クォ・ヴァディス 92

15-3

 六月二十七日、ラズリルでは、海上騎士団長カタリナの名で大動員令が発布された。
 当然、この時期、ラズリル、オベル海軍、クールーク勢、そしてキャンメルリング公爵ギネが置いていった三隻のガイエン船は、いつでも戦場に出られるように準備は万端に整っている。
 後はカタリナの命令を待つのみとなっていた。
 カタリナは、この戦闘の指揮権をリノ・エン・クルデスに委ねることを早くから表明していた。
 先の敗戦があるとはいえ、それにはるかに勝る勝利の経歴を買われたのである。
 カタリナは優れた指導者であり魔術師であったが、軍人として前線で指揮を取った経験は殆どない。
 この人選は、誰をも納得させるものであった。

 そんな時、マクスウェルから使者が届いた。マクスウェルの陣営にはビッキーがいるから、ある程度の範囲には瞬時に使者を送ることができる。
 これは、「流れの紋章」と並んで、オベリア・インティファーダの最大の武器であった。

 ともかく、キカの下から帰ってきたばかりのミズキが、マクスウェルの手紙を持ってやってきた。
 自身も疲れているだろうが、マクスウェルがミズキを指名したのは、その任務に徹底的に忠実なところと、無口な点を信用しているためだ。
 マクスウェルはこの女忍びをよほど信頼していたらしく、側に彼女がいた場合、重要な使者役には必ずミズキを選んだ。

 マクスウェルの手紙は、以下のような内容だった。
「我に秘策あり。別行動を許されたし」

(これは困る)

 と、リノ・エン・クルデスは思う。
 リノの考えていた戦術では、ラインバッハ勢力をオベル王国の北まで誘い出し、北からオベリア・インティファーダ、西から連合海軍の勢力で挟撃して全滅に追い込むことだった。
 ここでオベリア・インティファーダに独自の行動をとられると、連合海軍を分割して挟撃作戦を行わなければならなくなる。そうなると、数の上で劣勢になるかもしれぬ。

(いや、考え方を変えてみることもできるな)

 リノ・エン・クルデスの思考は速い。多数の命を預かる身として、無駄にできる時間は殆どないのだ。

(例えば、オベリア・インティファーダを遊軍として自由に行動させ、こちらは軍を三日月状に展開して相手を包み込むように攻撃すれば、包囲殲滅戦が成立する。
 問題はマクスウェルの言う「秘策」がどのようなものかだが……。
 この手紙で明言していないということは、恐らくこちらから聞いても答えはすまい……)

 以上のことをリノ・エン・クルデスはカタリナとオルネラに相談してみた。
 カタリナはマクスウェルを信頼しているため、この案に全面的に賛成したが、微妙な顔をしたのはオルネラだ。
 オルネラはマクスウェルと殆ど面識がないため、どうしても疑問を出さざるを得ない。

「そのマクスウェル殿は、リノ陛下の思惑通り、遊軍として働いてくれるかな?
 遊軍としても、動き方は様々だ。例えば、戦場を離脱して直接オベルに向かうことも考えられる。
 一緒に戦ってくれるとは限らぬぞ」

「それならばそれでもよし。オベリア・インティファーダの存在は、まだ周囲に殆ど知られていない。
 彼らが遊軍としてオベルに直接向かうというのならば、正体不明の敵に相手方が驚いて隙ができるかも知れぬ。
 マクスウェルは、自分の目的は人質を救出することで、オベルの国土には拘らないと明言している。
 こちらとしても、彼らが人質を救出することができれば、それを気にすることなく敵艦隊を撃滅し、改めてオベル島に攻撃をかけることができる。
 こちらは訓練を十分につんだ。オルネラ殿もよく頑張ってくれている。必ず敵艦隊を討ち果たすことができるだろう」

「マクスウェル殿は、リノ陛下からよほど信頼されているのだな」

 オルネラが感心したように言うと、リノ・エン・クルデスが何かを思い出したように表情を曲げた。彼が自分のもとに謝罪に来ないことを思い出してしまったのである。

(公私混同はしない、使えるものはマクスウェルでも「罰の紋章」でも何でも使う。それが、軍事の正道だ)

 リノ・エン・クルデスは押し黙ったまま、マクスウェルへの返信をミズキに手渡した。
 その文面は、「許可する」という、簡潔きわまるものだった。
 ミズキが去ろうとする直前、ターニャが珍しくミズキを呼び止めて、二三、何かを耳打ちしていたのに、リノ・エン・クルデスは気づかなかった。


「許可する」というたった一言の返信を見たとき、マクスウェルは苦笑した。
 リノ・エン・クルデスは全てを見抜いて、マクスウェルを利用しようとしている。
 恐らく、自分たちが起こそうとしている行動も、ある程度は読んでいるのあろう。
 ミズキは、手紙をマクスウェルに渡すと、二三、彼に報告した。

「相手方のターニャ軍師の言うところでは、リノ陛下は当初、オベリア・インティファーダと連合海軍との挟撃作戦を意図していたようです。
 ただ、オベリア・インティファーダを遊軍とすることで、単独による包囲撃滅戦も選択肢の一つに入れるかも知れぬと」

 マクスウェルは顎に手を当てて少し考えた。そして、脇にいるアグネスに声をかける。

「アグネス、連合海軍が単独で包囲撃滅戦を仕掛けたとして、勝率はどのくらいだと思う?」

「低くはないと思いますよ。
 リノ陛下は、先のオベル沖海戦で敗れたとはいえ、敵艦隊をオベルから引きずり出すという当初の作戦は成功させていますから。
 あの時は巨大生物によるイレギュラーがありましたが、それさえなければ勝算はかなり高いかと」

「巨大生物、か……」

 これが、マクスウェルにももっとも気になるところだった。前回のオベル沖海戦では、たった一匹のモンスターによって、連合海軍は壊滅寸前に追いやられた。
 自分が罰の紋章に支配されることがなければ、そのまま壊滅させられていたかもしれないのだ。

「まったく、厄介な趣味だよ。飼うならせめて猫とか犬とかにしとけばいいものを……」

「マクスウェルさんは、ペットを飼ったことはないんですか?」

「ないよ、躾ける自信がないもの。それに、いまは俺自身が罰の紋章に飼われている。その事実一つで精一杯さ」

「私は子供の頃、猫を飼ってました。ペットもいいものですよ。心の和みになります」

「そうだね、この戦争が無事に終わったら考えるよ。
 しかし、もしも前回のように巨大生物が現われた場合、リノ陛下はどうするつもりなんだろう。
 俺はもう罰の紋章を使うなんて嫌だぞ」

 大きくため息をついて、マクスウェルは左手の罰の紋章を眺める。
 あのときの騒動を考えれば、同じ事が起こった場合、自分と罰の紋章の融合は、間違いなく加速する。
 ただでさえ、毎夜のように罰の紋章の「幻影」に悩まされている身としては、せめてあと一年は「マクスウェル」でいたかった。罰の紋章そのものになるの嫌だった。

「それはあちらで考えてもらいましょう。
 こちらは小人数ですから、そのままオベルまで「流れの紋章」で直進すれば、巨大生物に襲われる可能性も低くなります」

「【デイジーちゃん】のときのように、人間の手で討伐できるようなモンスターだったらいいけどな……」

 軍首脳二人の会話を、ミズキは静かに聞いている。
 マクスウェルはがたりと立ち上がった。

「あら、どちらへ?」

「ちょっと、イザクさんと剣を合わせてくるよ。たまにはミツバ以外のパワーファイターとも手を合わせておかないとね」

「あまり疲れを残さないようにしてくださいね」

 アグネスの気遣いに、マクスウェルは手を振って答えた。

15-4

 実のところ、オベル遺跡におけるラインバッハ二世の発掘活動は、順調を極めていた。
 マキシンがネクロマンサーと化したトラヴィスを退けたことで、遺跡内のモンスターの活動が激減したのである。
 さらに、マニュの開発した「横に動くえれべーたー」のおかげで土砂や人員の運搬の効率が驚くほど上がり、発掘のスピードは右肩上がりで順調だった。現在は、地下七階の三分の一程度まで掘り進めている。
 目指す地下八階まで、もうすぐであった。

 だが、ラインバッハ二世も、発掘活動にのみ従事しているわけには行かなかった。
 彼が真の目的とするもののために、リタを含めた四人の【姫】を手に入れる必要があったが、そのうち、リタ、リキエ、ジュエルの三人はすでに彼の手の内にある。
 残るはあと一人、しかも、もし運が良ければ、次の海戦で手に入るかも知れぬ【姫】であった。
 そして、彼がもう一つ欲するもの、それが「八房の紋章」の眷族紋章である。
 現在、彼自身が所有して居るものは四つ。一つは未だにケイトが持ち、一つはマキシンが自らに宿してしまっているため、正確に手元にあるものは二つであるが、残りの三つを集めることさえかなえば、彼は目的の全てを達成することができるのだ。
 このために、ラインバッハ二世は、ケイトとハルモニアの男にコンビを組ませてガイエンに潜入させている。彼等の実力なら、奪い取ることも難しくは在るまい。
 問題は、行方不明のものが二つあることだった。
 一つ、「五鬼の紋章」は、マキシンがミツバとジーンに奪われて以降、行方が知れない。
 おそらく、マクスウェル一行の誰かが持っているのであろうが、それを見極めるのは困難を極めるだろう。
 さらに「三鬼の紋章」は完全に行方不明である。色々と確かめてみたが、肝心な情報は何一つ入ってこない。こればかりは気長に調査を続けるしかない。
 ラインバッハ二世とて、無駄にかける時間は一秒もないのだった。

 六月二十七日、珍しくラインバッハ二世とグレアム・クレイがともに王宮の廊下を歩いている。
 戴冠式の計画と発掘の進捗状況、そして軍備の編成について殺伐ながらも報告しあうためだ。
 この二人はいくら接する機会は少ないとはいえ、報告のし合いを全くしていないわけではない。
 お互いの部下を派遣して、自分の作業の進み具合を知らせることぐらいはしている。
 ラインバッハ二世は、ふと廊下から王宮の正面玄関の前を見下ろした。
 ラインバッハ二世が占領する前からオベル王家は解放的な一族であり、市民はわりと王宮に近づくことができた。
 王宮の前には白亜の石で建造された二つの人工池に挟まれた長い石道があり、そこから王宮を見上げるのが、一種の観光スポットになっていたのである。
 さすがに王宮の中に入るのには厳重なチェックと許可が必要だったが、それさえ得てしまえば老婆が個人的に魚を献上しに来ることもできた。
 ラインバッハ二世は、オベル占領後も、これまでの風習をとくに変更しようとはしなかった。
 王宮は厳重な警備が敷かれ、中に入れる機会さえ減ったが、観光客や市民は、これまでどおり王宮を外から見学することは許された。

 オベル王宮は、その構造的に「城」というよりも「館」に近い。
 ラインバッハ二世の価値観に沿えば「田舎の象徴」だが、それでもその巨大さと優雅さは、群島諸国連合の盟主だったころの威厳を十分に感じることができた。
 それも過去のものになってしまったが……。

 ラインバッハ二世は、二階の廊下から民衆を見下ろしながらクレイに語りかける。

「見よ、クレイ殿。今日もオベル市民はこの宮殿を見学に来ている。
 きっとリノ・エン・クルデスが支配していたときも同じ光景を見ていたのだろうな」

 クレイが感情のこもらぬ声で返す。

「市民にとっては、自らに害にならぬ以上、誰が支配者でも結局は同じ、というわけですな。
 支配者が変わっても、国民全員が一緒にどこかにいくわけではない」

「そうだ。国民にとって、支配者とは川の砂と同じなのだ。
 激流に流されるのは上層の一部のみ。底にある動かぬ岩こそ国民だ。
 川が完全に干上がってしまわぬ限り、彼らは誰が支配者でも必ず万歳を唱える。
 自分たちが被害にあわぬ限り、結局は誰が支配者でも構わぬのだ。
 彼らが明日、我らとは別の誰かに万歳を唱えたとしても、なんの不思議もない」

 ふん、とラインバッハ二世は大きな腹を揺らした。
 中背で小太りの彼と、長身で精悍なグレアム・クレイのコンビは、視覚的にはいささかバランスを欠いているものの、政略的にはいまのところ、破綻を見せていない。
 リノ・エン・クルデスが敗れた第二次オベル沖海戦ではクレイの出番はなかったが、次回の戦闘では、彼の策謀が「新オベル王国海軍」を率いることになる。
 それが勝利に繋がるか敗北に繋がるのかは、今はまだ不明である。

「もっとも」

 皮肉をたっぷりとこめてラインバッハ二世は言った。

「この数日のうちに、この国の支配者は本当に変わるのだがね」

 それがセツの戴冠式を意味していることをグレアム・クレイは悟った。
 セツがこの措置を自ら歓迎することがないことは、二人とも十分にわかっている。
 セツはリノ・エン・クルデスにとっては幼少時からの重臣だったかもしれないが、二人にとっては人形としての価値しかない。
 しかし、価値があるからには値段分は働いてもらわねばならぬ。
 経済の専門家であるラインバッハ二世も、闇商人としてのグレアム・クレイも、その価値を十分に認識していた。

 そして、七月が来る。

COMMENT

(初:16.05.30)
(改:16.06.01)
(改:16.06.06)