クォ・ヴァディス 58

10-2

 六月三日。ナ・ナル島は、未だ先の惨劇からの復興の兆しさえ見えていない状況にある。
 死者の埋葬も、怪我人の治療も、人間とエルフの間の折衝も、まだまだ始まったばかりで、誰も一日先の未来さえ見えず、現在の状況に追いつくのに必死であった。
 人間側のアクセル、エルフ側のセルマ、両指導者は、身体に負った傷はほぼ癒えたものの、本人の心の傷が癒えぬまま、島民を導かなければならない厳しい立場にある。

 ただ、二人が「後悔」という言葉から縁遠い性質であるのは、島民にとって幸いだった。後ろを見ても島民の血で描かれた芝居のあとが残っているだけで、麗しい要素は何もない。
 アクセルがただ前を向いて声を張り上げ、セルマが静かな表情で淡々と状況に対応しているだけで、少なくとも島民は前を向いていれるのだった。
 もっとも、セルマに言わせれば、

「あの単細胞が「後悔」という高尚な言葉を知っているとも思えない」

 ……と、手厳しい。
 むろん、これがセルマの本心かどうかは分からない。
 行動に裏表のないアクセルと違い、セルマは古参のエルフにも周囲の人間にもなかなか本心を語ることはなかった。
 ただ、他のエルフと違い、周囲の人間に対する差別感情がないことだけは確かであった。
 アクセルとセルマの、ケンカなのか議論なのか、それとも単なる相談なのか判別のしづらい掛け合いは、少なくとも当時のナ・ナル島にとってなくてはならぬ掛け合いであった。

 そのアクセルとセルマの片腕として信頼され、ナ・ナルの復興に尽力している者の中に、リキエとラクジーの親子がいる。
 この親子はアカギとミズキが先のナ・ナル島の事件を解決するのにも協力しており、人間側の中心人物として、リキエは静かに、ラクジーは活発に活動している。

 リキエはこの年、三十歳になる。ナ・ナル民族の特徴である銀の髪を伸ばして首の後ろでくくり、常に静かに、憂いと優しさをたたえた表情を崩すことなく、島民たちの心の支えとなっている。
 マクスウェルの持つ罰の紋章にもっとも因縁のある人間の一人で、一時期はオベルの遺跡に暮らし、失われた罰の紋章を待ち続けていた。
 それは、まったくの偶然だったに違いない。五年前だ。リキエの夫が罰の紋章を、誰とも分からぬ者から継承してしまった。
 夫はそれ以降、リキエとラクジーの前から姿を消した。優しい人だった。呪われた紋章が家族に害を及ぼすのを恐れたに違いない。
 リキエはラクジーをつれ、夫の行方を捜して群島を旅した。罰の紋章のことを知り、夫がそれを継承してしまったことを知ったが、最後までその行方はわからなかった。
 ただ、過去、罰の紋章が封印されていた場所、オベル遺跡の存在だけは突き止めた。オベル国王リノ・エン・クルデスの許可を得て、その遺跡の近くで風雨とともに暮らし、夫が紋章とともにそこに帰ってくるのを待っていたのだった。
 結局、帰ってきたのは紋章だけで、それを身に宿していたのは、夫とは別の青年だった。

 ただ、リキエはその青年に対して、複雑な感情を持つこともなかった。
 罰の紋章がどのようなものかは知っていた。それを宿して何年も無事でいる可能性は皆無であると、心では理解していた。
 海賊スティール、ブランド、グレアム・クレイの息子、オベル王妃、そしてグレン・コット。過去にこの紋章も持っていた者たち、それに関わってしまった者たちがどのような運命を辿ったか、旅の途上で聞き知っていたからだ。
 マクスウェルがリキエの前に現われたのは二年前。夫が紋章を宿してから三年のことだ。
 すでに、心のどこかで夫の生存は諦めていた。絶望のなかにほんの少しだけ残っていた希望の芽が、マクスウェルの登場によって萎れてしまった。
 ……ただ、それだけのことだったのだ。

 リキエはマクスウェルの旅に同行する道を選んだ。罰の紋章を持つ彼と行動を共にすることで、夫がどのような運命を辿ったのか、重ねてみたかったのかもしれない。
 紋章を持つマクスウェルの苦しみも、憂いも、悲しみも、全てをリキエは目撃した。
 そして確信した。それが、自分の前から姿を消した夫の姿と重なることを。
 二人の違いはただ一つだった。
 周囲から人を遠ざけたか、遠ざけなかったか。
 夫は家族から離れても、一人で紋章とともに果てることを選んだ。
 リキエは、紋章とともに多くの人を惹きつけるマクスウェルも、ただ家族の安全のために永遠の孤独を選んだ夫も、二人とも敬愛している。なんと誇りある人たちだろう。

 群島開放戦争後、罰の紋章がマクスウェルを認め、その強大な力も、過去に流された膨大な血とともにマクスウェルの中に眠ってしまって、リキエの旅も終幕を迎えた。
 これ以上、罰の紋章が悲劇を起こすことはないだろうし、マクスウェルから罰の紋章の記憶を事細かに聞き出そうとも思わなかった。
 トラヴィスという青年が、孤独と静寂を求めて新たなオベル遺跡の管理者となったことで、オベルに赴く理由もなくなった。
 リキエはラクジーを連れ、故郷のナ・ナル島に帰り、夫の菩提を弔いながら静かに暮らしていた。
 ……はずだった。ラインバッハ二世の姦計から生まれたこの事件が起こる直前は。

 六月三日。島民の支えとなりつつ静かに暮らしていたリキエの元に、一通の手紙が届いた。
 わずか一行、シンプル極まりないその手紙が、リキエの運命を大きく左右することになる。

「罰の紋章に異変あり。至急来訪を乞う」
10-3

「マクスウェルさんのもとへ行きます」

 突然、こう言い出したリキエに対して最も驚いたのは、当然ながら息子のラクジーだ。
 群島開放戦争後、肉体的に最も成長したのは、このラクジーである。十一歳になったラクジーは、この二年間で身長が十五センチも伸び、一五五センチになった。
 同年代の男の子よりも一回り大きな体格に加え、もとより人を気遣える優しさを持った少年で、年齢よりも大人びて見られることも多く、彼の成長は母リキエの楽しみの一つだった。
 なにもマクスウェルのような、波乱に満ちた英雄になってほしいとは思わない。ただ、父のように、しっかりとした分別のある大人になってほしかった。

 そのラクジーが、母の突然の決心に狼狽している。
 母から、くだんの手紙を見せられても、「いってらっしゃい」と笑顔で言う気分にはなれなかった。
 リキエは静かだが、芯の強い女性だ。なかなか動くことはないが、一度決心したら何があっても行動に移る。
 そのことを誰よりも知っていたから、この差出人不明の「手紙」……というよりも「走り書き」に動かされる危険性を説いた。

「これが本当にマクスウェルさんが書いたのなら、きっと、誰か僕たちの知っている人に届けるのを頼むよ。
 これを持ってきたのは、僕たちの知っている人なの?」

 これは、マクスウェルを知る人なら誰でも考えることだ。
 マクスウェルは現在、各方面との連絡には女忍者のミズキを好んで使っている。
 これは、マクスウェルがミズキを信頼していることもあるし、誰よりも口が堅く、何があっても秘密を漏らさないだろうという確信があるからだ。

「逆にアカギは口が軽いからな。重要文書を持たせられないから、ボディーガードに回されてるんだろ」

 ……とは、タルが皮肉とユニークとを混ぜて口にした冗談である。実際には、マクスウェルがタルやポーラ、ラインバッハ、ミズキと同じくらいに信頼しているから、自らの身辺をこの軍艦頭の忍者に任せられるのだ。

 マクスウェルは、その程度の気配りはできる男である。
 現在、なんの政治的背景もないリキエに対して、彼女が反応せざるを得ない「罰の紋章」という言葉を含んだ重要な手紙をよこすのなら、必ずマクスウェルとリキエに共通の面識のある人間に頼むと思われた。
 たとえば、ナ・ナル出身者ならアクセルやセルマ、ポーラがそうであるし、先の戦争で共に戦ったものの中にも共通の知人も多くいる。
 しかし、「自分の知らない人だった」というリキエの回答は、ラクジーにとっては要領の得ないものだった。

「とにかく、その手紙を預からせて。アクセルさんに聞いてみたほうがいいよ」

 リキエは珍しく難しい表情をしたが、素直に息子の言う事は聞いた。
 ラクジーの判断を正しいと思いつつも、気がせいているようで、リキエの視線は落ち着かない。
 ラクジーに手紙を持たせてアクセルのもとに走らせつつも、自分は旅支度を進めていた。
 はたして、悪かったのはタイミングが、それとも運か、その両方か。
 ラクジーが出てしばらくしてから、一人の男がリキエの前に現われた。その手紙を持ってきた男だ。

「あ、名乗り遅れましたが、俺はロジェっていいます。
 マクスウェルさんからの手紙は読んでもらえました?
 できれば早く来てほしいってことだったんですけど」

 後ろに跳ねた髪が外見的な特徴の男だ。
 どことなく口調も性格も軽く見える男で、動きもせわしない。
 もしも落ち着いてリキエがこの男を見ていたら……罰の紋章という一語を聞かされていない状況で見ていたら、また違う行動をとったのかもしれない。
 そして、リキエが先年に起きたクールーク皇国崩壊事件に関わっていれば、知己を得ていたかもしれない。
 しかし、それはどちらも「if」のはなしだった。現実にどちらの「if」も起こらなかったこのとき、リキエはこの男を信じ、ラクジーの帰りを待つことなく家を後にしてしまった。
 ラクジーがアクセルを連れて帰ってきたとき、すでに自宅は無人になってしまっていた。

 ロジェについて家を出たリキエは、道すがら、マクスウェルと罰の紋章について何度もロジェに問いただしたが、ロジェは「何も聞いていない」「俺は頼まれただけなんで」の一点張りで、なんの情報もリキエに話そうとしなかった。
 もとより、話術が達者なわけではないし、腹芸に秀でた男でもない。リキエを騙しきることなどできなかったが、この男の役割は、リキエを「騙す」ことであって「騙しきる」ことではなかった。
 リキエがアクセルやセルマなど、厄介な仲間を連れずに、一人で家を出ることが重要だった。

 さすがにリキエも怪しいと思ったのだろう。海の見える崖ぞいまで来たところで、ふと足を止めた。

「あなたは信用できない。私は帰ります」

 このときになって、初めてラクジーの判断が正しいと思った。ある程度落ち着きを取り戻してから、自分が急ぎすぎたことを知った。
 振り返ろうとするリキエの肩に慌てて手を置き、ロジェがまくした。

「ええ!? それは俺がマクスウェルさんから怒られちゃいますよ。
 いま一番困ってるのがマクスウェルさんで、ええと、リキエさんは罰の紋章に詳しいでしょう?
 ここは人助けだと思って……」

 そうまくし立てられなくても、罰の紋章が動き出せば、リキエはどこへでも赴くだろう。赴いて、その進む道を見届けなければならない。
 だが、この男の言葉からは、「重み」が感じられなかった。
 罰の紋章は、多くの人間の人生と、涙と、血と、未来とを吸い込み、群島の闇から闇を邂逅する。リキエは一時期なりともその事実を目にした人間である。
 その当事者のひとりから見て、この男の言葉は、その闇をあらわすだけの「重み」がいっさい感じられなかった。
 罰の紋章を語るには「軽すぎた」のだ。

 リキエはもう彼の言葉に耳を貸す気はなかった。
 自分を騙した者に対し、やや怒りを籠めた視線を向けてからロジェの手を跳ね除け、家に帰ろうと振り返った。
 振り返った瞬間、別の悪意が自分を取り込もうとしていることを知った。
 大柄な女が、気配も立てずに自分のすぐ後ろに立っていた。
 その瞬間、リキエは、背筋に氷の粒をダース単位で流し込まれたような寒気を感じた。それは「恐怖」の別名だった。
 ロジェと違い、リキエがこの女を知っていたことが、その恐怖を倍加させたのかもしれない。

「あなたは……」

 そう言いかけたが、リキエがその続きを口にすることはできなかった。一瞬にして、意識が途切れた。
 女の持っている杖の先が、リキエの鳩尾(みぞおち)にえぐりこまれたのだ。
 それをロジェの目が捕らえた。その瞬間に、リキエはその女の胸元に倒れた。

「ひゅう、相変わらずエグイっすね……」

 感嘆とも恐れともとれる声を出されて、白に近いグレーのショットカットをした女は、リキエの身体を支えながら、侮蔑の表情を隠さなかった。

「ハン、お前が無能すぎるだけだろ。
 女ひとり騙しきれないヤツが、よくもまあ一隊の将なんてまかされてたもんだ」

「手きびしいなあ」

 ロジェはその厳しい視線にたじろぎ、せわしなく肩を動かしている。

「だからまあ、俺はイスカスの野郎に使い捨てにされたのかも知れないんですけどね」

「知れないんじゃなくて、明らかに最初から捨て駒だったんだよ、お前は」

 言ってから女は、意識を失ったリキエの身体をロジェに預けた。
 リキエは背丈も体格もほぼ標準だが、ロジェは少し足を踏ん張って、丁寧にリキエの身体を受け止める。

「いいから、この女を連れていきな。いかにお前が無能でも、それくらいはできるだろ」

「それはもう、頑張らせてもらいますよ」

 ロジェは過去、クールークの長老派の一人として、イスカスの反乱に手を貸していた。
 キカの海賊島を襲って紋章砲を奪うという功績をたてたが、その後の任務はなかなか上手くいかず、結局はイスカスにいいように使い棄てられた。
 一隊を任されてキリルやリノと戦って、殺されそうになったところを、キリルの「説得に応じて」反旗を翻し、今度はイスカスに楯突いたのだ。
「寄らば大樹の陰」というわけではないが、ロジェは、自分よりも強い者をかぎ分ける嗅覚に優れてしまった。そして、そんな者にとりいる術にもすっかり長けてしまった。
 このときの経験がよほど身にしみたのか、それとももとより変わり身の早い男なのか、本人にも判然としない。

 ぶつぶつと何事かをつぶやいて、リキエの身体を背中にかついで歩き出したロジェだが、三歩目を歩こうとしたところで、先を歩いていた女の背中にぶつかった。
 女が立ち止まったのだ。

「どうしたんですか、マキシンさん?」

 不思議そうにその女――マキシンを見るロジェの視線が、マキシンの視線の先に向かった。
 その先に、小さな女の子が立っていた。両腕を組み、警戒心と怒気をはらんだ瞳で、リキエを覗いた二人をにらみつけている。
 ロジェは、その少女の容姿にまず目が行った。ややくすんだ金色の長い髪の間から、細くとがった耳が、斜めに突き出ている。

「……エルフ」

 ロジェの呟きをかきけすように、その少女が叫んだ。

「やい、悪者!」

 この一言によほど意表を突かれたのだろう、マキシンとロジェは、何も言い返さずに少女の口上を聞く羽目になった。

「ひさしぶりにナ・ナルに帰ってきたら、いきなりこれだ。
 ポーラは言っていた。人間にもエルフにも「悪い心の持ち主はいる」と!」

 ロジェはあきれていたようだが、マキシンは少しだけ苦笑を浮かべているように見えた。
 少女の時代がかった啖呵の切りように聞き入っているようでもある。
 エルフの少女は、「敵」の都合など知ったことではないとばかりに、思うが侭に叫んでいる。

「ポーラに聞くまでもない! お前たちは悪い心の持ち主だ!」

 そして勢い良く右手を突き出し、マキシンたちを人差し指でさしてみせたのだ。
「悪」の一言でまとめられてしまった二人だが、ここではじめて、マキシンが口を開いた。
 その表情は、挑戦的なまでに不敵な笑いに満ちている。マキシンには不似合いな表情だが、ロジェには、わざと作っている表情にも見える。
 真意はマキシンの内にしかない。

「これはこれは、威勢のいいお嬢ちゃんだ。
 それで、私たちが悪者だったら、お嬢ちゃんはどうするつもりだい?」

「私は人間のことは大嫌いだが、島を出て、人間のみんなが嫌なヤツじゃないことはわかった。
 でも、お前たちは嫌なヤツだ。この島をメチャクチャにしたヤツらと同じにおいがする!」

「ほう……?」

 マキシンの笑い方が、よほど癪に障ったのだろう。エルフの少女の表情と言葉に含まれる怒気が、一気に膨れ上がった。
 そして、その右手の甲が微妙に光り始めていることに、マキシンもロジェも気づいた。
 この少女は、なんらかの紋章を使おうとしている、と。

「この島の誇りあるエルフとして、ポーラとセルマに代わってお前たちを倒す!」

 ごう、と風が吹き荒れ、この場にいる全員の髪を揺らした。自然の風ではない。人工的に起こされた風だ。
 ロジェはリキエの身体を抱えたまま不安の表情を露にしたが、マキシンは笑っていた。むしろ楽しそうに言い放つ。

「いいだろう。だが、正義の使者は、まず自ら名乗るものだ。お前の名を聞こう」

「私の名は!」

 少女の右手が緑色の光に覆われるのと、マキシンの右手が同じく緑色の光に覆われるのが、ほぼ同時だった。
 そして、二人の右手が振り下ろされるのがほぼ同時。二つの強い風がぶつかり、激しく相殺しあい、周囲の空気をなぎ払うのがほぼ同時。
 その直後に、少女の声が空気を伝播してマキシンの鼓膜を叩いた。

「リシリアだ!」

COMMENT

(初:14.06.19)