こうして七月一日、セツの戴冠式が始まった。
オベルは昨日に引き続き快晴であり、気温は高かったものの、海からの風が列席者の頬を涼しく撫でている。
午前十時、ゲストたちが玉座の間に列席し、着座。その数は三十五名であったが、ナセル・ゴドウィンとエイブラムス・バロウズの二名以外はすべてラインバッハ二世と旧クールークの関係者であった。
その中には、セツの味方は一人もいなかった。
グレアム・クレイは大事に備えて軍のオフィスで職務をしていたが、ラインバッハ二世は群島の代表として戴冠式に出席した。
もっとも、彼も旧支配地域のミドルポートを地元住民の蜂起で失っており、立場的には「旧」オベル国王のリノ・エン・クルデスと同じ亡国の支配者であったが。
午前十一時、新国王のセツが入室。
セツは質素ながら貴族服を身につけているが、着慣れていないせいか、小柄でどちらかといえば貧相な容貌なセツには似合わないことはなはだしい。このあたりは、ガイエン公国のスタニスラス大公と似ている。
そして、玉座の前に立った彼を待っていたのは、二人の近侍だった。
一人は丸められた文書を、一人は元帥杖を携え、新国王を待っている。
玉座の左側に立っていた男が文書を広げ、読み上げ始めた。
「オベル国王たる者は、第一に国民の利益に全責任を負い、第二に軍の行動に全責任を負う。
オベル国王としてこの責から逃れぬことを誓うか?」
セツに言わせれば、第一にリノ・エン・クルデスと群島諸国連合への忠誠に全責任を負うところだったが、いまそれを口にすれば、自分がどのような目に合わされるかは容易に想像ができたので、懸命にも言及は避けた。
セツは自慢の鼻ひげと腹を、怒りを溜め込んだ感情で震わせながら、一言だけ答えた。
「誓う」
と。
二人の近侍のうち、右側に立っている者から元帥杖がセツに手渡された。受け取るとき、セツの手が震えていた。
そして、右側に立っている者が叫んだ。
「オベル国王、万歳!」
これに続くように、ゲストたちから拍手と万歳が起こった。
いずれもセツの名を呼んでいたが、新国王の誕生を祝うにしては熱気と忠誠心とに欠けていた。
その様を最も惨めな気分で眺めていたのはセツ自身であろう。
玉座に腰を下ろして自分たちの名を呼び、万歳や拍手をしている者たちに中に、自分に期待している人間などいはしない。
皆が皆、自分の背後にいる者、ラインバッハ二世の経済力と、ハルモニアの権勢に期待している者しかおるまい。
それでも、セツは国王になった。誰かがならなければならなかった。たまたま自分がその役に当てはまった、それだけであった。
問題は、これからである。セツ国王には何の権力もありはしない。政治と経済はラインバッハ二世が、軍事はクレイが権力を掌握して離さすまい。
自分にあてがわれるのは、毎日の豪勢な食事くらいであろう。だがそれでも、セツはなんとか政局がリノ・エン・クルデスに有利になるようにしむけなければならない。
リノ・エン・クルデスこそが真のオベル国王であり、彼が複座して初めて、セツにとって物語は終わるのだ。
この間、事件が始まってからセツの戴冠式まで、リノ・エン・クルデスがラインバッハ二世とグレアム・クレイの関係を離そうとしなかったわけではない。
彼は彼で、様々な離間の策を講じたが、彼は人格の根本が武人であり、どうしても「策謀」という言葉とは親密な関係を築けそうになかった。
間者を何人か使ってオベル市街に様々な噂をばら撒き、使者を使ってラズリルほか群島諸国にラインバッハ二世の非を鳴らす宣伝をする程度のことはやったが、どうしても武断的な解決策に頼りたくなるのは仕方のないことだった。
要するに、彼は戦いたかったのだ。一戦して勝ちさえすれば、この事件は終わるのである。
マクスウェルの存在など、いくつかの要素が事件を複雑に見せているだけで、実際のところ回答はイエスかノーかの二つしかない。
戦いに限らず、政治とはそういうものだ。様々な問題が絡み合っていかに複雑な事件に見えても、それらを剥ぎ取ってみれば、回答は常に単純なものである。
いかに問題を単純に可視化して紐解いて回答に導くか、それが政治家としての腕であるとリノ・エン・クルデスは思っており、自分にはその程度の力は期待しても良いはずだった。
少なくとも、事件前のオベルの政治において、彼はオベル国民を裏切ったことは一度もない。
群島解放戦争においてクールークの名将トロイとコルトンの連携作戦によって国を失陥したときも、いち早くこれを察知して、望む国民を全員引き連れて彼は国をさっと脱出し、そして後にコルトンを打ち破って国を取り戻した。
だが、リノ・エン・クルデスの早期による武断的な判断を、カタリナの軍師であるターニャは支持しなかった。
一つには、リノ・エン・クルデスが焦っているのではないかという判断があった。
政治においてもそうだが、「焦り」は何一つ有益なものをもたらすことはない。
むしろ、事を焦って失うものの方が大きいのではないかと、ターニャは思っている。
それに、リノ・エン・クルデスの離間の策がなかなか為らない、つまり、成功しないことで、ラインバッハ二世とグレアム・クレイの関係は離し難いのではないかと思っている。
当初は利害関係のみによって結びついた打算と妥協による不浄な結婚の産物かと思っていたが、この「利害関係」が意外と強いのではないか。
また、一つには自分たちの勢力の結合力がまだそこまで強くはないという懸念があった。
ターニャは他の軍師の例に漏れず現実家であったから、ラズリル騎士団、オベル海軍、クールーク皇王派、そしてガイエンの勢力が集まればすぐに無敵の軍隊が出来上がるなどという誇大妄想とは無縁であった。
彼女は時間をこまめにとっては艦隊戦の訓練を行い、オルネラらクールーク兵にはリノ・エン・クルデスに依頼して船上での戦闘の手ほどきを行った。
それは時に死者が出るほど苛烈なものであったが、それでもターニャはやりすぎだとは思っていなかった。
なにごとも、やるべきときにやることができるのは、普段から努力を欠かさない者だけであると、師のエレノアからいやになるほど叩き込まれたターニャである。
マクスウェルについたアグネスと違って、ターニャは敵からだけではなく味方からも恐れられた。それでも、勝利のためにすべきことは全てすべきであった。
ターニャにとって、他人の評価など一顧だにすべきものではなかった。
だが、どれだけ慎重になっても、戦うべきときは必ず来る。
そろそろ前回の第二次オベル沖海戦から三ヶ月がたつ。ラズリル・オベル連合海軍からすれば、政治的にはともかく、軍事的には密度の高い時間だったはずであり、セツの戴冠という外的・心理的要因もできた。
戦うべき理由ができたのだ。
リノ・エン・クルデスが唇をとがらせなくても、ここで戦わなくていつ戦うのか、という心理はターニャにもあった。
オベリア・インティファーダが独自に行動するという事実は、ターニャの心に小さくない波風を立てたが、これも考え方一つである。
クレイをトップとする新オベル王国海軍は、戴冠式の前後はオベルの周囲に張り付いて出てこない可能性も高い。
このあたりは、同じ師を持つ軍師同士の腹の探りあいになるが、それゆえに、ターニャはクレイの腹をある程度、読むことが可能だった。
アグネスと同じく、ターニャも理想とする戦場はオベルの北、オベリア・インティファーダのよる無人島の南の海域である。
そこならば新オベル海軍はオベル島の南部にある港から大回りで北進しなければならぬし、オベリア・インティファーダと連合海軍は無人島の南部にある港から直接南進できる。
一度はアグネスと直接会って、軍略を協議しなければならないが、言葉は悪いが、オベリア・インティファーダの自由行動をおとりに使って、島に張り付く新オベル海軍を島から引き剥がすことも不可能ではないのではないか。
どのような作戦をとるにしても、連合海軍とオベリア・インティファーダとの首脳部との意思疎通は不可避である。
それには、リノ・エン・クルデスとマクスウェルの会談という要素がどうしても欠かせないであろう。
この二人の確執も長く深いものになっている。時間がたてばたつほど、それはより深刻なものになるだろう。
ターニャは人間関係の機微にはそう聡いほうではない。彼女は知覚が鋭敏すぎて、すべてを客観視しすぎるきらいがあるため、「仲が悪い」というだけで会談もできぬという心情に必然性を感じられなかったのである。
仲が悪いというなら、それこそ自分とアグネスだって決して仲の良いほうではない。
それでも同じ人物を師として学んできて、ケンカも数え切れぬほどやったが、意思の疎通は可能である。
何も、抱きしめあって抱擁しろとかいうのではない、今後のとこについて話し合うだけでいいのだから。
ターニャにとって、人間関係というものは、まだ軍略に加えるべき要素ではなかった。アグネスのように「クレイが嫌いだからブッ倒す」などという私的な理由をもつ気にもなれなかった。
要は、まだ若かったのだ。アグネスとは異なる意味で。
オベル王国においてセツの戴冠式が行われた七月一日、ラズリルにおいても重要な演説が行われた。
連合海軍の主だった幹部がラズリル騎士団の館の中庭に集められた。
快晴であるオベル王国と異なり、雨こそ降らなかったがやや曇天気味であった。
これを不吉の前兆と見る者もいたが、リノ・エン・クルデスは、
「この雲のカタマリとともに、ラインバッハ二世らをまとめて討ち滅ぼすのだ」
と、あえて強気だった。
リノ・エン・クルデスは右にカタリナを、左にオルネラを引き連れ、連合海軍の中心メンバーの前に立つ。
その姿には、敗戦直後の虚脱感はない。むしろ、復讐者として力感に満ちていた。
ターニャは後の日記に、この日のリノ・エン・クルデスの様子をこう記している。
やや長めに伸びた白髪をいつものように逆立てているが、それが鬼の角のように見える。
いつもと同じ歩き方、いつもと同じ表情にも関わらず圧倒的な存在感を感じたのは、ただでさえ筋密度の高い長身が、筋肉が盛り上がっていたからであろう。
まるで、武人として復讐の機会を得たというエネルギーを、緊張感とともに炎のように噴出しているようでもあった。
背後にいるカタリナ騎士団長、オルネラ将軍も、その背中に何かを感じていたのだろう、いつもよりも表情は危機感に満ちている。
そのリノ・エン・クルデスの演説は、むしろ淡々と始まった。
「先人は言った。【天に二日なし】。一国に二人の王はいない、という意味である。
だが今日、今このとき、我がオベル王国に二人目の王が誕生しようとしている。
否、誕生させられようとしている。
これは私のふがいなさが原因でもあるが、それもその王を誕生させようとしている者たちによって背後から刺されたためでもある」
まず先人の例を出し、自らの失敗を認めた上で、リノ・エン・クルデスは群島諸国連合の重要性と、ラインバッハ二世の悪辣さを延々と説いた。
リノ・エン・クルデスは言葉で語るタイプの王ではない。どちらかといえば行動で示す種類の人間である。それを知っている者が聞けば、むしろこの長いスピーチに込められたリノの危機感がありありと見て取れたであろう。
「では、群島諸国連合は瓦解してしまったのか?
否だ。事実としてただ一人、ラインバッハ二世が抜けただけであり、オベル王たる私も、連合の一員たるラズリルも健在である。
それどころか、旧クールーク、そしてガイエンから認められたことで、その重要性はむしろ増したといえる。
群島諸国連合を構成する諸君らの勇気と忠誠は、国際的に重要な位置にあるということだ。
我らはその勇気を、更に確固たるものにしなければならない。群島諸国連合を潰そうと目論む者たちを討たねばならない。
ラインバッハ二世、そしてグレアム・クレイを討つことで、その意志は達成されるであろう」
一呼吸おいて、リノは周囲を見渡した。部下たち一人一人の瞳を貫くように、ゆっくりと視線を動かした。
ミレイと目があった。彼女はぐっと口元を引き締め、手を握り締めている。
フレアと目があった。フレアは心配そうに父王の演説を聞いている。
ケネスと目があった。彼は冷静に事実を受け止めているようで、その表情に迷いはない。
そして、リノ・エン・クルデスは最後の一言を発した。
「出撃!」
(初:16.06.02)
(改:16.06.06)