クォ・ヴァディス 67

11-9

 マクスウェルから先んじて無人島に帰ってきたアグネスは、島の防衛に当たっていたヘルムートとイザクに理由を話し、最大限に警戒を強めた。
 幸運にもビッキーは健在で、健康に不安はなく、彼女の周囲に特に怪しい人物が近寄ってきているわけでもなかったが、アグネスとしては二重にも三重にも警戒の網を張らざるを得ない。

 二日後、マクスウェルが無人島に戻ってきた。あの後、海戦に及んで敵を撤退に追い込んだこと、無人島では特に警戒すべき事態は起こっていないことなど、報告を交わした。
 まだ何も起こっていないだけで、これから何かが起こる確率は極めて高いといわざるを得ない。マクスウェルは、いっそうの警戒を皆に心させた。
 この深刻な幾度かの会議の最中、マクスウェルとミツバは、言葉どころか、視線すら交わそうとしなかった。この二人……というよりも、二人の持つ紋章の関係も、極めて危険なレベルで悪化しており、それに持ち主の二人が影響されていることは明らかだった。


 その晩、険しい表情で書物と向き合っていたアグネスは、とりあえず一息つこうと、自室から外に出て、小高い丘の上にやってきた。
 振り返ると、広い平野に猫型の愛らしい建物が何棟も並んでいる。一目には、ここが群島を騒がせている軍事集団の本拠地とは誰も思わないだろう。
 深夜だが、一部の建物にはまだ灯がともっていた。
 マクスウェルの建物。彼は総指揮者として、真の紋章の持ち主として、眠れない日々を過ごしている。
 ジーンの建物。彼女は、イルヤ島から大量に持ち込まれた「紋章の欠片」の研究を日夜問わず行なっており、その研究もすでに佳境に差し掛かっているときく。
 紋章の欠片はまだいい。問題は、その量だ。イルヤ島から持ち込まれた「紋章の欠片」は、総重量で一トンに及ぶ。何かの間違いで力が一気に解放されてしまうと、この島は軽く消し飛んでしまうだろう。
 誰もジーンを疑っているわけではないが、ジーンの研究室も、その隣の倉庫も、誰も好んで近寄ろうとはしなかった。
 ラインバッハの建物。ある意味、ここが最も平和で平穏な夜を送っているに違いない。ラインバッハお抱え楽師のエチエンヌの奏でるハープの音が、ここまで聞こえてきそうだった。
 無論、それは妄想であったが、アグネスの願望でもあった。

 そしてアグネスである。アグネスは、師であるエレノアの思索する戦略を実現させるためにここにいる。
 ……そのはずだったが、最近は自信をなくしつつあるのが実情だった。
 予想以上に早い周囲の展開は、自分に考える時間を与えてくれない。特に罰の紋章の異変が、アグネスの未来への思考に大きな波紋を投げかけていた。

「はあ……。なにやってるんだろ、私……」

 大木に背中を預け、大きくため息を吐き出す。結局のところ、マクスウェルを出汁に歴史を自分の手で作り出そうとしていたつもりが、真の紋章に振り回されて疲れるだけであった。
 エレノアとも頻繁に連絡を取れるわけでもなく、眼の前の大事は、結局自分でなんとかしなければならない。
 幸いにも、周囲には頼もしい人が多い。
 マクスウェルは人を強く惹きつけるカリスマがある。
 ヘルムートには周囲を安心させる実力と実績がある。
 タルには周囲を納得させる妙な愛嬌がある。
 ラインバッハとポーラには周囲の信頼を勝ち取る誠実さがある。
 だが、作戦行動においては、全てを立案するのは自分であった。それを採用するかどうかはマクスウェルの裁量によるが、採用されてしまえば自分の責任でそれを遂行しなければならない。
 余人とは異なる責任の大きさが、自分の両肩には乗っているわけで、これを持て余し始めているのも事実だった。

「疲れたのか」

 二度目のため息を吐こうとしたときに、背後から若い男性の声がした。
 クールーク海軍の制服をマニュアルどおりに着こなした、精悍な表情と銀色の髪を持っている。
 ヘルムートだった。

「他者が作ってくれた設計図どおりに事が進まないことに立腹している。そんなところか」

「そんなところですが、微妙にとげがあるのは気のせいですか」

「それだけ事がうまくいっていないというだけだ。気にするな」

 アグネスの隣に腕を組んで立って、ヘルムートは笑った。
 この男は公私の使い分けに厳しく、前線では部下の前でも激怒するわけではないが、笑顔を見せることも少ない。
 そのヘルムートが、笑顔を浮かべている。

「人が疲れているっていうのに、なにか楽しそうですね」

「楽しんでいるわけでもない。しかし、以前にクールークで卿の講義を受けて笑い転げたことがあって」

「今すぐ忘れてください。そして永遠に思い出さないでください」

「忘れ去るには惜しい記憶だ。だからというわけではないが、そのときの卿の表情よりも深刻だったものでな。少し気になった」

「深刻ですよ。こんなに深刻な悩みは、いままでに経験がありません」

 アグネスは大木のもとに座って、ヒザを抱え込んだ。表情をヘルムートに見られたくないようだった。
 それを上から見て、ヘルムートも少しはにかんだ。

「いまここにいるのは、一本の木だ。ヘルムートという軍人ではなく、一本の木だ。
 どうだろうな、その木に独り言をつぶやいてみるつもりはないか」

「独り言を促す木なんて初めて見ましたが」

 ひざの間からヘルムートを見上げてみたが、ついにアグネスも観念した。そしてつぶやいた。

「私は、エレノア様の構想を実現させに、ここにきました。まだ、その構想の実現には時間がかかります。
 それはいいんです。私の実力不足で説明できますし、改善どころさえ間違えなければ、ことを上手く進めることもできます。
 でも、いまの問題はそういうことではないんです」

「……………………」

 アグネスは、三度目のため息をついた。木役のヘルムートは、静かに聞いている。

「私が構想している作戦、オベル攻略も、ジュエルさんたちの救出も、すべてが人間を相手にした構想です。
 でも、先日のミツバさんの暴走を見て思い知らされました。「真の紋章」の恐ろしさを。その意志の強さを」

 アグネスは手を震わせている。かろうじて声が震えることは我慢しているが、その我慢はヘルムートに伝わっていた。

「いつか、マクスウェルさんが罰の紋章の意志に逆らえなくなる時が来る。
 いつか、ミツバさんが夜の紋章の意志に逆らえなくなる時が来る。
 もしもの話じゃないんです。どちらも実際に過去に起こったことなんです。
 もし、それが同時に起こってしまったら……」

「……………………」

「私たちは、人間対人間の闘争をしているはずなんです。
 それがこのままでは、真の紋章の代理戦争になってしまうかもしれない。
 私たちは、なんのために……マクスウェルさんが何のために戦っているのかわからなくなる。
 あれだけ渋っていたマクスウェルさんを焚き付けて、私はいったい何をさせてしまったのか、このままでは……」

 アグネスは声を震わせ、ひざを抱えた。
 マクスウェルを焚き付け、決起させたことが、いまの彼の苦しみ――罰の紋章の覚醒につながっているのだとしたら……。
 事件は、もっとシンプルに終わるはずだった。悪の権化であるラインバッハ二世を倒し、ジュエルやセツを救出し、晴れてハッピーエンドになるはずだったのだ。
 マクスウェルはジーンに言った。「一年もマクスウェルでいられれば充分だ」と。
 その全ての責任が、自分にあるのではないか。
 そう考えてしまうと、失意と絶望で心が破裂しそうになってしまうこともあったのだった。
 聞き役に徹していたヘルムートが、アグネスの肩を叩いた。

「卿の役割は、提督に勝利の道筋を示すこと。私の役割は、その道筋を勝利で舗装することだ。
 我らに分からぬことは、私たち以外の誰か答えを出してくれるさ。
 私たちはただ、勝てばいい。勝って提督の笑顔を絶やさなければ、おのずと良い結果がついてくる」

「それが一番難しいんですけど」

 涙声とあきれ声とを含んだ返答を、アグネスはした。しかし、わずかだが、前向きな要素も感じ取って、ヘルムートは空を見上げた。
 月が出ている。マクスウェルは罰におかされながら、どのような感覚でこの月を見上げているのだろう。
 自分たちの心とマクスウェルの心の間に、乖離がなければいい。それを願望として望むことしかできぬ無力さを、ヘルムートも感じ取っている。

「守るのだ、私たちの手で」

「……はい」

 力のない優しい声が、夜の空気に乗って島を駆け抜けた。

11-10

 外部に音が漏れぬからといって、そこが平和な時間を過ごしていると限らない。
 ジーンは、蝉の声と見張りの兵の声くらいしか聞こえない静寂の中、大量の書物と「紋章の欠片」に埋もれて生活をしている。
 部屋にこもっているときは紋章の研究に明け暮れ、部屋を出ればマクスウェルの主治医として、また他の者よりも紋章に詳しい者として質問の矢面に立たされる。
 また今日のように、希にだが強敵との紋章戦に巻き込まれることもある。楽な仕事ではない。

 しかし、ジーンがマクスウェルから依頼された「紋章の欠片」の研究は、すでに終盤に入っている。
 各種の紋章の欠片の成分の分析は終わり、最大の難問であった、欠片から紋章に戻すための完全な理論化、また逆に紋章から欠片に分解するための基礎理論も完成しつつある。
 もしもこの理論が上手く完成すれば、さほど腕のない紋章師でも、「紋章の欠片」を紋章に戻し、それを他人の体内に宿すことができるだろう。
 ジーンのやっている実験とは、そういった類のものだった。紋章師の世界から見れば「禁忌」の領域の研究であろう。
 それほど紋章とは力を秘めたものであり、だからこそ、力ある者が確実に制御しなければ危険なのである。

 しかし、マクスウェルの常軌を逸した依頼を、ジーンは引き受けた。彼女自身、閉塞したこの運命の輪廻に対して思うところはあったし、これだけ深く紋章の世界に関わるジーンでも、知らぬことはいくらでもあるのだった。

(さて、あとはこれを実践で試すだけ。機会があるかどうかわからないけれど……)

 機会がなければぶっつけ本番ということになる。恐らくマクスウェルは死に、彼を中心に半径数十キロが死滅して、荒野の世界となるだろう。何千という人間が犠牲となる。
 恐らく罰の紋章が破壊されることはないだろうが、次の継承者は、これまでの継承者よりもはるかに離れた土地の人間となるだろう。

(……………………)

「あと一年もマクスウェルでいられれば十分だ」

 ジーンはマクスウェルの言葉を脳裏に蘇らせた。
 自分が宣告し、マクスウェルが納得したあの言葉は、真実だ。あのときは真実だった。
 しかし今は違う。マクスウェルは、いつマクスウェルでなくなってしまうのか、分からぬほど追い込まれている。真の紋章が追い込んでいる。
 それは、マクスウェルだけでなく、ミツバも同じはずだ。海面を断ち割り、海の中に断層を作り出したほどの圧倒的な力。
 本来、夜の紋章は、そういった力学的な破壊力で優れた紋章ではないはずなのだ。それでもあの破壊力である。
 マクスウェルが罰の紋章との相性が良いように、ミツバとて夜の紋章との相性が悪いわけではないのである。
 しかし、巨大な力には巨大な代償が必要とされる。自我を失いそうになっているマクスウェルと同じようなことに、ミツバもなっていないと断言はできない。

(……………………)

 ジーンは眼鏡を外し、こめかみを少しもんだ。考えなければならないことが多すぎた。
 そして、その考え事をちょうど中断したときに、自分の背後に気配を感じて振り返った。

 十歳くらいだろうか。小柄な少女が、いつの間にか現われていた。現代風ではない、特徴的な模様のワンピースを着ている。
 表情というものは感じられないが、目元にはわずかに柔らかな光がやどっていた。
 やや外に跳ねた特徴的な黒のクセっ毛を腰まで伸ばしており、自分の身長ともあろうかという杖を握り締めている。
 彼女がこの無人島に来たのは始めてのはずだが、その少女を見れば、おそらく皆、同じ名前を挙げるだろう。

「お久しぶりね、ビッキー」

 ジーンはまるで昔の知り合いに久しぶりに逢ったときのような態度で、その少女を出迎えた。突然の訪問だというのに、ジーンには焦りも驚きもない。
 ビッキー、と呼ばれはしたが、オベリア・インティファーダにいるもう一人のビッキーとは明らかに別人であった。
 ただ、いまジーンの目前にいるビッキーが年齢を重ねれば、マクスウェルの元にいるビッキーに育つかも知れない、という予想はできるかもしれないが。

「コーヒーがいいかしら、それとも紅茶?」

「紅茶を頂こう。コーヒーにはろくな思い出がない」

 進められたわけでもないのに、ビッキーはジーンのテーブルの対面に陣取った。
 そして、膨大な書物と紋章の欠片に視線を移し、怪訝な顔をした。
 対照的にジーンはくすくすと微笑みながら、二つのティーカップを用意し、自分とビッキーの前に置いた。アールグレイの香がビッキーの嗅覚をくすぐった。
 しかし、ビッキーはアールグレイの香りには関心がないようだった。別の話題を鋭く切り出した。

「【八房】の眷属が動き出している。当然、知っているな?」

 少女にしては慇懃な物言いだが、昔ながらの知己であるジーンは責めようとはしない。

「もちろん」

「それでは、ひとつ聞いておく。この責任、どう収めるつもりか」

「責任?」

「誤魔化すでない」

 少しいらつきを言葉にちらつかせて、ビッキーはティーカップを唇につけた。

「この世界のコトワリのすべて、あなたが知らぬはずがない。
 【罰】が興味本位で【夜】に【太陽】との絆を断ち切らせ、【八房】がその後の世界を観察している。
【黄昏】【黎明】、この二つは太陽の涙にすぎぬ。しかし、【一鬼】から【八鬼】までの【八房】の眷属は、各々に学習能力を身につけ、世界の総てを吸収しようとしている。
 人の世の理を吸収してどうしようとしているのかは知らぬが、そこに【罰】の与える影響は無視できぬ。【罰】と【八房】は表裏一体。まして【罰】の意思がこれほど強くなった現在、すでに状況は人の手で制御できる段階を超えているのではないか」

 思っていることを一気に吐き出して、大きくいため息をついてから、ビッキーは最後の紅茶をのどに流しこんだ。
 そんなビッキーに、少し落ち着くだけの時間を与えてから、ジーンは解説に転じた。

「マクスウェルは未だに、この事件を真の紋章同士の争いではなく、人間同士の戦争で終わらせようと画策しているわ。
 罰、夜、八房、ソルファレナの太陽。これだけの真の紋章が絡んでいるというのにね。
 そして彼は、そのための切り札をもうすぐ手にするでしょう」

「…………!?」

「もっとも、完成まではもう少し時間がかかるでしょうけれど」

 数秒、ビッキーはいぶかしい顔をしたが、自分の周りの紋章の欠片の山と書物を見てから、少し苦々しい笑顔を作った。

「……なるほど、それがこのおびただしい紋章の欠片の山というわけか。
 群島の自然資産を食いつぶして、マクスウェル一人を死に追いやるのか」

「彼を生還させるための術式よ。そして【罰】を永遠に歴史の闇に葬るための……」

「……ものは言いようだな、紋章師殿」

 ビッキーはカップを静かに置くと、自分の手鏡を懐から取り出した。鏡を手にしたまま目を閉じ、なにかを念じている。
 うっすらと、二人の前に何かが現われ始めた。徐々にその姿が濃くなっていく。
 それが全身に黒い鎧を纏った男だとわかったのは、二分ほどたってからであった。
 しかし結局、それは実体化はしなかった。幻のまま、空ろに姿を映しているだけである。

「さすがに、あれほどの男となると、直接呼びつけることはできぬか」

 皮肉をこめたのか本心なのか、ビッキーは細く笑った。

「ペシュメルガ……」

 逆に、ジーンは表情を曇らせた。この二人、いや三人の間に何があったのかは、知る者はいないだろう。恐らく、永遠に。
 しかし、ここで意外なことが起こった。手鏡を懐にしまおうとしたビッキーが、つい鼻をうずかせた。

「くしゅん!」

 大人びた物言いのするビッキーでも、自然に出る声は年齢に相応のものだった。幼いくしゃみの音が響いた瞬間、鏡から光が漏れたのだ。
 光が漏れたのは一瞬で、部屋はすぐに薄暗い灯に戻った。
 戻らなかったのは、場の空気だ。三人・・が、三様の表情で固まっている。
 ジーンは怪訝な表情で口を真一文字にしている。ビッキーは無表情で固まっている。自分のしでかしたことが何を起こしたのか、理解はしているようだった。
 そして、突然現われた「三人目」。

「……ここはどこだ。メルヴィス? 会議は……。
 あれ、おい、どうなっているのだ、なにが誰をどうした?」

 見事に混乱している。それは混乱するだろう。
 声から判断すれば、女性とも男性ともとれるハスキーな声だが、その表情と男物とはいえ軍装から垣間見える体格は、明らかに女性のものだった。
 金色のセミロングの髪と淡いグリーンの瞳を持ち、黒一色の軍装に身を固めている。
 女性は混乱しているが、判断力は的確なようで、とりあえず目の前にいる女性に状況を求めた。ジーンは、相手の混乱を沈めるためか、少し笑顔を浮かべた。

「申し訳ないけれど、まずはあなたから名乗っていただけないかしら。
 おそらく、そちらのほうが説明しやすくなるから」

「これは失礼した」

 もともとが礼儀正しい性格なのだろう。女性は居住まいを正した。
 しかし、右手は常に剣の柄にかかっている。警戒心を解いていないのは分かるが、いつでも相手を斬れる自信があるのだろうか、セミロングの金髪を揺らし、黒一色の軍装を整えなおした。

「私の名はクロデキルド。冥夜の騎士団を率い、祖国アストラシア奪還のために戦う者だ。
 現在はジャナム魔道帝国に身を寄せている」

 数秒の沈黙。ジーンは、突然現われたこの珍客に笑顔を向けるのと、ビッキーに対して呆れの表情を見せるのを器用に同時にやってみせた。
 優雅な動作で、クロデキルドと名乗った女性に席を勧めた。クロデキルドは、剣に手をかけたまま、とりあえずジーンの向いに腰を下ろした。

「あなたの立場と誠実さが同時に分かる、素晴らしい自己紹介でしたわ。
 とりあえずコーヒーか紅茶をご用意しましょうか」

「失礼だか、ご遠慮しておく。どちらも今の私は必要としない。
 いまの私に必用なのは、現状の説明だ。まずここはどこで、君たちは誰だ」

 クロデキルドは、裸に近いジーンの衣装に特に気をとられているようだが、ジーンが黒髪の少女に視線を向けたので、自然と自分の視線もその少女に向いた。

「その解説は、あなたがするべきね、ビッキー?」

 ジーンは落ち着いている。クロデキルドの警戒心も、つられて落ち着いて生きているようだ。くせっ毛の長い黒髪を持つ少女は、「やれやれ」といわんばかりにためいきをついた。

「あなたが百万世界のいずこから現われた、という事実は理解した。
 ここは君たちがいた世界とはややことなるが、その百万世界のうちのひとつだ。
 私は本来は、「同一世界間」の空間を「同一存在」として行きかうテレポーター、【変化の兆し】なのだが……」

「失礼だが、手短に頼む」

 自分が原因の癖に呆れているビッキーに、クロデキルドが呆れている。少しじれた言葉で、いった。
 ビッキーが、懐から小さな手鏡を取り出した。

「あなたがこの世界に移動してきた原因は、この鏡だ。
 あなたの世界にも、世界観を行きかう「扉」があるはずだ。
 こちらの世界では、この鏡がその扉の代わりとなる。もっとも、同一世界を移動できるだけで、別の世界にはいけないという制限はあるが」

 気難しそうな表情で右手で顔を覆い、クロデキルドはため息をついた。ビッキーが続ける。

「しかし、あなたの世界にはないものが、こちらにはある。これだ」

 言って、右手の甲をクロデキルドに見せた。そこには、複雑な文様が刻まれている。

「こ、これは」

「あなたの世界では星の力と呼ばれるものだ。こちらでは紋章という。
 個々人によって違いはあるが、比較的誰でも使うことができる。
 特に、そこにいるジーン嬢は、この世界最高峰の紋章術士だ」

「紋章術……」

 話が突然すぎて、何がなんだかわからない。
 アクシデントには違いないが、想像を絶するアクシデントだ。

「それで、私はきちんと私の世界に帰してもらえるのだろうな。
 場合によっては、貴公らを斬ってでも……」

「私を斬っては帰れぬぞ。鏡の使い方は分かるまい」

「誰のせいだと思っている!」

 ビッキーにつかみかかる勢いで怒鳴ったクロデキルドを、ジーンが諭した。

「ビッキーは、ある男性をここに呼ぼうとしたの。
 でも、その男性の存在は強大すぎて、彼女の力では鏡が制御できなくなってしまった。
 そこで、鏡が誤操作を起こしてしまったのよ。それであなたがこちらに呼ばれてしまった」

 クロデキルドは、今度は腕を組んで肩をすくめた。戻ることのできない異世界。たちの悪い冗談だ。
 しかも、よりによってアストラシア奪還直前というこの時期に……。

(メルヴィス、ロベルト……アスアド殿……)

 仲間は心配しているだろう。どうすればいいことか……。
 途方にくれてしまったクロデキルドを見かねてか、ビッキーが口調を変えて口火を切った。

「あなたが自分の世界に帰れる可能性のある方法がある。しかし、可能性は低い」

 希望。そこに希望が示された。冥夜の騎士団は決して希望を捨てない。
 クロデキルドは表情を組み替えた。真剣で深い光を、グリーンの瞳にこめる。
 ビッキーの表情は変わらない。

「あなたの世界には、世界にひとつずつ「真正なる一書」と呼ばれる書が存在するはずだ。
 それに似たものが、この世界にもあるのだ。「真の紋章」と呼ばれるものが」

「危険すぎるわ!」

 ビッキーの意図を察したのだろう、ジーンが身を乗り出した。
 だが、クロデキルドはそれを手で制した。

「その激昂に感謝する。だが、私は帰らねばならぬ。
 可能性があるならそれに賭けてみよう」

「クロデキルド……」

 ジーンが座りなおし、クロデキルドが足を組みなおし、ビッキーの表情が真剣なものに代わった。

「ここはその「真の紋章」を持つ者をリーダーとする集団だ。そして、「真の紋章」がここにはもうひとつ存在する。
 現在、彼らの目的は人間同士の闘争だが、すでに「真の紋章」が深く関わっている。
 大魔導師ウォーロックが開いた異世界への門、そして先のクールーク崩壊のときにキリルが異界に行ったのではないかと言う噂。
 真の紋章の力を用いてこれを開くことができれば、世界間移動の可能性は出てくる」

「雲をつかむような話だわ」

「真の紋章というのは、そんなにすごいものなのか?」

 おそらく、クロデキルドには他意はなかったのだろう。好奇心で発した質問だった。
 しかし、重苦しい表情で、ジーンとビッキーはうつむいた。真の紋章は、多大な力と引き換えに、多くの血と死体を量産する。これまでも。そして、おそらくこれからも。

「……すまない」

 つい、クロデキルドは謝っていた。


「とりあえず、クロデキルド嬢は休むといい。
 ここでは落ち着かぬというなら、誰かに声を掛ければ誰かが部屋を貸してくれる。
 とにかく、いまは休むことだ」

「休ませてもらえるなら、ここがいい。
 いまさら他の部屋に行く元気もない。ジーン殿、いいか?」

「私は歓迎よ。ベッドはあるから、自由につかってちょうだい」

「ありがたい。リーダーとやらには、明日挨拶をさせてもらうよ」

「パジャマは、私のものを使うかしら?」

 ジーンの質問に、ジーンのいまの服を見ながら、クロデキルドは目を白黒させながら首を横に振った。
 あのような、紐のようなものだけを身につける勇気は、さすがのクロデキルドにもない。

「いや、このままでいい。じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 クロデキルドが隣室に去り、ビッキーも立ち上がった。どこかで休むのだろう。
 だが、去り際に残した言葉は、ジーンにはきつい言葉となった。

「忘れるな、【運命】の代行者よ。この戦争の全責任は、あなたたちにある。
 直接の原因はともかく、【八房】の眷属を世界にばらまいたのは【運命】だ。
 これが【罰】と【八房】の邂逅が為せる因果であるならば……、【原聖痕】も含めて、総てが黙ってはいない。
 すべてがあなたを滅ぼすだろう。【門】も【獣】も、【円】ですらも」

「そのときはそのときよ、【変化】の兆しさん。私が【運命】のくびきを外れることがあるのならば、すべての因果を背負い、一人でその咎を受け入れるわ」

「一回死ぬくらいでは購えぬ咎だ!」

「なら、死に続けるのでしょう、永遠に。そこに、死という事実がある限り」

「……………………」

 ビッキーは、懐から再び手鏡を出す。今度は失敗しないよう、慎重に扱っているように見える。
 ただ、ジーンの前から消える前に、小さな声で、一言だけをつぶやいた。

「ならばそうならぬように……総てを、奪還する」

 ビッキーが消え去った。クロデキルドも寝室に入った。急に静かになった部屋で、膨大な書物に囲まれながら、ジーンは儚げな笑顔でつぶやいた。

「……ありがとう」

COMMENT

(初:14.07.30)
(改:14.08.05)
(改:14.08.06)
(改:14.08.16)
(改:14.08.22)