クォ・ヴァディス 83

13-7

 ケイトとシグルドの予言どおり、ガイエン首都オリゾンテでの騒ぎがラズリルに広がると、ギネ皇太子はラズリルに長居するわけにはいかなくなった。
 最初は噂程度のものだったが、オリゾンテからスノウが確実で詳細な情報をもたらすと、ギネは背中に冷や汗をかいた。まさか、あの女公爵がそのような凄惨な最期をむかえるとは思いもしなかった。
 ギネとしては実感がわかなかった。つい先日まで、スノウをめぐって火花を散らした相手であり、ギネにとっては最後にして最大の「政敵」であったはずのマノウォック公ハーキュリーズが死亡した。
 シグルドと同様、ギネも、ハーキュリーズ本人にそれほど嫌悪感を抱いていたわけではない。たまたま立場が異なったというだけで、子供のような感情を大人の色気とともに吐き出すハーキュリーズを、好意とまではいかなくとも、他の貴族ほど軽べつしていたわけではなかった。

 当初、オリゾンテで建造された三艦、ヤム・ナハル級二番艦アシラト、三番艦アスタルト、四番艦モートを率い、連合軍でともに戦うつもりだった皇太子は、やむなくガイエンへと慌しく帰還することになった。

「どうやら、予定が変更になってしまったようです」

 あざ黒い肌に困惑の表情を浮かべながら、ギネは会議の席上、イヤリングをはじいた。
 カタリナやオルネラは、まるでギネの困惑が伝播してしまったような顔をしたが、リノ・エン・クルデスだけは落ち着いていた。
 相変わらず海賊のようなラフな服装に白い髪をソフトに逆立て、足を組みかえる。

「なあに、政治家なぞろくでもない商売をしていれば、想定外の事態などいくらでも起こるものだ。
 肝心なのは、その事態を最低限の衝撃で抑えることにある」

「はい、そのためには一度、ガイエンに戻らなければなりますまい。
 ヤム・ナハル級の三隻は置いて行きます。お役に立てれば光栄です」

「役に立つどころか」

 リノ・エン・クルデスは思わず立ち上がらんばかりの勢いでギネの肩をたたいた。
 ギネの持ってきた三隻の巡洋艦は、すでにリノ・エン・クルデスの指揮下でオセアニセスとともに艦隊を構成することが決まっている。リノ・エン・クルデスにとってはこれ以上ないほどのプレゼントであり、同時にオベル奪還の意図を強固にする鍵であった。

「皇太子殿の好意は、必ず無駄にしない。勝利を持ってその好意に応えよう」

 傲然と胸を張って言い放つ姿は、彼にかつてのエネルギーが戻ってきていることを意味している。
 その復活とともに、オベル海軍は精神的な壊滅の危機からどうにか再建をはかっていた。
 無論、問題がないわけではない。海軍復活の中心人物の二人、フレアとミレイの間に意見の違いが表面化しつつあった。フレアはこの「軍拡」を機に、ラインバッハ二世と一気に決戦してオベルを取り戻したいと思っていたが、ミレイは船が増えたぶん、さらに十分に訓練をつんでから機を見て決戦に及びたいと思っていた。
 つまりは二人の性格の違いがそのまま意見の違いに発展したのだが、リノ・エン・クルデスは折衷案を採用した。もう少し訓練をつんでから改めて決戦に及ぶ決意を固めたのである。
 フレアとしてはもどかしい。こうしている間にも、ラインバッハ二世は着々とオベルの実効支配を進めているだろう。自分たちの愛したオベルが壊されていないか、セツやトリスタンたちは無事なのか、気になることが多すぎた。

(ミレイさんは暢気すぎる。残された皆が心配ではないのかしら)

 オリゾンテに帰るために出航するギネの船団を見送りながら、フレアは表情を曇らせた。


 皇太子ギネはオリゾンテに戻ると、早速大公スタニスラスに面会したが、これは徒労に終わった。当日の晩、スタニスラスは戦闘音を自分の居室の直下で聞いていたにもかかわらず、暢気にたっぷりと九時間の睡眠をとっている。
 ラズリルでの軍艦の引渡しの成功を報告をしておいて、いったん退くと、ギネは改めてシドニア大公妃とアメリアを尋ねた。
 シドニアはスタニスラスよりも理性的にことに怯えており、アメリアは辛酸を舐めた表情で、ことの詳細を報告した。といっても、シドニアはスタニスラスの側を離れておらず、アメリアはシドニアの側を離れるわけにいかなかったため、戦闘行為の結果は知っていたが、詳細までは知る由もない。

「ともあれ、大公殿下、大公妃殿下に惨禍が及ばなかったのは不幸中の幸いだ。
 しかし、賊の狙いは一体なんだったのだ。大公宮を狙っておきながら、公爵を殺害して大公殿下に指一本触れずに帰ったのか」

 あるいは、わざと見せしめを作ることで、ガイエンを動きづらくするためのテロリズムか。だとすると、次の目標は自分かも知れぬ。
 シャープな顎に指を絡めて考え事をしていると、アメリアが言った。

「殿下、一人、自分よりも事に明るい人物がおります」

「なに、目撃者がいるのか」

「目撃者かどうかはわかりませんが、何らかの事情は知っているかと。
 今はガイエンを離れておりますが、きっと戻ってくるでしょう。そのときに事情を聞かれるがよろしいかと思います」

「わかった。その者の名は?」

「シグルド、あの・・海賊キカ一家の参謀格です」

「ほう」

 キカという名前はギネも知っている。群島でも最大の海賊一家を仕切る女傑と聞く。
 その参謀格が、なんのためにこの時期にガイエンに潜入していたのか、までギネは聞かない。情報収集に決まっている。

「よかろう、その参謀殿の行方をつかんだら、真っ先に私に知らせてくれ。悪いようにはしない」

「わかりました」

 一礼するアメリアを残し、ギネは足早に次の目的地に向かった。マノウォック公爵邸である。
 聞けばまだ葬儀も終わっていないというから、よほど浮き足立っているのだろう。
 皇太子が公爵の弔問に訪れるのは、ガイエン公国にあっては不自然なことではない。なにせガイエンの歴史上、当主が同時期に存在した公爵家は最大でも二家しかない。古くはマノウォックとラフォレーゼ、至近ではマノウォックとキャンメルリングである。
 それだけ、大公国にとって公爵という地位は特別なのだ。地位の売買が当然だった時期の穢れたオリゾンテにおいても、その地位は揺るがすことができない特権であり、公爵の位を自由にできるのは大公か、もしくは大公妃だけであった。

 マノウォック邸では当主の葬儀に向けて粛々と準備が進んでいる。屋敷を混乱させずに指揮を取っているのはフィンガーフート侯スノウであった。
 彼は事件のあった晩、一時はキーンという老人に導かれて屋敷を離れたが、自ら申し出て翌朝には戻ってきた。そして公爵の遺体を丁重に扱うように指示し、黙々と動き続けた。
 マノウォック公ハーキュリーズの遺体は丁寧に血をふき取られ、純白のドレスに覆われていた。スノウは、死者の顔を見て実に不思議な気分になる。前日まであれほど生気に溢れ、自分とシグルドをからかって遊んでいたような笑顔が、一切の表情を失っていた。
 血の気のない顔は真っ白になり、ぴくりとも動く気配はない。胸は呼吸のための上下運動もなく、それでいて、呼びかければ今にでも目覚めてあの悪戯っぽい声でスノウを誘惑してきそうな、そんな雰囲気すらあった。

(ああ、これが「死」なんだ)

 と、スノウは改めて思う。彼は過去、人を殺したことがないわけではない。一人の海上騎士として海賊のラズリル上陸を防いだとき。そしてクールークの海賊討伐隊長として海賊と雌雄を決したとき。
 砲撃で粉砕したぶんまで含めれば、一人や二人は殺したはずである。だが、彼らは明らかな敵であった。殺意をこちらに向けて剣を向けてきたのであって、彼はそれを跳ね返したに過ぎない。
 だが、ハーキュリーズは違った。確かに軟禁はされたが、危害を加えられることは一切なかった。彼女の死を思うと、悲しみがこみ上げてくるのは、果たして筋違いなのだろうか。
 ハーキュリーズの死は、スノウの人生にとって何の関係もないはずである。それでいて涙がこみ上げてくるのは、彼の人生観が間違っているのであろうか。

「それは違う、フィンガーフート卿」

 ギネが言った。

「人は何かを失ったとき、感情を露にするのが当たり前なのだ。
 私は父を失ったときに失望を感じた。妻子を失ったとき、この世の終わりかと思うほど哀しみを感じた。それが当たり前なのだと私は思う。
 君の涙は、決して間違っていない」

 政敵の死に顔を見つめながら、ギネはつぶやいた。
 スノウも経験がないわけではない。マクスウェルと喧嘩別れをして何度も対決するたびに、自分に対する失望を感じた。何度戦っても勝てなかった情けなさに対して、強い感情を感じたものだ。その経験が、彼を強くしたとも言えるのだが。

 ギネは、ハーキュリーズの葬儀の全権をスノウに預けた。
 こうすることで、スノウの政治的な立場をより強固にしようという思惑もあったし、なにより、スノウにおくられることがハーキュリーズにとってもっとも幸福な旅立ちではないかと思ったからである。
 公爵の遺体を収めた柩は、マノウォック家の代々の当主が眠る墓所に葬られた。公爵を名乗った者の葬儀としては、手法もゲストもはなはだ簡素なものだったが、特に失態があったわけでもなく、こういう経験のないスノウから見ればまずまず成功と言ってよかったであろう。
 無論、全く叱責がないわけでもないだろうから、スノウは責任者としてそれらを受け止めねばならないが、彼のバックには皇太子キャンメルリング公ギネがいる。スノウを追い落とすための口実はまず出てこまい。

 マノウォック公ハーキュリーズは享年二十六。過酷な過去を享楽へ転じる術を身につけ、人生を謳歌しようとした矢先の死であった。


 葬儀を終えたあと、ギネは幾つかの仕事に悩む暇もなく従事しなければならなかった。
 まず大公国に名跡のみ残るであろう、マノウォック公爵家、ラフォレーゼ公爵家のうち、マノウォック公爵家の葬儀を無事にとりきった功績を取り立て、スノウ・フィンガーフート侯爵を、このいずれかの二公爵家の跡取りにするよう大公に進言したのである。
 いくら大公が耄碌して居るとはいえ、この程度の判断力はまだあったようで、スノウは大公の前に呼び出され、二通の書面を提示されて「どの名跡が良いか」と問われた。

 だがスノウは、光栄なはずの提案を、恐る恐る断った。

「自分はたまたまマノウォック家に滞留していたのみであり、誰かがやらばければならぬことを、たまたま自分が行っただけである。その公爵家の名跡は、後にきっと自分よりも相応しい人材が出てくるであろうから、そのときのために伝統的な二家の名跡を残しておくべきである」

 という意味のことを言った。

「ふむ、侯爵は謙虚だな。キャンメルリング公、どうすればよいか」

「フィンガーフート侯爵の言ももっともかと存じますが、このままでは大公国から公爵家が存在しないことになってしまいます。
 そこで新たに、フィンガーフート家を公爵家となされば、ガイエン大公国の難局に、スノウ公爵は新たな力となるでありましょう」

 この提案にもっとも狼狽したのはもちろんスノウであった。一度は「その任に堪えず」と断ったものの、三度目の要請で、ついに受けざるを得なくなった。こうしてラズリルの一田舎の伯爵家の跡取りだったスノウは、紆余曲折の果てに、ガイエンの貴族の最高位、フィンガーフート公爵にまで登りつめてしまったのであった。

「いかがです、ご気分は?」

 ラズリルから彼を護衛してきたシャーロックは、スノウの栄達が誇らしくて仕方がない。政治的な思考とは無縁な彼は、ただその誇らしさを胸に、一生スノウについていくつもりでいる。
 その期待に対して、スノウは短く応えただけだった。

「百分の一秒でも早く逃げ出したい気分だよ」

 スノウとしても、ラズリルの一使者を、葛藤の果てに受けた結果がこれであった。何がなんだか、思考がついていかなかったし、これからどうなるのか予想もつかない。
 ただ、ガイエン国内からラズリル支持の空気を作り出すことができれば、自分の本懐は遂げられるかもしれない。

 こうして、ガイエン公国四番目の公爵家「フィンガーフート家」が誕生したのである。
 そして、この一部始終を目撃していた目が、二組あった。彼らの目は、昼間に棲む人間の目ではなかった。闇夜に生息する暗殺者の目をしていた。

COMMENT

(初:16.01.18)
(改:16.02.22)