クォ・ヴァディス 93

15-5

 六月三十日、ラズリルとオベル王国の二つの国家において、同時に海軍の出動命令がなされた。
 無論、理由は違う。ラズリル・オベル連合海軍はオベル王国の奪還を期して決戦に挑むためであるが、少なくとも「新オベル王国海軍」は、セツの戴冠式のための警戒と国王やゲストたち重要人物の警護のため、と説明された。
 無論、「警戒」のためにどこかの勢力とぶつかることも考えられるだろう。

 今回、新オベル海軍は総指揮がヤンセン提督からオルグレン提督に替わり、旗艦もヤンセン提督の乗艦マルドゥーク号から、オルグレン提督のラーヴァナ号に変更された。
 結局のところ、ヤンセンはラインバッハ二世から見限られたわけであるが、オルグレンも元はクールークの海軍将校であり、ラインバッハ二世の金とグレアム・クレイの誘いに乗った一人、という意味では同じであった。

 グレアム・クレイは海軍には同行せず、オベルに残った。
 ただ、オルグレンには策をさずけた。できるだけオベル島から離れることなく、島の近海で戦うように、と厳命したのである。
 前回、ヤンセンが半ば敗戦に近い結果に終わったのは、相手の挑発に乗り艦列を乱してオベル島から十七キロも引きずり出されたからである。
 オベルの近海に張り付いている以上、相手は直接攻撃がしにくくなる。無論、「罰の紋章」の驚異が通じぬことは、リノ・エン・クルデスも知悉しているであろう。
 決して相手の挑発に乗らず、オベル国民を人質にして本拠地近海において篭城する限り、本格的な攻撃はほぼない、とクレイは読んだのである。
 それでも念には念を入れ、

「深夜の小船による奇襲に注意してください。その一撃離脱は厄介ですからね」

 ……と注意を喚起することを忘れなかった。

 問題は、クレイの知らぬ勢力がある、ということである。
 その勢力の主がマクスウェルであるとわかってはいるが、その構成や行動に不明なことも多い。
 マキシンとロジェがリキエを誘拐したさいも、こちらの小艦隊が謎の艦隊から超高速の威嚇を受けた、と報告を受けている。
 果たしてこの艦隊がどのような動きをするのか、クレイは何百通りも想像した。
 こちらの艦隊の数も無限ではない以上、行動や対策は制限される。
 そこで、クレイは考え方を変えた。

 諦めたのである。

 諦めた、といっても対策そのものを投げ出したわけではなく、艦隊とは別の手段を用いることにしたのだ。
 彼は現在の「味方」でマクスウェルに最も因縁にある者に対策を委ねた。

「いいよ、引き受けよう」

 と、その人物は快諾した。快諾して、薄ら笑いを浮かべた。

「みんなみんな殺してやるよ。ジーンも、ミツバも、リシリアも、そしてマクスウェルも、みんな塵に変えてやるさ」

 そう笑った女性の額がうっすらと白く光ったのを、クレイは見逃さなかった。

15-6

 そうして同日、オルグレンとヤンセンは、玉座の間で玉座にある新国王セツに膝をついて出陣の報告を行った。
 無論、この行為には何の意味もない。実際には脇に控えるラインバッハ二世とグレアム・クレイに対する挨拶だった。オルグレンもヤンセンも、セツが「新国王」という以外にどういった人物なのかという知識もなかったし、それを知る必要も感じなかった。
 彼らですら、セツがラインバッハ二世とクレイの傀儡でしかないことを知っていたのである。

「オルグレン提督、卿はクレイの策に乗るつもりか」

 長い廊下を歩きながら、四角い顎をなで、いかにも不機嫌そうにヤンセンはかつての同僚に問う。
 オルグレンは顔色の悪い初老の痩せぎすの男性で、オレンジ色のやや長い髪を持っていた。
 そのオルグレンが答えた。

「従うさ、理にかなっているとも思うのでな」

「あやつはかつて、我らが祖国の海軍を私物化した男だぞ。
 そのような男の策に乗っかったところで、かつてと同じ過ちを繰り返すだけだと、お思いにはならぬか?」

 オルグレンはややたれ気味の目に憂鬱の成分を十分に込めてため息をついた。

「同じ過ちを犯すのなら、獣の頭脳ではなく、せめて人間の頭脳として犯したいものだ」

 これは先の海戦で失敗したヤンセンを皮肉ったつもりなのだが、ヤンセンには通じなかったらしい。
 ヤンセンはむっつりとした苦々しい表情を、それを見るオルグレンは呆れ気味の表情をそれぞれに浮かべて、自分の艦へと乗り込んだ。

(ヤンセンのやつ、作戦を無視するつもりかもしれぬ。
 一応、クレイには知らせておくか……)

 オルグレンはペンをとり短く何事かを記すと、従卒を呼んでそれを軍師に届けるように命じた。


「やれやれ……」

 常に顔面に張り付いたようなクレイの笑顔が、珍しく苦笑に近い表情になっている。
 彼は今しがた、オルグレン提督からの報告書を読んだばかりであった。
 ラインバッハ二世が珍しがって近づいてくる。

「何かあったのかね?」

「いえ、私も嫌われたものだと思いましてね」

 クレイはその報告書をラインバッハ二世に手渡した。
 それに目を通した瞬間、ラインバッハ二世の表情が血ぶくれでも起こしたかのように真っ赤になった。

「ヤンセンめ、前回の海戦で私の可愛い「マルガリータちゃん」を失っただけでも断罪ものだというのに、飽きもせずに命令違反か!
 今度こそ契約を解除してくれる」

 今にも飛び出ていきそうな勢いの領主を、軍師が止めた。

「まあ、まだ命令違反を犯したわけではありませんし、作戦を無視すると決まったわけではありません。
 今は待ちましょう。命令違反を行ったときに、改めて考えればよいでしょう」

 口では柔和に言ってみせるが、クレイの中では、何かが起こったときのために、ヤンセンをスケープゴートとすることは決まったようなものであった。


 ともかく、新オベル海軍はこの日、大型艦船八、中・小型艦船十五をオベル島の周辺に配置した。指揮官はオルグレン提督、副指揮官はヤンセン提督である。
 オルグレンは猛将ヤンセンと違い、自分から攻め進んで敵を撃砕するような用兵はあまり好まず、粘り強く戦うことを好んだ。少なくとも、この日の目的は北進してオベル・ラズリル艦隊を撃滅することではなく、オベル島の守護であったから、理にかなった人選であるとはいえた。
 ヤンセンは自らの周囲に自分を小型化したような猛々しい人物ばかりを好んで配置したが、オルグレンは様々な考え方の人物をあえて置き、様々な意見を取り入れて戦局に対応した。これだけでも、彼が単純な防御だけの軍人ではないことがわかる。

 こうして厳重な警戒の中、戴冠式の前日である六月三十日、オベルに重要な客人が二人到着した。
 いずれもファレナ女王国の貴族であるナセル・ゴドウィン、エイブラムス・バロウズの両名である。二人とも間接的に使者を送ってくるのではなく、当主が自ら乗り込んでくることになった。
 ファレナ女王家は警戒してか、いまだ国交のない群島の騒ぎに首を突っ込みたがらず、この戴冠式も事実そのものが黙殺された。
 その中でゴドウィン、バロウズの両家が女王家の意向を無視して出席したということは、この両家がファレナ国内において強大な力を得ていることを示している。持参した記念の宝物の量も、両者の豊かさを物語っていた。
 無論、この両者がセツの戴冠を心から歓迎しているかどうかは別問題である。二人とも、クレイの背後にいるハルモニアとの交易に関心を寄せており、むしろそちらを歓迎しての出席であったろう。

 ラインバッハ二世は、この二家のほかにもファレナの重要都市の主であるエセルバルド、ウィルドの両家にも接触したが、この両者からは好意的な回答は帰ってこなかった。
 痩身のアルバート・エセルバルドは、物凄い勢いで物凄い量の拒絶の言葉を長時間にわたって一気に喋り続け、巨漢のバズ・ウィルドは無言のまま一つ頷き使者を追い返した。

 もちろんラインバッハ二世にとって、このゴドウィン、バロウズの両者は重要な意味を持つ人間だった。
 必ずしも精神的な親交を持とうと思っていたわけではない。そうすることができれば最上だが、要は国際的にセツの新政権が認められれば、それで構わないのだった。
 ファレナ女王家が認めてくれなかったのは残念だが、それでも強大な二人の貴族の参列は大きな意味を持つ。セツの新政権に重要な意味があるのだと、隠然たる事実として諸国の間に話が流れればそれでよい。

 ナセル・ゴドウィンはまるで軍人のような威風ある容貌な男で、見事にそり上げた禿頭と立派な鼻ひげが特徴である。常に不機嫌そうに見えるがわざとやっているわけではなく、それが彼の地の表情だった。
 エイブラムス・バロウズは全く逆のイメージである。どちらかといえばラインバッハ二世に近く、でっぷりと出た腹と長く伸ばした白い髪を首の後ろでまとめているのが印象的である。
 だが、思考法はともかく性格的には陽性の男であるらしく、いつもにこにこと笑っていて、言葉遣いも軽快だった。その奥にあるものが表面と同一であるとは限らぬが。

 利害が一致した、というわけではない。この二家は仲が悪いことでも有名で、それはファレナの政治にも悪い意味で影響を及ぼしている。
 ファレナ女王家はその名のとおり代々、女性が当主を勤めるのが慣わしであり、その夫が女王騎士長としてその政治を補佐するのが常だった。この女王の夫を決めるのに、またファレナ独特の風習があるが、それは別の機会に語られるだろう。
 とにかく、権力の中心と女王騎士長の座をめぐってゴドウィンとバロウズは絶え間ない争いを繰り返してきたし、それに流血が伴ったことも少なくなかった。
 この日も、二人はほぼ同時にオベル港に入港し、ほぼ同時にミドルポート兵を引き連れた――誰が見ても「監視」であったが――セツに面会したものの、両者とも一言も言葉を交わすことはなく、割り当てられた宿へさっさと引揚げてしまった。

「やれやれ、どこの国でも対立というものはあるらしいな」

 自ら群島の対立を煽ったラインバッハ二世にこの言葉を発する資格があるのかどうかはともかく、彼はかつてガイエン公国において、経済官僚たちの醜い金をめぐる醜い対立を目の当たりにしているから、このあたりの「当人」たちを理解はしても尊敬するつもりにはならなかった。
 ともかく、最大限、体裁は整えた。あとは明日の戴冠式を待つのみである。


「ラーヴァナ」
 10の頭と20の腕を持つ魔王で、ブラフマーの曾孫とも孫とも言われる。
 父ヴァイシュラヴァナに対抗する力を望み、一本の足で千年間立ち続け断食するという荒行を成し遂げ、さらに千年が過ぎたとき、ラーヴァナは自分の頭を切り取って火にくべた。
 これがブラフマーに認められ、神々や阿修羅などに殺されない無敵の身体を得たラーヴァナは、数々の悪行を働き、インドラですら一時期は彼の捕虜となっていたほどである。
 これに耐えかねたヴィシュヌは、地上の王子ラーマとして降臨し、ランカー島で決戦に及んでこれを打ち破った。
 神々に対して無敵を誇ったラーヴァナは、人間の存在を忘れていたのであった。
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(初:16.05.30)
(改:16.06.06)