リキエ誘拐事件は、しばらく戦力の充実をはかっていた「オベリア・インティファーダ」にとって、強烈な目覚ましの一撃となった。
訓練に疲れて眠っていた者も、酒代を稼ごうとリタポンに興じていた者も、久しぶりに音楽に興じようとお抱え楽師のエチエンヌを招きいれたばかりのラインバッハも、等しくマクスウェルからの緊急指令に緊張することとなる。
マクスウェルはまず、仲間に引き込んだばかりの海賊ジャンゴ一家に指令を飛ばした。
事件の加害者であるマキシンとロジェ、被害者のリキエの人相書きを配布し、この三人を見つけ次第、リキエを保護し、マキシンとロジェを捕縛するように伝えたのである。
マキシンとロジェは強力な紋章術の使い手であり、捕縛が不可能なようなら「現場の状況に応じて」対応せよ、と付け加えられた。
マクスウェルはジャンゴたちに期待をしていないわけではなかったが、シメオンを撃退するほどの紋章術士が、海賊たちに簡単に捕まるとも考えにくい。最悪の結末を想像の端にくわえておかねばならなかった。
後に遺された資料には、当時のマキシンの人相書きの解説に、こうある。
長身、女性。目張り濃く、意志強し。濃い銀の髪、金の瞳。人目より隠れる術に長ず。
マクスウェルはナ・ナル島のアクセルとセルマにすぐに事件の詳細を伝え、ラズリルのカタリナの元にも特使を飛ばした。
そして自らは艦隊を三分割して、二部隊を二十四時間交代で一部隊ずつ南と東の哨戒にあたらせ、自らは一隊を率いてナ・ナルの南まで出向くことにした。
マクスウェルはシメオンから紋章の話を聞き、事件をラインバッハ二世によるものとすぐに断定した。
いつでも南方の異変に対応できるようにしておかなければならない。
リキエは必ず救出しなければならないが、その途上でラインバッハ二世の勢力と戦闘に発展する場合も、当然ありえる。
マクスウェル艦隊の快速とジャンゴ一家の勢力範囲を考えれば、マキシンたちの発見そのものは難しくないと思える。
しかし、彼女らが単独でオベルまで帰る可能性は低く、必ずどこかでいずこかの船と合流するかと思われた。
なお、これより少し前から、「オベリア・インティファーダ」では、オベル王国を占領したラインバッハ二世/グレアム・クレイの勢力と、元来のオベル海軍との混同を避けるために、ラインバッハ二世一味のことを公式に「反乱軍」と呼称するようになった。
「群島諸国連合に背いた」という意味での「反乱軍」という呼称なのだが、ナ・ナル島が壊滅し、ラインバッハ二世が離脱し、チープー商会がマクスウェルに味方したことで、事実上瓦解している連合からの「反乱」という表現が正しいかどうかは、細かいところで歴史家たちの意見が分かれている。
ナ・ナル島からオベルまで、一般航路で二週間。潜伏しながら戻るとして三週間から一ヶ月。
これなら、自分たちの速度とジャンゴたちの位置を考えれば、マキシンたちを途中で補足できる。
最悪、マキシンたちがどこかで軍艦なり商戦なりと合流しても、自分たちとジャンゴたちとで挟み撃ちができるだろう。
無論、マキシンたちを見つけることができれば、の話である。
「まだこの群島に、私たちの快速のことを知る者はいないはずです。
いい機会です。神出鬼没の「オベリア・インティファーダ」の存在を周囲に知らしめ、同時にリキエさんを救出して、名声を高めちゃいましょう。
運よくマキシンさんを倒すことができれば、強敵が一人減って一石三鳥です。言うことなしです!」
相変わらずアグネスの言葉は威勢がいい。都合がいいともいえるが、周囲がそれを確信に変えるだけの前向きさを、この若い軍師候補生は持っていた。
「だが、功を焦って無理はしてはいけない。
あの女魔術師は、いまや化け物と化している。天を突くほど巨大なウォータードラゴンを退治するつもりで警戒するのだ。
皆、為りの小ささに騙されるな」
シメオンがアグネスの横から付け加えた。
シメオンとリシリア、ジーンはマクスウェルの旗艦アリアンロッドに乗艦することになっていた。
相手が相手だけに、紋章の専門家は絶対に必要である。
リシリアにとっては、報復戦でもあった。
自分の傷に対してではない、恩人を目の前で誘拐されたという不名誉への報復である。
(まったく、化け物というのは、案外どこにでもいるものだな)
マクスウェルは、笑えばいいのか泣けばいいのか分からない皮肉に頬を引き攣らせながら、出航の命令を下した。
化け物は、自分とミツバだけで十分だ。「罰」と「夜」だけで十分だというのに、よくも次から次へと出てくるものだ。
「速度を惜しむな! ついてこれない者は置いていけ。相手は待ってくれないぞ!」
こちらも威勢のいいタルの声に、アリアンロッド艦橋の誰かがつぶやいた。
「名前も知らない、どこかの誰かの笑顔のために!」
つぶやいたつもりが、自分の気持ちの大きさに比例してか、つい声が大きくなった。
海図担当のネツァクという男が、自分の大声に気づいて赤面した。
だが、タルは叱らず、むしろ大笑いしてこの咆哮に乗った。
「付け加えれば、今回は名前がわかる者のためでもある。リキエさん、ラクジー、アクセル、セルマ、そしてリシリアのためだ。
いいか、命は惜しめ、だが能力は惜しむな! ちんたらやってるヤツがいたら、そのスネを蹴飛ばしてやるからな!」
「おう!」
艦橋に声が響くが、タルがこれを一喝する。
「声が小さい! お前らのデビュー戦だぞ、もっとしゃっきり来い!」
「おう!!!」
この勢いに、マクスウェルも乗せられた。そして、声を上げた。
確かに警戒しすぎてしすぎることはない相手だ。だからと言って、萎縮して勝てる相手でもない。
タルには、どんな相手でも鼓舞する才能があるようだ。
新艦長を頼もしく見つめてから、マクスウェルが指令を飛ばす。
「遅くとも六月十一日までには相手を補足しなければ、敵が合流する危険性がある。
最終ラインは、ネイ島とモルド島を結ぶ線と、この無人島とナ・ナル島を結ぶ線、この二本がちょうど重なる点だ」
「よし、いくぞ! アリアンロッド出航! 進路0-3-8、全速前進!」
タル艦長にとっても、初の実戦となるかもしれない。自分の頬を二度叩いて、気合を入れなおした。
マクスウェルとアグネスは、頭を痛めて敵の行動を何十通りもの予測をし、それを全て推考して四通りまで絞り込んだ。
一つは、ナ・ナルから大きく東に迂回してオベルに戻るルート。
一つは、ナ・ナルから一直線にオベルに戻るルート。この予測にあたれば、マクスウェルたちと海上でぶち当たることになる。
一つは、島々に潜伏しながら、時間をかけてオベルに戻るルート。
これをやられると、マクスウェルたちは厳しい。無人島はヘルムートに任せてあるからなんの心配もないが、自分たちに暢気にしらみつぶしに島を探すだけの時間的な余裕はない。
ただし、これはマキシンたちも同条件だ。リキエを抱えたままの長期間の逃避行は困難を極めるだろう。
そしてもう一つは、第一案の逆に、大きく北から西へ向かい、イルヤからラズリルを経由して、オベルに帰るルートだが、これも非現実的ではある。
ラズリルも、ラズリルから無人島にいたる海域も、マキシンにとっては「敵地」である。一切怪しまれることなくオベルまで一ヶ月半以上かけて帰るのは、心理的にも時間的にも困難だろうし、ラインバッハ二世も許可するとは思えない。
結局、マクスウェルとアグネスは第二案に賭けた。
第一案をとられたとしても、この艦隊の快速があれば、よほど遠くへ行かれない限りは追いつける。
ジャンゴたちは、海賊らしい荒々しさで、相手の都合などお構いなしに海上の船という船をあら捜ししてくれるだろう。
もともと、オベルから北の海域は、ラズリル海上騎士団長カタリナとオベル国王リノ・エン・クルデスの連名において、常に戦闘の危険性のある地域として指定されており、少なくともこの両国の船は軍艦以外は航行していないはずだ。
また、マクスウェルとチープーの機転でイルヤ、ナ・ナル、ネイなどにも同様の布告がなされおり、「戦闘に巻き込まれた場合の責任は持てない」として、極力この海域には近づかないように云われている。
イルヤ島は現在の産業にほとんと漁業はなく、ナ・ナルは例え海に出ようとする者がいても、アクセルが全力で止めるだろう。ネイの老人たちには、そのような元気はない。
つまり今、軍艦以外でナ・ナルの南を航行している船がいれば、それだけで怪しいということだ。
ジャンゴたちはマクスウェルたちが目的とした海域に一足早く到着し、さっそく不審船の「捜索」をはじめている。
もっとも、その「捜索」には理も法もあったものではなく、彼らが怪しいと思ったものをすべて強奪していくという、同じ海賊としてキカが聞けば嫌悪感を表すにちがいないやり方だった。
ところが、運が良かったのだろうか、これが彼らにとって良しと出た。
前述の通り、本来ならこの海域を航行している漁船はそれだけで怪しいのだが、彼らが拿捕し、強制的に「取り調べた」二桁に達する船は皆、密漁船であった。
こそこそと逃げようとしたり、密漁の成果である莫大な海産物を隠そうとして失敗し、ジャンゴたちはそれを平気で強奪した。無論、持ってかえって高額で売りさばいて儲けにするつもりなのだが、これでも、ルールに従って漁をする者たちにとっては朗報だった。
「密漁船を退治してくれた海賊たち」と、噂に尾ひれがついた(あるいは悪い部分が削ぎ落とされてしまった)典型的な例として、彼らは群島東部の漁師の信頼を得ることになってしまう。
そして、味を占めた彼らが発見した十二隻目の船。これが、彼らの幸運を終わらせた。
乗っていたのは二名。二人ともどう見ても漁師には見えぬローブを着込んでおり、船内にはこれも漁業の成果とは思えない、布でぐるぐる巻きにされた荷物がおいてある。
「てめえら、漁師じゃねえな!?」
スガラパスアという名の不運な海賊は、それまでの大きな戦果で慢心し、相手を舐めてかかっていた。
どう見ても漁師には見えないが、自分の巨体と剣とをチラつかせれば、簡単に降伏するだろうと思っていた。
しかし、ローブの女は、全く動じることもなく立ち上がった。
「ほう、あと一日やり過ごせれば無事に帰れると思っていたが、情報が早いじゃないか。
誰の差し金だい? リノ・エン・クルデスか、カタリナか。まさか、マクスウェルか?」
そのローブからわずかに覗く女の顔を見て、スガラパスアはふとある一文を思い出した。
長身、女性。目張り濃く、意志強し。濃い銀の髪、金の瞳。人目より隠れる術に長ず。
少なくとも外見上は文章そのままの女が、目の前にいる。では、さらわれたというリキエもこの船にいるのか。
スガラパスアは、自分の腰につけた小さな袋に手を伸ばした。ほぼ同時に、女の腕が空を切り裂いた。
「残念だが、顔を見られたからには、生かしておくわけにはいかないね」
女の腕が不運な海賊の首を一線する。二秒遅れて、二つのことが同時に起こった。
スガラパスアの首が身体からずりおちるのと、スガラパスアの身体が血を撒き散らしながら爆発するのと。
「血狼煙」という。ジャンゴ一家に伝わる、必殺にして最後の自爆法だ。
火薬をつめた小袋を常備しておき、自分に抵抗できない事態に遭遇してしまったとき、自分の仲間に危険を知らせることができるように派手に身体を爆発させるのと同時に、もし敵がいた場合、その敵に少しでもダメージを負わせること。
「ジャンゴ一家より急報! 目的の二人の女と一人の男の乗ったと思われる怪しき漁船を一斉に包囲中、助成を請う、とのことです」
この急報は、さすがにオベリア・インティファーダ首脳部を緊張させた。
「これほど「推考」とかけ離れた文章も珍しいな」
「推考する時間がなかったのではないかしら」
「もともと文言を推考なんてする人たちじゃありませんから」
シメオン、ジーン、アグネスの三人だけが、緊張感とは無縁の会話をしているが、アグネスだけは表情全体に緊張感がにじみ出ている。どうやら、憎まれ口、というやつらしい。
「リキエさんだけは必ず生かして救助する。二人も、できれば生かして捕らえろ。
もしかしたらなにかの供述を得られるかもしれない」
無茶と知りつつも、マクスウェルは指令を飛ばした。
その間にも、アリアンロッドをはじめとする小艦隊はぐんぐんと速度をあげ、すぐにジャンゴたちと合流し、マキシン包囲網に加わった。
ジャンゴ一家は、ジャンゴの船アラティー号以外は少し大きめの漁船ほどの大きさの船で構成されている。相手よりも数で勝ることと、一撃強襲離脱という彼らなりの戦術のためだ。
艦隊戦に加わらせることを考えれば頼りないが、今のような包囲戦ならば小回りがきくぶん、役に立つ。
まず、このジャンゴ一家の小船部隊が、マキシン船の足を止めにかかった。
今回は、弓矢や砲弾は使えない。人質がいる。
だから、網を使う。大砲を改造して、砲弾のかわりに強靭な網を撃ち出す物を使う。
もとは海賊が、標的の船を強引に止めるための武器だが、これを人道のために使う日がこようとは、作った本人たちも思わなかった。
「撃て!」
ジャンゴの号令で、大きな砲撃音と火薬の臭いを残して、七隻の船が同時に網を撃ちかける。
ジャンゴも部下たちも粗野な男たちだが、このあたりの連携はよく訓練されていた。
しかし、この作戦は残念ながら失敗に終わった。相手が「風使い」であったのが不運だった。
マキシンは迷うことなく立ち上がると、全方位から同時に襲い掛かる網を視認し、右手の指を横に振った。
たったそれだけの動作で、すべての網が空中でズタズタに切り裂かれた。細かな紐の切れ端と化して、海上にぼとぼとお落下していく。
「第二射、撃て!」
すぐに二発目が撃たれたが、結果は同じだった。藻屑と化した紐の切れ端が増えるだけだった。
マキシンはもう身を隠す必要を感じないのだろう、ローブを脱ぎ捨て、不敵な笑みを浮かべて船上に立ち尽くしている。
それを見て、マクスウェルの側にいたリシリアが、悔しそうに口元をゆがめた。
「ちぃ、簡単にズタボロにしやがって! あれだって安いものじゃねえんだぞ!」
ブレックが下品な舌打ちを立てて、すぐさま次の行動に移った。
急激にジャンゴ一家の船が、マキシンの船との距離を縮め始めた。
徐々に徐々に、その距離を狭める。そして、一隻ずつマキシンの船に体当たりを始めたのだ。
体当たりした船はすぐに距離をとる。マキシンの顔が動くたびに、その視界に入らない位置にいる船が体当たりする。
規模は小さいが、一種の艦隊行動といえるかもしれない。こういう嫌らしい戦術を取らせれば、ジャンゴ一家の右に出る海賊はなかなかいない。
「無茶をやりやがるな」
「だが、あれは使える」
タルが懸念し、マクスウェルが賞賛するなかで、この嫌らしい体当たり作戦は成功しかけた。
船上に立っていたマキシンが、風の魔法を起こす暇もなく、バランスを崩しかけた。
「いまだ、第三射!」
すぐさまジャンゴの指示が飛んで、再び砲台から網が飛ばされた。しかし、体当たりのやんだ一瞬のうちにマキシンは体勢を立て直す。
なにせ、紋章の発動と魔法の発射自体は一瞬である。ゼロコンマ何秒かの時間さえあれば、この紋章術士は風の魔法が撃てるのだ。
尋常な腕前ではないのか、八房の眷属紋章の影響があるのか。
(おそらく、その両方であろうな)
船上にあってシメオンが冷静に分析している。
実はこの数秒間、シメオンの思考と、マクスウェル、アグネスの思考は、ほぼ一致していた。
そして、その結果もまでも。
「アグネス、こちらにあってマキシンとジャンゴに無いものはなんだ?」
「スピードです!」
「上出来だ」
マクスウェルは思わず上方に手を向けると、一気に振り下ろした。
「まず、こちらでマキシンとロジェを引き離す。
ロジェはジャンゴに任せよう。こちらはマキシンをなんとかするぞ」
一時、速度を落としていたアリアンロッドは、再び速度を上げる。
「流れの紋章」による速度と加速度は、これまでの群島には存在しない概念だった。ネイ島の一部の漁民しかしらぬ概念だった。
それをこの瞬間、マクスウェルが始めて作戦行動として取り入れた。
その最高速度は、実に七十五ノット。しばらく未来の群島を見渡しても、瞬間的にこれだけの速度に達する船は、オベリア・インティファーダにしかなく、その操縦に慣れた船員もオベリア・インティファーダにしかいなかった。
それはほとんど一瞬の出来事だったので、誰にも予測どころか、知覚することも難しかった。
ジャンゴがアリアンロッドを視覚に入れたとたんに、アリアンロッドは自分たちの船の間をすり抜け、マキシンの船に、斜めに掠るように衝突したのである。
失敗すればマキシンの船を人質ごと破壊しかねない、危険極まりない操船だが、その超絶な操船技術でもって群島開放の英雄の船は、この場で考えられる最高の結果を得た。
マキシンを船から振り落とした。そして、マキシンとその船の間に割り込むように船体をねじ込んだのである。
「なんて無茶をやりやがる!」
この声は、マキシンとジャンゴとロジェと、三人がほぼ同時に、ほぼ同じことを叫んだ声だった。
海から顔だけを出すマキシンを船上から見下ろし、マクスウェルが次々と指令を出す。
「ジャンゴ、人質をすぐに救助し、ロジェを捕らえろ。
そして導師、リシリア、ジーンさん。マキシンと第二ラウンドだ、いくぞ!」
リシリアの拳に、思わず力が入った。
時速75ノット=時速150km/h。
(初:14.06.29)