それまでの混乱にマクスウェルがむりやり介入した結果、水中に放り出されたマキシンと、それまで彼女が乗っていた船との間にアリアンロッドが真横に割り込み、マキシンの船はジャンゴ一家に包囲される形となった。
マキシンはすぐさま体勢を整え、旋風の紋章を発動して「海上に立って」見せたが、その眼前には巨大な壁と化したアリアンロッド号がおり、さらにその上で、殺意に近い怒りを視線に乗せてマキシンを見下ろすエルフの少女がいた。
マキシンの船には、ロジェとリキエがいる。しばらくはロジェ一人で頑張ってもらうしかない。
自分よりは劣るとはいえ、ロジェも優れた「風使い」だ。時間稼ぎくらいはできるだろう。
「さあ、再戦と行こうか、お嬢ちゃん。少しは風の使い方を覚えたかい?」
挑発的な言い方をされて、エルフの少女が怒り狂って海に飛び込んでくるのではいかと思ったが、マキシンの前に降りてきたのは意外な人物だった。
女性である。見事な銀色の髪はポニーテールにしても背中まで届き、身体を覆う布地はかろうじて「衣装」と呼べるかどうかの最低限の面積しかない。表情は優雅で動きも軽やかだが、目元にわずかに戦意が見て取れる。
その女性が、ふわりと海上に「降り立った」。わずかに空気が痺れを帯びるのを、マキシンは見逃さない。
マキシンも無論、この女紋章師を知っていた。群島解放戦争でも、クールーク崩壊事件でも、戦場をともにしている。
寡黙でありながら存在感があり、紋章に関する知識では誰も太刀打ちできなかった。紋章術士としてもシメオンと並び称されるほどの腕の持ち主である。
マキシンは、思わず苦笑した。
「やれやれ、最近じゃ、どこかが「正体不明」のサービス派遣でもやっているのかね。
シメオンといい、マクスウェルといい、あんたといい、これだけ続くと、さすがの正体不明も胃からはみ出すぞ」
「それは、あなた自身も含めての話かしら、「第五」使いさん」
「……なるほど、シメオンから聞き取り済みってわけだ。
しかし、果たしてその前調査が役に立つかな、ジーン!」
マキシンは、ジーンが優れた紋章使いであることを知っている。この女性が、最高レベルの「雷」使いであることを。
(さあ、単体攻撃中心の雷鳴で、我が旋風の二乗掛けにどこまで対抗できるかな?)
このとき、マキシンの頭からは、ロジェのことは飛んでしまっている。
どちらにしろ、眼の前の強敵を倒さない限りは、ロジェの下まではいけないのだ。
しかし、最初の一撃はマキシンの予想外の方向から飛んできた。
「下」だ。自分の下から、氷の飛礫が一斉に襲い掛かってきたのである。
「氷の息吹!」
シメオンだった。アリアンロッドの船上から魔法を撃っていた。
完全に意表を突かれた。わずかにうめき、マキシンはシメオンをにらみつける。
なるほど、考えてみればここは「海」だ。シメオンの得意とする水の属性で溢れている。
さらに言えば、目前のジーンを海上に立たせているのは、リシリアの「旋風」の力だろう。
(なるほど、これだけのメンバーに警戒していただいているわけか。一対三、感謝の極み!)
シメオンもジーンも、マキシンに時間を与えない。
すぐさま次の魔法が飛んでくる。シメオンとジーンの声が重なり、その腕の紋章の光が重なった。
「雷神!」
その声が鼓膜に飛び込んでくるのと同時に、瞬間的に物質化した巨大すぎる「氷塊」が、マキシンの身体を直撃する。
にぶい音がマキシンの耳朶に乱打した。それが氷塊のきしむ音か、自分の身体が壊れた音かわからないうちに、次の衝撃が来た。
巨大な、としか表現できない衝撃。おそらく雷撃による衝撃であろう。
「おそらく」というのは、マキシン自身が視認できないほど疾い一撃だったからだ。
合体魔法、と呼ばれるものだ。
異なる属性を持つ強力な術士が力を合わせて、二つの属性を一つの力に合わせて放つ究極の紋章術。
数多い紋章術の技術の中でも、最高難度の代物である。
つまりマキシンが対抗しているのは、それをこともなげに行なう者たちなのだ。
さすがにマキシンの動きが止まる。合体魔法に直撃されて生きているだけでも大したものなのだが、まるで呼吸をしている限り容赦はしないとばかりに、ジーンの声が続く。
マキシンは下を向いて見ることはなかったが、さきほどの雷神発動時から彼女の頭上に沸いてきていた雷雲から、同じくらい巨大な雷がマキシンに向けて降ってきた。
「激怒の一撃!」
一瞬の強烈な光と、数瞬おいての爆雷音が、アリアンロッドの船体すら大きく揺らした。
直撃である。見事なまでにマキシンの身体は、巨大な雷撃に貫通されていた。
氷の息吹、雷神、激怒の一撃。立て続けの大型魔法の三連撃に、船上で見ていたリシリアは思わず冷や汗を流した。
先の対決でマキシンは「風の使い方は切り裂いたり吹き飛ばすだけではない」と言ったが、水と雷の単純な使い方でも、魔力の大きさによっては、これだけの威力があるのだ。
リシリアの目の前で敵対している三人は、先のクールーク崩壊事件でともに戦った者の中でもトップレベルの魔力の持ち主であった。
どのような紋章使いも、願っても一生に一度見られるかどうかの魔力の競演である。
マキシンはさすがにダメージが大きいのか、身体にかかっていた風の魔法が解けかけ、浮遊能力を失って水面に落ちつつあるが、その速度が遅いことにジーンは気づいている。
まだマキシンの魔力は失われていない。マキシンの生命力は失われていない。
ジーンは警戒して近づかない。マキシンの笑い声が響いた。
「癒しの風」
わずかにその身体がグリーンに光り、マキシンの身体からダメージが抜けていく。
ゆっくりと沈みかけていた身体が、再び浮かび上がってくる。
「はは、さすがに用心深いね。
そのまま近づいてきてくれりゃ、「葬送の風」で即死させてやったんだが……」
マキシンの表情には、まだ余裕がある。逆に、ジーンの表情のほうに真剣みが増した。
(雷神と激怒の直撃で、まだ倒れない。「第五」の力を自分のものにしてしまっている……)
「どうした、ジーン! この通り、私はまだ飛べるよ!?」
叫びながらマキシンは、一気に高度を上げる。もう水上に浮かんでいるのではなく、明らかに空を飛んでいた。
こちらも、並みの術者にできることではない。そしてその両腕がグリーンの色合いを帯びた。
「切り裂き!」
旋風の紋章の基本のような術だが、基本だけあってマキシンほどの高度な術者となると、その風力、速度ともに半端ではなくなる。それはリシリア戦で十分に証明済みだ。
だが、基本だけに、ジーンにとっては読みやすく避けやすい。
基本をどれだけ応用して他人の意表をつくか、というのも紋章術の楽しみの一つだが、それも基本を極めての話だった。
ジーンには、マキシンのマニュアルどおりの戦法が解せない。
マキシンは先のリシリア戦で、様々な風の使い方を見せてシメオンを驚かせたことは聞いていた。
二つの旋風の間を起用にすり抜けつつ、ジーンは様々に自問する。
自分がマキシンの先手を打ったから、奇術的な策を弄する余裕がないのか?
いや、それは先ほどのマキシンの言葉からも正しくはないだろう。
マキシンはジーンを誘い込んで魔法をかけようとした。それだけの余裕はあるということだ。
ではなぜ?
考えながらも、ジーンも手を抜こうとはしない。
今度はジーンの腕と、船上のリシリアの腕が同時に光る。合体魔法だ!
「雷の嵐!」
切り裂きの同時撃ちでわずかにできたマキシンの隙を、見事に突いた。
海面から発生した嵐がマキシンを包み込む。ただの嵐ではない、雷嵐である。
まるで、自分の切り裂きを逆手に取られてような屈辱を、一瞬だがマキシンは感じる。
嵐の中で、木っ端のように吹き飛ばされながら、同時に激しい雷に四方八方から打ちのめされる。
切り裂きによるダメージと感電によるダメージが同時に襲うのだ。さすがに八房の眷属といえど、これをノーダメージでしのぎきることはできまい。
船上の誰もがそう思っていた。海上に発生した竜巻を見た瞬間に、リシリアもマクスウェルもそう思った。
だが、そう思っていない人物が三人いた。ジーン、シメオン、そしてマキシンだ。
嵐が徐々に収まる。たった四人の人間のおかげで、海上はすでに大時化の状態だが、この海域にいる人間の心理はむしろこれ以上ないほどに張り詰めている。
リシリアの眼に、信じられぬものが映った。マキシン。あの強敵が、まるで埃でも払うように軽く服を叩いて、平然とその場に浮いている。
「次から次へと盛大な歓迎に感謝するよ、ジーン。
これだけ合体魔法・上級魔法を連続で食らう機会はそうないからね、それなりに痛いが、実にいい体験だ」
普通の人間が相手ならば、「それなり」と感じる前に三回は死んでいる。それほどの魔術の連発だったのだが、マキシンにはさしてダメージがいっていない。
シメオンはマキシンを「化け物」と評した。いまジーンがマキシンを表現しても、同じ言葉しか出てこないだろう。
普通に考えられる手段では、いまのマキシンを撃つことはできない。
ジーンはちらりと船のほうを見た。アリアンロッドの艦橋が目に入る。あそこにいる一人の男。
そう、いまのマキシンを滅ぼすには、真の紋章を持ち出すしかない。罰の紋章で……。
(いや、まだ手はある)
ジーンの怜悧な頭脳が、再び急回転を始めた。
敵のスキルを考えれば、外的なダメージで打ち滅ぼすのはほぼ不可能だ。
では、ジーン自身のスキルを考慮すればどうか?
紋章師としての自分ならば。
ジーンは考える。マキシンが積極的に攻撃をしてこないのは、自分たちが先手をうったからだけではない。
(おそらく、時間を稼ぐため……)
マキシンは何かを待っているのだ。
ロジェがジャンゴ一家を蹴散らすことか、反乱軍の艦隊が到達するか、おそらくどちらかを。
いまのマキシンが最も優先すべき事項がなんなのかは、マキシン自身にしかわからないが。
マキシンが船上にもう一人の人影を見出したのは、そのときだった。
場を荒らさないように微妙な操船を心がけつつ、艦橋ではマキシンたち四人の魔法合戦を、戦慄の面持ちで見ている。
手を出そうにも、誰よりも紋章に詳しいはずのジーンの戦術に口を出せるような者はそうそうおらず、この四人を超えると自ら名乗り出るような自信家も、少なくともアリアンロッド内にはいなかった。
数は少ないものの、第二次オベル沖海戦のとき、暴走した「罰の紋章」が見せた戦慄の光景を見ていたものもいる。安易に批判したり批評したりはできなかった。
タル艦長は慎重な命令を選ぶために専念しており、神妙な面持ちを崩さない。緊張しているのはマクスウェルも同じで、戦場をにらみつつ、思考をめぐらしているようだ。
マクスウェルに思考の端には、自分もこの戦闘に介入する、という選択肢が入っていないわけではない。ただ、その選択肢がこの海域にいる仲間に与える影響についても考えなくてはならず、消極的にならざるを得ない。
しかし、そんな彼の思惑を全く度外視する人間もいるにはいる。
「待っているんだよ……」
と、その少女はアリアンロッドの環境において、マキシンの行動を看破した。
大きく胸元の開いた薄手の服に、これまた不似合いな大きな剣を背負っている。ミツバだ。
「たぶん、味方の船が近いことを知ってて、ここにつくのを待ってるんだ。
ロジェもリキエさんも抱えてて、本当なら真っ先に助けに行かなきゃいけないはずなのに、ここで時間を稼いでる。
味方の船がなだれ込んで、乱戦になるのを待ってるんだよ」
暢気なわけではないが、慎重さも感じられない。そんな口調で、ミツバは語る。
もともと、戦闘という一場面に限っていえば、ミツバの嗅覚は大抵の人間をかるく凌駕する。この剣士の強さの理由の一つだろう。
だが、それがいつも誰かを幸福にするとは限らなかった。マクスウェルは神妙な表情でかるくつぶやいただけだ。
「わかっている」……と。
ミツバとマクスウェルの関係は、決して悪いわけではない。個人的にはその能力に敬意を持ち合っている。奔放な性格のミツバも、少なくとも公式の場ではマクスウェルに敬語で接しているし、嫌っていはいないのだろう。
悪いのは、「罰の紋章」と「夜の紋章」の関係だった。この、お互いの意志には無関係な存在が原因で、マクスウェルとミツバの関係は、まるで白刃の上を命綱なしで綱渡りするようなスリルを、周囲に与えている。
最近はマクスウェルが自分の体調のことでミツバに隠し事をすることも多く、それが後ろめたさにつながっているのか、群島解放戦争初期からの付き合いにしては、二人の関係は一言にいえば「よそよそしい」。席を同じくしても、目をあわさないことも多かった。
このときも、ミツバがつぶやいたあとで、彼女が背負っている剣……「夜の紋章」が、余計な一言をさしはさんだ。
「そら、どうするのだ【罰】よ。そなたの決断が遅れるたびに、戦況は悪くなるではないか。
その少年だけでなく、巻き添えにする人数を増やすつもりか?」
「わかっていると言っているだろう! 貴様に言われるまでもない!》
マクスウェルの返答は、その場にいる全員の精神を凍りつかせた。それは、前半がマクスウェルの声、後半がマクスウェルの声ではなかった。確かにマクスウェルの口から発せられたのに、である。
これが「罰の紋章」の声なのだと、ポーラも、タルも、アグネスも、そして艦橋にいる何人かが理解した。
ただ、艦橋の中でも外でも、なにか想像を絶することが起きようとしている。それだけを、艦橋の人間の皆が理解している。
マクスウェル自身がミツバに激昂するのも、以前の二人からは考えられないことだったし、「罰の紋章」がマクスウェルの意識のあるときに意思表示をすることも、これまでにはないことだった。
マクスウェルの身体的な変化に、隣にいたアグネスが気づいた。急に顔が赤みをおび、脂汗がどっと吹き出ていた。少し胸元を押さえ苦しそうに呼吸を乱していた。
側に寄ったアグネスが、自身も一瞬に冷や汗をかいた。マクスウェルは、体表に浮き出る「罰」の赤色と黒色の複雑な文様を、必死に隠そうとしているようだった。
マクスウェルは自分以外の全てを押さえ込むように、声を絞り出す。
《き、貴様に、い、言われるまでも、ない。あ姉上の分身たるあ、あのお姿に、て、手をこまねき……》
発露しようとする「罰」の意思と、それを抑え込もうとするマクスウェルの意志が、微妙すぎるほどのパワーバランスでマクスウェルの口からほとばしる。
アグネスが口を開けず、タルは表情全体で苦悶をあらわした。それはすでに怒りに近い。
だが、「夜」だけが放言を続けた。「罰」はまだマクスウェルの抑えが効いたが、彼にはミツバの抑えなど何の意味もない。
「ほう、許しを謳いながら破壊することしか芸のない貴様に、何かできることがあると?
皆殺しにするしか他者に依存できぬ貴様が、なにかできることがあると?」
「………………」
マクスウェルの、さして大きくもない身体がぐらついた。
誰が見ても限界だった。おそらく、幼いリシリアが見ても、彼の状態が普通でないことはわかっただろう。
アグネスはその異様な気魄に押されて、一歩退いたが、アグネスを批判することはできないだろう。少なくともこの場で驚愕はしても、気おされなかったものは、タルとポーラの二人だけだったからである。
「やめないか、お前たち!」
タル艦長が、はっきりと怒りを声に出した。
「マクスウェルの判断は間違っていない。ジーンさんを信じる以外に、俺たちがこの場でできることがいくつある?
もし敵船が来るのなら、改めてまとめて打ち滅ぼすのみだ。
俺たちを煽るつもりなら、「夜の紋章」よ、ミツバを操るなり好きにして、ここから出て行け!
この場の状況に、お前の個人的な判断はいらない!」
真の紋章を前にして、これだけの批判を浴びせられるタルの胆力も尋常ではないが、この批判はたぶんに公人としてよりも、私人としての憤りが大きい。
決して「罰の紋章」を擁護するわけではないが、それを持つマクスウェルの苦悩をよく知り、その苦しみを分かち合う親友として、「夜」の罵倒には耐えられなかったのである。
「私も操られるのはもう嫌なんだけどな……」
ミツバは、中途半端に嫌そうな顔をしたが、それは「夜の紋章」の悪態にむけたものか、タルの悪態に向けたものかはわからない。
あるいは、その両方なのかもしれない。ミツバ自身、様々ないきさつがあったとはいえ、この複雑な人格の剣を好んで持っているわけではないからである。
ただ、今は捨て方も分からないからとりあえず持っている、というだけだった。この剣は、簡単に捨てるにしても物騒すぎたのだ。
そのあたりの感性は、マクスウェルとはかけ離れている。
真の紋章の強大な力を知る大多数の者のうち、実際にその力に触れる者は全体の一パーセントに満たない。
九九パーセント以上の者が望んでも手に入れられないその力を、ミツバは「捨て方が分からない」という理由で持っている。
それは、繊細で複雑なマクスウェルと「罰」の関係とは、あまりに異なるものだった。
このときもミツバは、ストレートな彼女らしくなく気難しい顔で頷くと、「夜の紋章」を手に取った。
「あんたには言いたいことが百個くらいあるけど、あたしも仲間はずれにはされたくないからさ、とりあえずここからは退散するよ」
その手に持つ剣の、老人の顔の形をしたレリーフが一瞬光ったが、なにか言う前に、ミツバは剣を乱暴に床に突き立てた。
誰もが驚いたが、ミツバはミツバで、「夜の紋章」に怒っているらしかった。
やはり乱暴に剣を引っこ抜くと、それを背負うこともせず抜き身で持ったまま、ミツバは歩き出す。
「ミツバさん」
つい船内に入るのかと思って、ポーラは声をかけたが、その足は、逆の方向を向いていた。
魔術師たちが激闘を繰り広げている甲板に向いていたのである。
(初:14.07.10)