クォ・ヴァディス 81

13-5

 ひそかにことが進んだはずのマノウォック家で、最初に異変を察知したのはシグルドだった。
 普段なら公爵が部下に我侭を言い通す声が響き渡っているが、今夜は聞こえない。それに、屋敷の中の緊迫感がどんどん上昇している。
 これはきっと、何かあったに違いない。普段は、部屋から出るのも屋敷から出るのもマノウォック公爵の許可を必要とするシグルドだが、このときは迷いもせずに自らの戦闘服に着替え、部屋を出ようとした。
 だが、意外な人物が背後から声をかけた。いつの間に入ってきたのか、気配も感じさせずにシグルドのは背後に立っていた。やや猫背気味の老人であった。

「貴様、キーン!」

「ほお、よく覚えているものよ」

「俺を襲った暗殺者を忘れるはずがないだろう!」

 激昂しようとするシグルドを、キーンはわずかな表情の動きと手で沈めて見せた。
 暗殺者仲間の暗号のようなものだが、ことが切羽詰まっているということはシグルドにも伝ったらしい。

「話せ」

 シグルドも、幾度も死線を経験したからか、情報を得るべきときは聞くことをわきまえている。

「真夜中にマノウォック公爵が大公宮に向かった。目的は不明だが、そこで戦闘に巻き込まれ、御大切になられたらしい」

「なに?」

 御大切になられた、つまり死んだということだ。

「なにか兆候はなかったのか。確かにあの方は突飛なことをなさるが、飽きるのも速い。実はそれほど無茶を押しとおす方ではない」

「知らぬ。だが、執事の話だと、真夜中に突然跳ね起きて馬車まで用意させたらしい。緊急ごとがあったのは確かだろうな」

(……まさか、八房の眷族紋章が関連しているのか?)

 シグルドの命令を待っているように、キーンは押し黙っている。

「俺が状況の確認に行く。スノウ殿はお前がついて安全な場所に避難させてくれ」

「もとよりそのつもりだが、あれがおとなしく撤退するたちかな」

「不可能なら無理にでも撤退させろ。彼は今や、ガイエンにおけるラズリルの顔になりつつある。
 これはまだガイエン国内の騒ぎだ。スノウ殿が巻き込まれれば国際問題に発展する。いいな、絶対に避難させろ」

「承知した」

 老人は、複雑な表情をしたが、シグルドの元から消えるように去った。もともと、キーンはマクスウェルからスノウの安全に対する指示をうけているから、シグルドの提案もそれにものっとったものだ。
 ただ、ながくキカのものとにあって、参謀格のシグルドがこれほど強い意思を見せるのは珍しいことだった。それだけ自分たちが危機的状況にあるということだろう。

 シグルドは馬を借りてから大公宮めやと一目散に駆け抜けた。城は静かに見えるが、それは実戦の経験のないものの感覚だろう。まるでナイフがあてがわれているような緊張感が大公宮を覆っている。

「マノウォック公爵閣下邸人、シグルドである。マノウォック閣下はいずこにありや」

 おそらくギネの配置していた兵たちだろう、右往左往しているとろへ質問をぶつけてみてるが、要領のある回答は一切還ってこない。彼らも、中で何が起こっているのかまだ理解していないのだ。マノウォック公ハーキュリーズ自身が入ってくるなといったのだから、勝手にはいるわけにもいかない。
 右往左往している兵たちの間をぬって、シグルドは勝手に大階段をすすむ。二階、謁見の間。そこで、止まった。
 強烈な臭気を感じたのだ。殺人のあとの特有の空気である。

 もともと、シグルドはラインバッハ二世の元で艦隊の指揮に当たってきた。現場組とはいえ、戦闘員というタイプではなく、船長歴、艦長歴の方が長い。キカ一家の中にあって自然とサブリーダーの地位に落ち着いたのも、そういった異色の経歴によるものだろう。
 その、戦歴の長いとはいえない戦士であるシグルドですら感じる血の臭気であった。

 二度迷ってから、シグルドは唾を飲み込み、巨大なドアに手をかける。さらに一回逡巡し、ドアを開いた。

 中は悲惨という言葉をそのまま形にしたような風景だった。壁どころか玉座まで血に覆われた、深紅の光景。見る前から鼻を刺激してきた不愉快な血の臭いが、一気にこの地獄をシグルドに現実に引き戻した。
 シグルドの後を追いかけてきた何人かの兵士が、誰の目もわきまえられずに嘔吐した。シグルドはかろうじてしのいだが、それでも胃液が喉まで逆流しかけた。
 三十余の遺体の間を歩き。

 シグルドは発見してしまった。この遺体群の中で、ただ一人の女性、もっとも高貴な女性の遺体を。
 情景、惨。腹が真横一文字に、股間を縦一文字に切裂かれていた。

「…………閣下…………」

 二瞬ほど呆然として、シグルドは気持ち悪さよりも先に、とめどない哀しみに突き上げられた。
 確かに、自分は軟禁されていた。しかし、マノウォック公爵ハーキュリーズはいたずらっ子のような存在で、決してこのような殺され方を強要されなければならぬほど罪深い存在ではなかったはずであった。
 少なくともシグルドにとっては。
 シグルドは自分の上着を脱ぐと、無残な死に方をした公爵の上にかけた。

「閣下、自分は閣下に身体を許すわけにはまいりませんでした。
 しかし、決してあなたを嫌っていたわけではございません。キカ様の命を果たした暁には、必ず閣下の最期の思いを成就させていただきます」

 シグルドには解っていた。このハーキュリーズの姿は、何かを守ろうとしたあとだ、ということに。
 それがなんだったのかは一目瞭然だった。ハーキュリーズは大公の居室の真下で死んだ。守りたかったのは、自分の故郷たるこの国、そしてギネのいないこの国。ガイエン公国を守ろうとしたのではないのだろうか。

「警戒をとくな、まだ安全は確保されていない! さけるだけの全兵力を裂いて宮をお守り奉るのだ。
 そして、この三十余の遺体を丁寧に埋葬せよ。決して手荒にしてはならん」

 自分勝手と知りながら、シグルドはてきぱきと指示を出していく。無関係の人間とはいえ、少しでも冷静さを保ちえたのはシグルド一人だったからである。
 遺体を運び出す手はずを整えてから、真っ先にシグルドは三階に走った。二階でハーキュリーズが死んだということは、三階に刺客の魔の手が伸びている可能性が非常に高いからである。
 そして三階で実に意外な人物と顔を合わせた。
 女性である。化粧気のないごく自然な美貌を持っていたが、今夜ばかりは魔王のように口元を引き締めて剣に手を伸ばし、大公の居室の前に立ち尽くしている。

「アメリア殿!」

 知己に出会えた安心感からか、気軽な気持ちで近づこうとしたシグルドは、しかし悪魔のような表情と剣先で迎えられた。

「二階で何が起こったかは、大体感づいている。
 大公殿下、大公妃殿下はひどく気にされておられるが、無事だ。
 それで、お前は何をしに来たシグルド。お前らしくもなく、正々堂々と暗殺にでもきたか」

 アメリアは逆上しているわけではなかった。ただ、大公と大公妃を守らねばならぬ立場上、総てを疑うしかないのである。
 この場合、正対してしまった以上、飛び道具を使うシグルドのほうが有利である。さきほどのハーキュリーズのような存在のほうがイレギュラーであった。
 それを知っても、アメリアは剣先を下げない。下げるわけにはいかない。

「俺は嘘はつかない、信じてくれ」

 アメリアを刺激せぬよう、できるだけ冷静さを心がけて、シグルドは言う。

「俺は大公殿下、大公妃殿下、このお二人の安全を確認に来ただけだ。
 あんたの想像通り、二階は血の海だ。刺客の姿はいまだ確認できていない。そうでない以上、ここの安全を自分の目で確認せぬ限り、立ち返ることもできぬ」

 数秒、アメリアは例の表情でシグルドをにらみ続けたが、状況の確認はせねばならないと思ったのだろう。
 わずかに剣先を下げて巨大なドアの前をわずかに動いた。どうやら、中には入らずシグルド自身の口から報告しろ、といいたいらしい。
 シグルドはドアの前で片ひざをついた。このあたりの礼節のわきまえ方が、彼をして海賊らしくない一旦であった。シグルドは声を上げた。

「真夜中に失礼いたします。マノウォック公爵邸に滞留しております、群島のシグルドでございます。
 さきほど二階謁見室にて外部よりの刺客と護衛兵との間で戦闘があった様子であります。
 氏名調査中ながら三十余名が戦死、マノウォック公爵閣下と見られるご遺体も確認いたしましてございます」

 できるだけ緊張感をもって、声を上げて報告する。しかし、待てども返事はない。
 シグルドは思わずアメリアを見上げた。アメリアは、苦味をつぶすような表情でそれに応えた。
 そして、待つこと約一分。ようやく男性の老人声で返事があった。

「そのような報告を受けることは、今夜の予定にはない……。
 引き下がって措置せよ……」

「で、殿下!」

 シグルドは思わず立ち上がり、ドアを明けようとしたが、アメリアがそれを止めた。そして、首をふって、シグルドの手を引かせた。
 これが、現在のガイエン公国の実情であった。いくらギネが奮闘し、ハーキュリーズが国を守ろうとしても、肝心のトップが人間としての機能を失っている。

「あんたはこれからどうするんだい、シグルド」

「あんたたちには悪いが、俺も仕事があってここに来た。
 だが、その仕事が済みしだい、キカ様に申し出て、もう一度ここに来る。
 マノウォック公のお守りしようとしたこのガイエン国を、俺も守りたくなった」

「海賊にしてはもったいない義侠心だな。お前が来るまで私が大公殿下をお守りせねばなるまい」

「ところで、アメリア殿はどうしてガイエンに?」

「なに、たまたまガイエンをぶらぶらして居るところを、硝子職人のナタリーに見つかってな。
 あれは腕がいいのでガイエン大公に紹介したら、何の縁だか私も大公妃の護衛を任された」

 要するに、ガイエンに縁の薄い二人が、ガイエンを守ることを誓ったのであった。これも偶然の為せる技だろう。

「とにかく俺は、一度マノウォック公爵邸に戻ってから群島に戻る。
 スノウが気がかりだがキーンが何とかするはずだ。あれも人を見定める奇矯な癖があるが、腕は確かだからな」

「では、再びここで」

「ああ、再びここで」

 シグルドとアメリアは笑顔を握手を交わすと、シグルドは猛然と走り出した。
 シグルドは海賊にしては良心派だが、海賊には違いない。キカから受けた命令を忠実に実行するため、再びマノウォック公爵邸に走り出した。
 マノウォック家は、混乱の極みだ。何せ当主が一夜にして死亡したのだ。葬儀の準備もあるし、事実上、名を残して断絶することになる。これで、ガイエンに伝わる三公爵家、マノウォック、ラフォレーゼ、キャンメルリングはすべて名を残して断絶することになった。そのうち、誰か別の家名の人間が名を継ぐ事になるのだろうが、それまではガイエンは国家の体をなすことは難しいだろう。多少結果は異なるが、これもラインバッハ二世の姦計のもたらした結果と思うと、シグルドは怒りがこみ上げてくる。

 馬をかけてマノウォック邸に戻ると、あらかじめ用意していたバッグを肩に下げ、そのままマノウォック邸を去った。ハーキュリーズに対する複雑な思いはあるが、今はとにかく一刻も早くキカの元に戻らねばならない。
 シグルドの思惑はおおむね成功した。このまま最速でキカの本拠地に戻ることができれば、六月中には総て報告できる。
 シグルドがマノウォック邸から拝借してきたのは、「八房」の眷族紋章についてしるされた十冊程度の書物だった。これを研究することで、キカ一味がその知識で一気に群島のリーダーシップに躍り出ることも夢ではない。
 シグルドは期待と責任感を胸に駆けに駆けた。ところが、この裏で、もう一つ事件が起こっていた。

COMMENT

(初:16.01.10)
(改:16.02.22)