クォ・ヴァディス 77

12-16

 トリスタンは、産まれて初めての感情に身をゆだねていたのかもしれない。彼は「激昂」していた。我を忘れた怒りに感情をゆだね、かろうじてユウ医師だけを埋葬すると、自分の部下の遺体を足元に残しながら、走りに走った。
 目的地はただ一つ、ラインバッハ二世の本拠地とするオベル王宮である。マキシンが明言したこともあり、そのことになんの疑念も持っていなかった。半農半戦を選ぼうとしていた自分たちの一派を、一夜にして血と肉のカタマリに変えてしまったあの醜い裏切り者に、どうしても自分たちの怨念の一部でもぶつけてやらねば気がすまなかった。
 激しく咳き込む。もう、彼を救ってくれる「薬」を作ってくれる命の恩人はこの世にはいない。一刀両断にされて、無残な姿で転がされていた。
 それだけでも、トリスタンがこの夜、命を捨てる価値はあった。病のことを考えれば、どの道、自分はもう長くないだろう。ならば最後に、キャリーとジュエルを探し出して脱出させ、自分はラインバッハ二世と心中すれば良い。
 悲壮なまでの覚悟が、彼の尽きぬ体力の元となっていたかもしれない。
 トリスタンは、この玉砕にゴーを巻き込まなかった。トラヴィスはマキシンに急襲されて生も根も尽き果て、いつ目覚める様子もない。彼を一人にしておくわけにもいかず、ゴーに手当てを頼んだのだ。
 なにしろ、トリスタンの復讐にゴーは無関係であったこともあるだろう。

 警戒の目を騙しつつ走って走って、トリスタンはいよいよ王宮の見える場所までやってきた。木々が生い茂り、向こうからは見えにくい絶好の場所だ。ここから単身突撃し、ラインバッハ二世の命を絶つ。無論、自分も死ぬだろうが、そんなことはどうでもよかった。むしろ、彼は今、死ぬために生きているからである。
 そして復讐の一歩を踏み出した、その直後だった。トリスタンの予想外のことが起こった。
 ぱぁん、という破裂音がするのと同時に、自分の上から捕獲用の網が降ってきたのである。トリスタンは見事に絡まれてしまった。

(しまった、罠か!)

 考えられないことではなかった。部下や味方を皆殺しにされれば、トリスタンは必ず動く。何箇所かに罠を張っておけば、必ずどこかにひっかかるであろう。そうしてセツがそうであったように、自分はラインバッハ二世の足下に臨検されるのか、それとも侮辱されるのか。
 しかし、つぎの瞬間、トリスタンの首筋にドスリと何かが突き刺さった。何が起こったのか確認する時間も無いまま、トリスタンは意識を断ち切られてしまった。

 斃れたトリスタンの脇に現われたのは、一組の男女だった。二人とも背は高い。女のほうは身動きのしやすそうな衣装に身を包んでおり、男のほうはなにか長い筒のようなものを肩から提げていた。
 女が言う。

「やるじゃないか、あの距離から細いロープを一発ショットとはね」

 男は面白くもなさそうにトリスタンの身体を持ち上げた。

「あれくらいできなくては、ハルモニアの工作班などつとまらぬ。
 確認しておくが、殺してはいないのだな?」

 問われた女は、フフッと笑った。ケイトである。

「脊髄に一発くれてやっただけさ。死んではいないさ。まぁ二、三日は起きないだろうが」

 二人は喋りながらも、トリスタンを抱えたまま王宮から遠ざかっていく。そして海辺に出た。断崖ぞいにわずかに開けた場所に、中型のボートが接岸されている。
 乗せられていたのは、実に意外なメンバーだった。黄金の髪の毛をくすませてうずくまっているキャリーがいる。意識を失ったまま倒れているトラヴィスがいる。そして、なお闘志を失わぬようにケイトたちをにらみつけるゴーの姿がある。
 男はトリスタンをボートにゆっくりと乗せた。

「これで、おまえたちは自由だ。どこへなりとも行くがいい」

 男がぱちんと指を鳴らすと、キャリーの見慣れた面々が海の中からひょっこりと顔を出した。人魚である。
 特に、マクスウェルたちと縁の深い、リーラン、リーリン、リールン、リーレン、リーロンの五人だった。

「そいつらが、お前たちを安全なところに連れて行ってくれるだろう。さぁ、さっさといきな」

「……待って……ください……」

 やや焦点のあわない目で、キャリーがケイトをにらみつけた。

「あなたはなにがしたいんですか!? マクスウェル様の味方をしたかと思えばラインバッハ二世についた挙句に、わたし達を助けて……」

 ケイトは口の端を吊り上げて笑うと、見下げるようにキャリーとボートの一行を睥睨する。

「お嬢ちゃん。世の中にはね、目的なんかどうでもよくて、手段を手段としてひたすら楽しむだけのどうしようのない人種もいるのさ。
 つまりは、わたし達のような」

「目的が……ない……」

 疲れきっているキャリーは、それ以上何もいえなかった。男が銃を取り出し、ボートをつないでいる「もやい」を打ち抜いた。ボートがゆらりと漂流を始める。
 誰も、二人に礼を言おうとするものはいなかった。

「人魚たちがいい場所を知ってるだろ。例えば、マクスウェルの本拠地とかね」

 ボートの漂流を見送りながら、ケイトは肩をすくめた。男が感情のない言葉をつむぐ。

「少なくとも私には仕事がある。お前のように遊んでいるわけにはいかぬ」

「わかってるよ、それじゃ行こうか、ガイエンへ。金髪デブの依頼のために、ね」

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(初:16.01.10)