指示したのは、マクスウェルを群島のどこにでも出現する神出鬼没の小規模艦隊として独立させろ、ということだ。
 それが、イルヤ、ナ・ナル、ネイの三島から続々と兵を募り、海賊のジャンゴをとりこみ、今回、正式にキカを味方にとりこんだと聞く。
 これじゃ、神出鬼没の遊兵どころか、ラズリル・オベル連合軍に並ぶ一大勢力になっちまう」

「しかし、マクスウェルが一大勢力になったところで、メリットもあるのでは?
 例えば艦隊戦になった場合、連合海軍とオベリア・インティファーダで二正面作戦が可能になります。
 この場合、マクスウェルの勢力が多いほど成功率が上がると思いますが」

 エレノアは難しい表情のまま、天を仰いだ。

「前回、それで失敗しているラインバッハ一味が、同じ手に乗るとは思えないね。
 特に、ラインバッハ一味で、ヤンセンに代わって艦隊の指揮を執るオルグレンという男を少し知っているが、 あれは地味だが堅実な男だ。少々の挑発に乗ってのこのこ出てくることはないだろう。
 それに、マクスウェルという男の真価は「遊兵」だ。大艦隊の指揮をとらせてもそれなりの結果を残すだろうが、遊兵として自由に暴れさせることで、あの男はその真価を発揮する」

 つまり、誰の旗下にも加わらず、完全に独自の道を歩くことが、マクスウェルの真価だという事か。
 アンリは、とっさにそう理解する。だから、リノ・エン・クルデスはオベル王国時代、マクスウェルを「客将」という、自由のきく立場で使っていたのだろうし、今回エレノアも、少人数だが最精鋭の軍団をマクスウェルに作らせようとしていたのか。

「では、エレノア殿の理想とする戦闘とは?」

 アンリが問うと、エレノアは迷いなく地図の一点を指差した。
 マクスウェルたち「オベリア・インティファーダ」の拠る無人島の南だ。その点、アグネスもターニャも、考えは一致している。
 当然、同じ師を持つグレアム・クレイも見抜いているだろう。

「理想とする戦場はここだ。ここまでラインバッハ軍を誘い出し、北から連合海軍、西からキカ一家でもって包囲殲滅戦を行う。
 さらに、東からマクスウェル艦隊を突っ込ませて戦場は完成だ。包囲され壊乱するラインバッハ軍に、止めを刺すようにマクスウェルに暴れさせれば完勝は間違いない。
 ……という思惑のはずだった」

 エレノアが一呼吸着いた。
 さすがというべきか、エレノアの計算に例えばマクスウェルの罰の紋章のような、個人的な特殊能力は入っていない。イレギュラーな要素をできるだけ取り除き、純粋な艦隊戦のみでの決着を考えているようだ。

「だが、キカがマクスウェル個人に味方したことで、西から包囲する勢力がなくなったことは痛い。
 さらに、言ったように、オルグレンは挑発に乗りにくい男のうえに、クレイがきっと「挑発に乗るな」と厳命するだろう。
 ちょっとやそっとじゃラインバッハ一味を誘い出すことはできないだろうね。面倒な話さ」

 困ったように座り込むエレノアだが、その表情がそれほど困難に満ちているわけではないことをアンリは見抜いている。
 口を覆う手の間から、まるで笑うように口の端がカーブしているのがみえたのだ。
 この人は困った振りをしているだけではないのか。
 本当は胸に秘策を秘めていて、困った振りをして楽しんでいるのではないのか。

「私には、エレノア殿がそれほどお困りのようには見えません。
 なにか策をお持ちなのでしょう?」

 アンリが問うと、エレノアは酒焼けした声でカラカラと笑った。
 図書館の静寂の中で、その笑い声だけが響く。

「さあ、どうだろうね。真実は神のみぞ知るというところさ。
 実際、私が今さらのこのこオベルに出て行ったところで、間に合うわけはない。
 とうに海戦は終わってるだろうよ。私の仕事は、その後始末ってことになるだろうね。
 さて、私が群島に行くころに勝利の美酒に酔っているのは、リノ・エン・クルデスか、ラインバッハ二世か、どちらだろうね」

 言うと、エレノアは席を立った。言いたいことは言ったということだろうか。

「エレノア殿、なぜ今のような話を私にしたのです?
 それこそ情報が漏れてはまずいのでは?」

 エレノアは意地悪な笑顔を作って振り向いた。

「私は群島の現状を分析しただけさ。人に聞かれてまずいことは何も喋っちゃいないよ。
 もちろん、私から聞いたことをあんたがどうするかは、あんたの自由だ。
 マクスウェルに知らせるなり、ギネ皇太子に告げるなり、自由にするがいい。
 どっちにしろ、決戦には間に合わないとはおもうがね」

 そう言って、今度こそエレノアは図書館を後にした。
 アンリは考える。エレノアは今回の海戦では、実はどちらの勝利も望んでいはいないのではないか。
 状況がややこしくなったことで、いたみわけを狙っているのではないかと思ったのだ。
 海戦の後もどの勢力も全滅することなくそこそこ軍事力が残っているなら、エレノアの言う「後始末」もやりがいのあるものになるだろうが……。
 逆に考えれば、エレノアにとって、今回の海戦でどちらかに大勝されては困るのではないか。
 この戦争は、エレノアの言ったとおり、表ではリノ・エン・クルデスとラインバッハ二世の領土争いだが、裏では三人の軍師が絡んでいる。そして、その三人ともエレノアの弟子であることは、アンリも知っている。
 その事実が、エレノアのいう「後始末」に繋がるのだとしたら……。
 アンリは難しい顔をしたまま、群島の地図を指でなぞる。

(それにしても……)

 それにしても、厄介な人間に気に入られてしまったものだ。
 ひょっとしたら、今後も顔を合わせる機会があるかもしれない。
 そのときのことを予想して、アンリはついため息をついた。

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(初:16.09.05)