クォ・ヴァディス 80

13-4

 マノウォック家は、ガイエン大公家が勃興した頃から存在する古い家系であり、ゆえにもっとも格式の高い存在だった。
 現存する三公爵家のうち、ラフォレーゼ家は太陽暦二八九年に最後の当主が死去してから継ぐ者がなく、家名のみが残っている。
 キャンメルリング家はここ数年、爵位が公爵に昇ったばかりであり、歴史もなにもない。もっとも、後継者がガイエン大公家の養子に入ったから、こちらもラフォレーゼと同じく家名が残るのみとなるだろう。
 つまり、マノウォック家はガイエン最古にして唯一の公爵家となるわけである。
 その歴史は平穏であり、大きな争いにも小さな汚点にも縁がなかった。先代の当主までは。

 先代の当主、つまり前マノウォック公爵エーギンハルト・ヴァイルは、大貴族として、模範となるべき人物だった。
 マナーに通じ、読書をし、狩の腕前も相当なものだったといわれており、彼の狩った動物の剥製が、いくつか屋敷の 部屋の飾られている。
 ただ、彼にも悩みがあった。子ができなかったのだ。大貴族の仕事の最大のものは、後継者を残し、優秀に教育することである。
 エーギンハルト・ヴァイルは結婚して六年、その方面に努力を重ねたが、ついに子を成せなかった。しかし、諦めかけたとき妻が妊娠をした。エーギンハルト・ヴァイルは狂気の如く悦んだが、診断の結果は女子であった。
 男子を設けねば、娘を他家に嫁に出して家名が絶えるか、娘に婿を招いて家名は残るが、男子の血は絶えてしまう。
 エーギンハルト・ヴァイルはこの後、ついに子に恵まれず、娘ハーキュリーズの成長を苦々しく見守っていた。
 そしてついに禁断の思惑にたどり着いた。男の子に恵まれぬのなら、娘を男にしてしまえばよい。この頃から、エーギンハルト・ヴァイルの思考は狂気以外の何者でもなかった。

 彼は、当家に伝わる禁断の魔術に手を出したのだ。太古、ガイエン大公家より賜ったとされる禁断の紋章「七鬼」の紋章に手を出したのである。無論、エーギンハルト・ヴァイルはこの紋章の詳細を知らない。
 ただ、宿したものの願いがかなう、とだけ聞かされていた。これで娘が男の子になってくれるのを承諾してくれさえすれば、万事は解決するはずだった。
 しかし、「八房」の眷属の一つであるこの「七鬼」の紋章は、その八つの眷属の中でもかなり特殊な効力を持っていた。男性の精液にのみ反応し、その精液に含まれる男性の記憶や能力を、所有者に分け与えるというものだった。
 つまりは、娘にこの紋章を宿した場合、実力のある男たちの陵辱にさらさなければならなくなるのだった。

 しかし、エーギンハルト・ヴァイルは躊躇しなかった。もはや、彼の視界には、娘を息子にするという事実と結果しか映っていなかった。
 その手法は、残虐だった。男性の精液を最も効率よく受ける場所はどこか。ハーキュリーズは父親の命令によって、子宮の一部を強引に切除され、そこに「七鬼」の紋章を移植された。そして、優秀な男性を選んできては、娘と性交させるようになった。
 ハーキュリーズが十歳のときである。しかし、エーギンハルト・ヴァイルは気づいていなかった。いくら紋章の力によって娘が強力な存在になったとしても、娘は娘であり、息子に変身するわけではないのだ。
 エーギンハルト・ヴァイルは、娘に対して無気力になっていた。相変わらず性交を強制したが、娘は美しく成長し、筋肉隆々の男性になるわけでもなく、知的な軍師のような男になるわけでもなかった。

 ある日、父は娘に対してこう言った。「お前は出来そこないだ」と。
 これがマノウォック公エーギンハルト・ヴァイル最後の言葉だった。度重なる男性との性交によって、その腕力や知識をハーキュリーズはすでに自分のものにしていたのである。
 キャンメルリング公ギネの父親は、出先で暴漢に襲われミンチになるまで叩き殺されたが、マノウォック公エーギンハルト・ヴァイルは、娘の手刀を胸に突き刺されて死んだ。このときすでに、ハーキュリーズの腕力は大の大人を凌駕するほどになっていた。
「自分のどこが悪いのか」。まるでそんな表情で、固まった父親を見て、ハーキュリーズは薄ら笑いを浮かべていたという。

 結局、マノウォック公エーギンハルト・ヴァイルの死因は事故ということになった。書き物の最中に椅子ごと倒れ、運悪くペンがみぞおちを貫通したことに「された」。
 盛大だが心の篭らぬ葬儀は、丸一日通して行われたが、ハーキュリーズは一滴の涙も流さなかった。
 逆に、自分を元気付けようとする親せきや大貴族たちが、馬鹿のように見えて仕方がなかった。彼らもどうせ、父と似たようなことをやっているのだ。ばかばかしい。

 しかし、ハーキュリーズは男という存在についての興味は捨てなかった。「七鬼」の紋章は、様々な知識を彼女にもたらした。政治、経済、文理、武芸。知識自体は、ハーキュリーズの生きる興味となったし、徐々に身体能力の制御の方法を覚えていくと、今度は純粋に快楽を求めるようになった。
 だが、それもすぐに飽きてしまった。オリゾンテの若い貴族は、みな大貴族マノウォックに下卑た野心と、若い女に対する興味だけを持って近づいてくることも、わかってきた。誰も、ハーキュリーズ自身を見ていなかった。そのような浅ましい男どもは、一回抱くとすぐに捨ててしまう。

「しかし、興味ある男が一度に三人も現われた。ギネ、スノウ、シグルド。
 彼らはわらわに興味を持ちながら、我が肉体を陵辱しようとせぬ。まったく不可解であるが、不愉快ではない。
 わらわはこの三人に陵辱されるまでは死ぬわけには行かぬ」

 言うと、超重量の斧をブンと横殴りに振った。

「加えて言えば、ギネが守ろうとしているものを、彼が留守の間守ってやらねばなるまい。
 ガイエン大公殿下は、幼少時、私を笑顔で撫でてくださった唯一の男性であるのだからな」

 ハーキュリーズの男好きが、父親に強制されたものである事実に、少なからずケイトは驚いた。だが、同情はしない。そのようなものは忍びには必要ない。残念ながら、ハーキュリーズの過去とケイトの未来は重ならなかった。

「残念ながら、私には関係のない話だ。それに今の話が本当なら、私はあんたまで殺さなきゃならない」

 ラインバッハ二世が集めているものが、この絶世の美女の身体の中に埋まっている。ならば、この強敵をバラバラに解体して紋章を持ち出すしかない。
 実際のところ、この襲撃はギネ皇太子をおびき出してその魔眼を奪うのが目的だった。少々目的が変わってしまったが、どちらも「八房」の眷属である以上、奪わなければならなかった。
 三階の大公と大公妃など、暗殺が目的ではあったがそれ自体になんの興味もなく、どうでもよかったのである。

 先に動いたのはケイトだった。両手に四本ずつくないをにぎり、ほぼ同時に投げつける。斧を眼前で廻してこれを叩き落したとき、ケイトはすでにハーキュリーズの真後ろにいた。
 その手に硬質の紐を持っている。女の髪を特殊な油で加工したもので、薄いものなら鋼鉄でも切裂いてしまう。それを、一瞬のすきをついてハーキュリーズの首に巻きつけようとした。
 だが、ハーキュリーズの動きも尋常ではない。咄嗟にケイトの右腕をつかむと、片腕のパワーだけで投げ飛ばし、床にその長身をたたきつけたのである。

「……つーぅ」

 ケイトの視界が一瞬ぐらついたところで、例の巨大な戦斧が振り下ろされた。

「うわっ」

 すんでのところでかわしたが、どうにも戦いにくい。振り下ろされた戦斧の下は、豪華な大理石の床が粉々になっていた。

「言ったであろう。我が体内には、あらゆる戦闘マニュアルが内蔵されておる。女一人がわらわにかなうわけがないのじゃ」

「あんただって女だろうが。かなり規格外だがね」

「ほう、わらわを女と認めてくれるのか。嬉しいことじゃ。せめてもの礼に、華麗に輪切りにしてくれよう」

 ハーキュリーズは、斧の柄を中心に振り回し始めた。これまでのように振り落とすのではなく、切断するための風車のような動きだ。

(さすがにあしがすくむな)

 マクスウェルをして「化け物」と言わしめた女暗殺者が、冷や汗をかいている。こんな経験は、人生でもあまりない。

「ふっ!」

 八本のくないを同時に投げつけてみる。もちろんこれは、ハーキュリーズに叩き落されるが、これは時間稼ぎだった。

「ならばこれはどうかね!」

 ケイトが懐から取り出したのは三つのボールだった。それを床にたたきつけると、もくもくと煙が湧き出た。煙幕弾である。

「なるほど、これならわらわは攻撃できぬが、そなたも動けまい」

 部屋全体が真っ白な煙に覆われる。どこからくるか。ハーキュリーズは意識を集中した。あの女の武器はくないと紐のようだ。それならば、この身体には通じぬ。どこからきても、迎撃できる。
 その余裕が、隙となった。まず、ハーキュリーズの左胸に痛みがきた。何かわからなかったが、何かが貫通したことはわかった。その痛みが全身に伝播した時、「ぱぁん」という炸裂音が響いた。
 左胸から、滝のように血が流れ出す。

「こ、これはいったい……」

 呆然としてしゃがみこみ、自らの血を手に震えるハーキュリーズを見下ろし、ケイトが無表情でつぶやいた。

「それがあたしの切り札さ。いくらあんたが星の数の男を抱いても、ハルモニアの男はいなかったようだね」

 そう、銃撃が、ハーキュリーズの胸を貫通したのだった。しかも、着弾よりも音のほうが遅いということは、少なくとも一キロメートル以上先からの狙撃である。ハーキュリーズでも、これは見抜けなかった。

「まだ……まだじゃ。胸を打ち抜いた程度でわらわを、ガイエンの公爵を倒せると思うな」

 斧を杖代わりに立ち上がると、気丈にもハーキュリーズは構えた。だが、流血はハーキュリーズの戦闘力を著しく奪っていた。たった一発の弾丸が、女公爵の生涯の蓄積を台無しにした。
 そして、立ち上がったハーキュリーズの左胸に、二回目の衝撃が走った。またも、痛覚の後に破裂音がした。
 ハーキュリーズは、自分の能力を頼りに敵を滅ぼそうとした。しかし敵は、確実な手段を用意してから浸入していたのである。

「私はあんたに敬意を払うよ、マノウォック公ハーキュリーズ。政敵の大事なものを、また自分になびかぬ男をその手で守ろうとした。あんたは守護者のかがみだ」

 言って、ケイトはハーキュリーズの背後に回り、大き目のくないをうずくまったままのハーキュリーズの腹に当てた。

「私の郷に伝わる最高の死に方であの世に送ってやる。切腹っていうんだがね」

 ケイトは優しく、力の出ないハーキュリーズの背中を支えた。そしてくないで左わき腹にあてた。

「さよなら、公爵」

 くないがわき腹に突き刺さり、そのまま右わき腹へと掻っ切った。

(すまぬ、ギネ……、お前の国を守れなんだ……。すまぬ、スノウ……、お前の故郷を守れなんだ……。すまぬ、シグルド……、結局なにもしてやれなんだな……)

 大量の血液が、噴水のように撒き散らされ、ハーキュリーズはそのまま前に倒れこんだ。言葉はなかった。

「やれやれ、次は紋章の解体か。人体実験なんか趣味じゃないんだが」

 ハーキュリーズの遺体を丁寧に上に向け、ドレススカートをめくってみると、確かに股間部分に禍々しい文様が浮き出ている。

「これが「七鬼」か……」

 ケイトは小型のランタンのようなものを取り出した。不安定な紋章を少しでも安定化させるためにハルモニアが開発したものだ。
 ケイトはナイフでハーキュリーズのヘソの下から股の付け根をまっすぐに切裂いた。小さなこぶし大の紋章球がこぼれおちた。これが七鬼の紋章であろう。
 ケイトは手早く紋章玉をランタンに放り込むと、栄華を誇った女公爵の無残な死体を一度だけ振り返り、闇にその姿を消した。ギネの部下たちが殺到してきたのは、その直後であった。

COMMENT

(初:16.1.15)
(改:16.2.22)