クォ・ヴァディス 76

12-11

 この、獣人の前に立ちふさがった人物。
 この戦いの前に、我々はこのゴーと呼ばれる人物について知っておかねばならない。
 とはいえ、伝記などでは「ゴー」と「名づけられた」人物のことを知るのは、恐らく永遠に不可能だ。
 この特異な肉体を持つ異質な存在は、その過去が全く不明だからである。その一点においてのみ、マクスウェルと一致するが、あとはまったく正反対だった。
 ゴーはどうやら庵の小島で育ったようだ。そこで「生まれた」のかどうかは分からない。そこで、どうやらこけゴリラのような野獣に育てられたらしい。
「らしい」としか表現できないのは、ゴーが人間の言葉をほとんど理解できないことと、ゴーの二足歩行の「クセ」が、その種族の持つ特性に似ているから。その二点から推測するしかないからである。
 その後の測定で、身長こそ一八〇センチと「並の長身」だが、胸囲は一三〇センチで筋密度は恐ろしく高く、体脂肪率は十パーセント前後。それ以外の測定値も、ほとんど人間のそれを軽く超越していることがわかった。
 というよりも、ほぼすべての測定器をナチュラルに破壊してしまうので、測定できないのだ。握力など、わざわざそれ専用に製作した機器を使って、右手握力が三三〇キロあることが分かっている。ちなみに、リノ・エン・クルデスの右手で九〇キロ「しかない」。
 とにもかくにも、ゴーは庵の小島の森の主として、長年、食物連鎖の頂点にあった。
 強い者にのみ恭順を示し、興味のあることには着手もするが、あとは暴れ放題の完全な「野獣」であった。三年前までは。

 最初に彼と接触を図ったのは、意外にもアグネスであった。
 エレノア・シルバーバーグが赤月帝国の軍使を引退し、庵の小島に隠遁したとき、牧を拾いに森に出て、狼の集団に襲われた。その集団を統率していたのが、ゴーだったのである。
 ゴーはこのとき、不思議な行動をとった。普段ならば容赦なく相手に噛み付き、引き裂き、蹂躙する。しかしこのとき、ゴーはあえてアグネスを見逃した。
 危害を加えることもせず、追いもしなかった。

 恐らく、自分が他の「狼」と違うことを理解していたゴーさんが、私が始めて見た「同種族」であることを直感で理解したのではないでしょうか。

 ターニャに対し、アグネスは後にそう言っている。
 その後も、何度かゴーはアグネスと会っている。その目前で野生的に大暴れをすることはあったし、その存在を無視することあったが、危害を加えたことは一度もなかった。
「ゴー」という名前も、アグネスがつけたものだ。「レッツゴー」の「ゴー」だ、と元ネタを聞かされたときのターニャの冷めた目つきが、アグネスの背筋を冷たくしたが、とにかく、この異質な人間の組み合わせは、特に接点もなく、エレノアがマクスウェルに迎えられて庵の小島を出るまで続いた。
 ゴーは生まれて初めてマクスウェルに「敗北」という二文字を覚えさせられ、彼への恭順を誓って群島解放軍に参加したが、アグネスとは特に終戦まで関わることなく終わった。
 アグネスはエレノアについてクレイを探し回り、ゴーは庵の小島に戻って再び帝王の座に復活した。

 だが、このときのゴーは、森を出る前のゴーとは別人のようになっていた。
 凶暴性もその身体性能もそのままだったが、多くの人間と交わり、「人間性」というものを発芽させていたのである。
 これは、大きな変化だった。もっと多くを。それは、その島を出る前は肉であり、皮であった。だが、この島を出たあとは、言葉となり、知識となった。
 もはや、ゴーが「人間に還る」ことはできない。人界では生活はできないであろうが、旅ならばできるだろう。
 そうしてゴーは、改めて島を出た。「うがっ」の一言を頼りに多くの物を見た。多少、人間の言葉も覚えた。
 が、やはりこの旅は「もの」にならなかった。言語も貨幣経済もほとんど理解せず、ただ同然の安月給でこきつかわれたり、あげくのはてには物珍しさからサーカスの見世物のようなわけのわからぬこともやった。
 多くの物を見、多くの人を見たが、結局は現代社会にはなじめず、オベルの遺跡の奥にいたトラヴィスに同調した。
 信じられぬだろうが、かつて群島解放戦争でマクスウェルに味方した百人以上の仲間の中で、「お金」という概念を知らない者が二人もいたのだ。ゴーとセドリックである。

 このコンビは孤独を好み、「お互いの生活を侵食しない」という一点で共通しているだけであるが、まさに両者にとって、その共通点が最大のメリットだった。
 トラヴィスなどは、トリスタンが定期的におくってくる使者を鬱陶しいとしか思っていなかった。その点、ゴーは妙に空気が読めて、トラヴィスの機嫌が悪いときは猟などに出ていたし、もともと一定の場所で暮らすような文化の持ち主でもない。
 毎日寝場所を変え、たまにトラヴィスの元に帰ってくる。
 ある意味では、ミツバとラインホルト以上に妙なコンビだった。コンビと呼べるのかどうかは怪しいが。

 さて、その野獣は、自分の一・五倍もある獣人と向き合った。相手が傷だらけだからと言って、ゴーの人生観には何の関係も無い。
 相手が動いた。思いきり胸をはり、両手で胸板を連打した。すさまじい筋肉の音が、日の光のささぬ世界に響く。大地が揺れる。
 いわゆる「ドラミング」である。自分が「こんなに強い音を出せる存在なのだ」と、相手にアピールするやり方で優劣を競う。それこそ、ゴリラなどがよく使う手法だ。
 これに対して、ゴーは答えなかった。ただ、一つのことを除いて。
 ゴーも思い切り胸をはり、勢いよく空気を吸い込む。その場にある空気を総て肺に入れるのかと思われるほどの勢いであった。
 そして、その膨れ上がった胸が一気に収縮する勢いで、一言だけを叫んだ。

「うがっ!」

 大地が揺れるなどという代物ではない。炸裂音のような強烈なソニックブームが起き、ところどころ天井がくずれた。わずかながらも、ダンジョンの形を変えてしまうほどの叫びだった。
 獣人は怖気づいた。明らかに戦意を喪失している。だが、彼には魔法で「刷り込まれた」任務がある。ある男を殺さねばならぬ。勇気を総動員してゴーに向き合った。

 初撃は突然だった。思い切り握りこんだゴーの右拳が、獣人の左頬を捉えた。
 ある書物に曰く、パンチの破壊力は、握力と速度、そして腕力に比例する。
 そのパンチの破壊力がどの程度のものだったのかを、わざわざ確認するまでもなかった。獣人は、たった一撃で下あごを失っていた。顔のバランスがおかしくなっていた。
 だが、それでも魔法による「洗脳」は強い。目前の難敵を吹き飛ばして目的を遂げねばならない。
 獣人は、再びゴーに向き合った。そして、今度は彼のパンチがゴーのみぞおちに直撃する。
 みぞおち。有名な急所の一つだ。そこをガードすることもなく、ゴーはその一撃を受けた。ゴーにとっては何の不自然ではない。
 強大な攻撃力を持つ者は、その攻撃力に耐えられるだけの防御力を持たなければならない。当然の理論だ。
 ゴーの戦いに、防御など存在しない。すべてを「耐える」。耐えて堪えて相手の攻撃が絶えきったうえで、殴り飛ばす。それが総てだ。

 そして。ゴーは自らの急所への一撃を見事に耐え抜いた。
 やはり苦痛ではあるのか、口元を激しく食いしばっているが、倒れはしなかった。

 総ての一撃を。
 ゴーは大きく右腕を振り上げる。
 総ての敵に。
 その腕を振り回した。
 感謝をこめて。

 ゴーの右手が、獣人の首をつかむ。
 そして、まるでリンゴを砕くような仕草で、握った。
 獣人の首が身体から離れ、ぼとりと床に落ちる。一瞬だが、血液がまるで噴水のように、撒き散らされたが気にした風もなく、獣人の死体をゴーは床に投げだした。

 強敵は追い払った。問題はトラヴィスだ。あれだけのスケルトンを使役しておいて、無事に済むまい。
 ゴーの思考はそこまでは及ばなかったが、原始的な意味での「友人」がどうなっているのか、思わず駆け出した。

12-12

 トリスタンとゴーがトラヴィスのもとについたのは、偶然だがほぼ同時である。
 トリスタンは血まみれのゴーの姿を見て思わず剣に手をかけたが、ゴーがそれを全く気にせずにスタジアムの遺跡を走り抜けていったので、忘我の一瞬の後に走り出した。
 スタジアムの奥の遺跡。かつて罰の紋章が封印され、リキエとラクジーの二人が暮らし、その後、トラヴィスがつい住処すみかに選んだ、海の見渡せるオベリアのふもと。
 ゴーはうなり声を上げ、トリスタンは呻き声を上げた。
 先ほどの獣人のように、トラヴィスが何者かに首をつかまれ、持ち上げられていた。
 一八〇センチを超える長身を持つトラヴィスを握り上げているのは女のようだ。
 グレーの髪を持ち、女性にしてはこちらも長身である。一七〇はあるだろう。

「うがっ!」

 朋友の危機を見かねてか、それとも野生の本能か、真っ先に動いたのはゴーだった。
 驚くべき跳躍力で女に殴りかかろうとする。だが、その強大な一撃は届かなかった。
「風」だ。「風」の壁が、ゴーの突進を阻んだのだ。

「かつて私に挑んだ少女は、自分から名乗ったぞ。
 だというのに、おまえたちはその程度のマナーも知らないか」

 グレーの髪を持つ女が、右手でトラヴィスを持ち上げたまま、左手をグリーンに光らせた。もし、この場にリシリアがいれば、トラウマにさいなまれたかもしれない。
 それは「旋風の紋章」の発動に他ならなかった。

「貴様、トラヴィス殿に何をするつもりだ!」

 こちらもトリスタンが剣を抜いて切りかかったが、やはり風の壁にはじきとばされて近づけなかった。
 ふん、とマキシンという名のその女は、毒づいた。彼女は、ナ・ナル島でリキエの誘拐には成功したものの、八房の眷属紋章を奪われた直後だった。
 正直、ラインバッハ二世のモンスター討伐などになんの興味もなかったが、スケルトンが組織だって動く、という可能性には興味を感じていた。
 そして、彼女は「当たり」を引いたのだ。見事に、「八房の眷属」を引き当てた。
 名も知らぬ。効果も知らぬ。だが、もはや「八房の眷属」というだけで彼女は狂うことができた。
 これでまた、ジーンやシメオンに復讐することができる。そして、あのリシリアと戦ってやることができる。

「今日、右腕につけているのは力強化の紋章でね。
 ちょっとのミスでこいつトラヴィスの首がぽっきりいっちまうかもしれないよ。
 それでよければ、何度でも掛かってきな。私の左手の風は、やぶれはしない!」

 もはや、狂人の目をしていた。この女は、すでに狂っている。
 トリスタンにはそうとしか映らない。ゴーが何度かかっていっても、すべて竜巻の壁にはじかれた。

(旋風の紋章とは、このように強力なものだったか!?
 それとも、あの女の魔力か精神力が強力なものにしているのか)

 なんとかトラヴィスを救う手立てを考えてみるが、トラヴィスは意識を失っている。ゴーにもトリスタンにも分からないが、数千単位のスケルトンを使役した直後にマキシンに襲われたのだ。
 トラヴィスには反撃のチャンスさえなかった。首をつかまれ、一撃で気絶させられた。
 その直後に、二人が現われたのである。

 マキシンの周囲を護る風が、段々と色を帯び始めた。透明から、淡いグリーンの竜巻に変わる。

(なんだ、なにか持っているのか?)

 右手でトラヴィスの首をつかんだまま、マキシンは左手をその額に当てた。
 恐らく、ゴーとトリスタンが見た光景をそのまま語っても、信じる人間などおるまい。
 マキシンの左手が、トリスタンの左手に吸い込まれていく。そして、なにか白く光るものを取り出した。
 恐らく、なんらかの紋章であろう。
 少しの間、狂気の目でそれを見つめていたマキシンは、その光を、今度は自分の額に吸い込ませたのだ。

「…………。相変わらずの感覚だ。自分が自分でなくなるこの感覚がたまらないね」

 もはや用はないとばかりにトラヴィスの身体を放り投げ、ゴーとトリスタンにむく。
 グリーンの風を帯びた魔女は、その額を白く光らせたまま言った。

「今日は戦わないよ。この紋章は調整に時間がかかるのでね」

「貴様、何が目的だ!」

「目的? 目的だと? 紋章使いが紋章を求めるのは真理の追求のときじゃないか」

 むしろ、あきれたようにマキシンは言う。

「それよりもトリスタンといったか」

 目を向けられたトリスタンが、思わずぞくりとするほど冷たい目をしていた。

「こんな場所で油を売っていていいのか? ラインバッハ二世は、今日、貴様の本拠地を襲うといっていたぞ」

「なんだと!?」

 驚くべきことを言い残して、魔女は空中に飛翔した。

「くっくっく、これでまた戦える。さあ、次の戦いを! 次の次の戦いを!」

 叫んで飛び立った。同時に、トリスタンが逆方向に走り出す。
 トリスタンは自分の予測が完全に最悪な形であたってしまったのでは、と考える。
 ラインバッハ二世が、本拠地を襲う。まずい。今日は、最初、半数の兵を迷宮に配置していた。その間、本拠地の護りは半数になっている。
 そこを全力で襲われたら、半数の戦力では相手になるまい。そして、迷宮から撤退させた残り半数の兵が、待ち構えていたミドルポート勢に打ち砕かれる。
 これが、最悪の展開だ。そのようなことなどあってはならない。
 あってはならないと「願いながら」トリスタンはひたすら走った。

 だが、徐々に大地がぬかるんでくる。
 今日は快晴だ。沼地でもない。しかし、トリスタンの足元がぬかるんでくる。
 足がとられる。大地が、紅かった。

12-14

 トリスタンが視た光景は、恐らくこのオベル島の過去の風景のどれよりも陰惨で、どれよりも悲惨だったにちがいない。
 すでに、周囲にミドルポート兵たちの姿は無い。
 あるのは、「山」だ。
 土でできたものではない。
 人間の肉と骨と積み上げてできた、禍々しい山だ。
 しかも、できたばかりの柔らかさと暖かさを持っている。
 どれもこれも切り刻まれ、積まれたばかりのものだった。

 トリスタンは、すでに言語を発する能力を失っていた。
 自分の命令がこのような結果を招いた。二百人からの人間を皆殺しにするほどの愚かな命令を。
 それでも、吐気に襲われ顔面を蒼白にしながらも、生きている人間を求めた。
 少しでも、自分の愚かさの代償を求めた。救われたかった。

「……トリスタン君……」

 生者の、しかも知っている人間の声に気づいて、トリスタンは狂喜した。
 まだ、自分が許される余地はある。そう思った。

「先生……!」

 嬉々として振り向いた先に、許される余地はなかった。
 トリスタン勢力の生活のより所だったユウ医師がいた。
 ……下半身を失った、上半身だけのすがたで。

「………………!」

 必死でこみあげる涙と嘔吐感とを抑えながら、トリスタンは上半身だけのユウ医師を抱きしめた。

「先生、先生……!」

 ユウは、震える手で自分の左下あたりを指差した。
 だがそこには、キャリーの姿はない。他の兵士たちの遺骸が転がっている。

「すまんがトリスタン君、キャリー君を探してやってくれ。
 彼女は、ジュエル君が誘拐されるのを、ふ、防ごうと」

 生と死のギリギリにありながら、ユウは穏やかな表情を崩さなかった。
 もう、助かる状況ではない。それが分かってるから、伝えられるだけでも伝えなくてはならないと思った。

「か、彼らは、最初から」

「先生、どうか無理をなさらず」

 ユウを慮ったのか、最後の自分の許しを残そうとしたのは分からない。
 しかし、ユウは血と言葉をはくのを辞めなかった。

「彼らは、最初からジュエル君が目的だったようだ。
 必死になって、彼女を捜して……。キャリー君は、それを護ろうと……」

 トリスタンが何かわめいているが、もうユウ医師には聞こえなかった。
 足がないからどこにもいけない。ならせめて、喋れるうちに喋っておこうと思ったのに、この小心者め……。
 まあ、そこが、君の君たる由縁、魅力だったのだがね。

 ユウの手が、大地に落ちた。ユウのまぶたが、閉じた。

「も、もし、船に乗るなら、で、んせん、病に……」

 ……命が落ちた。
 ユウ医師。多少、変わり者だったが腕も知識も確かで、生涯をオベルと群島に尽くした医師として知られた。彼が遺した膨大なメモリアルは、後年の医学の発展に大きく寄与することになる。享年三〇。

 その遺体を抱きながら、トリスタンはしばらく泣き続けた。
 果てしなく泣き続けて、咳と嗚咽が混じりだした。
 涙が枯れはて、咳が嗚咽に勝るようになってしばらくして、彼は血を吐いた。
 だが、死ぬわけにはいかなかった。ユウ医師は、最期に彼に宿題を出した。
 彼の恩義に応えるためにも、その宿題を完遂しなければならなかった。
 なんとしてもキャリーを探し出し、ジュエルを奪還するのだ。

12-15

 その日、六月十四日夕方、ラインバッハ二世はすこぶる上機嫌だった。
 側に仕える給仕も、この気難しい男がこれほど上機嫌なのも見たことも無い。
 というのも、オベル迷宮内のスケルトンの全滅、八房の眷族紋章の一つの奪回、そしてジュエルの誘拐。
 順番に成し遂げるはずだった計画を、一日にして成功させたからである。
 そのために彼の貴重なペットが三匹ほど犠牲になったが、そのようなことなど、彼にとっては蚊に刺されたようなものである。何の問題も無い。

 八房の眷族紋章については、マキシンが勝手に自分に宿して帰ってきたが、これもかつて自分がつけていたものを奪った者への復讐が目的である、と聞いた。
 体よくマキシンが勝利して、奪回して還ってくれば万事問題ない。敗れてもよい。解決方法はいくらでもある。

 そして、ジュエルの誘拐。これが。これこそが、今夜、彼を最も喜ばせた。
 ナ・ナルを脱出してから長らく行方不明になっていた少女。未だに意識を取り戻していないが、亡くなったユウとキャリーの手厚い看護のおかげで、怪我も回復しなんの問題もないようだ。
 ただ、意識を取り戻さないことだけが彼女の知り合いとしては問題なのだが、ラインバッハ二世にはなんの関係もない。

 彼はこの晩、最高の儀礼を施してパーティーを開いた。さすがに大国の宮廷のマナーを知っている男で、その面で満足しないものは居なかった。
 ただ、相手がラインバッハ二世であることに満足した者が半数もいなかったのは残念だったかもしれない。
 この日は、地下に幽閉されているセツにも、普段は絶対に出されないであろう高級ワインが供された。彼は、事情は全く知らされていなかったものの、何かが起こっていることは理解して、口元の筋肉を引き攣らせながらワインを一気に飲み干した。

 さて、午後も九時を過ぎ、パーティーもたけなわとなった頃、その会場に、肝心の開催主がいなかった。
 ラインバッハ二世は一人、会場を抜け出し、地下の巨大な扉の前にいた。
 以前にも降りてきた、リタが封印されている泉の扉である。
 巨大な鋼鉄の門が、巨大な音をたてて開かれた。
 巨大な空間に、淡い青い光を発する泉が奥に湧き出ている。
 以前からここに、リタという少女が、魔術的な封印を目と口とを閉ざされ、腕を鎖で天井から吊り下げされている。
 今は違う。リキエという女性が、やはり目と口とを魔術的な封印で閉ざされ、物言わぬ姿で天井からリタと共につるされている。
 そして。

「順調か?」

 ラインバッハ二世が目を向けたのは、泉の沸く渕だった。
 そこに、丁寧にじゅうたんを敷き、裸体の女性が寝かせられていた。
 その周囲を、いかにも紋章魔術を研究していそうな三人の男性がいる。

 少女は、黒い肌と銀の髪をしていた。
 額には、ナ・ナル民族の証である三角形の刺青がはいっている。
 一七〇センチにせまる長身で、グラマラスな肉体をしているが、三人の男たちには、そちらの方面に興味はないようだった。

「紋章との相性は悪くありません。まだ肉体的な反応は確かめてみなければ分かりませんが、紋章との相性を思えば、きっと好結果が出るでしょう」

「よろしい」

 ラインバッハ二世は、ジュエルを見下ろせる位置まで来ると、ゆっくりと膝を落とした。そして、まるで拝謁でもするかのように頭を下げた。

「お前には、私が持つ二つのうち、一つをくれてやろう。最高の結果を見せてくれたまえよ」

 領主がなにをしようとして居るのか、実際のところ、知っている者も知らされている者もいなかった。
 あえて言えば、グレアム・クレイが理解はしているかもしれない。同調はさておき。

 そして、領主は三人の女性を残して、泉の部屋をあとにした。主催者が長く場をあければ、パーティーの参加者が不審に思うであろうから。

COMMENT

(初:15.06.15)