クォ・ヴァディス 86

14-2

 ビッキーのテレポートは、それを体験した者によって感想が様々である。タルは「失神する直前の浮遊感」と表現し、ポーラは「意識が深海を漂っている感覚」と言った。
 マクスウェルの感想は、タルのそれに近い。これは、海兵学校でグレン団長によって何度も失神させられた猛訓練の体験によるものだろう。
 ケネスなどは後日、ターニャのインタビューに「(グレンの訓練は)地獄そのものだった」と語っている。
 今回も、マクスウェルは不思議な、ふわふわとした感覚にとらわれた。まぶたを閉じているのに、視界には七色の光がわずかににじみ、足元がおぼつかなくなる。
 だが、それも一瞬のことだ。到着してしまえば、すぐに感覚は地上のそれに入れ替わる。今回はラズリルの港に到着するのだから、閉じたまぶたの上からでも輝く光がすぐに飛び込んでくる。
 ……はずだった。

 はずだったのだが、どうも様子がおかしい。マクスウェルは、すぐにその異変に気づいた。
 ラズリルは、ガイエン地方でも最大規模の港である。視覚には光が、聴覚には音がすぐに飛び込んでくるのが当然だった。
 しかし、その感覚が「ない」。気配がない、と言ってもいい。妙に静かな場所に到着してしまったようだ。

(ひょっとすると、ラズリルの「隠れ家」についたのか?)

 不思議さと怪しさの両方を器用に表情に出しながら、マクスウェルは瞳を開いた。一瞬で、その異様さに驚いた。
 そこは、確かにマクスウェルのよく知っている場所である。というよりも「部屋」であった。
 色調は南国風で統一され、家具なども必要以上に派手ではなく落ち着いている。事務テーブルの上には分厚い報告書が重ねられ、ベッドはよく整理されているが使用跡がある。
 そう、誰かの「部屋」にテレポートしてしまったのだ。それも、マクスウェルの良く知っている「部屋」に。

(ここはまさか……オベル王宮?)

 そう、本来テレポートするはずだったラズリルの港を大きく外れ、どういうわけかオベル王宮の客間にテレポートしてしまった様子であった。

(まさかテレポートミスか? しかし、ビッキーに限ってそんなことが……)

 マクスウェルは自然と警戒心を上げながら疑ってみたが、その不自然さをすぐに捨てた。考えてみれば、「罰の紋章」ですら自分では制御できずに誤作動を起こすことがあるのだ。「瞬きの紋章」がそうでないとは言い切れないだろう。
 ある意味では、「疲れている人間に無理をさせてはいけない」という典型的な例かもしれない。

 ともかく、テレポートは失敗し、マクスウェルはオベル王宮についてしまった。そして彼の知る限り、ここは「敵地」のど真ん中である。はたしてどうするべきか。
 すぐに戻るか、少し様子を探るか?
 この一瞬の迷いが、マクスウェルのミスとなった。
 現在のこの部屋の住人が帰ってきてしまったのである。

 その男は、髪も瞳も、色素の薄い金色をしていた。左腕は鋼鉄の義手である。いつもは仮面のように顔面に張り付かせているはずの笑顔が、部屋に入ったとたんに驚愕に変貌していた。

「ぬお!」

 と、彼らしくなく叫んだ直後に、

「な、なぜあなたがここに!!」

 と更なる驚愕を続けた。
 そう、今やマクスウェルの最大の敵の一人であり、ラインバッハ二世の軍師とも火付け役とも言えるグレアム・クレイ、その人であった。

 クレイはニルバ島においてファレナ女王国の主要貴族の幾人かと密会し、協力の確約を取り付けて帰ってきた直後であった。
 大仕事をこなして帰ってきた直後に、「真の紋章」を持つ「敵」が自分のねぐらに待っているとは思いもしなかったのである。満腹になって満足して家に帰ったら、腹をすかした大蛇が待っていたようなものであろう。
 だが、呆然としたのはマクスウェルも同じだった。双方が双方とも二瞬ほど時間を無駄にした後、マクスウェルは右手を左腰の剣にかけ、左手を――つまり罰の紋章をクレイに向けて突き出した。
 クレイも咄嗟に笑顔を消し、警戒の表情のまま左の義手をマクスウェルに向けて突き出し、右手で咄嗟にテーブル上のベルをとった。

 このまま、さらに三秒が経過した。先に余裕を取り戻したのはクレイのほうだった。

「さあ、どうします。私の左手に何が仕込まれているのか、あなたは知っているはずです。
 そして、このベルを鳴らせば、近衛兵が二桁ほどもすぐに飛び込んでくるでしょう。
 あなたがその剣で私を分断し、罰の紋章でこの王宮を焼き払うのが速いか、私の毒針があなたを貫くのが速いか。わからぬあなたではありますまい」

 顔面に仮面のように張り付いた笑顔でクレイが言うと、マクスウェルの心にどす黒い感情が渦巻く。一瞬なりとはいえ、この男ごと王宮を焼き払ってしまえば、事件は解決するではないか、という欲望が思い浮かんだ。
 だがマクスウェルはどちらかといえば理性的な男だ。すぐに本来の感情を取り戻した。
 この王宮には、おそらくセツが軟禁されている。誘拐されたリキエやジュエルがいるかもしれない。彼らごとこの場所を焼き払うなど、マクスウェルにできようはずがなかった。
 マクスウェルも気づいた。クレイは、すぐには毒針を発射する気はないようだ。
 だが、理由がわからない。誰よりも罰の紋章を欲しているのは彼のはずだ。罰の紋章は宿主が死ぬと、もっとも近い位置にいる別の人間にとりついて「寄生」する。
 いまここでマクスウェルを問答無用で射殺してしまえば、その宿願はすぐにでも達成されるだろう。それをしないのは、罰の紋章の「恐怖」をもっとも知っているのもまたクレイだからだろうか。
 両者とも同じ姿勢で固まったまま、クレイが語り続ける。

「わかりますか、マクスウェルさん。私はね、この世でもっともあなたを殺したい人間なのですよ。
 そうすることではじめて、私は私に戻ることができるのですからね」

「なんのことだ。俺にはわからない」

「わからない?」

 クレイはわざとらしく首を傾げてみせる。マクスウェルはすぐにでも剣を抜いて飛び掛かりたかったが、自制心を総動員して身体を落ち着かせていた。

「あなたは何度も見ているはずですよ。金髪の子供の姿をね。
「パンを食べたい」と言った子供の姿を」

 マクスウェルはすぐに思い当たった。罰の紋章の「夢」の中に何度も出てきては砂のように崩れ去っていく少年。様々な形で哀しみに憂う少年の姿。

「そうか、あの子は……」

「そう、私の子ですよ。十歳になる直前に、その紋章で死を強制されてしまいましたがね」

 そう聞いてもマクスウェルは驚かなかった。むしろ、クレイが紋章を欲する理由がはっきりわかって、より落ち着きを取り戻した。

「そうか、「あの時」、巨大樹をけしかけた時に「思い出に浸りたい」と言ったのはそういう意味だったんだな」

「おや、いまさらお気づきですか。あなたは聡いと伺っていたものですから、とうにお気づきかと思っていましたが」

「期待にそえなくて申し訳ないが、俺にその責任はない」

 マクスウェルの表情は険しくなり、クレイの表情には余裕が生まれるばかりである。
 クレイが言った。

「ところで、私もいい年齢としなものでね、この姿勢を続けるのは辛いのですよ。お互いに剣を収めて茶にでもしませんか」

「茶だと? この状況で、正気か?」

「少なくとも、あなたよりは正気だと思いますよ。語り合うことで敵同士、理解を深めることもあるでしょう」

 正論である。正論ではあるが、この男の口からそれを聞かされると、せっかくのそれも泥にまみれて吐き出されているようで、マクスウェルは吐気がした。
 そして、クレイの言葉に従うしかこの状況を打破できない自分に、吐気が増した。だが、彼は言い放った。

「断る。貴様は、父親として恥ずかしくはないのか?
 何人もの人間を死に追いやって、死んでまで子供にあんな悲しい表情をさせて、人間として恥ずべきじゃないのか!?」

「父親……?」

 クレイの表情が、一変した。顔面に張り付いた仮面のような笑顔ではなく、本当に、心の底からおかしそうな笑顔を浮かべた。

「父親、あなたの口から父親ですか、くくく、はーっはっは!」

 本気で笑っている。

「なにが可笑しい!!!!!」

 マクスウェルは猛るが、クレイの笑いは止まらない。

「これが笑わずにいられますか、マクスウェルさん、あなたの口から父親などと。
 私が、あなたについて何も知らないと思っているのですか? 私はね、総てを知っているのですよ。
 あなたが捨て子であることも、ラズリル領主の小間使いであったことも、ガイエン騎士団長の小間使いであったことも、総てをね!」

 ベルを右手に持ったまま、クレイは左の義手をにぎりしめる。そして、何かを決意するかのように振り下ろした。

「私は家族というものを知っている。それがいびつなものであろうとも、家族愛というものを知っている!
 家族のなんたるかも知らずに他人に説教などするあなたなどと、人間としての格が違うのですよ!」

「クレイ、貴様……!」

 焼けるように肌が熱い。気温だけのせいではない。脳まで沸騰しそうなほど、マクスウェルの感情が高ぶっている。
 醜悪ともいえるグロテスクさを隠そうともせず、右手で今度こそ剣の柄を握り締めた。

「まだわからないようですね、英雄マクスウェル。
 あなたは私に家族について説教をした瞬間、英雄としての資格を失った!
 ただの三流の道徳家と化したあなたに、私が敗れる道理がない!」

 言った瞬間、クレイはベルを鳴らした。この場にそぐわぬ澄んだ音が鳴り響く。
 そのとたん、どたどたと部屋の外から複数の足音が聞こえた。
 さすがにまずいと思ったのだろう、マクスウェルはとっさに剣から手を離すと、胸から鏡のようなものを取り出した。クレイが不思議な表情で見ている前で、マクスウェルは、

「待っていろ、クレイ! 次に会う時は必ず殺してやる!」

 という理性を吹き飛ばした直截的な殺意の言葉と、光の粒子を残して消え去ってしまった。
 クレイの衛兵たちが部屋にやってきたのは一分ほど遅れてからだった。
 クレイは右手で顎をなでた。

「不思議な方だ。どこに力が潜んでいるのか解らない。だが……」

 そして、ニヤリと笑った。

「だが、この戦、私の勝ちです……!」


 その場でもっとも動揺したのは、オベリア・インティファーダの首脳たちであろう。
「オベル国王に会いに行く」と覚悟を決めて旅立ったはずのリーダーが、わずか二十分ほどで帰ってきてしまった。しかも、その表情は怒りで血膨れでも起こしたかのように真っ赤に染まっている。

「アグネス! 策を言え!」

 帰ってきていきなり第一声がこれであった。呼ばれたアグネスもなにがなにやら事情がわからない。

「策とは、なんの策です?」

「決まっている、グレアム・クレイを殺すための策だ!」

 普段はあまり大言壮語も激しい口調も殆どしない男が、「殺す」と叫んだことにその周囲がざわめいた。タルが慌ててマクスウェルとアグネスの間に入る。

「待て待て、いったいなにがあった、まずそこから話せ。
 リノ・エン・クルデス陛下に会ってきたんじゃないのか」

「いや、何らかのミスで俺はオベルに飛ばされた。そこで俺は、クレイに総てを否定された!
 家族を知らないだと? 三流の道徳家だと? これが人間として、騎士として、男として許せるか!」

「だからといって、いきなり「殺す」のは難しいのではないか?
 卿とて、そこまで怒りながら、その場で殺せなかったのだろう」

 ヘルムートが冷静な意見を言ったが、これが今のマクスウェルには「横やり」に映ってしまったようで、キッとヘルムートをにらみつけた。

「そのために軍師がいるのだ。アグネス、二日だ。二日でクレイを殺す策を考えろ」

 時間にある程度、余裕を持たせたところに、まだ少しだけ冷静さが残っているのかもしれないが、ヘルムートにはこの中途半端な冷静さが一番怖いのだ。
 なにせ、普段はおとなしい男だ。こういう男が中途半端な冷静さで怒りを発したとき、何が起こるか、何を起こすかわかったものではない。
 そして、それを制御できる人間がいないことが、オベリア・インティファーダ最大の弱点でもあった。
 なにせ、この組織の首脳部はあまりにも若すぎる。最年長のラインバッハでさえ三十二歳であるが、彼はリーダーに対する敬意がありすぎ、冷静な抑止力になれるかどうかは疑わしい。
 そういう意味では実戦組のリーダー格であるヘルムートが、性格からも年齢からももっとも相応しいと思われるが、彼はクールーク出身であり、かつての敵国であるラズリル出身組との間で最後まで架け橋になれるかどうか、絶対の自信があるわけではなかった。

「お言葉ですが、二日では考えられても実行は無理です。
 まして連合海軍との連絡も密にしなきゃならない、さらにジャンゴ一家やキカ一家と共同戦線を張ろうというこの時期に、性急にことを運びすぎるのは、逆効果になります」

 アグネスとしては当然の意見である。ただでさえ、オベル王国は七月一日にセツの戴冠式を控えている。その対策をラズリルとの間で取り決めてもいないのだ。
 いきなり単独で暴走してクレイ殺害に乗り出しても、のこのこ出て行ったところを返り討ちにあうのが落ちであろう。今日のマクスウェルでさえ、ビッキーの力でようやく難を逃れたのだから。

「くそ!」

 マクスウェルは視線で誰かを射殺でもするのではないかと思えるくらいの憎悪を視線に乗せてうつむいた。
 ビッキーの体調を考えると、今日のラズリル行きは諦めるしかないだろう。マクスウェルがもっとも信頼する使者役であるアカギとミズキは、自分がキカの下に送り出してしまった。
 総てが狂っていた。こういう日もあるのだと、普段の彼なら苦笑いで済ませるのだろうが、今日はそれで済ませられるかどうか、彼には自信がなかった。

COMMENT

(初:16.03.08)