クォ・ヴァディス 96

16-1

 オベル・ラズリル連合海軍とラインバッハ二世一派の決戦が迫ったこの時期、ガイエン公国首都オリゾンテでも、緊張の水位は上昇しつつある。
 皇太子となりおおせたキャンメルリング公爵がラズリルに新鋭の軍艦三隻を譲渡し、ラズリル出身のフィンガーフート新公爵が誕生したことで、ガイエンは完全にオベル・ラズリル連合に味方したことになった。
 不正貴族やそれに組みする悪徳商人らを一掃し、国民の関心と支持をとりつけたばかりのキャンメルリング公だったが、これらの選択は賭けだった。国内が落ち着いていない現状では、積極的に巻き込まれない限りできるだけ中立を守り、国内の安定に腐心すべきではないのか、という声も少なくなかったのである。
 また、海外から伝わってくる情報やニュースを、キャンメルリング公はできるだけ検閲せず、国民に事実を与えたため、これも騒ぎの元になった。下町や酒場には多くの「にわか政治学者」たちが溢れ、戦争の帰趨や、今後のガイエンの行き様にチャンスなり不安なりを舌端に乗せて、酒の肴にしたのである。

 さて、民衆たちは酒の肴にすればすむ話だったが、当事者たちはそうもいかない。キャンメルリング公は帰国後も忙しい毎日を送っている。
 自ら更迭した閣僚たちの後任人事や、数多くの会議、書類を決裁する合間に、シドニア大公妃やスノウ・フィンガーフート「公爵」と毎日のように顔を合わせ会談した。
 それまでの、意味のないかたちだけの会議を極力排除した結果、その回数自体は激減したが、それでもキャンメルリング公一人で抱え込むには数は多かったし、ジャンルが多岐にわたった。
 彼は、過去二百年のガイエンの歴史を見ても、「もっとも勤勉な皇太子」であったことは間違いない。過去の大公や皇太子は、官僚の用意したスケジュールを淡々とこなすだけの機械にすぎず、酷いときには「人間味がしない」とまで言われた。
 それに比べれば、キャンメルリング公ギネは、職務に精励したといえる。彼は苛烈な言動が多く、厳しい表情で部下を睥睨することも少なくなかったが、少なくとも仕事と大公家と国民には忠実だった。無能な者や敵対者はあからさまに嫌ったが、ある程度自分に否定的な者でも、建設的な意見を持ってくるものは積極的に賞賛し、意見をとりあげた。

 彼には自らの片腕を勤める者が必要だった。だが、身近にいた政治家や官僚たちは、彼自身が殆どを刈り取ってしまっていて、宮中に残る貴族の殆どは、ギネにとって「搾りかす」のように毒にも薬にもならぬ者たちばかりだった。良くも悪くも、不幸な戦死をしたマノウォック公爵ハーキュリーズのような強烈な個性は見当たらない。
 もっとも、それは敵対者をまとめて駆逐したゆえの自業自得いえるかもしれないが。
 自然とその片腕の地位に落ち着いたのは、彼が最も信頼する「友人」となっていたスノウ・フィンガーフート公爵である。スノウにしてみれば、この鋭い公爵の相手を務めるのは緊張以外の何者でもない。
 支え棒なしでロープの上を綱渡りするような危うさはあったが、それでもこの「新公爵」は、自分に与えられた役割はなんとかこなしていた。あるいは、その一見の頼りなさが周囲の関心を呼んだのかもしれないが、この新公爵は自分に不可能なことを無理に自分で押し通そうとはしなかったし、分からないことは素直に周囲に聞けた。その率直さが、周囲の好感を買ったのかもしれない。
 あるいはこれが二年前、群島解放戦争までの彼であったなら、肥大した自我に気づきもせず、周囲に自分を押し付けては、鼻抓み者として周囲から敬して遠ざけられたであろう。
 今のように、恐れ多くも皇太子や大公妃から親しく声をかけられるような存在にはならなかったに違いない。

 そして今日も、キャンメルリング公ギネとフィンガーフート公スノウは、王宮のサロンで親しく言葉を交わしている。
 今やキャンメルリング公は王宮でも恐れられる存在であり、自ら親しく声をかけてくる物好きな貴族など皆無であったし、キャンメルリング公も自分が格下と見ている貴族にわざわざ語りかけることもなかった。
 彼が少なくとも敬意を持って接しているのは、いずれも群島に深い関わりのあるスノウとアメリアの二人だけであった。スノウはその人間性を、アメリアはその判断力の鋭さと剣の腕をそれぞれ信頼しているようである。
 スノウがその話を聞けば、「買いかぶられすぎだよ」と胃を押さえたに違いない。

 ギネは最近、群島の様々な人間についての話をスノウから興味深く聴くようになった。
 スノウは紆余曲折あったとはいえ、群島解放戦争において、クールーク軍と解放軍の両方に属した貴重な人材であり、産まれや立場のよさもあいまって知己の数も多かった。
 ガイエン海上騎士団の訓練校時代には同学年の代表を務め、当時のグレン団長の死にともなってそのあとを継ぎ、騎士団長まで登りつめた。その後、戦局の悪化に伴ってクールークに降伏する道を選び、クールーク海賊討伐艦隊の指揮官も勤めている。そのとき、クールークの分艦隊司令官だったヘルムートと知り合い、コルトンとも僅かだが言葉を交わしている。
 解放軍に降伏して以降は、マクスウェルの重要な右腕として、ケネスやジュエルらとともに、その心理的なサポートにあたった……。
 わずか数日とはいえ自分で群島の地を踏んでから、ギネの群島に対する興味は増すばかりである。そこでカタリナやリノなどと親交を持つに当たり、ギネの人材収集の手は、ガイエンから群島に伸びようとしていた。
 もっとも、ガイエンもそうだが群島も大変な時期である。優秀な人材はリノ・エン・クルデスが手早く抑えるであろうから、ガイエンが群島から人材を収集するにしても、この騒動が収まった後になるかも知れない。
 ガイエンの社交界にすでに見切りをつけているギネとしても、群島の騒動が一日も早く収まることを祈っていたし、そのために手を尽くすつもりであった。無論、ガイエンに有利な状況になるように、である。

「それにしても、フィンガーフート卿の話にはマクスウェルという名がよく登場するな。
 この青年は、フィンガーフート卿にとってどのような存在なのかな」

「彼はぼく……私の命の恩人です」

 話がマクスウェルの方向に向くと、いつもは遠慮がちなスノウの呼気が上昇するのが常である。
 スノウは、マクスウェルがいかに激動の人生を歩んできたか、いかにして自分に勝利したかをつぶさに熱っぽく語った。それはマクスウェルを批評するような喋り方ではなく、熱狂的なファンが尊敬する個人を熱っぽく語るような状態であった。
 ギネは、マクスウェルの人物だけでなく、彼の持つ罰の紋章も含めて政治的な意味をこめてマクスウェルの存在に興味を持っていたのだが、スノウの温度の高い語り口にかかれば彼は歴史に屹立する一代の巨人であり、その人物評から冷静にマクスウェルを知ることは不可能だった。ギネとしては苦笑するしかない。

(やれやれ、フィンガーフート卿にかかればマクスウェル氏は一点の曇りも後ろめたさもない当世の大英雄ということになるが……。
 はたして、この世にそのような存在が実在するものかな……?)

 ギネは苦笑しながらコーヒーを一口、胃に流し込んだ。
 このとき、ガイエン首都オリゾンテの一角で、やはりマクスウェルがまな板の上に乗せられていることなど、ギネもスノウも、知る由もない。

16-2

 ちょうどギネとスノウがマクスウェルについて語っているとき、オリゾンテの街中を歩く少女の姿がある。
 やややぼったい印象を受けるメイド服から、彼女がどこかの貴族の家からお使いに来ているものと思われた。長い髪は三つ編みにまとめられ、その表情はあどけなさが抜けていない。ただ、怪我でもしているのか、顔の端々に絆創膏が遠慮がちに貼られている。
 貴族のお使いにしては地味な印象だが、彼女はいまや皇太子となりおおせたキャンメルリング公の家の者である。しかも、現在もオリゾンテでたびたび話題に上る「大公妃暗殺未遂事件」の犯人とされた当の本人であった。
 キャンメルリング公ギネは、当初こそ彼女を監禁したが、事件の中心人物をアルバレズ子爵ナハトに定めこれを滅ぼすと、彼女に一定の自由を与えた。
 ひどく精神的に追い込まれて事件を起こすよう強要されたもので、責任を問うのは酷である、との判断を下したのだ。もちろん、その「自由」にはいくらかの足枷がついていたが、大公家の人間を害そうとした者に与えられるものとしては破格の待遇と言っていいかもしれない。
 あるいは、これからも現われるであろう政敵に対しての切り札にするつもりで生かしているのかもしれない、と少女本人は思っているが、与えられた自由を行使しないという判断は、彼女にはなかったのである。

 彼女の足は商店街にむけられ、わずかな買い物を済ませた後、そのまま商店街の端に向かった。
 そこには、靴磨きの老人が座っている。相当な年のようで、髪の毛は耳の上にわずかにしがみついているだけで、あとは見事に禿げ上がっている。しかし、背の低いうつむきがちな姿勢からこぼれる剣呑な視線は、ある業界にいた者ならば、彼が只者ではないことを悟るかもしれない。
 少女は臆すこともなくその老人のもとに歩みを進めると、簡素な椅子に座って革靴を差し出しながら、静かに語りかける。

「スノウの様子はどう? キーン」

 知己なのだろうか、老人は驚きもせず、せっせと靴を磨きながらこちらも静かに答える。

「本人は忙しくしているが、立場的には落ち着いている。
 公爵に昇ったことで護衛が公的につくようになったし、いくらかの私兵も囲えるようになったはずだ。
 マクスウェルへの報告は、つまらぬ長手紙になるかもしれぬ」

 なれた手つきで左の靴を磨き上げると、今度は右側の靴に布を当てる。

「そちらはどうだ。マクスウェルからなにか言ってきたか」

 キーンと呼ばれた老人は、顔を伏せたまま少女に問うが、少女の顔はあまり喜ばしいとはいえない表情に満たされている。

「特に変更はないわ。連絡は在るけれど、「今は忍べ」という一文ばかり」

「ということは、お前は今の立場を守れということだ。あちらも戦争の準備で手一杯だろうし、悠長に外国に目を向けていられないのかも知れぬ」

「そうね、そうだと信じたいわ。私にできることは限られているもの」

「お前の存在は、ガイエンの政治史を変えるかも知れぬ。マクスウェルもそれだけお前を大仰に使えないのさ」

 靴磨きが終わり、少女は表情を入れ替えて、一メイドに戻らなくてはならなくなった。
 少女は、キーンにコインを渡すと、「また変事があったら連絡を」と言い残して老人の下を去った。


 屋敷への帰路、少女は妙な感触に襲われた。誰かの視線が、自分の背中にはりついている気がするのだ。

(……追われている?)

 少女はやや歩を速め、屋敷へと急いだ。視線を振り切るように、人目の少ない道を選んでは複雑に遠回りをする。
 かって知ったるオリゾンテの町並みだ。道に迷うはずがない。しかし、少女は奇妙な感覚に襲われた。
 自分は操られている。まるでどこか特定の場所に歩いていくように誘導されている。そんな感覚が、少女の背中に駆け抜けたとき、少女は自分が路地の突き当たりに迷い込んだことを知った。
 右も左も目前も、三方向は民家の高い壁に囲まれている。太陽の光も届かない影の路地。人を追いつめるには絶好の場所ではないか。
 少女は素早く自分の現状を受け入れると、壁に背を向けて大通りの方を向いた。自分をここにおいつめたということは、背中から襲ってくる気はないということだ。誰かは知らないが、味なことをしてくれる。

 少女の視線の先にいたのは、背のあまり高くない老年の女性だった。キーンよりも年下だとは思われるが、その背筋はしっかりとのびており、全身黒でまとめた衣装で腕を組み、挑戦的とも落ち着いているともとれる複雑な視線で少女を貫いている。
 ブラウンの髪がわずかに風に揺れている。少女には一目で分かった。この女性は軍人だ。あるいは「元」軍人か。少なくない歴戦の場を潜り抜けてきたはずである。
 それを分からせるだけの空気を、この女性は持っていた。
 ゆっくりとした動作で、女性は少女に近づく。少女が警戒心を一段上げたところで、女性は歩を止めた。その距離は約二メートル。
 かわそうと思えば、無理にかわして逃げられないことはないだろう。だが、少女はその選択をしなかった。さきに女性のほうが話の口火をきったせいだ。

「あんたが、マクスウェルの手の者かい?」

 随分酒やけした声だが、少女はその方向には興味がいかなかった。いきなり自分の正体を看破して見せた目前の女性に、危機感を秒単位で上げる。
 剣呑な顔つきになったのだろう、女性がやや呆れ顔になっていった。

「よしとくれよ、あんたみたいな若いのにのしかかれちゃ、私なんて一分ともたずにあの世行きだ」

 少女は警戒心を下げない。危機感も下げない。

「私の正体を知ったところでどうしようというのです?」

「どうもしないよ、私はただ、ひとつふたつ確認したくてあんたを呼び止めただけだ」

「確認?」

「そう、現在の群島の戦争、そしてガイエンの政局、群島を囲む外国の状況、知りたいことは山ほどある」

「それこそ時間の無駄です。私は一メイドに過ぎません」

「私の気配に気づいて道をそらすようなメイドが普通にいるもんかい。
 マクスウェルの名を聞いたときの反応も大きすぎた。あんたは自分で自分の正体を名乗っちまったのさ」

「……………………」

 少女は警戒をしながらも、知能的な抵抗は無駄だと思ったのだろう。わずかに眉尻を下げた。

「私が未熟だということはわかりました、それであなたは何者ですか」

 その場の空気が嘘のように、やや呆気にとられたような表情を見せた後、女性は高らかに笑った。
 意表をつかれて、少女の緊張感がやや和らぐ。

「そういや、まだ名乗ってなかったね、ごめんよ。
 私はエレノア・シルバーバーグ。マクスウェルに味方してクールークと戦った軍師っていえば分かるかい」

「……………………!」

 エレノア・シルバーバーグ。群島解放戦争に関わった者で、この名を知らぬ者はいない。
 元赤月帝国の宰相であり、一時期は群島に身を隠していたが、マクスウェルに口説かれて解放軍に加わり、弟子のクレイの起こした群島解放戦争にマクスウェルを勝利させる形で決着をつけた。
 その軍略は賛否の評価ははっきりと分かれる。アカギのように「理解はしても受け入れがたい」という者も多くいたが、クールークを相手に寡兵のマクスウェルらを勝利させた実績は、しっかりと歴史書にのこる事実である。
 その後は赤月に渡ったといわれるが、クールークが崩壊するまではその消息を知る者はいなかった。
 そして、今回の群島の騒動に弟子のアグネス、ターニャを派遣したことで、必ず裏で糸を引いていると思われていたのだが……。

 その赤月の大軍師が、こうしてキャンメルリング家の一メイドの前に姿を現した。
 その意味を理解できぬ少女ではなかった。少女とて、ただガイエンの陰謀に踊らされ続けたメイドではなかったからである。

COMMENT

(初:16.08.29)