(今度はなにをするつもりだ……!)
シメオンはうめいた。
目前の恐るべき敵に対して、賢者、導師と呼ばれる自分が、なす術がない。
情けない現実だが、これが受け入れるべき現実である以上、無視するわけにはいかない。
リシリア、あの幼い「正義の味方」の幼い願望をかなえてやりたいところだが、今回は相手が悪すぎる。
まず、水の属性である自分と、風の属性であるマキシンの相性の悪さ。
そして、マキシンの異常なまでの魔力の大きさ。
特に後者は、シメオンの予想を大きく上回っていた。
昨年、クールークで戦場をともにしたときは、わずかだが自分の魔力を下回っていたはずだ。
だが、今回の戦闘ではまるで別人のような強烈な力を振るっている。旋風の紋章を二つ同時に制御し、その最高魔術をこともなしに連発するなど、人間の紋章術士に可能なのか?
(あるいは、人間であることをやめたか? しかし、どうやって?)
考えねばならぬことと行動しなければならないことが多すぎて、何分の一秒か迷ったが、マキシンの動きを見てシメオンはすぐに防御に徹した。
多少のダメージならば、流水の陣と流水の紋章の力で回復できる。問題は、その後すぐに反撃できるかどうかだ。
しかし、マキシンの攻撃は、そのようなシメオンの期待をことごとく打ち砕く。
マキシンは、いきなりシメオンに対して身体ごと真横を向いた。
そして、開いていた両掌をぎゅっと閉じた。
竜巻が起こった。これまでの塵旋風とは比べ物にならぬほど巨大な風の渦。
なにもかも一瞬で、シメオンに細かな推理すらさせなかった。
風が起こった、と思った次の一瞬に、シメオンは再び吹き飛ばされ、地面に叩きつけられていた。
流水の陣など、まるで意味をなさぬほどの一方的な風の暴力だった。
マキシンは、両腕に気圧の差を作り出したのだ。
右腕に圧縮された超高気圧を、そして左腕に圧縮された超低気圧を作り上げた。
当然、生まれた気圧差によって、猛烈な風が生まれる。風は高気圧から低気圧に向かって疾走する。
直前にマキシンがシメオンに対して真横を向いたのはこのためだ。シメオンに近いほうに低気圧を、遠いほうに高気圧を向けると、発生した風は竜巻と化してシメオンのほうに向かう。
先ほどのダウンバーストと同じだ。原因が魔法であれ、結果、生み出されたものは自然現象である。魔法で完全に防ぐことは難しい。
上位紋章「旋風の紋章」を二つ持ち、それを制御できる能力を得て初めて操れる暴風であった。
「……化け物め……」
やや自虐的な笑みを浮かべて、シメオンは立ち上がった。
なす術無し。語る術無し。この賢者をして言えるとすればただ一言だった。化け物、と……。
いくらダメージを食らおうと、流水の紋章による回復魔法がある限り、シメオンは立ち続けることはできる。
しかし、流水の紋章は精神力の消費が大きい。体力は回復しても、立ち上がるたびに、精神力は削られていく。
すなわち、行使できる魔術の幅も狭まってしまう。
回復魔法を主体とする流水の紋章ですら、この消費なのだ。攻撃魔法を主体とする旋風の紋章の精神力の消費は、もっと大きいだろう。
しかし、目前の敵は、あれほどの大魔術を行使してもなお平気な顔をしている。笑みさえ浮かべている。
ここにいたって、シメオンは悟った。
「おろかな……。おぬし、人間をやめたな……!」
「人間をやめた……?」
声の主はロジェだった。この若者は、すでに戦闘の状況についてこれていない。
ただ、自分の仲間が人間離れした魔術の使い手であることだけを理解したが、その原因にまで疑問を持っていなかった。
「人間をやめた、か。珍しく失礼な言い草だな、導師」
マキシンは笑みを浮かべたままだ。穏やかな笑みではないが、次々と紋章術を繰り出すような殺意ある者の笑みでもない。
マキシンは肯定も否定もしていない。ただ、言い返しはした。
「人間をやめているのはあんたのほうだろう、導師。
普通の人間は、生まれて七十年か八十年もたてば、ボロがきてぽっくり逝くものだ。
しかし、あんたはいったい何年生きているんだ? 百年か、それとも二百年か。
私が知らないと思っているのかい?」
「…………………………」
シメオンも、肯定も否定もしない。要はお互いが、相手のことを人間だと思っていなかったのである。
あるいは、見抜いていた、というべきだろうか。
「愚の骨頂とはこのことだ。これが紋章を研究の材料にする者の本性だ。
自らが人間をやめて後、他人のことを化け物扱いできるのさ」
言い捨ててから、マキシンはロジェに視線を向けた。
驚愕に支配されつつも、この男はマキシンに言われたことを守って、リキエを未だ手中に置いている。
「ロジェ、お前はこうはなるな。その日和見主義のままで、おっかなびっくり世を渡って行くがいい。
下手に紋章の本性に触れると、化け物と化す。この導師や私のようにな」
「紋章の、本性……?」
ロジェがつぶやく。マキシンは両腕の紋章を開放させたまま、次の動きを見せた。
魔力の高い人間ほど、紋章を宿せる場所が多いが、それでも多くても三箇所だ。つまり、両腕の甲と、額である。
ガイエン公国のキャンメルリング公爵のように、人工的な手術によって強引に封印球ごと移植する、などの暴挙に出るのでなければ、この三箇所に同時に紋章を宿せる人間は、最高峰の紋章術の使い手、最高純度の魔力の持ち主と言っていい。
マキシンの額が光を帯びた。三つ目の紋章が動き出したのだ。
旋風の紋章を二つ起動してなお、さらに紋章を発動する。もう人間の精神力で到達できる領域ではない。
逆に言えば、この三つ目の紋章こそ、マキシンの底知れぬ魔力の元となっているのか、尽きぬ精神力の供給源となっているのであろう。
「…………………………」
その三つ目、薄紫の光を淡く発する紋章を見たとき、シメオンは怒りを表さなかった。
絶望もしなかった。
ただ、ひどく悲しげな表情で、マキシンを見た。
「おぬしという人間は……」
マキシンは無表情でいる。
あえて三つ目をさらしたのは、絶望的な戦力差を見せ付けるのと同時に、自分とシメオンが、決して同じ精神的な直線上に立つ存在ではないのだと知らしめるためであった。
誰といえど、「お前は間違っている」と言われ続けて気持ちのいい人間はあまりいないだろう。
マキシンはサディストではないがマゾヒストでもないから、考え方の違う人間から価値観を否定され続ければ、気分がいいものではない。
だから、あえて三つ目をさらした。「私はお前とは違う人間なのだ」と知らしめるために。
「ほう、さすがだな。見ただけでこれがなんだか分かるのか」
白々しくも聞こえるマキシンの挑発的な言い方に悪意を感じつつも、シメオンは動けない。
この導師をして動けなくさせるほどの、それは紋章だった。
「知らぬはずがなかろう。伝説に詠われる真の紋章の、眷属紋章。
【八房】の眷属の……五番目か」
「ご名答」
マキシンは声を下げた。この導師は、やはり正体が知れない。
これまで伝説の域を出ず、歴史の表舞台に現われたことのないはずの【八房】を知っている。
(伊達に百五十年逃げつづけているわけではないということか)
ロジェはかろうじてリキエを保護しているが、動きは取れない。
元より人間離れした術を使う「相棒」が、真の紋章の眷属を三つも宿している。
真の紋章を宿す者も、すでに人間としては死ねぬ存在だと聞くが、眷族をそれほど宿して飄々としているマキシンという人間の底知れなさに恐怖し、畏怖した。
マキシンは三つの紋章を開放したまま、一歩を踏み出した。このまま二人を殺すことは不可能ではないだろう。
しかし、今回のビジネスの目的は死体を量産することではないから、時間を無駄にするのもばかばかしい。
相手が攻撃してくれば反撃して打ち倒す。攻撃してこなければ、そのまま仕事を続行する。そんなところだろうか。
リシリアを相手に悪役に徹して遊んでやっても良かったが、遊びに徹するには重い横やりが入った。
すでに現段階でのシメオンは、マキシンにとって「邪魔者」ではあっても「敵」ではない。ただ、正体が不明で不気味なところはやはり警戒すべきであろう。
童顔というには年を取りすぎているこの導師は、何を知っているか分からない。今は遠巻きに眺めているほうが無難かもしれぬ。
この日、マキシンが初めて見せた思考の隙かもしれない何分の一秒。これを、シメオンは無駄にしなかった。
残念ながらいまは、この怪物を相手にして勝ち目はない。ならば、拾える命は拾っておくべきだろう。
暗黙の利害が一致した、という表現は妙だが、この隙を賢者は見逃さなかった。
次の瞬間、ロジェが目を疑うような演出を、この賢者はして見せた。
数秒、地面の各所が陽炎のように揺れた。すると、そこに何人ものシメオンが出現したのである。
ざっと二十人はいるだろうか。
「うわっ!」
「っ……」
マキシンとロジェの反応はそれぞれだったが、冷静なのはマキシンだった。
「慌てるな、幻覚、虚像だ」
「左様」
と、マキシンから見て右から三番目のシメオンが言った。
「なにも、光の屈折率を変えて見せるのは、旋風の専売特許ではないということだ」
別のシメオンが倒れたままのリシリアに近づき、抱き上げた。
虚像のはずの男が、それなりに重量のあるはずの少女をかつぎあげたのがロジェは不思議がったが、マキシンにとっては不思議でもなんでもない。
リシリアを担ぎ上げたのが、本物のシメオンなのだろう。幻影を作り上げるのと同時に、何らかの方法でリシリアの側まで移動した。
やはり、あの導師はまだマキシンに見せていない何かを持っている。自分のように。
「悪いが、今日は退くぞ。その女性は、後日必ず救出すると、リシリアに代わり申しおいておく」
「承った。……古くさい演出だね」
「今日の主役はおぬしだ。脇役なりの苦し紛れくらい聞いておけ」
ふふ、とわずかな笑みを残して、複数のシメオンとリシリアが、突如として消えた。
マキシンは慌てない。先ほどシメオン自身が「光の屈折率を変える」と言った。
つまり、自分たちから姿を隠しただけで、まだこの付近にはいるはずだ。
今度は、マキシンがわずかに微笑んだ。
「さきほどの竜巻で大地に染みた「風」の属性……」
言って、マキシンは開放したままの両腕の旋風の紋章を構えた。
最初の「輝く風」の二重掛けで「ダウンバースト」による風の残滓はすべて解き放ったが、その後の竜巻による影響は、まだ大地に残っている。
それを全て開放し、シメオンらに叩きつけてやろうというのだ。
「土産代わりに全部くれてやるよ! 「輝く風」!」
両腕をグリーンに輝かせて交差させ、マキシンがそれを大げさに振り下ろす。
今度はマキシンから直線上に、大地がグリーンに輝いた。先ほどの竜巻の通った軌跡だ。
大地からの光は、先ほどよりも濃い。それだけ、あの竜巻がダウンバーストよりも強かった証拠であった。
「ぐう……ぬっ!」
姿は見えなかったが、確かにうめき声が聞こえた。輝く風が、あの導師にダメージを与えたに違いない。
それでも姿を見せず、隠れ蓑の魔術を解かない精神力を、むしろ賞賛すべきなのかもしれない。
どちらにしろ、マキシンにこれ以上シメオンを追うつもりはなかった。それよりさきにやることがあった。
「ほら、ロジェ。いつまで呆けてるんだい。
その女を連れて帰るよ。ミッション達成だ」
「あ、はい」
忘我の一瞬がすぎて、マキシンの声が鼓膜に届いたのか、ロジェは失神したままのリキエを担ぎなおした。
「ちょっと手荒いけど、我慢してくれよな。オベルまでは静かに運んでやるからな」
「途中で目を覚まされると厄介だ。定期的に「眠りの風」をかけておくことを忘れるなよ」
「はいはい、お申し付けの通りに」
ぼやきながらも、ロジェはマキシンに逆らう気にならない。
順調に調教されてるなぁ、と思いながら、怪物のごとき魔術を行使しても平気でいる「相棒」のあとをついていった。
(初:14.06.19)