クォ・ヴァディス 88

14-5

 オベリア・インティファーダの本拠地は、内に愛らしい猫型の住居を乱立させながらも、外には何の防御もこなしていないわけではない。小規模ながら、豊かな自然に隠れるように防塁が築かれ、しかもそれは日を追うごとに本格的なもののになっていた。
 要塞島、と呼ぶにはまだ心もとないが、襲撃への備えは十分に準備してあったのである。

 船上でそれを見ながら、クロデキルドは感嘆とも呆れとも取れるため息を吐き出した。
 今夜か明日までには、彼女はリノ・エン・クルデスにマクスウェルの親書を届けなければならないと言う重要な任務を言付かっている。

「まるで突貫工事の要塞だな。戦はあまりに急ぐと、墓穴を掘るぞ。長引かれせばよいと言うものではないが」

「防御あっての攻撃ですよ。我々は、第二次オベル沖海戦でも、オベル島守護作戦でも、ことごとく遅れをとった。
 それは、視野狭窄による防御の疎かさを身をもって体験したためです」

 トリスタンが脇に立ち、徐々に離れていく島を見守っている。二度と本拠地を失陥などしてなるものか―――。その恩讐が、トリスタンの現在の行動原理だった。まずはリノ・エン・クルデスに島の惨状を伝え、ことの現状を伝え、そしてオベリア・インティファーダでオベルの仇を討つ。
 恐らく、リノ・エン・クルデスからは引き止められるだろう。だが、トリスタンは、今さらリノ・エン・クルデスの隣で戦う勇気はなかった。彼はただ復讐をなしたげたいのだった。彼の手の内で死んでいった戦友の仇を討ちたかったのだ。そしてそれに、リノ・エン・クルデスをまきこんではいけなかった。

「二人とも、ショック対応姿勢をとれ。ここから一気にラズリルまで向かう。休む暇はないぞ」

 端整な口ひげに眠たげな目を珍しく吊り上げて、イザクが艦橋から顔を出した。
 そうだ、かれらには役目がある。重要な役目が。
 二人が腰を下ろし、安定した姿勢をとるのとほぼ同時に、流れの紋章を有する船の速度はどんどん上がっていく。これだけの速度が出れば、もしも敵の索敵艇に見つかったとしても逃げ切ることは用意だろう。
 ただ、この航海はもう一つの目的がある。陸上での戦闘経験しかないクロデキルドに、海上での戦闘を経験してもらわねばらないのだ。この陸上の豪傑も、水上では赤子も同然である。イザクは両方の目的に、やや不安感を覚えていた。

 ただ、そのイザクの心配は杞憂に終わった。確かに何度か、航海中にモンスターに襲われたが、大した得物ではなかった。自分とトリスタンだけでも十分にしとめられただろう。
 クロデキルドは、最初こそ波に揺られる不安定さに四苦八苦したものの、そこは戦いの機微と言うものを知っている。まずは呼吸を整え、腰を落ち着け、自らは不用意に飛び込まず、体のバランスをとりながら剣で魚人どもを一刀両断していく。落ち着いてしまえば、戦場でも陸上でも、さしてかわらぬようであった。

「いや、大したものだ。船上での戦闘は、最初は右往左往するものだが、よく落ちついている」

 イザクが言うと、こともなげにクロデキルドが応えた。

「陸上でも足を取られる不安定な戦いもある。確かにフィールドが違うが、バランスさえ崩さなければどうと言う事はない。我々は、その技術を体得しているのでな」

 イザクが満面の笑みを浮かべながら、別の思惑を描いていた。「その技術を体得している」とも思えないオルネラらのリノ・エン・クルデスに味方するクールークの連中は、果たして海戦で役に立つのか。
 マクスウェルがラズリルとの同盟関係を機軸に考えている以上、その周囲の人間は、心配をする以上はできなかった。

 二日後の晩、三人と船員を乗せた小型船は、ラズリルの港を視野に入れた。
 ラズリル。街一面が白亜の外壁に覆われ、優雅さと言う面においてはこれほどの街はガイエン地方にはない。
 ネイ島の人間側の住居は簡素な木製であり、ネコボルト側の住居は真ん丸い猫型の建物で、優雅と言うよりはユーモラスだった。ナ・ナル島の住居は無骨一辺倒である。エルフの神木は「住居」とよべるかどうかすら怪しい。
 巨大な港を持つラズリル海上騎士団の本部は、これも重厚で巨大な建物であって、現在は警察機能と行政機能を同時に管轄している。最高責任者はカタリナであり、彼女の手のあいていないときにはケネスがその役割を負うと聞いている。

「荘厳な建物だな。だが内情は無骨な城といったところか」

 恐らく感嘆の意味を込めたのだろう、クロデキルドがつぶやいた。クロデキルドもイザクもトリスタンも、海上を猛スピードで走ってきただけあってか、ラズリル到着直後には服装の乱れ具合が酷かった。これからカタリナ、リノ・エン・クルデスと会談するのだからそのまま会うわけにも行かず、人目を避けてこそこそと物陰で服装を整えたのだった。
 トリスタンが門衛に二言三言説明をすると、門衛は慌てて場内へと走っていった。
 あたりは漆黒の月夜である。

「暗黒の闇の中に、暗黒の情報を持ってきたものがいる。先方には重要で、さぞ迷惑だろうな」

 イザクが口元に笑みを浮かべて、つぶやいた。クロデキルドが「詩人だな」とからかうと、イザクは苦笑して右手を振った。そうして居るうちに、先ほどの門衛が帰ってきて、告げた。

「カタリナ、及びリノ・エン・クルデスがお会いになります。こちらへどうぞ」

 使者の声が、緊張に彩られている。恐らく、リノ・エン・クルデスがトリスタンの名を聞いて驚愕し、それがそのまま移ったに違いない。
 城の巨大な門が開き、三人は入ってすぐ右側にある巨大な扉に通された。トリスタンは知っている。この城の謁見場がある場所だ。四十段ほどの、かけらの一つもない石の階段を上り、門衛は扉の前でかしこまった。

「オベリア・インティファーダのご使者をお連れいたしました」

 扉が開いたのとほぼ同時に、がたっと椅子の倒れる音がした。白い髪を遠慮がちに逆立てた長身の男が、トリスタンを見て、目を見開いていたのだ。リノ・エン・クルデスであった。

「トリスタン、無事だったのだな」

 トリスタンも膝を追って頭を下げた。

「はい。オベル島を敵に奪われ、私一人がおめおめと生きております。
 申し訳しだいもございません」

 かまわん、とリノ・エン・クルデスはトリスタンの肩を抱き、そして叩いた。
 今や、オベル王家を守る家臣はミレイ一人と言う惨状である。無論、何人か新たにスカウトしたり無名の部下の中から引揚げたりしたが、リノ・エン・クルデスにしてみればまだまだ心もとない。
 ここにトリスタンが加わってくれれば、百人力であったが、トリスタンがオベリア・インティファーダの使者として自分の下にやってきたことが、彼を不安にさせた。彼もまた、マクスウェルの元で戦うと言い出すのではないかと予想したのだ。
 だが、いやな予想をとりあえずトリスタンの報告を聞くことにした。
 なすがままにされながらも、トリスタンは重要事項をリノ・エン・クルデスに告げる。

「ラインバッハ二世の元、オベル島は一応の安定を見ております。
 彼はセツ様を人質にし、オベル遺跡を掘り返している模様です。
 そして、セツ様を新オベル国王に担ぎ上げ、傀儡政権を作る気でおるようです。
 グレアム・クレイについては、その動向がよくわかりませぬ。どこか忙しく動いている模様です」

 マクスウェルからの手紙を読みながら、難しい顔でリノ・エン・クルデスはその報告を聞いた。
 セツ新国王。この響きは、オベル関係者の取ってはこれ異常ないほどの不快な響となって鼓膜を叩いた。
 確かに以前から、ラインバッハ二世は、

「セツの要望に応じてやむなく挙兵した」

 と、繰り返し宣伝していた。無論、そこに一部の事実もないであろう。だからこそ、リノ・エン・クルデスは臓腑をえぐるような怒りを覚えるのだ。セツは、彼が幼少の頃からの重臣だからである。
 だが、もし、この宣告が事実であったら? セツが自分を見限り、本当にリノ・エン・クルデスを裏切ってオベルを我が物にしたいのだと考えたとしたら。
 そのときは、ラインバッハ二世、クレイごと、セツまで粉砕せねばならぬ。果たして、それがリノにできるであろうか。父であるアイン・ヘリ・エル俗物王は、たった一人の王子に権力を渡すために、他の王子とその重臣たちを皆殺しにした。その真似事が、彼自身にできるのだろうか。
 リノ・エン・クルデスは国を失ったとはいえ国王である。これまで、非情の決断をしたことがないわけではない。そこに新たな雫が一滴加わることになってしまっても、セツという雫はその重みが違う。
 果たして、それを搾り出す「勇気」、あるいは「覇気」が、彼にはあるのか。

「肝心なことを伝え忘れているぞ、トリスタン」

 彼の脇から、リノ・エン・クルデスの見知らぬ黒衣の女戦士が前に出た。名をクロデキルドと名乗った。
 ここの主役は自分ではないと思っているようで、「オベリア・インティファーダの一員である」と自己紹介も簡潔を極めた。

「おお、そうでした」

 トリスタンは懐から手紙を取り出すと、リノ・エン・クルデスに手渡した。無論、マクスウェルからの手紙であった。それを告げられるとリノはやや表情を重くしたが、言葉には出さずに、手紙に目を通した。
 そして、驚倒としかいえぬ表情で立ち上がった。

 ラインバッハ二世は近く、セツをオベル新国王にするための戴冠式を行う。私はその席に招待されている。
 恐らく、近くそちらにもラインバッハ二世の使者が行くであろう。
 その日時は七月一日である。もしも参列すれば、セツやオベルを奪還する最大のチャンスとなるが、奪還に失敗すれば、セツの新政権を認めることになり、むざむざ敵前に膝を折ることになる。
 私の権限では判断できぬので、リノ陛下の裁可を仰ぎたい、というものであった。

 くしゃりとその手紙を丸めてしまい、ターニャに投げ渡すと、リノは左掌に右拳を叩きつけ、「狡猾な……」と一言つぶやいた。
 確かに、ラインバッハ二世とクレイがその正統を証明するにはこれしかない。どのような目的があろうと、そこへ足を運べばセツ新政権を認める形となり、出向かなければ新政権にとって弓を引く政敵となるわけだ。
 この場合セツの意思などどうでもよい。要は、ラインバッハ二世とクレイにとって都合がよければそれでよいのである。

「ターニャ、マクスウェルはセツの戴冠式に招待されているといっている。
 その使者がこちらに来る可能性はあるか?」

「確実に来るでしょうね。ただ招待の使者でないことは確実です。
 新政権を確立する以上、旧政権を討つのは大義名分の柱とも言うべきもの。
 これ以上の「言い訳」はないでしょう。恐らく、開戦をにおわせる使者となると思います」

 長い金髪を揺らして、ターニャは目もとにけんをよせた。

「更に厄介なことがあります」

「それは?」

「この戦争が、新オベル王家と旧オベル王家との「内輪もめ」となったことで、キカ一家を仲間にしにくくなってしまった、ということです。
 彼女らが自らをそんなことに利用されることを嫌うのを、誰よりも陛下がご存知でしょうけれど」

「まったくな」

 苦虫を数万匹単位で噛み潰してから、リノはカタリナとオルネラとを順に見た。

「この件に関して、早急に打ち合わせを行いたい。会議を開きたいのだが」

「かまいませんわ、一大事です」

 カタリナが右手を振り上げ、宣言する。その間、オベリア・インティファーダの使者には休憩が与えられることになった。
 トリスタンが去る直前、リノ・エン・クルデスは彼の肩を叩いて言った。

「どうだ、再び俺の元で戦わぬか。俺としてもお前の指揮力、統率力は惜しい」

 だが、トリスタンは再びリノ・エン・クルデスの前に膝をついた。

「多くの兵と防御の大任をまかされながらこの失態、死に値する罪なれど、私にはやらなければならぬことができました。
 陛下におきましては、罰を覚悟でお願いがございます」

「………。オベリア・インティファーダで戦いたい、というのだな」

「はい。オベリア・インティファーダならば少数派ゆえ、最前線に斬ってでる機会も増えましょう。
 今の私の望みは、ユウ先生と愚かな私のミスで犠牲となった部下のために死ぬことのみです」

「…………………」

 リノ・エン・クルデスは、巨大な胸郭全体を使ってため息をついた。戦争に生死はつき物だ。だが、人の死を「運」で片付けていいはずはない。指揮官は、その責任を総てとらねばならない。
 そして、トリスタンは死ぬ道を選んだ。それだけのことだ。だが、リノ・エン・クルデスはトリスタンの肩を叩いて言った。

「死して死骸をさらすだけが責任の取り方ではない。生きて恥をさらし続けるという手段もある。
 早まるな。熟考せよ」

 そう言って、トリスタン、クロデキルド、イザクの三人を下らせた。

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(初:16.05.10)