クォ・ヴァディス 87

14-3

「残念だが、私の力では無理だな」

 と、幼ビッキーはすまないとも思っていないようなすました表情で言った。
 ことの最初はタルの、

「ビッキーがだめなら、もう一人のビッキーに頼めばいいんじゃないか」

 という単純な言葉だった。マクスウェルはその言葉に希望を見出したのか、少し溜飲を下げたが、幼ビッキーの回答は残念ながら「ノー」であった。

「なんでだめなんだ? あんたも「ビッキー」なんだろ?」

「うむ、そのとおりだが、私の力はビッキーの力とは少し違うのだ」

「と、言うと?」

「ビッキーの「鏡」は、「ある一定の条件を満たした上で、同一世界における経験則・・・に基づいてあらゆる場所に移動する」というものだ。
 対して私の「鏡」は、「百万世界のいずこにいても、強制的に私のもとに還らせる・・・・・・・・・・・・・」というもので……」

「うん、わかった。難しい話は全くわからんが、とにかく不可能だってことはわかった」

 タルは幼ビッキーの小難しい会話を早々に打ち切った。このままだといつものように、こちらの頭から煙でも出そうな勢いで幼ビッキーは喋り続けるからである。
 そして、この話を聞いて複雑な顔をしたのはクロデキルドだった。

(どうして、そのようなものが私に働いたのだ? なにか意味があるのか?)

 マクスウェルは、クロデキルドを常に好意的に見ているが、その原因の一つが分かった気がした。
「声」だ。彼女の「声質」が、彼の大事な友人の一人とよく似ているのだ。

(キリルとは長い間一緒に戦ったが、今は元気にしているだろうか。
 シメオン導師によれば、行方不明だそうだが……。心配だ)

 そう考えて、もう一つ思考が進む。キリルと常に行動をともにしていた異形の女性、ヨーンの存在だ。
 ヨーンは「罰の紋章」が見せる「悪夢」の中に何度か登場した。いずれの場合も、何も語らずに、悲しげにこちらを見ているだけだが……。

(つまり、「罰の紋章」には、まだ俺ですら知らない秘密があるわけだ。
 まいったな……考えれば考えるだけ問題が増える気がする)

 マクスウェルは、思考の迷宮に立ち入りそうになったので、とりあえず別のことを口にした。

「とすると、ラズリルには船で行くしかない。
 幸い、こちらには「流れの紋章」があるが、だとしてもラズリルまでは二日。
 セツ様の戴冠式の日程を考えたら、密な対策はギリギリになるな……」

 こういうときに、ビッキーのような特殊能力者の存在がいかにありがたいかを痛感する。誰もその代わりを務めることができないからである。
 ジーンもシメオンも強力な紋章術士であったが、ビッキーの真似事は不可能だった。

「問題は誰を行かせるか、ということもあるだろう」

 と、ヘルムートが意見を言ったが、即座にマクスウェルが反論する。

「俺が行くと言っただろう、そこは譲れない」

「さきほどまでの卿の狂乱ぶりを見せられて、「行け」と送り出せというのか?
 その有様でラズリルをパレードでもされたら、それこそリノ・エン・クルデス陛下との和睦も画餅に帰すのだぞ。
 手紙の往復だけではなく、政治的な駆け引きの才も必要だろう。ことは冷静さを要求されるだけでない。
 また、不幸な事故が起こらんとも限らん。ビッキーと同様、誰も卿の代わりはできないのだ」

 冷静さを取り戻したせいか、ヘルムートの言葉も少しきつい。
 今のマクスウェルには、少しきついくらいがちょうどいいと思っているようだ。

「俺はこう見えても船乗りの一人だぞ。毎回事故の危険性を憂いていて船乗りがつとまるか」

「任務の重要性が違うといっている」

 なぜわからないのか、とヘルムートはさじを投げたような顔をした。

「マクスウェルが行くのは私も反対です。いま、マクスウェルはここを長期間、離れるべきではありません」

 と、ポーラとアグネスまでがそろって反対したので、マクスウェルも強硬的には言えなくなってしまった。
 いくら自分の虚名に寄りかかった組織とはいえ、幹部全員に反対されれば無視もできない。それくらいはマクスウェルにもわかる。

「なら、誰を行かせる? ヘルムートさん自身が言ったとおり、重要で難しい役だ」

 少しふて腐れたような声でマクスウェルが問うた。このあたり、まだ大人になりきれていない少年の部分も残している微妙な年齢のせいもあるかもしれない。
 それに応えたのは、シメオンだった。彼はここまで沈黙を貫いてきたが、ここにきてそれを破った。

「ただ一人、適応者がおる。彼にしか勤まるまいが、彼には辛い仕事になるやもな」

「導師、それは?」

「トリスタンだ。リノ陛下とやらにオベルの現状を報告させるなら、彼が適役であろう。
 なにせ最近までそのオベルにおったのだからな。無論、彼の疲労も考えねばなるまいが」

 導師の言葉は的確に思えた。確かに、彼以上にオベルの現状に詳しい者は、オベリア・インティファーダには存在しない。
 だが、それは確かに辛い仕事のようにも思えた。自分の部隊は全滅しました、と、国王に自ら報告しなければならないのだ。軍人としては、もっとも苛烈で、もっともプライドを傷つけられる役割であった。
 だが、トリスタンはこの役割をあえて受けた。

「私は陛下の臣民と軍とを殺められた敗残者です。その結末を陛下に報告し、責任を負わされるのは当然のことです。
 私はいつでもいけます。むしろ、よくぞ私を選んでくださった。心配は無用です」

 と、かれは痩せぎすの顎を撫でて言った。だが周囲の知る限り、彼は肺を患っているはずであり、その体調が心配された。いつもトリスタンの薬を調合していたのはユウ医師であり、彼はすでにこの世の人ではない。
 そのユウの助手だったキャリーが、おずおずと手を上げた。

「トリスタンさんの「お薬」なら、私が処方箋を知っています。すぐにでも「用意」はできますが……」

「それはありがたい。何が起こるかわからないから、少し多めに用意をお願いしたいのですが」

「はぁ、まあそう言われるなら……」

 少し咳き込むトリスタンと、マクスウェルを順に見ながら、キャリーは困った顔をしている。
 キャリーとマクスウェルだけは知っていた。トリスタンは実は健康体そのものであり、防御の剣術でも体力でも、実は海軍でも上位に入る。彼は自分が「病気だと思い込んでいる」だけであった。
 ユウ医師は生前、何度かそれを本人に言い聞かせたのだが、なにせ本人が激しく咳き込んで信じないものだから、それようの「お薬」を調合することにしたのである。つまりは「小麦粉」という、「トリスタン専用の特効薬」を。
 トリスタンはこの「お薬」が大変よく効くと、嬉しそうにしていたものだから、キャリーもマクスウェルも、その「お薬」はどこの台所でも普通にいくらでも手に入るのだ、という事実を言えないままだった。
 なお、キャリーの遺した日記からこの記述を発見した歴史家の名をとって、後にこのトリスタンのような症状のことを「プラシーボ効果」と呼ぶようになるのは、まだまだ後日の話である。

 とにかく使者は決まった。マクスウェルは、トリスタンがラズリルに到着後、リノ・エン・クルデスの元で戦うと言い出さないか心配した。この復讐者の防御技の腕前は、マクスウェルには必要なものだった。
 だが、キャリーがこちらの陣営にいる限り、彼の「お薬」は手に入らないわけだから、必ず彼は帰ってくるだろう。とりあえず、そうマクスウェルは信じることにした。
 あとは、護衛がいる。マクスウェルはここで思い切った選択をした。クロデキルドをその役に選んだのだ。
 クロデキルドは剣の腕は確かだが、船上での戦闘はほぼ未体験だという。無論、艦隊の訓練で体験はして居るが、モンスターや敵兵との実戦となれば、また勝手が違う。ここで、一度でも船上での実戦を経験してもらえれば、後々、たいへんな戦力になるのは間違いない。
 幸い、無人島←→ラズリル航路には、強力なモンスターは出ない。あと一人護衛をつければ大丈夫だろう。そしてその役を、もっとも信頼できる年長者であるイザクに依頼した。
 この三人ならば、往路に二日、帰路は幼ビッキーの「鏡」で一瞬で帰ってこれるから心配はない。トリスタンとイザクなら、政治的な選択を迫られても、道を誤ることもないだろう。
 クロデキルドのその方面の実力は未知数であった。聞けば「冥夜の騎士団」という一団を率いているというのだから、実はリーダーシップを期待してもいいのかもしれないが、とりあえずその目で見た事がないから、必要以上の期待をかけるのは止めにした。彼女には、海上の戦闘に慣れることに専念してもらうことにした。

「よろしい、期待して待っていてもらおうか、リーダー殿。
 ……思えば、自分以外の者をリーダーと仰ぐのも妙な気分だ。これも貴重な体験だな」

 ははは、と、実に気持ちよくクロデキルドは笑った。まるで快晴の海のような笑顔だった。
 おそらく、セツの戴冠式の知らせがラズリルに届くのと、マクスウェルの使者がラズリルに着くのはほぼ同時となるだろう。
 どこまで密な連携が取れるかは未知数だ。単にラインバッハ二世とグレアム・クレイを非難する声明を発表するに留まるのか、それともこれを名目に一気にオベルに軍を進めるか。
 時間がないのは確かだった。

「皆、聞け!」

 マクスウェルが、周囲に集まってきていた部下たちに向かって叫ぶ。

「我らは何も、ラインバッハ二世とグレアム・クレイを同時に敵にまわす必要はない。
 なんとか彼らを分断し、我らはグレアム・クレイのみを標的とする。
 ラインバッハ二世はラズリル・オベル連合海軍に任せ、旧クールーク内の諍いは彼らで責任を取ってもらう。
 これを忘れるな!」

 加えることができれば、マクスウェルは「グレアム・クレイは俺が殺す」と言いたかったが、ヘルムートに「狂乱振り」と言われて多少落ち着いていた。
 ヘルムートが受継いで叫んだ。彼が大声を張り上げるのは珍しいことだった。

「我ら小数なれど、意気顕揚! 戦力的にも備蓄も、なんの問題もない!
 自分の行動には、必ず明快な目的を与えろ。そうすれば、自分の行動が、他人には神業にうつる。
 そして、我らにはその力がある!」

 そしてシメオンが叫ぶ。

「魔術師たちよ、今こそ、己の研究命題の究極に至るときである。
 真の紋章の探求こそ我らの真価にして深化させ、進化にいたる要因である。
 マクスウェルを守り、ミツバを守り、真の紋章の何たるかを己に、世界の歴史に知らしめよ!」

 続いて叫んだのはクロデキルドだった。

「戦士たち、そして騎士たちよ! 私たち個人の力は小さなものだ。
 だが、小は集まって大に至り、やがて至強を打ち倒す剣となる!
 戦いの流れとは、想いの流れだ! 自らの心のうちに、強く強く武器を握れ。それが私たちの最強の武器なのだから!」

 最後に叫んだのはタルだった。彼は、少し照れくさそうだった。

「あー、結局なんだかんだで、海戦の主役は俺たち船乗りたちなわけでよ。
 海ぃ荒らすヤツがいるってんなら、相手になってぶっ飛ばすだけだ。
 つまり何が言いたいかというと、だ。自分の船を沈めるなよ、てめぇら!」

 一瞬の沈黙のあと、おお、という嘶きのような声の群れが還ってきた。
 戦士たちが、魔術師たちが、軍師たちが、そして船乗りたちが猛っている。声の波が力の波と化してマクスウェルの鼓膜を叩いた。
 この空気を維持したまま、オベリア・インティファーダは戦いへ乗り込むべきであった。
 マクスウェルは、トリスタンに持たせるカタリナとリノ・エン・クルデスへの手紙で主戦論を説いた。
 即座に出撃し、無人島の南を主戦場に設定して、とにかく一戦を交えてみるべきである。
 それに対していかなる返事が返ってくるか、マクスウェルにも未知数だった。


 深夜、ジーンの部屋で食卓を囲みながら、いつものメンバー、ジーン、シメオン、幼ビッキー、そして居候のクロデキルドが会話を弾ませていた。

「真価にして深化させ、進化にいたる要因である。自らの心のうちに、強く強く武器を握れ。
 いや、実に勇ましい演説であったの、二人とも」

 年齢相応の悪戯っぽい表情を浮かべながら、幼ビッキーがシメオンとクロデキルドを順に見渡した。
 今日のメニューはシンプルな海産物のカレーである。いつもは軍属のコックが作るものを他の皆と同じく食べるが、今日はこの四人で協力してカレーを作った。これはこれで、クロデキルド曰く「貴重な体験」であろう。
 なにせ、この中でまともに料理ができるのが幼ビッキー一人ということもあって、少女の指揮のもと、大の大人が皮むきやスープ作りに悪戦苦闘していた。

「あ……あれは、そう、流れだ。ついマクスウェルとヘルムートの言に乗せられてつい叫んだだけだ。
 そういう意味ではシメオン導師、あなたにも私を乗せた責任がある」

 恥ずかしそうにスプーンを口に運びながら、クロデキルドが言った。彼女はこの食事のあと、少しの休みをおいてトリスタン、イザクとともに旅立つことになっている。

「そもそも、私をこの世界に呼びつけた君の鏡とやらは、私を本当にここに帰してくれるのだろうな?
 気がつけばまた異なる世界で呆然としていた、などという事態はごめんこうむる」

「それについては心配ない」

 幼ビッキーは自分のカレーにあまり満足していないのか、スプーンをふりふり「四十点」とつぶやいていた。

「同一世界において私以外の者が使う限り、その鏡は必ず私の元に帰ってくる。
 それよりも、帰ってくるときに船から「流れの紋章」を外して持って帰ってくるのをわすれるでないぞ。
 あれは、「オベリア・インティファーダ」秘中の秘の、もはや「兵器」じゃからな」

「心得ている。何度も聞かされてはな。
 最近になってようやく、私にも「紋章」というものがどういうものか解ってきた。
 実に興味深いものだ。私もこの戦争が終わって自分の世界に戻るときに、一つ二つ持って帰ってみるか」

「それは無駄ではなかろうか」

 と、シメオンが言った。どうも、このメンバーは口調が堅苦しいと、ジーンは少し呆れている。

「君の世界には紋章という概念そのものがない。おそらく、還った時には紋章は手元からは消えておるだろう」

「そうなのか、それは残念だ」

 クロデキルドという女性は、自分の知らない事態に対しては実に素直にことを受け入れる器を持っているらしい。
 流石に、一騎士団を率いているだけは在るということだろうか。このまっすぐな性格が、部下をひきつけているのだろう。

「ともかく、私は早く海上での戦闘とやらに慣れねばならない。まずは一戦やってみないことには、なんともいえないが」

「そればかりは、私たち紋章術士から与えられるアドバイスはないわね。
 杖での叩き方か、ビンタのやり方くらいなら教えて上げられるけど」

 ジーンの言葉に、幼ビッキーが大笑いした。

「海のモンスターにビンタか、実にそなたらしい発想だな、ジーン」

「……どういう意味かしら」

「なに、他意はない、許せ」

「……まぁいいわ。許されてあげる」

 クロデキルドは、この空気が好きになりつつあった。激しい戦いの中でも冗談を言い合える間柄と言うのも、悪くない。
 ここにマクスウェルかヘルムートが加われば、またさらに堅苦しくなるのだろうが、それはそれで興味はつきないものだ……。

COMMENT

(初:16.03.08)