クォ・ヴァディス 62

10-8

 この頃マクスウェルは、無人島のやや南を根城にする海賊、ジャンゴ一家との同盟関係の構築に腐心していた。
 ジャンゴは典型的な海賊の男で、縦に大きく横に雄大で、とにかく柄が悪い。
 先の解放戦争でも、マクスウェルたちと利害が一致した……というか、ジャンゴのほうが無理やり押しかけて仲間になったのだが、言葉使いや行動がいちいち荒々しい為に、周囲との軋轢も多かった。
 特に、旗艦オセアニセスで大浴場を経営していた職人のタイスケとは犬猿の仲であった。
 いつ死ぬかわからぬ職業柄、しかたがないのだろうが、身体を清潔に保つという概念がそもそもなく、めったに風呂に入らなかったから、彼らの居場所はいつも異様な体臭が残る。
 それでいて、風呂に入れば入ったでマナーが極めて悪く、汚すだけ汚して片付けもせずに上がってしまうため、海上では貴重な資源である真水を管理しているタイスケにとっては不倶戴天の敵と言ってよかった。
 これで海賊としての能力が低ければ、文字通りの鼻抓み者以外の何者でもなかったのだろうが、ジャンゴも部下のブレックも、幸いなことに船長としてはたいへん有能だった。
 ただその一点において、彼らは群島解放軍に居場所を(近くの者に鼻を抓まれながら)作っていた。

 六月四日、マクスウェルは自ら出向く形で、ジャンゴの旗艦アラティー号に乗り込んだ。
 二年ぶりに会うジャンゴの印象は、マクスウェルの記憶とまったく変わっていない。
 身体は縦に大きく、がっしりとしている。乱暴に刈り上げたモヒカン頭も、伸びすぎた無精ひげも、そして何種類もの臭いが重なった強烈な体臭も当時のままだ。

 当時のままではないのは、むしろマクスウェルのほうだったろう。
 この日は体調もよく、「罰の紋章」も落ち着いていて、その黒の刻印が身体の表面に浮き上がることもなかった。
 ジャンゴの記憶とまったく異なっていたのは、マクスウェルの態度だった。
 若き軍師アグネスを伴って乗り込んできたマクスウェルは、二年前のどこにでもいそうなひょろひょろの青年ではなかった。
 なにか最初から不機嫌な様子で入ってきたマクスウェルは、手荒に出迎えたジャンゴの部下ブレックの下品な恫喝を、鼻先で一蹴して見せたのだ。
 まるで年季の入った海賊のように振舞いつつ、椅子にふんぞり返ったマクスウェルは、いきなりこんなことを言った。

「おい貴様、俺の名を言ってみろ」

「はぁ!?」

 よほど意表を突かれたのか、ジャンゴが間の抜けた声を返すが、アグネスを背後に立たせて傲慢なまでに胸をそらしたマクスウェルは、いきなり立ち上がって自分よりも大きなジャンゴの胸倉を左手でつかむと、さらにすごんでみせる。
 わずかに黒い光を発する左手を感じて、ジャンゴはこの暴漢らしくなく、固唾を飲み込んだ。
 ジャンゴとて二年前、罰の紋章の驚異を体感した人間の一人である。

「この左手を見ても、俺が誰だかわからないか」

 ドスの効かせ方をよく理解した、静かで立派な恫喝である。
 ジャンゴの部屋には、彼の一味が三人ほどいるが、ブレックが自分の頭(かしら)を恫喝する若造に対し、怒りとともに殴りかかろうとしたが、マクスウェルはジャンゴの胸倉をつかむ腕をとっさに左から右に変え、左腕をブレックに向けた。

「よせ!」

 ジャンゴが叫ぶ。これは、マクスウェルとブレックの双方への言葉だった。
 もしもマクスウェルになにかあり、この船ごと部下を消滅させられてはたまらない。
 マクスウェルは左腕をブレックに向けたまま、その視線でジャンゴを焼き尽くそうとする。

「もう一度だけチャンスをやろう……。俺の名を言ってみろ」

 この最後の恫喝で、ジャンゴが折れた。

「わかった、わかったよ、マクスウェルさんよ。
 とりあえず、その物騒なモノを引っ込めろ。
 誰につくかわからねえ俺たちをとりこみに来たってんだろ」

「理解が早くて結構だ。
 決断しない貴族のご令嬢よりも、決断の早い売女のほうが、時に役に立つ」

 彼の本拠地である無人島でともに生活をしているものが聞けば、誰もこれをマクスウェルの言葉とは信じないだろう。
 それほどの凄みと蔑みをこめて、マクスウェルは言い放つ。
 少なくとも、仲間になるように説得に来た口調でも態度でもない。
 明らかに言いなりにしようと上から踏みつけに来た者の態度だった。
 それでもジャンゴたちが従わざるを得なかったのは、マクスウェルの軍人としての能力と、なによりも罰の紋章の恐怖を身をもって知っているからだ。

 実際に、ジャンゴたちはこの群島の騒ぎについて、誰についていくのが最も効果的かを模索していた。
 彼らは粗雑ながらも利害意識というものを持ち合わせており、まずは自分の得になりそうなところに飛びついていく。
 二年前もそうだ。クレイ商会に海上を荒らされ、とりあえず力を伸ばしてきていた群島解放軍に擦り寄った。
 そうすることで、一パーセントでも生き延びる可能性が高くなる事を、彼らなりに鋭敏な嗅覚で感じ取っていたからだ。
 だが、今回は自分たちが決断する前に、マクスウェルが猛りとともに乗り込んできてしまった。一瞬で自分たちを消滅させることができる猛りとともに。

 マクスウェルは、ジャンゴたちに選択の余地を与えるつもりはないようだった。
 常にジャンゴよりも先に、彼よりも上の目線で轟然と言い放った。

金銭かねは言い値をくれてやる。
 だが裏切れば殺す。秒もかけずに殺す。粉みじんに砕いて殺してやる。
 そうなりたくなければ、俺のために死ね」

 アグネスからすれば、マクスウェルの言っていることは無茶苦茶である。
 無茶苦茶ではあるが、普段はおとなしい青年の意味不明な支離滅裂さが、逆にジャンゴたちにとっては恐ろしくうつったようであった。
 だが、表面上だけでも、ジャンゴは余裕を持っている。すでに、マクスウェルに従うことを決意している、とアグネスにもわかったが、若干話を引き伸ばしたのは、一方的に脅迫されて従わされたのではない、という印象操作のためだろう。

「よかろう。てめえの勢いに乗ってやろう。俺たちは何をすればいい?」

「ラインバッハ二世とクレイの手下だと確実にわかる船があったら、手当たり次第に襲え。
 今はそれだけでいい。それ以降の指示はおって出す」

 ジャンゴの側から言わせれば、これで「商談は成立」した。
 最後までえらそうな態度を崩さず、マクスウェルはアラティー号を辞去したが、自分の旗艦アリアンロッドに帰ったとたんに、ストンと座り込んでしまった。
 どうやら腰が抜けてしまったらしく、同時にマクスウェルの口から大きなため息が飛び出した。
 アグネスがくすくすと笑いながら、語りかける。

「やっぱり怖かったんですね?」

「怖かったにきまってるだろう!」

 へたりこんでしまったまま、先ほどの状況を思い出して心の底から恐怖したらしく、マクスウェルは身体を腕で抱きかかえてつぶやいた。

「こんな役、二度とやらないぞ……」

 一軍を率いるようになってから、マクスウェルにはある程度、俳優としての才能も求められるようになった。
 今日の演技はまた極端な例ではあるが、自分を慕ってついてきてくれるものには、ある程度は頼りがいのあるところを見せておかねばならない。
 特に罰の紋章が不安定になっている現在、それを周囲にできるだけ悟らせないように、マクスウェルの健康を憂慮しながらも、首脳部は苦心している。

 しかし、今日の恐怖体験が生きて、とりあえず頼りがいのある海賊たちがついてくれた。
 彼らが前線を引っかきまわしてくれれば、少数派の自分たちはそれだけ戦いやすくなる。
 安心できる要素を少しでも積み上げておくのが、指揮官の務めでもあった。

 だが、この安心感は、すぐに崩れ去ることになる。ナ・ナル島から帰ってきた者たちが、驚くべき情報を持って帰ってきたのだ。
 リシリアとシメオンが重傷を負い、リキエが誘拐されたというのであった。

10-9

 マクスウェルは無人島に帰還すると、すぐにリシリアを見舞った。リシリアの側には、すでにポーラがついている。
 普段、人間に対しては敬語を使わないリシリアも、さすがに敗北が堪えたのかこのときは妙にしおらしく、セルマの手紙をマクスウェルに手渡すと、自分がマキシンに全く及ばずに、むざむざリキエを誘拐されてしまったことをわびた。

「ごめんなさい……。悪い心の持ち主に勝てなかった……。
 手も足も出なかった……。恩人が眼の前でさらわれちゃった……。ごめんなさい……」

 ポーラが、静かにリシリアの身体を抱きしめてやる。
 リシリアの傷はシメオンが流水の紋章を使って癒していたが、心の傷はかなり深いようで、ポーラの胸に顔をうずめたまま震えるだけだった。
 自分ができることはなにもなさそうだったので、リシリアのことはポーラに任せ、今度はシメオンをたずねた。
 シメオンはリシリアの傷を癒したところで魔力を消費し尽くしてしまい、自分の治療までできなかった。最後の最後にくらった「輝く風」のダメージが思いのほか大きく、全身に包帯を巻かれてベッドに横になっていた。

「完敗だ。まさかあれほどの化け物になっていようとは、露にも思わなんだ」

 むしろ、しみじみと韜晦してみせる導師に、マクスウェルはいくつか質問をした。

「相手がマキシンだったことは間違いないのですね?」

「あれほどの魔力の持ち主、見間違えたりはせぬよ」

「マキシンも確かに強い魔法使いだと記憶していますが、導師が二人がかりで打ち負かされるほどのものでしたか」

「打ち負かされるほどのものになっておった。
 正確に言えば、それほどの力を持つ紋章を、完全に我が物にしていた」

「紋章!?」

 その話題に及ぶと、シメオンの表情が曇る。そして、少し峻厳な視線でマクスウェルを凪いだ。

「罰の紋章を持つそなたにとって、少々厳しい話になるかもしれぬぞ。それでも問うか?」

「問います」

 一瞬の間もおかずに、マクスウェルはうなずく。シメオンもうなずき、重い口を開けた。


 シメオンの部屋を出たマクスウェルは、やや疲れているように見えた。
 その紋章の不安定さ、周囲の状況の不安定さ、今朝のジャンゴを相手にした演技など、彼を不安にさせる要素には毎日事欠かないため、このとき、マクスウェルを見た者は、そのどれかが原因で疲れているのだと思った。
 この時期、アカギとミズキは無人島を離れており、ポーラもリシリアに側にいるため、マクスウェルの側にいるのはタル、イザク、ラインバッハ、ヘルムート、ジーン、アグネス、ビッキー、そしてミツバ、ラインホルトといった面々である。
 ジーンとミツバを除く者たちは、彼の部屋を訪れては、器用・不器用に関係なく、マクスウェルを励まそうとしたが、彼は生返事を返すばかりで、訪れた者を逆に不安にさせた。


 このとき、マクスウェルを訪ねなかったジーンは、彼が出た後のシメオンの部屋に居た。
 シメオンもジーンの来訪を予想はしていたのだろう、特別に驚きはしなかったし、第一声にも迷いはしなかった。

「「八房」が本格的に動き出した。自発的に動いているのか、動かされているのかはわからぬ。
 だが、幾つかの眷属紋章がすでに動いておる。これは、由々しき事態だ」

「そうね。ガイエンでも、「四鬼しき」と「七鬼なきり」が動いている。ここにきて「五鬼いつぎり」とは……」

 シメオンの言葉にも、ジーンの表情にも、危機感がありありと見て取れた。
 マクスウェル一味の首脳部とはまた別の次元で、事態が急転し始めていた。

「「八房」はその名の通り、八つの房……八つの下位紋章でもって人の心を読み取り、その世界を集積し、読み取ろうとする。
「罰」がそそのかして「夜」に「太陽」との絆を斬らせた後の世界のことを知ろうとしておるようじゃな」

「行方不明だった八つの眷族紋章が一気に動き出した……。
 やはり「罰」の「原罪」の覚醒が関わっているのでしょうね」

「「彼女」が黙って見逃すはずもないか……」

 二人ともしゃべりながら思考を止めていない。シメオンが、あることに気づいた。

「しかし、八つの眷属のうち、一つはユーバーが持ち去ったままで、この地にはあるまい。
 あれがなければ他の七つの行動も決定打を欠くのではないか」

 ジーンが、シメオンのベッドの側の椅子に座る。

「もしも、よ。「彼女」を人為的に動かそうとしている人間がいて、「八鬼」の穴を別のもので埋めようとしているとしたら……」

 シメオンの表情が一気に曇る。

「「罰」の覚醒か……。聞けば、この地には「夜」までおるそうじゃな。
「夜」と「罰」が蜜月な関係を築きうるはずもないが、彼らは今どうなっている?」

「「夜」はミツバという剣士のもとで様子を伺っている、といったところかしらね。「罰」になにかあったら、確実に動くでしょう。
「罰」は、とても不安定。宿主であるマクスウェルが命を削りながら頑張っている。けれど、それももう限界に近い」

「バランスの執行者の監視を欠く状態で、これらの不安定な真の紋章を見守らねばならぬか」

「それが、私たちのお仕事、でしょう?」

「私は逃げ出した口だがな」

 少し皮肉を口元ににじませて、シメオンはつぶやいた。誰も知らぬところで、彼らにも色々あるらしい。

「なにか解決策に心当たりは?」

 シメオンに問われて、ジーンは少し迷った。

「ないことはない、くらいしか言えないわ。
 マクスウェルが自身で考えていることがある。しかし、これは堅く口止めをされているの」

「私にも言えぬようなことか?」

「申し訳ないけれど、言えないわ。それが彼との「約束」だから」

「わかった、これ以上は聞かぬ。彼が考えているのなら、その可能性に賭けてみよう。
 コルセリアお嬢ちゃんには申し訳ないが、キリルを探し出すのはしばらく先のことになりそうじゃな」

 シメオンは、知人である元クールーク皇女であるコルセリアから、キリルを探して欲しいとの要望を受けて、世界を旅している。
 望んで世に隠れたキリルを見つけ出せる可能性は低いと思わざるを得ないが、シメオン自身、キリルに好感を持っていたし、「あれ」以降の世界がどうなっているのかを見ておきたいという、責務のような思いもあった。
 しかし、それもこの争いが収束するまで、自分の思いもなにもかも、心の棚にしまいこまねばならぬようだった。


 海からの風が吹きつける高台に、その少女は居た。
 自分の身長ほどもあろう剣を握り締め、月を眺めるように無表情に立ち尽くしている。
 その剣が、淡い黄金の光を発している。剣にほどこされた老人の顔を模したレリーフが、強烈な怒りとも失望とも取れる、複雑な表情をしていた。

「貴様の因縁が動き出したぞ、【罰】よ。さあ、いかにして凌ぐつもりか。
 しっかりとこの眼に、この世界に刻み込んでくれる。そして、貴様を悔恨の海に溺死させてくれようぞ……」

 そして、少女は剣を高く掲げた。それは、何らかの決心とも、覚悟ともとれるような行動だった。
 それが果たして「剣」の意思なのか、「少女」の意思なのか。
 分かるのは本人「たち」のみであったろう。


「アラティー」
 仏教の開祖・釈迦(ブッダ)の修行中に、性欲によって釈迦を誘惑しようとした淫魔の三姉妹の末妹。姉はタンハーとラーガ。
 名前の意味は、タンハーが「渇愛」、ラーガが「快楽」、そしてアラティーが「嫌悪」。
 父親マーラの命令によって、半裸の身体を豪華な装飾品で飾って、様々な甘言、歌、踊りなどで釈迦を誘惑するが、釈迦は振り向かない。
 三人はさらに、100人の少女、100人の出産未経験の女性、100人の人妻、100人の熟女に変身して釈迦を誑かそうとしたが、釈迦は揺れるどころか「大小便に満ちたこの女が何だというのだ。足で触れる気も起きない」と三姉妹を罵倒して追い払った。
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COMMENT

(初:14.6.30)