クォ・ヴァディス 79

13-2

 マノウォック公ハーキュリーズは、ギネのラズリル行きを見送らなかった。自分の好んでいるおもちゃが自分の手を離れていくのが気に食わなかったのである。
 ギネもそうだが、シグルドもスノウも、どうして自分のものにならぬのか。ハーキュリーズは、最初こそ気分を害したものの、最近はすっかりそれが興味にうつっている。どうすればあの三人の難物を自分のものにできるのか、一策を高じるのが楽しみで仕方がない。
 ギネは妻子あった身であるからわかるが、スノウは明らかに女体に対して耐性がない。しかし、その面から攻めてみても、狼狽はするものの決して一線を越えようとしなかった。どうすればいいか解らないということもあるだろうし、見た目以上に自制心が強いのであろう。
 それを考えれば、シグルドの落ち着きようも驚異であった。まるで彫像のような冷静さでケープを全裸の自分に肩にかけ、ゆっくりと休むことを進めた。
 金品で落とそうともしたが、これも無意味であった。ギネは今や皇太子であり、財宝の類はいくらでも手にできる。シグルドは海賊とはいえ冷静であり、目もくれない。スノウも元はラズリル領主の息子であるから、少々の金品は見慣れて驚かない。

「さて、金や色気で落とせぬとあらば、別の手を考えねばなるまいが」

 白磁の彫像のような身体に夜着を絡めてハーキュリーズはつぶやいた。自分の自慢のものをことごとく否定されているのに、むしろこの女公爵は不思議と嫌悪を感じなかった。それは、これまで抱いた男どもが、まるで犬のように尻尾を振る連中ばかりであったのに対し、この三人は尻尾すら振らない新鮮さにあったかもしれない。
 逆に言えば、初めて自分を否定したこの三人に対し、ハーキュリーズはこれまでにない好意を持っていた。

 好意。考えてみれば不思議な感覚だった。これまでは自分が何の感情を持たなくても、相手のほうから擦り寄ってきた。
 しかし、それが好意でないことは幼いころからハーキュリーズは気づいていた。彼らはハーキュリーズではなく、ハーキュリーズの持つ別のものに群っていることに。
 そして、それをいつの間にかハーキュリーズも当然のことだと思っていた。自分が父から受けた人間とも思えぬ所業を思えば、権威に群ってくる羽虫など可愛いものではないか。
 そう思ってこれまで、三流の貴族たちに自分を抱かせてやってきた。だが、スノウとギネの登場は、彼女の価値観に波紋を投げかけた。自分の望んでいるのに手に入らないものがあるのだと解った。絶対に手放したくは無かった。

 複雑な思いを体内に秘めながら、ハーキュリーズがベッドに横になろうとしたときだった。
 ある感覚がその体内を駆け巡り、ハーキュリーズはベッドから飛び起きた。別に町で大爆発が起きたわけでも、邸宅が火事に見舞われたわけでもない。夜は静かに街を包んでいる。
 それでもハーキュリーズは、異変を察知して飛び起きたのである。

(大公宮じゃな)

 ハーキュリーズはなんともいえない表情をした。異変を感じ取りながら、彼女は笑っていたのである。
 自分の下腹が熱くなるのを感じる。それは性交による感覚ではない。別の熱さであった。

「誰ぞおるか!」

 半ば叫ぶように言うと、侍女が三人入ってきた。主人のなんともいえぬ勇ましい表情に戸惑いを見せる。

「これより大公宮に参じる。急ぎ着替えるぞ」

 女大公は興奮して居る様子で、着替えを手伝えさせたメイドに発破をかけるほどだった。
 そうこうしているうちに、執事が入室してくる。

「お嬢さま、いかがなされました」

「急ぎ大公宮に参る。馬車を用意せよ」

「こ、これはいかなるご用件で」

「貴様らに言うても解らぬ。今は言うことを聞け」

「ゲストのスノウ様とシグルド様はいかがなさいましょう」

「寝かせておいてやれ。彼らには今はまだ無関係のことじゃ」

 ハーキュリーズの下腹の熱さはますます強くなっている。何が起こるのか、ハーキュリーズは理解していた。
 戦いが起ころうとしているのだ。
 しかし、今、皇太子のギネは海外にいる。もちろん多くの兵が配置されていることは間違いないだろうが、ともかく戦いは起きる。ハーキュリーズは確信していた。
 深夜の公爵低の前に、二頭立ての馬車が出る。目的地は大公宮。その距離は二十分ほどである。

13-3

 大公宮に到着した馬車を待たせておき、ハーキュリーズは五名の供を連れて足を踏み入れた。いつもと変わらぬうら寂しい「美術館」とも称される大公宮だが、ハーキュリーズにだけは今宵、ここで何が起こるのかわかるようであった。
 門番の誰何も無視して、長い本殿へと続く階段を上る。下腹の熱さは変わらない。もう少し先であるらしい。従者に丁寧に扉を開けさせ、ここで意外なことを言った。

「そなたらはここで待て。わらわのみ上へ参る」

 当然だが、供が止めた。

「なりませぬ、閣下。閣下しかご存知あられぬこともありましょうが、閣下をお守りするのが私どものお役目ながら」

 部下の甘言を切り捨てるように、ハーキュリーズは言った。

「今宵、そなたらは役に立たぬ。そういうことが起こる。ここにて待機せよ」

 言うと、振り向きもせずに大公宮へを足を踏み入れた。そこで早速、ハーキュリーズは異様なものを見る。
 死体であった。恐らく、ギネが大公と大公妃を守るために配置していた兵たちであろうが、無残な様相を呈している。
 その無残な様子を見ても、ハーキュリーズは狼狽もせず周囲を見渡した。血の臭いが強い。ついさきほど仕留められたばかりのようだ。
 妙なのは、死体のどれにも応戦したさいにできる傷がないことであった。たとえ急襲されたにしても、何人かは応戦できたであろう。それがないということは、一瞬のうちに倒されてしまったということだ。
 ハーキュリーズは優雅な動作で二階の謁見室へと向かう。もしもこれが刺客によるものならば、狙うは三階の大公の部屋であろう。そこに向かうには、さらに多くの兵を相手にせねばならず、必ず謁見室を通らねばならぬ。

 そしてまた、謁見室も無残なものだった。三十ばかりの名も残らぬ勇者の死体が転がり、豪奢な絨毯の赤の上から、血液の赤が上書きされていた。
 第七代大公チェスターのものと由来される巨大な鎧も、血で真っ赤に染まっている。
 ただ一つ、異なるものがあった。ハーキュリーズの下腹が痛むほどに熱くなる。この場にいるのだ。この死体を量産した犯人が。
 ハーキュリーズが一喝した。

「隠れても無駄じゃ。わらわにはそなたがどこに隠れているかも解っておる。
 狙いは大公殿下であろう。そこへいきたいのならば、わらわをまず陵辱してみることじゃ」

 とたんに、ハーキュリーズの背後から三本の釘のようなものが飛んできた。しかし、まるで解っていたかのように、わずかに半身をずらしてハーキュリーズはそれをかわした。

「ふむ、飛び道具に通ずるか」

 先ほど自分に向けて投げられた飛びくないを持つと、一瞬おもちゃのように弄んだ。そして、次の瞬間、正確にそれを、投げられた場所に投げ返して見せた。

「くっ」

 うめき声がする。女の声だ。怪我をした声ではなく、驚愕に支配された声であることはハーキュリーズにはわかった。

「解ったら出てきやれ。たかが飛び道具にやられるほど、わらわは、ガイエンの公爵は甘くはない」

 しかし、敵は出てこなかった。今度は異なる方向からくないが飛んでくるが、ハーキュリーズは今度は手にしたくないでそれを総て叩き落して見せた。ハーキュリーズの後背から、焦りの気配がする。

「公爵が弱いとなぜ決め付ける? そも、国王というものは、古代最強を誇った海賊・山賊の成れの果てよ。
 その部下が脆弱であるわけが無かろう。そして、その子孫が脆弱であるともかぎるまい。
 もっとも、わらわはすでに人間を捨てておるがな」

 ハーキュリーズは、次に驚くべき行動に出た。二メートル五十はあろうかという伝チェスター大公の鎧の脇に掲げられている、これまた巨大な戦斧に手を伸ばし、それを片手で掴み取って見せたのである。
 決してレプリカではない、鋼鉄製の戦斧は、豪奢なドレスの貴婦人にもっとも縁遠いものに思えたが、それでもハーキュリーズがそれを持つと、貴婦人は一瞬にしてバルキリーのように勇ましく見える。
 ずん、と。ハーキュリーズは斧の柄で床を突いた。重々しい音が謁見室全体を揺らす。

「出てきやれ。わらわに飛び道具は効かぬ事はわかったはず。正面からなら、撃破かなうやもしれぬぞ」

 その言葉に観念したのか、柱の影から一人の女が姿を現した。
 女忍びのケイトである。普段は余裕ある不遜な態度を崩さないケイトも、ハーキュリーズの怪力と戦いの勘に驚きを隠せない。

「あんたはいったいなんなんだい。それだって、偽物の斧じゃないだろう。大の男だって四、五人で持てるような代物だ」

「言ったであろう。わらわは人間を捨てていると。そのような比較は成立せぬ」

「ガイエンの女大公は男好きの淫乱だと聞いていたんだがね」

「確かに美貌と才能をわらわは愛する。だがそれが男を抱く理由ではない」

 言うが早いか、ハーキュリーズは巨大な戦斧を大きく振りかぶり、ケイトをめがけて振り下ろした。
 地震でも起こったかのような揺れが大公宮を襲ったが、ケイトも乱れない。その大振りな隙をついて一瞬のうちにハーキュリーズの懐に飛び込み、くないを喉元につきたてようとした。
 だが、ハーキュリーズは戦斧の先を支点にして柄を廻し、ケイトの腕ごとそのくないを弾き飛ばす。あまりの怪力に、ケイトが思わずうめき声を上げた。

「なるほど、どうやら人間をやめたというのは嘘ではないらしい。
 だが、どういうことだ。なぜ公爵家の跡継ぎがそんな馬鹿な真似をしなきゃならなかったんだい?」

 ケイトにとっては当然の質問であろう。本来、貴族の言うものは多くの部下を連れ、偉そうに市街を睥睨し、夜は市民の苦税を吸い上げて買った金でパーティーを開く。そんなイメージである。
 たしかに、ガイエンの侯爵以下の貴族たちはそれで間違いではない。彼らは自らのポケットに様々な黒い金を詰め込み、日夜酔狂に精を出し、毒にも薬にもならない詩を書いては、ありもしない才能を誇らしげにしていた。
 だが、公爵となると全く様相が違う。元キャンメルリング公爵ギネは積極的に政治改革に乗り出し、マノウォック公爵ハーキュリーズは見てのとおりの怪力であり、戦闘の勘も尋常ではないらしい。
 なるほど、山賊、海賊の成れの果てというのも正解かもしれない。

「そなた、少し昔話を聞くか」

 唐突にハーキュリーズが切り出した。
 ハーキュリーズは、この女を止めるために、ギネが残した護衛兵が殺到するまで時間を稼がねばならない。
 そのつもりで唐突に話題を変えた。

「…………」

 ケイトの沈黙を興味と取ったのだろう。ハーキュリーズは語りだした。マノウォックの暗黒を。

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(初:16.01.12)
(改:16.02.22)