クォ・ヴァディス 60

10-6

 マキシン自身がこの殺人を望んでいるのか望んでいないのか、それは不明である。
 しかし、この目前の幼い敵は、幼いゆえに自説を曲げようとはせず、降伏も逃走もしようとはしなかった。
 これが、もう十五歳ほど年齢が増せば、「利害関係」などを思考の端に入れて判断材料の一つにすることだろう。
 たとえば、木陰に隠れてしまっているロジェなどのように、転身の速さで生き残ることだけはできるようになるかもしれない。

 幼さゆえの正義感は、賞賛に値するのと同時に、独善に陥る大きな危険性も孕んでいる。
 リシリアのように、簡単に相手を「悪」と断じてしまうような正義感は、巨大な諸刃の剣だった。特に巨大な「悪」を相手にしてしまったときに、自分で未来へのドアを閉じてしまうことになりかねないからである。

 マキシンの右手が揺らいでいる。存在が揺らいでいるのではなく、存在を包む大気が揺れているのだ。
 対抗する術をいっさい失った足元の敵の首を、真空を纏わせたその右手で、一撃で落とす。
 剣士でも、相手の首を一撃で落とすのは高等技術を必要とする。しかし、紋章術士、ことに「風使い」にとって、それはさほど難しいことではない。
 なにより、彼女らの専門は「斬る」ことだからであって、その一点においては剣士などよりはるかに優れていた。

「その威勢の良さは嫌いじゃない。
 せめて、老いも病もない国に送ってやるよ」

 一切の呵責はない。マキシンはプロフェッショナルであり、その中でも名の知れた者だ。
 自分のビジネスの邪魔になるなら、どんな小石がどこにあろうと、いかなる手段でも取り除く。

「然らば、死ね!」

 ……と、右腕を振り下ろした。
 振り下ろしたはずの次の瞬間、マキシンは眼の前の光景が激変したのを悟った。
 視界が二七〇度ほど回転し、さきほどまで足元にいた少女が、回転しながら遠くなっていく。
 マキシンの鋭敏な知覚は、自分に起こったことを一瞬で悟った。
 少女が遠ざかっていくのではない、自分が吹き飛ばされたのだ。
 敵の三半規管をいじることができるくらいだから、自分の身体の手入れも怠らない。マキシンは吹き飛ばされても平衡感覚を失うことなく、とっさに足に風を纏わせて、ふわりと着地した。

 そして、リシリアのほうに視線を向ける。
 この場合、考えられる可能性は二つしかない。
 何らかの理由でロジェが裏切ったか、それとも少女に味方が現われたか。
 前者の可能性を考えるなら、マキシンはロジェをにらみつけたろう。だが、マキシンはなんの迷いもなくリシリアに視線を向けた。
 ロジェがマキシンの真意を知れば不愉快になるだろうが、マキシンの予測は当たっていた。
 地面に倒れ付したエルフの少女の横にたたずむローブの男の姿を視認したのだ。

 若い。場合によってはマキシンよりも若く見える。
 色素の薄い金色の髪と、深い洞察力を感じさせる紫の瞳をしていた。
 一見して紋章術の使い手だと分かるような、白い色のローブを着ていた。
 その男性がリシリアに近寄って手をかざすと、リシリアは激しく咳き込みながらもふらりと立ち上がった。
 マキシンによって滅茶苦茶にされていた身体の感覚を取り戻したようであった。

 マキシンの頬と目元が、再び吊り上る。
 知己に会うことは、本来なら嬉しいことのはずなのだが、今日のマキシンにとって、「再会」という言葉は「不運」と同じ意味のようだった。

「嫌なタイミングで現われるじゃないか、導師。
 今回も味方になってくれれば心強いが、可能性は低そうだね」

 ノーダメージで構えなおしたマキシンを、深い知性を感じさせる紫の瞳で見据え、導師が言う。

「お主は……、まだこのようなことをやっておるのか。
 その力を人の為に使うと、私に約束したのではなかったか?」

 外見の年齢に比べ、声も口調も随分と落ち着いている。
 無意識に相手に何かを悟らせるような、そういうしゃべり方だ。

「約束を違えたつもりはないよ。あれから誰も殺してはいないし、これも人のためさ」

 同時に自分のビジネスのためさ、とは付け加えなかったが、少なくとも自分と自分の依頼主の幸福のためにやっていることは確かであったので、あながち嘘をついたわけではない。
 だが、相手を納得させることはできなかったようだ。男性は失望したように眉尻を下げ、肩をすくめた。

「そこに隠れている男と女性、そしてこのエルフの少女。
 残念だが、今回は少し強く説教をさせてもらおうかの」

「はっはは、言ってくれるじゃないか、シメオン。
 私に説教をすること自由だが、少々高い代価がいるよ。
 少しは懐具合を考えておきな、賢者よ!」

 言うが早いか、マキシンは右手の旋風の紋章を起動させる。
 マキシンにとっては、このシメオンも因縁の相手だ。先のクールーク崩壊事件に関連して知り合い、優れた紋章術士同士、他の者よりも少しだけ話があった。
 ただ、残念なことに、価値観までは一致しなかったようで、シメオンはマキシンが自分の優れた力を我欲にしか使わないことを悲しみ、たびたび忠告していた。
 リシリアのように「悪」と決め付けることはしなかったが、どうも彼女を正しい人道に帰そうと努力していた節がある。

 正しい人道。この言葉は、マキシンの嫌いな言葉だ。
 マキシンは、自分の魔力を誰よりも自分の幸福のために使っている。
 過去、たしかにそれによって人の命を奪うようなこともあったが、ほとんどは偶然の事件であって、マキシン自身の意思によって殺められた者はほとんどいない。
 それを考えれば、世間にはよほど悪辣な研究にいそしんでいる紋章術士など、はいて捨てるほどいるではないか。
 たとえば、紋章砲の開発者である大魔術士ウォーロック。彼が開発し、ミドルポートやクールークに売却された兵器によって、果たして何人の命が奪い取られたか?
 確かに、ウォーロックは開発しただけかもしれない。開発した後、それが殺人に用いられるようになって後悔したとも聞いている。
 だが、後悔したところで奪われた命が還ってくるわけではない。事実、ウォーロックは彼の開発した兵器に命を奪われた者の遺族たちによって、永遠の世界へ旅だつことを余儀なくされた。
 その後悔の心、懺悔の心をすら棄てないと極められないのが紋章術の境地だというのなら、自分はそのような境地に到達することなど拒否する。
 マキシンが懺悔の心を捨て去る機会は唯一つ、自分のビジネスの邪魔をされたときだけだ。そこに、紋章術など関係はない。

「私が魔術を行使するのは、自分への福祉のためだけだ。誰からもとやかく言われる筋合いはないね」

「私がお主に説教を加えるのは、世界への福祉のためだ。
 力ある者が力無き者を救う、それは当然のことではないか!」

 マキシンの作り上げた塵旋風が、シメオンにむかって走る。
 シメオンは咄嗟に左手を光らせた。

「息吹よ!」

 蒼い光がその手から漏れ、瞬間的に物質化した氷の粒が、マキシンの旋風に無数に降り注ぐ。
 しかし、マキシンの旋風を相殺するまでにはいたらず、シメオンは少なからぬダメージを負う。

「ぬう……」

「やめときな。あんたの持つ流水の紋章は、回復が専門だ。私の風を防ぎきれはしないさ」

 マキシンは警戒を解いていない。が、この場の状況を理解してもいる。

「力ある者が力無き者を救うのが当然?
 それを拒否してハルナの片隅に閉じこもっていた導師が、どの口でそれを言うんだい?
 自分ができないことを、したり顔で他人に押し付けるのが導師の正義か?
 笑わせるな! 本末転倒とはこのことだ!」

「そうだな」

 シメオンは言う。だが、自虐的な口調ではない。何かを悟った者の口調だ。
 リシリアがシメオンの隣に立ってつぶやいた。

「助けてくれたことには感謝するが、あんたは誰だ。あの女の敵か?」

「敵に近い味方だった、と言うべきかの。
 少なくとも今の私は、お嬢ちゃんの敵ではない」

「信用していいんだな?」

「信用してもらうほかはない。でなければ、今のマキシンは倒せぬ」

「わかっている、強敵だ」

 身と表情とを同時に引き締めて、リシリアは口元を噛んだ。
 悔しいが、自分の力は眼の前の敵に遠く及ばない。誰かの力を借りなければ、恩人一人助けられないのが現状だった。

「お嬢ちゃんの持っているのは旋風の紋章か?」

「ああ、旋風の紋章だけだ」

「武術か剣術のたぐいは?」

「短剣を持ったことがあるだけだ。振ったことはない」

 リシリアは悔しそうに言った。シメオンの頭脳が瞬時に様々な状況を想定している。
 一番勝算がありそうなのは、流水の紋章術の奥義「静かなる湖」で、自分を含めた全員の紋章術を封印してしまうことだ。
 現在、この場にあって意識を保っているリシリア以外の三人、マキシン、シメオン、ロジェは、純粋な紋章術の使い手である。
 紋章術さえ封印出来れば、並みの人間に「成り下がって」しまうだろう。そこを体術で叩ければ勝算は高いが……。
 どうやらこのエルフの少女にそれを期待するのは酷のようだ。
 ならば、紋章術の競い合いになる。あの・・マキシンと、魔法の競い合いになる。

「どうやら考える暇はなさそうだ、導師!」

 リシリアの言葉にふと我に返ったシメオンが見たものは、再び右腕の紋章に光を宿らせるマキシンの姿だった。

「私のことはシメオンでいいぞ、少女」

「私はリシリアだ。で、どうする?」

「防ぐしかなかろう!」

 こちらも言うが早いか、二人とも紋章を構える。

「同時に撃って相殺させろ。私には流水ともう一つ、旋風の下位紋章だが「風の紋章」がある。
 お主の風で相殺し、私の風で撃つ。旋風に較べれば微々たるものだが、ダメージは通るはずだ」

 瞬時の判断にしては悪くない策のようにも思えたが、リシリアには自信はない。
 自分と敵の魔力の差は歴然だ。はたして「相殺」まで持っていけるかどうか。しかし、やるしかない。

「わかった、いくぞ!」

 リシリアは右手の旋風の紋章を開放する。マキシンとの時間差はほとんどない。
 シメオンの開放はさらに早い。ほぼ同時に、三人の紋章術が解放される。
 術の展開はシメオンの予想通りとなった。ただ、その威力がシメオンの予想を超えていた。
 マキシンの旋風をリシリアの旋風で相殺し、自分の風でダメージを負わせる。
 そのはずが、自分の風とリシリアの旋風で、ようやくマキシンの旋風を相殺した。結局、マキシンにはいかなる傷も負わせていない。
 さらに予想外なことが起こった。自分たちに向けて旋風を放ったのと同時にマキシンは、天空に向けてもう一発、旋風を放っていた。
 二つの塵旋風が、縦と横、二方向に同時に放たれたのだ。旋風の紋章で制御できるはずがない。
 しかし、マキシンはそれをやってのけた。いかなることか。

「おい、あれ……!!」

 リシリアの呻きともとれる呟きが、シメオンに最悪の事実を認識させた。
 そして、その「最悪」が二重の結果をすぐにもたらすことを、シメオンは瞬時に理解した。
 マキシンの両手の甲が、緑色の光を発している・・・・・・・・・・・・・・・・。つまり……。

「旋風の重ねがけだと? そんな馬鹿な!」

 シメオンは吐き捨てるのと同時に、すぐに身を伏せた。

「リシリア、伏せろ! すぐに次が来るぞ!」

 リシリアは、一秒の半分ほど、油断していた。マキシンが魔法をうった次の瞬間、一瞬なにもしなかった。
 自分のほうが先に動ける! この認識が、かえってリシリアを傷つけた。
 マキシンは笑っていた。この結果を確信していたのだ。
 旋風を天空に向けて放った結果がどうなるか。

 次の瞬間、リシリアは吹き飛ばされた。強烈な上からの風が地面に叩きつけられ、その反動で衝撃が全方位の地面に疾走した。
 完全に油断を突かれた。先に伏せたシメオンですら、吹き飛ばされそうになる破壊力の衝撃だ。先ほど相殺した旋風よりも強いかもしれない。

「ダウンバーストか……!」

 それは、魔法の一つではなく、自然現象のひとつだ。だが、マキシンが計算ずくで起こした自然現象だった。
 ダウンバースト。強烈な下降気流のなかでも、大地に傷をつけるほど強い風をさしていう。
 原因は色々あるが、上昇気流が雲の中で上昇する力を失った後、雲の水分や上下の気圧差で下向きの力が働き、強烈な下降気流となって大地を襲うのだ。
 これを、マキシンはどのような経験からか知っていたのだろう。原因が紋章術とはいえ、結果は自然現象であるから、たとえ相手が旋風の紋章を持っていても防ぎきるのは難しい。
 不運なリシリアは再び大木に叩きつけられ、大きな悲鳴をあげた。すぐにシメオンが立ち上がり、回復しようとするが、その時間すらマキシンは与えようとしない。

「気づかないのか導師。
 いまのダウンバーストで、この大地はみな風の因子を含んだのだぞ」

 そのつぶやきは、シメオンをぞくりとさせた。つまり、この大地はみな、マキシンの領域となったということだ。

「旋風の力が斬って飛ばすだけではないのだと、あんたが一番詳しいだろう!
 それをいま、再確認させてやるよ!」

 今度ははっきりと両腕の旋風の紋章を二つ同時に開放する。とてつもない力を、シメオンは感じる。
 賢者と呼ばれる自分すら戦慄させるこの力!

「喰らってくたばれ! 二乗掛けの「輝く風」!」

 マキシンが叫んだ。吼え猛った。ナ・ナルの大地がそれに応えるように、淡い緑の光を発生させる。
 先ほどのダウンバーストで、この大地のほとんどが「風の属性」を含んだ。その大地が、含んだばかりの「風の属性」を、今度はいっせいに吐き出したのだ。
 しかも、ただでさえ強力なマキシンの魔力が、同じ紋章二つによる二重の放出で、想像もできぬほど強大なものとなっている。
 普通、魔法の重ねがけは、その効果が二乗倍となる。下位紋章による重ねがけだと、効果は微々たる物だが、上位紋章の、しかもマキシンほど高い魔力を持つ者が使うとどうなるか。
 シメオンは想像すらしたくないが、想像する前に、想像する力を奪われた。
 およそ視認できる範囲の大地が、いっせいに風の力を「爆発」させた。シメオンの視界が一瞬、グリーンに染まり、次の瞬間には真っ赤に染まった。
 先の光は風の魔力によるものであり、次の赤色は自分の血の色であった。
 自分の身体がまるで木葉か鳥の羽のように軽々と吹き飛ばされ、大地に叩きつけられた。

(この凄まじい魔力ちから……人間のものとは思えぬ……)

 すぐさま流水の紋章の術で自らを回復させたが、それが希望につながるとは思えなかった。
 リシリアは自らも旋風の紋章を持っていることもあってか「風の属性」を持っており、先ほどの「輝く風」によるダメージは自分ほど大きくはないが、それでも深手には違いない。
 かろうじて意識を保っているようであるが、戦意まで保てているかどうか。
 そして、自分がリシリアの側に行くことを、あの敵が許してくれるかどうか。

「なにをしている、導師! なにもしてこないなら、こちらから行くぞ!」

 どうやら、許してはくれないようだった。
 マキシンは二つの紋章を再び同時に動かした。
 今度は両腕を目一杯左右に広げ、右手の先と左手の先に、同時になにかを作り出そうとしている。

「流水の陣!」

 シメオンは咄嗟に流水の紋章の力を用い、自らの周囲の大地に「水の属性」を含ませる。
 これで、少なくとも「水の属性」を持つ自分は、ある程度のダメージを大地からの恩恵によって抑えることができるはずだ。
 咄嗟の思いつきだが、これはマキシンを失望させたようで、

「自分だけが助かろうという腹か。リシリアを見捨てるつもりか、賢者よ。
 それが……他人に自分の正義を押し付けようとした人間のやることか! 恥を知れ!」

 と、あからさまな侮蔑をこめて叫んだ。そして、めいっぱい広げた両掌を、ぎゅっと握りこんだ。

COMMENT

 いや、ついに第60回まできました。物語はまだまだ途中ですが、ちょっと感慨深いものがあったので、一筆を。
 原稿用紙にしてようやく1100枚を少し超える程度ですが、ここまでくるのに6年かかりました。オリンピックが二回終わったヨ……。
 読んでくださってくれている方、長らくお付き合いいただいて、本当にありがとうございます。
 そしてどうかもう少しお付き合いください。

(初:14.06.22)