クォ・ヴァディス 73

12-4

「駆逐作戦……?」

 特に興味がなさそうな声でつぶやいたのは、目つきの鋭い長身の青年だった。
 オベル遺跡の地上部分、オベル王宮から山を二つはさんだ山間部に彼はいた。うっそうと茂る森林に開けた場所で、崖を挟んでさらに下に山間部が続き、オベルの海が水平線まで一望できる。
 そこは、どうやらスタジアムの遺跡のようで、過去に大勢の人間が歓声を上げたと思われる観客席のあとだけがその歴史を物語っていた。
 青年の前には、オベル王国の軍服に身を包んだ男が足を折っている。

「はい、ラインバッハ二世が業を煮やしたらしく、遺跡内での作業の完成の前に、モンスター討伐を決定したようです」

 情報とはどこからもれるかわからないものだ。特に、この島を奪った者がいれば、島を奪われた者もまだ島の中で息を殺して機をうかがっている。
 奪われた者たちのほうが焦っていることは間違いはない。その指揮を執っているのはトリスタンという男だ。
 ラインバッハ二世がオベルを襲撃したさいには、的確な指揮で犠牲を最小限に抑え、逃がせる者はみな逃がし、自分は島内でささやかな抵抗を続けている。

「それで……? 俺にどうしろという」

 男の言葉には、興味もなければ張りもない。自分には無関係な話だ、という意識が言外から零れ落ちている。

「トリスタン閣下は、トラヴィス殿との共同作戦を提案しておられます。
 この迷宮の中にラインバッハ軍を誘い込み、一気に殲滅すると。
 遺跡の内部を知り尽くし、独力で抵抗を続けておられるトラヴィス殿と我らが協力出来れば、必ず成功すると」

 トラヴィスと呼ばれた青年は、視線に棘を乗せて話を聞いている。
 面倒くさそうに体重を岩にあずけ、器用に草笛を作って見せた。

「まめに連絡をくれるおかげで、あんたたちの現状は知っている。
 ……が、俺にはかかわりのないことだ」

「無関係なことではありますまい。あなたは静かな生活を望んでいると仰られました。
 その生活を、ラインバッハ二世が壊しにかかってきているというのに」

 興奮気味の兵士を見るトラヴィスの目から、とげとげしさが消えた。しかし、それだけのことで、それ以上でもそれ以下でもなかった。

「俺の希望を知っているのなら話しは早い……。
 俺の静かな生活を乱しているのは、ラインバッハもお前たちも同じだ。
 俺から見れば、どちらも騒動の種に過ぎない……」

「………………」

 兵士は落胆の表情を隠さなかった。
 トラヴィスが静寂を求めていることは有名な話で、マクスウェルと縁があって群島解放戦争に参加したときも、常に人目を避けて一人でいた。
 その点はテッドに通じるところもあるが、テッドはアルドのおせっかいをある程度受け入れていたのに較べ、トラヴィスは徹底して自分の領域を守り続けた。彼の興味を惹いたのはネコボルトだけであったが、それも向こうからの関わりを求めたわけではなく、単に癒されるから見ていただけであった。

「ひとつ、お尋ねしてよろしいでしょうか?」

「答えるかどうかは俺が決める……。それでよければ」

 兵士は一息おき、深呼吸をして長身の青年を見上げた。

「ここのことろ、迷宮内のモンスターたちに異変が見られます。
 これまではおのおの本能で個体で動いていたモンスターたちが、どうやら徒党を組み、組織だった襲撃を行なっているようなのです。
 これは、あきらかにこれまでにない行動です。トラヴィス殿に、なにか心当たりはありませんか」

 トラヴィスはまったく表情を変えない。なんの興味も惹かれない視線も、ふてぶてしい口元も、だるげに岩に体重を預ける態度もそのままだ。

「俺は生物学者じゃない……。知りたいなら、他をあたれ」

 ある程度は予想はしていたのだろう。兵士は何も言わず、大きく頭を下げて立ち去った。
 トラヴィスはぼうと空を見上げた。この男は何時間でも雲の流れを見ていても飽きないが、今は別のことを考えている。
 さて、トリスタンはどのような反応をするだろう。落胆して激しく咳き込むだろうか。
 トラヴィスが考えても仕方ないが、知人であることに違いはない。死なれて気持ちのいいものではない。

 そのとき、兵士の立ち去った反対方向から、一人の男が現われた。
 現われた、というよりも、トラヴィスの頭上から飛び降りてきた。ずん、という地響きが、トラヴィスの身体をわずかに揺らした。
 異様な風体の男だ。全身の筋肉が凄まじく発達し、肌は紫色に変色している。狼の皮をはいだかぶりものをしているが、獰猛に輝く金の瞳と、異常に発達した犬歯は、紫の肌と合わさって強烈な獣臭を発している。
 その足は獲物を蹴り殺すためにあり、その腕は獲物を殴り殺すためにある。人目にはそうとしか思えぬような進化を遂げた肉体である。
 果たして「獣のような人間」というべきか「人間のような獣」というべきか、とにかくそんな筋肉の塊がトラヴィスの前に現われた。
 トラヴィスのほうがわずかに身長があるが、筋肉の厚みが全く違う。横の厚みのせいで、男のほうが縦にも大柄に見えた。見る者が見れば一種の錯視が起こるかもしれない。

「うがっ!」

 その「オス」としか言えない男は、抱えていた山狼の亡骸をトラヴィスの前に放り出した。
 今夜の飯にでもするつもりなのだろうか。
 トラヴィスの反応は薄い。しかし、彼にしては珍しく、トラヴィスのほうから男に語りかけた。

「どうやら、洞窟の中で一戦やらかそうとする「人間」がいるようだ……」

「!!」

 一応、人間の言葉は分かるのだろう、狼男が反応した。ひとしきり腕を振り回したあと、大きくのけぞり、発達しきった大胸筋を天に向ける。大きな興奮の表れであろう。

「これまでのような、モンスターと人間のいさかいじゃない……。
 人間と人間の悪意ある争いだ……」

 感情のこもらぬ目で、狼男を見るトラヴィスの口元には、先ほどまでにはなかったある決意が見て取れる。

「俺はこれまでどおり、「やつら」を「躍らせる」……。
 トリスタン側には被害を出さないつもりだが……。
 かつての仲間もいる。ゴー、あんたはどうするんだ?」

「ううううう………」

 ゴーがうなっている。拳を握り、脇を占め、上半身を震わせ、全身の力を溜め込んでいる。
 そして。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」

 その口から発せられたのは、もはや人語とも獣の雄たけびともつかぬ叫び声だった。
 常人のはるかに凌駕する肺活量の総てを使って、島じゅうに響き渡るのではないかと思われるほどの声を吐き出した。
 トラヴィスの表情が、珍しく変わった。わずかだが、口元に笑みが見えた。

「そうだな。ラインバッハ二世が何をしようが知ったことじゃないが、これ以上騒がれるのも面倒だ。
 静かに踊ってもらおうか。死者とともに……」

12-5

「そうか、あの男はやはり動かなかったか」

 森の奥深く、洞窟の抵抗施設の奥で部下の報告を聞き、トリスタンはとがりぎみの顎を撫でた。半ばは予想していた反応だったが、失望の成分もある。

「いや、そのほうが彼らしい。
 むしろ積極的な期待をかけていなかったぶん、大きな失望をせずにすんだことを喜ぼう」

 静かに気持ちの方向性を変えた。
 トラヴィスは変化のない毎日を望んでいるが、トリスタンはいま、大きな岐路に立たされている。
 彼を慕ってついてきた部下と市民たちをどうするか、という問題である。
 オベルを強奪したラインバッハ一味を容認することはできない。だからこそ、これまでも散発的に外部に出没しては、敵の守備隊にちくちくとダメージを与えてきた。
 だが、少数による反抗を長期的に成功させるには、外部からの何らかの支援が絶対に必用である。
 実際に、ラインバッハ二世はある程度の情報はともかく、港の監理は徹底しており、物質的にはほぼ完全にトリスタンを孤立させることに成功していた。
 そのあたりは、経済の専門家としての腕が摩滅していないことを表している。

 物資が外部から届かぬとあらば、自ら生産するか、外に奪いに行くしかないのであるが、「奪いにいく」という発想はどうしてもトリスタンにはなじまない。
 もともと理性的な精神の持ち主であったし、なによりも相手がオベル市民である。守るはずの市民を襲って略奪しては、行動も思想も支離滅裂だ。
 トリスタンはそこまでの境地に到達できなかった。
 あるいは開き直れなかった、ともいえるし、そこまでして生存する意義が理解できなかったともいえる。
 少なくとも、数年前からトリスタン自身は体調の悪化や戦争の経験で、精神的に常に「死」と隣り合わせにいたからである。

 だが、そのときと今とでは、トリスタンは立場が違う。
 独り身ならば好きなときに食って好きなときに死ねばよいが、多数の人間を養わなければならぬ現在、そのような身勝手は許されなかった。
 それだけの責任感を自らにかぶせて逃げなかっただけ、彼も賞賛に値する存在であった。悪しき前例はいくつでも存在する。
 では、実際にこれからどうすればいいか。

 トリスタンの最大の弱点は、軍事的な意味で信頼できる片腕が存在しなかった点である。
 彼のそばにはユウ医師がおり、またキャリーもかいがいしく動いていたが、彼らは生活面では心強いパートナーになりえたが、軍事作戦に関しては素人であり、腕を期待することはできない。
 また部下には剣術の腕が立つ者は大勢いたが、戦術面となると心もとない。戦略的には、トリスタン自身、選択をできる立場ではないことは分かっている。
 ただ一人、期待してよい人物もいたが、その人物はオベル失陥から現在まで、意識を取り戻していなかった。
 ジュエルである。彼女ならば、ガイエン海上騎士団で軍事の専門の訓練を受けているし、マクスウェルの片腕として経験からも臨機応変な嗅覚にも期待できた。しかし、目を覚まさないものは仕方がない。

 この日は、トリスタンの部屋をユウ医師が訪れている。
 彼は味方の心理的な柱として周囲が心配するほど働き続けているが、それを表情におくびにも出さない。変化といえば、長く伸びていた髪をばっさりと斬り、ようやく見た目の怪しさが抜けた程度である。

「そろそろ、選択の時期だと思うよ」

 と、ドクターは言った。

「いつかも言ったが、普通の人間の精神は、いつまでもちゅうぶらりんの状況で耐えられるほど強くはない。
 出て行くにしても、ここに根付くにしても、選択は早いほうがいい」

「それは職業上のアドバイスでしょうか、ドクター?」

「職業といえば職業かな。実際、兵はまだしも、市民たちは疲れ始めてきているよ。
 いつまでも洞窟の中でじっとしていて、ストレスがたまらないほうがどうかしている。
 健全な精神なくして、健全な肉体は存在し得ないのさ。逆もまた真だろうと言われれば水掛け論になるが、結局、どちらかが健全なうちに動かざるを得ないだろう」

 出て行くのならば、外部からの支援がない状態でラインバッハ二世と決戦してこれを打ち破るか、降伏するかの二者択一だ。
 ここに根付くのならば、洞窟を出て、少しずつ街を建設することになる。幸い、森の資源は無尽蔵だから生活には困らないが、兵たちはラインバッハ二世の驚異から市民を守らなければならない。
 自分に従わないとわかっている勢力を、ラインバッハ二世がいつまで見逃してくれるかは不透明だ。

「それともうひとつ。物資がラインバッハ二世の完全な管制下にある以上、情報もそうだと思ったほうがいい。
 ラズリルの情報が少しずつこちらに漏れている。これがラインバッハ二世の意図した上でのことなら、私たちもあえて泳がされている可能性がある」

「勇気を出して外に出て、ある程度栄えたところをばっさりやられるかもしれない、ということですね」

 自分で言って、トリスタンは嘆息する。自分に与えられた手の、なんと短いことだろう。
 これがリノ・エン・クルデスやマクスウェルであれば、さらに絶望したかもしれない。
 泳がされていると言うことは、いまのラインバッハ二世にとって、自分たちは歯牙にもかけられていないということだ。長く人を指導してきた彼らなら、即座にそれを理解したデあろう。
 結局のところ、トリスタンたちは無視してもさしつかえない勢力だと思われているのであり、事実、そうであった。
 ラインバッハ二世は国内の治安と海外への謀略に専心し、グレアム・クレイはリノ・エン・クルデスとの決着に向けて刃を研いでいる。トリスタンの反抗は、確かに身体に根付く痛みではあったが、歯痛のような鬱陶しさを伴うものではなかったのである。

 迷いに迷ったあげく、トリスタンは護りの選択をした。
 まずはこのオベル遺跡におけるラインバッハ二世のモンスター追討作戦に乗じて一撃を加える作戦を実行するが、それ以降は当面、防御以外でのラインバッハ二世に対する攻撃をやめ、生活空間の確保のために、この「黒の森カーラ・ネミ」の開発に専念すると宣言したのだ。
 食料や薬草などは、森を探し回ればいくらでも手に入るだろう。今はとにかく外での生活のための行動をすると。
 このあたりが、トリスタンという男の限界だったのかもしれない。エレノアなら、「降伏します」としれっと相手の下に出向き、ナイフで突き刺したであろうが、トリスタンにはそういった精神的な土壌がなかった。
 しかし、トリスタン自身が知るよしもないが、彼と彼の一党は、ラインバッハ二世にある目的で狙われていたのである。

 オベル遺跡は暗黒の中に波をうとうとしていた。

COMMENT

 

(初:15.04.08)