クォ・ヴァディス 97

16-3

 壁際に追い込まれた少女は、エレノアの名を聞いても警戒心を離そうとはしない。砕けた笑い声を聞いて、いったん緊張感を放り出そうとはしたが、それもすんでのところで握り締めなおした。
 エレノアは、そんな少女の姿に、賛美とも驚きとも取れる声を出した。

「ほう、メイドにしちゃあよく訓練されているじゃないか。
 私の気配に気づいた反応も悪くはない」

 その言葉を裏返せば、「お前はメイドではない」と言っているようなものだった。

「ま、私の誘導に気づいたのなら、それを外れてわが道を行くのもエージェントの能力だがね」

「……………………」

「まあ、悪く思わないでおくれ。私がガイエンと群島の現状を知らなきゃいけないのは本当だ。
 てっとりばやく誰かに話を聞きたいと思っていたところに、あんたが目に入ったもんでね」

「それで私をここへ追い込んだ、と?」

「目標を誘い出すのは戦術の基本中の基本。お遊びみたいなもんさ」

 その「お遊び」で誘い出された少女としては、むろん、いい気はしない。目元の警戒心がさらに上がる。
 エレノアとしても、自分が決して好意的な視線で見られる類の人物だと思っているわけではない。この反応は想定の内だった。

「それでだ。群島の情勢はだいたい読んでいたつもりだったが、ただ一つ、マクスウェルがお前さんをここに寄越したことが計算外だった。
 あれは陰謀とか策謀とか、そういう言葉とは無縁の人間だと思っていたからね。
 お前さんは大それた事件を起こしたらしいが、それがマクスウェルの指示だったのかい」

「お前さん、ではありません。こちら・・・では「アンリ」と呼ばれています。
 それに、マクスウェルを誹謗するおつもりなら、かのエレノア・シルバーバーグが相手でも容赦はいたしません」

 どこまでも不機嫌な様子で、三つ編みのアンリは言い捨てた。
 その様子に、エレノアは片目を瞑ってため息をついた。
 いまいち、この娘の素性が読み取りにくい。「こちらでは」と名乗ったことからも、自分の本名を言うつもりはないのだろう。
 最初はミズキのように任務にのみ忠実な忍びの者に近いかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
 だが、自分の気配に気づいていたことからも、それ相応の「能力」があることは間違いない。先の群島解放戦争では、「アンリ」という名の味方はいなかったように記憶している。
 では、この女性はどこの何者か。

「誹謗したつもりはないんだがね。
 言い方がきついのは私の悪癖さ、気に障ったなら謝るよ。
 で、本名不明のアンリさんは、マクスウェルの危険な指示を唯々諾々と受け入れたのかい」

「私はマクスウェルのために死ぬことしかできません。
 死の危険のある作戦をマクスウェルが躊躇するならば、それは私がこの身に引き受けるべきもの。
 それ以上でもそれ以外でもありません」

 エレノアは、今度は目に見えて大きくため息をつく。

(最初から死ぬつもりでガイエンに潜入してきたってことか。こりゃあ、ミズキよりも危険な惚れっぷりだね。
 しかし、そこまでしてマクスウェルはガイエンで何がしたかったんだろうね……。
 結果的にガイエンが味方についたから良かったものの、それも流れ次第でどう変化するかマクスウェルに予想できたとも思えないが……)

 これが若い頃から軍師の教育を受けたクレイのような、ガチガチの論客上がりの男なら、ある程度思考を読むことができる。
 しかし、マクスウェルは違う。彼は真逆の経歴の持ち主であり、軍人の出身で人の上に立つ能力があるとはいえ、どこまでも前線の人だ。軍師の教育を受けたことがあるとも思えない。
 だからこそ、その思考は読みにくい。こういう男が突発的に「思いつき」で起こした事件は、往々にして綿密な計画を狂わせるほころびとなる。
 クレイを止めるために全力を注ぎたいエレノアとしては、できるだけイレギュラーな要素を抑えこんでおきたいのだ。
 ただでさえ、マクスウェルは罰の紋章を持つ。存在自体がイレギュラーといえるのである。
 自分があらかじめ派遣した弟子のアグネスの言うことをおとなしく聞いて行動してくれればいいが、マクスウェルとて一度は英雄と呼ばれた存在だ。自分の気宇で行動したいときも、その欲求もあるだろう。
 果たして、アグネスがマクスウェルを御しきれるかどうか、エレノアはそこまで弟子のことを信頼しているわけではない。

 エレノアが長考に入ろうとしたので、危機感が薄れたと感じたのか、アンリは警戒をやや薄めた。
 そして、表情を組み替える。

「ヒントはスノウ・フィンガーフートです、エレノア・シルバーバーグ殿」

「スノウ? ビンセント伯爵のこせがれかい」

「いまやガイエンの公爵となりおおせましたけれどね。
 マクスウェルは、独立したときにガイエンも仲間に引き入れるようにカタリナに進言しました。
 そのとき、すでにカタリナがスノウをガイエンの使者に選ぶことを、マクスウェルは予見していました。
 そこで、私とキーンという者をあらかじめこのガイエンに送りこんだのです。
 スノウの身を影から護るために」

「スノウ一人のために、あんたらに危険な役目を負わせたってわけかい。
 大公妃暗殺未遂事件も、マクスウェルの計算のうちだったと?」

「いえ、あれは偶然です。私が潜伏先にアルバレズ子爵を選んだことが間違いでした。
 私になんの背後関係もないと思い込んだアルバレズ子爵が暴走し、私を暗殺者に仕立て上げたのです」

「いや、そんなことはないはずだ」

 突然、エレノアの声のトーンが一段落ちた。
 酒やけしてはいるが、歴戦の軍師らしい落ち着いて、冷静な声だ。

「あんたはマクスウェルの指示で、アルバレズが大公妃を暗殺しなければならないように仕向けたんだ。
 アルバレズを潜伏先に選んだのも偶然なんかじゃない。違うかい?」

「……………………」

 アンリは黙り込む。だが、この場での沈黙は「YES」と同じ意味だ。
 エレノアとアンリは、剣呑な目つきでにらみ合った。一方は秘密を守ろうとし、一方は秘密を暴こうとしている。
 危険なにらみ合い。だが、このにらみ合いは、エレノアの苦笑で幕を閉じた。

「マクスウェルが、らしくもなく策を用いたことは分かった。
 だが、謎が解けたわけじゃない。なぜマクスウェルが結果の後先が分からない策を強引に用いたってことがね。
 それをあんたに聞こうとしても、答えてはくれそうにないね」

「……………………」

 エレノアは苦笑をひらめかせたまま、頭を少しかいた。

「まあいい、ことは八割がた私の予想どおりに動いてる。このままもう少し調査を続けて、群島に向かうとしよう」

「群島では、ラズリル・オベル連合軍とラインバッハ二世の一派の艦隊戦が近いと聞いています。
 軍師として、すぐにそちらに向かわなくていいのですか、エレノア殿?」

「その戦闘は、アグネスとターニャとクレイの戦いだ。
 オープニングを演出したのは私だが、どういう風な結末を迎えるかは三人の腕次第だね。
 その帰趨まで私の知ったことじゃない」

 冷徹といえる言い草で、エレノアは言い放った。
 つまりエレノアは、他人の命まで絵の具にして、群島に真紅のキャンパスを広げようというのだろうか。
 アグネスとターニャをいいように使い分け、リノ・エン・クルデスやマクスウェル、ラインバッハ二世まで駒にしてこの戦争全てを操ろうというのか。
 アンリは沈黙を守ったまま、うそ寒さを背中に覚えた。目前にたたずむ小柄な、軍師を名乗る女性が、とんでもない怪物に見えてきたのである。

「教えていただけませんか? あなたはこの戦争で、なにがしたいのですか」

 にやり、と片頬を上げてエレノアは嗤った。

「情報というのは等価交換が基本だよ。自分は隠し事をして、人に教えをこおうなんて、都合のいい話じゃないか」

「……………………」

 アンリはむっつりと黙り込む。要はお互いに、おおっぴらにできぬ情報を胸の中にしまいこんでいるということか。

「さて、私は行くとしよう。
“あの男”は群島に戻ってしまったようだし、赤月にももう用はない。
 私もまだギネ皇太子につかまるわけにもいかないのでね」

 言って、立ち去ろうとするエレノアを、アンリは呼び止める。

「私があなたの存在を、キャンメルリング公爵やマクスウェルに密告するとは考えないのですか」

「あんたがそんなことをして、なんの得があるんだい?
 はっきりとマクスウェルに有利になるならともかく、この戦争において、私の存在はまだイレギュラーだ。
 マクスウェルの立場にどう影響するか分からない私を、あんたが公の場に引きずり出す意味があるとも思えない」

 アンリはまたも黙った。
 このガイエンにおけるアンリの行動の全ての要素は、マクスウェルへと繋がる。
 現在はキャンメルリング公のメイドに身をやつしているが、日常の全てはマクスウェルが少しでも有利になるように動くことにある。
 たしかに、ここでエレノアの存在をキャンメルリング公に密告したとしても、キャンメルリング公がエレノアをどのように扱うか予想がつかない。
 むしろ、エレノアの口車に踊らされて、群島の状況をさらにかき回してしまうかもしれない。

 アンリが思考の渦に落ちようとしたとき、エレノアが一声かけた。

「それじゃあね、死ぬんじゃないよ。たぶん、ガイエン海上騎士団の生き残りのメイドさん」

 アンリが急に現実に引き戻されて、なんともいえない顔をした。
 アンリは数秒の間に忙しく表情を入れ替え、最後に諦めに近い感情を浮かべた。

「……読んでおられたのですね」

「簡単な推理さ。マクスウェルのために命を張ろうとする人間が、どこの出身に多いかを想像すれば、大体は、ね」

「……………………」

 アンリは苦笑気味に首を横に振る。

「かつて、ガイエン海上騎士団には、船員だけでなく、諜報部員を育成する部門もあったのです。
 私はそこの最後の訓練生だった。そして、マクスウェルは私の、私たちの命の恩人なのです」

 私たち、という言い方がエレノアの興味を引いたが、恐らく尋ねても解答はないだろう。
 黄昏るように視線を地面に落とすアンリに背を向け、エレノアは軽く手を振った。
 エレノアにとってこの戦争は、仕事ではない、趣味でもない。あえていえば「使命」であった。
 それも、大勢の命を巻き込みながら、たった一人の人間の暴走を止めるという「使命」だ。
 決しておざなりな結果で満足するわけにはいかない。結果は確実におさめなければならない。

「さて、これからが正念場だね。絵の描きがいがあるってもんさ」

 そうつぶやきながら、黒衣の軍師は、大都市の闇にその姿を消した。

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(初:16.08.30)