クォ・ヴァディス 65

11-5

 それは、マキシンが時間を稼ごうとし、ジーンが一瞬なりとも手を出しかねたとき だった。
 マキシンが揺れる船上に人影を見出した。マキシンにとっては懐かしい顔だ。良くも悪くも、群島解放軍の中で異彩を放っていた女詐欺師。
 自分がそうであったように、この女詐欺師も、随分と変則的な経緯でマクスウェルの仲間になったと聞く。
 思うところがあったと言うわけでもないが、マキシンとミツバは何度か話す機会があった。
 不思議な娘だったことは間違いない。群島解放戦争の旗艦オセアニセス艦内では、マキシンは人目を避けて目立たない場所に自分の居場所を作っていたが、ミツバはどういう経緯でか、いつもマキシンを発見して話しかけてきた。
 関わると面倒になりそうだったが、会話を拒絶するともっと面倒なことになりそうなタイプの人間だったので、マキシンにしてみれば「やむなく」会話を成立させていた。
 ミツバに仲間になったわけを問うと、「負けたから」とシンプルな回答が返ってきた。戦うわけを問うと、これまた「約束だから」とシンプルな答えだった。
 つまりは、人生を難しく考えないタイプの人間らしい、ということだけは分かった。

 そのミツバが、自分の目の前にいる。なにかを思いつめたような顔で、アリアンロッドの船上に立ち尽くしている。
 この娘には不似合いな顔のように思えたが、その原因のひとつは自分だろうから、マキシンは何も言わない。
 隣に立っているリシリアが声をかけようとして、途中でそれを思いとどまった。思いとどまらせるような何かを、今のミツバは持っているのだろう。
 たった一瞬の状況の変化で、そこまで見分けてしまうマキシンの嗅覚も尋常ではないが、次のミツバの行動は、そのマキシンにも予想はできない。
 予想できないような行動を起こすから、この娘は危険なのだった。

 マキシンに続いて、ミツバの行動を、その場にいる者が見守っている。
 他の誰にも介入できない要素を持っていたとはいえ、その場で積極的に動くものがいなかったのは、この場のマクスウェルにとっては不運だった。
 ロジェが予想以上に踏ん張ってジャンゴ一家を遠ざけていたのも、マクスウェルの計算違いだった。ロジェとリキエさえ早急に確保できていれば、次の状況は変わっていたかもしれないからである。
 というよりも、後の歴史家たちの間では、「きっと変わっていただろう」という意見が大勢であった。無論、群島の歴史に最も詳しい老ターニャは、その意見には肯定も否定もしていない。なんの意味のない行為だからである。

 とにかく、マクスウェル一派はマキシンを倒すのにも、ロジェを倒すのにも梃子摺った。これが歴史書に記された全てである。その結果も。

 ミツバはゆっくりと抜き身で持ったままの「剣」を構えた。
 両手で持ち、思い切り頭上に掲げるように構える。確かにツーハンドのソードだから、構え方は間違いではない。
 しかし、つい先ほどまで大魔術が飛び交っていた魔術師の戦場に殴りこむには、あまりに無防備で、無作為な構えにも思える。
 剣士に、そこからいったい何ができるのか、できることがあるのか、誰にもわからない。
 ただ、ミツバの持つ剣が「真の紋章」だと気づいている艦橋の人間とジーンだけが、その空間に満たされつつあった危険度を察知した。

「アリアンロッドの前にいる船を下げて!」

 ジーンの叫びが聞こえたわけではないが、マクスウェルがほぼ同時に何かを察知した。もっとも、彼のそれは船乗りとしての洞察力であって、ジーンの直感とは少し違う。

「全艦、アリアンロッドよりも後退せよ。アリアンロッドを先頭に、艦隊をV字に組み替える。後退!」

 マクスウェルの命令が飛ぶ中でも、ミツバの表情は変わらない。
 彼女の周囲で船が忙しく動きそうになったとき、その「声」が聞こえた。

「我が名は「星辰」――我は、ただ一振りの刃。
「真」のえにしを裂く、ただ一振りの護法剣――」

 誰もが理解した。その声を発しているものが、ミツバの持つ剣なのだということに。
 空気が震えている。この海域にある全ての大気と、全ての海面が震えている。
 その異常な力の発生のすべてが、このたった一人の少女と、たった一振りの剣が原因なのだと、それを視認できる位置にいる全ての人間が理解した。
 それを使わざるを得ない状況に追い込む星回り、そして、それを周囲に強引にでも知覚させてしまうほどの異常な力。
「真の紋章」を持つ者が逃れることができない「定め」とでもいうべきなにかなのだろう。

 リシリアは何が起こっているのかわからず、声を上げることすらできない。しかし強がっているのか、その場を離れようとしない。
 そんなリシリアの腕をひっぱって、シメオンがミツバの側からリシリアを引き剥がした。せめてできるだけ離れていないと、ミツバの邪魔になる。
 邪魔になるだけならまだしも、その力の解放に巻き込まれれば、リシリアだけでなくどんな生命も一瞬に灰燼と化すだろう。
 そう、この場にいる何人かは、思い起こさざるを得なかったのだ。
 自分たちのリーダーが、オベル沖で見せたあの恐るべき光景を。「罰の紋章」の恐るべき力が、オベルを破壊し損ねた、あの驚愕の光景を。
 シメオンはその場にいたわけではないが、この見た目よりもずっと年輪を経ている男は、真の紋章の何たるかをよく知っている。
 その男が、リシリアをなんとか艦橋に行かせようとした。

「リシリア、ここからできるだけ離れろ。でないと、命が消し飛ぶぞ」

「駄目だ、離れない。同じ敵に二度、背を向けるなんて嫌だ!」

「生き残る可能性があるなら、二度が三度でも背を向けろ。ここで死ねば三度目はない」

「導師が行かないなら、私も行かない!」

 何度聞かれても、リシリアの答えは変わらない。
 大汗をかき、ひざを震わせながらも、この気丈な娘は表情から強気の欠片をなくさない。
 どうやらマキシンに背を向けるのと同じくらいに、同じ紋章使いとして真の紋章から逃げるのが嫌のようだった。
 この強情娘は、と思いながらも、シメオンはリシリアの、彼女なりの「筋の通し方」を憎みきれずにいる。

「では、できるだけ私の側におれ」

 シメオンほどの魔力と少しでも身を隠せる空間があれば、真の紋章の純粋なエネルギーからも、少しはダメージを避けられるだろう。

 その間も、「夜の紋章」の放つ「力」は、いよいよ増している。ただ剣を構えているだけだというのに、すでに艦橋はその大気の振動で破壊されそうになっていた。
 その様を観ながら、マキシンは口の端を笑みで吊り上げ、ジーンは口の端を苦々しげに下げた。

「護法剣、はは、こいつはお笑いだ。
 猛るのは結構だが「夜」よ、「月」はともかく、「太陽」と縁を分かったのは、貴様の勝手な行動が原因ではなかったか。
 それで「護法」など名乗るか、「真」の守るべき「法」はそのような程度の低いものか、「夜」よ!」

 マキシンの言葉は、明らかにミツバの持つ剣の正体を知っている者の言葉だった。

(やはり、「第五」の力と知識とを、自分のものにしている。
 いま引き離しておかないと、必ず後顧の憂いとなる……。チャンスは多くて一回……)

 ジーンはミツバだけではなく、広く戦況を分析しながら、自分の考えをまとめていく。
 こと紋章がからめば、この紋章師は意外と軍師としての才能があるのかもしれない。もっとも、優れた戦術家 にはなれるかもしれないが、戦略家になれるかどうかはまた別の問題である。

 物事を受容するほうにとって、覚悟の質も形も違うが、事を為すほうにとっても覚悟の質が常とは違っていた。
 ミツバ――「夜の紋章」を掲げるこの少女は、いつもならば剣を喜んで振るう。
 その結果がどうあれ、常に全力を出すのが楽しく、それに応えてくれる強敵に出会えるのが楽しい。
 先のマクスウェルとの戦いで、ついミツバは叫んだ――「もっと人生を楽しめ」と。どのような状況であろうと、これがミツバの人生哲学であるはずだった。
 ならば、この今の空虚な気持ちはなんなのだろうか。
 自分のためではない。それどころか、誰のために振るうのかも定かではない剣。
 ミツバの長くもない剣士のキャリアの中でも、こんなにもやもやとした剣劇は初めてだった。
 だが、振るわねばならない。
 自身の保身のため? ――くだらない。無理にオベリア・インティファーダに固執しなくても、自分の生きていく道はいくらでもあるはずだ。
「夜の紋章」のため? 「罰の紋章」のため? それこそ、考えるにも値しない。マクスウェルの境遇には同情するが、そのために命を懸けなければならない義理など、自分にはない。せいぜい、自分の意思に反して涙が零れ落ちるくらいだろう。

 それでも―――。

「くるわ、気をつけて!」

「全員、ショック対応姿勢―――っ!!」

 船外と船内で、全く別の声がほとんど同じ意味の命令を発した。このマクスウェルの指令は、ほぼ光速で艦隊内に伝播した。
 アリアンロッドだけでなく、その場にいたオベリア・インティファーダに属する全艦が感じ取ったのだ。大変なことになると。ここで身を隠さねば、大変なことになると。

「行くよ――星辰剣――」

 ミツバはこの剣を振るわなければならない。
 とてつもないエネルギーを内包したまま、背をそらすほど大きな構えを見せ、ミツバの大柄な身体が、文字通り、「空を飛んだ」。
 この瞬間を目撃した者には、後に手記や手紙の類を残した者が多くいる。そして、このときのミツバの状況は、ほぼすべての資料が同じ表現を用いていることが興味深い。「空を飛んでいた」と。
 正確には、ミツバは空を飛んだわけではなかった。夜の紋章から漏れ出したエネルギーを空気の壁と化して、それを蹴りつけたのだ。
 あまりにも勢いがありすぎたために、空を飛んだように見えたのだった。

 その剣先の向くのはただ一人、今や「八房」の眷属の一つを完全に我が物としてしまった強敵、マキシンだった。

11-6

 そのやり取りが行なわれたのは、ほとんど一瞬だった。少なくとも、周囲の観測者たちから見ればそうだった。
 だが、結果が予想と大幅にずれた。この結果を予想しようと思ったものが、そもそも何人いるか分からないが、その何人かが数秒、目を押さえているうちに、恐るべきことが起きた。
 まず、エネルギーの伝播が来た。衝撃対応姿勢をとっていたにもかかわらず、何人もの人間が壁に叩きつけられ、何人かは地面への不本意なキスを強制された。
 マクスウェルは、ミツバの行動を最初から最後まで睨みつけるようにして目撃した一人だ。
 ミツバは、旋風の紋章を持つリシリアの力を借りずに、アリアンロッドの甲板よりもやや上空にいるマキシンにむかって、空中を疾走した。
 そして、大きく振りかぶった剣を、そのままマキシンの顔面にむかって振り下ろした。
 しかし、これは避けられてしまったようだ。その直後、マキシンが何らかの反撃に移ろうとしたところで、地を震わすかのごとき大音量を衝撃で、波が音を立てて吹き上がった。
 マキシンを切り付けられなかった夜の紋章とミツバが、そのままのエネルギーを海面に叩きつけたのだった。
 このとき甲板にいたリシリアも、シメオンのローブの陰に隠れながら恐るべき光景を目撃している。

「海が割れていた」のだ。

 ミツバが力任せに海面にたたきつけた剣は、文字通り、「海を真っ二つにしていた」のだった。
 距離にして二キロ、幅百メートル、深さ五十メートル、と、事実を数字に直すのは簡単だが、それを現実として受け入れられるかどうかは別問題である。
 後にも先にも、リシリアが五十メートルを超える海底の砂を直に見たのは、人生でこれが初めてで、そして最後だった。
 自分が敵にし、味方にしている者たちは、果たして人か、魔か。リシリアにはすでに区別がつかない。
 海を叩き割ったミツバは、つまらなそうな表情をしていた。
 望みもせずに披露した大道芸を後悔している、そんな表情だった。
 一瞬、海底に着地してため息をついたが、大海嘯と化した海水は、すぐに元の位置に戻ろうとする。ミツバも船に戻らなければ、海水に押しつぶされて海の藻屑と消えてしまうだろう。
 海上は、すでに海戦どころの騒ぎではなくなっていた。激しい紋章戦のあとに海を叩き割られて、なお海戦を継続しようという勇者は、さすがにオベリア・インティファーダにもジャンゴ一家にもいない。
 マクスウェルは、ロジェとリキエの状況と、マキシンの状況と、同時に確認せねばならなかった。
 マクスウェルがいくつもの指令を飛ばす一方で、現場の戦いは続いている。
 海を叩き割ったミツバは、つまらなさを表情から消そうともせずに、勢い良く空中に飛翔した。彼女の持つ剣が、凄まじい黄金の光を放ったままだ。

 緊張の水位が全く下っていないのは、もう少し上の状況だった。
 二人の女性が、相反する表情でにらみ合っている。マキシンは先ほどまでの余裕をどこかへ捨て去り、自分の頭を抑えながら、眼の前の女性を睨みつけている。
 相対しているジーンの表情にも緊張感はあるが、こちらにはすでに余裕が生まれていた。その右手が、わずかに白い光を発している。

「まんまと一杯食わされたね。ミツバが直接斬りにくると思わせておいて……」

 歯軋りが聞こえてきそうなマキシンの声を、ジーンは聞き流して、その右手の光を大事そうに眼前に持ってくる。

「自身と「太陽」との絆を断ち斬ってしまう「夜」の因縁……。
 いかに「八房」といえど、眷属ならばもしやと思っていたけれど」

「眷属と私(所有者)の「縁」を切り離したのか」

 ジーンとマキシンが空中で相対していられる時間は、そう長くはなかった。即座に、旗艦アリアンロッドから次の変化を知らせる声が届いた。

「南、敵勢力と思われる小艦隊を確認! 距離約一二〇〇!」

 マキシンやロジェたちと落ち合う筈だった艦隊が、ようやく追いついてきたのだ。
 予定どうりにいけば、ここで人質リキエの引渡しを済ませ、何事もなかったようにマキシンもロジェも、オベルか、いずこかへ姿を消したのだろう。

「ジャンゴたちはリキエさんの救出を続行。こちらは交戦準備を」

 マクスウェルの指令は即座に届いたが、ジャンゴたちから返ってきた応えは、彼を何一つ満足させなかった。ロジェ、リキエとも確認できず、船内に人影なし……。
 その不意に消えた人影は、マクスウェルがジャンゴに次の命令をだした前後、突然、マキシンの側に現われたのである。
 彼は、投網のようなものにぐるぐるまきにされた何かを肩に担いでいた。

「マキシンさん、応援が来ました。ここはとんずらするのが正解ですよ。
 人質さえ連れて行けば、とんずらが悪いなんていわれていないんですから」

「……くそ」

 マキシンは、分かるほど不快な顔をしたが、敵味方の船が入り乱れになりそうな状況も分かっていた。
 この状況で何を優先させるべきかも。

「ジーン、そしてミツバ。貸しておくぞ。その紋章を私は必ず取り返しに来る」

 はったりとも聞こえぬ怒りをこめて言い放ち、マキシンがロジェの側に寄った。
 ロジェは大きな荷物(おそらくリキエだろう)をかついだまま、もぞもぞと懐をまさぐる。
 アリアンロッドの艦橋は、ロジェを発見して緊張の度合いがさらに上がった。

「砲門に捕獲用の網をセットしろ、早く!」

 タルがいくら声を張り上げても、準備の速度がそう上がるわけでもない。
 タルとマクスウェルがじれているうちに、ロジェは懐から小さななにかを取り出した。
 今度はそれを見て、マクスウェルが明らかに顔色を変えた。

「あれは、またたきの手鏡! なぜロジェがあれを!」

 またたきの手鏡。ビッキーがテレポートを使うとき、移動させる者に必ず持たせるものだ。その鏡があれば、いつでもビッキーの元に戻ることができる。
 しかし、テレポートの能力を持つ人間は、少なくともビッキーしかいないはずだ。つまり、またたきの手鏡もこの世に一枚しかないはずなのだ。
 しかし、時はマクスウェルの疑問の氷解に、少しも協力してくれなかった。ロジェはマキシンにぴたりとくっつくと、取り出した鏡を頭上にかかげた。

「鏡を使わせるな!」

 ありったけの声量でマクスウェルは叫んだが、間に合わなかった。鏡の光が彼らの視界を焼いた次の瞬間には、ロジェとマキシンは、その場から消え去ってしまっていたのである。

「マクスウェルさん、あれはまさか……」

 顔面を蒼白にしてアグネスが問うと、マクスウェルは自分の懐から、ビッキーから預かったもう一枚の「手鏡」をちらりと見せた。彼のものが奪われたわけではないのだ。

「なにが起こったのかはわからない。アグネス、君はすぐに無人島に戻れ。
 あれがビッキーの鏡なら、マキシンたちが無人島のビッキーのところに移った可能性がある。
 そうなったら、こっちの戦略はすべてぶちこわしだ!」

「わかりました。一隻、小さいのをお借りします」

 青ざめた顔のまま、アグネスはマクスウェルの前から退出した。
「流れの紋章」を全速で用いれば、無人島まではすぐだ。そのとき、アグネスがどのような光景を目にするのかは分からないが……。

「こちらは、目前の敵を叩くぞ。速度を隠す必要はない! 荒らすことに徹するんだ!」

 マクスウェルは即座に目的を切り替えた。いくら疑問を持っても、目前の敵が消えてなくなるわけではない。
 この敵を追い返さない限り、自分が落ち着いて考えることもできないのだった。

 ジーンは、あえてマキシンたちを追わなかった。艦隊戦が膠着すれば、空中で行なわれる紋章合戦が下にどのような影響をもたらすか分からない。
 人質は後日、改めて救出すればいい。いまは「八房」の眷属紋章を取り返せしたことを喜ぶことにしよう。

COMMENT

(初:14.07.17)