クォ・ヴァディス 57

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 ガイエン公国にスノウを使者として派遣した後、オルネラを加えたラズリル・オベル首脳部は、ガイエンのみに注力できているわけではなかった。
 この政府は政治的にはカタリナが首班であり、首脳部が連名となるときにはカタリナの名がトップになることが多いが、軍事の方面においてはリノ・エン・クルデスに一日の長がある。
 戦士としての腕前ならオルネラも一流だったが、軍隊を組織だって動かすには、理論だった思考回路と専門の経験を同時に持っていなければならず、この両者において、リノ・エン・クルデスを上回るものはいなかったのである。

 カタリナ、リノ・エン・クルデス、オルネラのスリートップ体制は、今のところはなんの瓦解も見せず、やや不安定ながらもしっかりと立っているように見える。
 無論、それが永遠に約束された安定ではないということも皆よく知っていた。
 トップダウン方式ではなく連座制ゆえの弱点もあって、ことによっては組織としての責任の所在があいまいになることもあった。
 この点について周囲から不審の目をむけられないよう、カタリナは細心の注意を払った。
 事案をたらいまわしにせず、問題が出た時点で責任者を決め、一つ一つを丁寧につぶしていった。

 このあたりの心配りは、故・グレン元ガイエン騎士団長の死に瀕したときの苦い経験が生きているといえるのかもしれない。
 全ての責任をマクスウェルに押し付けてしまった結果、カタリナとスノウは周囲の信頼を失ってしまい、保身のために全てを黙認したフィンガーフート伯爵は、けっきょくラズリルから逃げるように脱出してしまった。
 カタリナは周囲の信頼を回復するために、とんでもない量の時間と汗とを消費することになった。
 その時と同じ轍を踏むわけにはいかなかったのだ。

 余談だが、フィンガーフート「元」伯爵はガイエンへの亡命後、首都オリゾンテの片隅でひっそりと暮らしている。現状を知る者に拠ると、ラズリルにいたときの貴族然とした尊大な口調はなりを潜め、生活態度も別人のようにしおらしくなっているという。
 ラズリルの特使としてオリゾンに入ったスノウは、キャンメルリング公から父親の現状を大まかに聞き、対面を望むかどうかを問われたが、一瞬の間を置いて「今の僕には、まだやるべきことがある」と、首を横に振った。
「会う機会があったとしても、今は会うことはないでしょう。もはや、話すべきこともありませんから」
 今は、という部分の解釈が周囲で別れた。スノウが過去と完全に決別したのだと見る者もいたし、未来に父と面会する可能性を含せたのだ、と見る者もいた。

 日々、様々な雑務に追い回される中で、彼らを驚かせるような事件は毎日のように起きており、彼らはたいていのことには驚きはしても狼狽はせずに対処できた。
 それでも、彼らを絶句させるような事件が起きることもあるのは、仕方ないことだろう。

 たとえば六月六日、ガイエン公国からの公式、非公式な報告はラズリル政府だけでなく、群島にある全ての人間を驚倒させた。
 群島解放戦争時、マクスウェルの指揮の下でいぶし銀の活躍を見せ、スノウとも多少の交流があった戦士バーソロミューが、後に歴史家ターニャの取材を受けてこう語っている。

「俺が知ったのはしばらくたってからだが、(群島解放戦争後)人里を離れて暮らしている俺ですら、あのニュースには耳を疑ったものだ。
 政府の人間なら当然俺よりも早く聞いていたと思う。とても驚いたんじゃないか」
(ターニャ著「パニッシュメント・ブリーフィング」第83巻)

 バーソロミューは寡黙な人柄で、めったなことではそのしかめつらしい表情を崩さなかった人であることが、彼と交流のあった服飾家フィルや船大工トーブの日記、ターニャ自身の証言などから分かっている。

 その彼が「驚いた」と表現したことに、ターニャは欄外に注釈をつけてまで素直に動揺しているから、よほどのことだったのだろう。
 当時ミドルポートの顔役のような存在になっていたシャルルマーニュも手記の中で、

「その日は、他に驚くべき小事がいくらでも存在したが、この報告ほど皆を愕然とさせたものはなかった。
 ラズリル政府もオベル王家もクールーク関係者も、同じ大きさで口を開け、温度の違う息を吐き出した」

 ……と述懐している。

 その報告は、

「ガイエン政府の名において、ラズリル特使スノウ・フィンガーフートに対し、彼が政府に返上した爵位を全て返還し、フィンガーフート伯爵家の後継者たるを正式に是とする。
 さらに、特使としての重き任を全うした伯爵の功績を大とし、その爵位を侯爵に進めることとする。
 同時にフィンガーフート侯爵は「公師定」の役職を得るものとし、ガイエン政府においてその役職をまっとうすることとする」

 というものだった。これは、ガイエン政府の名で公式に発せられた文書である。
 つまり、スノウがガイエン中央の貴族となり、政府の重要な役職に就いた、というのだ。一体何が起こったのか。
 同時に、非公式の情報として、ガイエン大公妃の暗殺未遂事件が起こったこと、その事件に関与したとして貴族を含む五十人以上が処刑されたことなども伝えられた。

 リノ・エン・クルデスとオルネラは、顎に指を当てて難しい表情で考え込んだ。
 カタリナは明らかに動揺していた。
 ケネスとミレイも、自らの上司のそばにあって落ち着いていない。
 リノ・エン・クルデスが重苦しい沈黙を破った。

「カタリナ騎士団長、この情報にある「公師定」とはどのような役職なのだ?」

「簡単に言えば、大公殿下の教育係、兼、私的な身の回りの世話係、といったところです。
 でも、現在のスタニスラス大公殿下は、すでに七十を越えるご老齢であるはず。
 それを考えれば、純粋な世話係、執事のような役割になると思いますが……」

「なるほど、それで、この役職に政治的な発言力は?」

「ありません」

 カタリナは明快に否定した。

「「公師定」は大公殿下に近すぎるため、政治にはまったく関与できません。
 かつては大公殿下の政治的なスケジュールを調整するのも仕事のうちだったのですが、ある者が不正な利益目的で大公殿下のスケジュールを長年にわたって改ざんした事件があったのです。
 それを契機に、この職は表に出る発言力を失いました」

「貴族を含めて処刑者が出たことで生まれた政治的空白に、スノウ・フィンガーフートが巻き込まれた……という可能性は?」

 オルネラが疑問を出したが、これはリノ・エン・クルデスが否定した。

「純粋な政治目的にしては、立ち位置が中途半端な役職だな。
 それに、わざわざスノウを侯爵に据える意味が分からない。
 本来なら侯爵を名乗る者が就くような仕事でもない」

「なにか別に目的があるのでしょうか?」

 ケネスが控えめに問うた。

「それはまだ分からん。分からんが、一つだけいえることはある。
 ガイエン政府の中に、よほどスノウを政府内に留めておきたい人間がいる、ということだ。
 侯爵につけたのも、役職につけたのも、スノウに足かせをはめるためではないかと思う。元になっているのが「善意」か「悪意」かは分からんがな」

 そして当然、それは「侯爵」以上の立場にある者であろう。ある程度、リノには正体がつかめた気はする。
 まだ憶測の域を出ないため、名言はしなかったが。

 誰かが疑問を投げかけ、リノ・エン・クルデスがそれに答える、という空気になっているが、これはそのまま経験の差でもあった。
 そして、この場の誰もがそれを認めているからこそ、リノ・エン・クルデスが自然と場の中心になっても不自然には思わなかったのだろう。

「どうしましょう、誰か別の者を送って力添えをさせたほうがいいのかしら」

 カタリナが声のトーンを落とした。事態に対処し切れていない、どうしていいのか分からない、という思考が表情からも見て取れた。
 リノがカタリナを一瞥した。

「それはこの情報が正しいことを確かめてからだ。騎士団長、それを確認する方法は?」

「あります。ほぼ同時に、スノウ本人からも同様の報告が来ています。間違いないと見ていいでしょう」

「いまスノウはどういう状況下にあるのか?」

「強硬派のキャンメルリング公爵と友好関係を結ぶことには成功しましたが、そのあと、大公妃暗殺未遂事件のいざこざに巻き込まれて、現在はマノウォック公爵の屋敷に軟禁されているようです」

「わかった」

 リノは一つ頷いた。情報の確認の方法まではカタリナは言及せず、リノも問わなかった。
 重要な情報源やその取得方法は、各国にとっては生死に関わる最高機密の一つである。
 どこの国にも公開できない「切り札」の一つや二つはあるはずで、リノは友好関係にある国の機密までえぐりだそうとは考えていなかった。
 情報が正しいかどうか、この場ではそれさえ分かればいい。

 ラズリルでは、緊急通信手段として「ナセル鳥」という鳥を伝書鳩の代わりに飼育している。
 伝書鳩は通常、最大で千キロほどの飛行が可能と言われるが、帰巣本能を利用して文書を持って帰ってくるだけだった(往復は不可能)。
 ナセル鳥は、ガナハバトという種類の鳩に魔法を絡めた特殊な調教を施すことで、最大飛行距離を千三百キロにまで伸ばし、さらに往復飛行を可能にした画期的な伝書鳥である。
 まさにラズリルの情報の要であり、他者には決して口外できないものだった。
 カタリナ自身、グレンの存命中に部外者のラマダの前でうっかりナセル鳥の存在をほのめかす発言をしてしまい、グレン団長から激しく叱責されたこともあった。

「この情報が正しいのなら、新たに誰かをガイエンに送る必要はない」

 と、リノは済まして言った。

「スノウは、二つの公爵家のいずれかに接近するという役割を、すでに果たした。
 キャンメルリング家と同盟を結び、マノウォック家もスノウに強い関心を抱いている。
 十分すぎる戦果だ。ここに新たに誰かを送り込めば、ガイエン側はラズリルの下心を疑うであろうし、スノウも自分の功績を横取りされるのかと疑うだろう。
 また、ガイエン公国自身が公式文書としてスノウを公職に就けたことを明言しているし、スノウに危険が及べば、ガイエンの信頼の失墜につながる。
 ここはすべてをスノウに任せよう。我々はラインバッハ二世に全力をむければよい」

 リノの言葉は力強さに溢れていて、カタリナの狼狽を一瞬なれども消し去った。やはり、この同盟の実質的な主柱は、彼でなくてはならないだろう。
 ただ、リノ・エン・クルデスは思うところをすべて語ったわけではない。
 スノウが公式にガイエン政府に取り込まれたということは、ラズリル・オベル連合そのものがガイエンに取り込まれたのではないか、という疑念を他国に持たせることにもつながる。
 これまでラズリル・オベル連合vs.ラインバッハ二世だった戦況が、ガイエン公国vs.ラインバッハ二世に変わる、と受け取る者がいる可能性がある、ということだ。
 どこまでも可能性のはなしだが、行数にしてわずか三行のこの公式文書は、様々な憶測を呼ぶだろう。これまで、ラインバッハ二世とリノらが発してきたメッセージとともに、である。

 気を取り直して、カタリナがもうひとつ、リノに進言した。

「スノウ・レポートには、気になる点がいくつかあります。
 まず、少なくとも首都オリゾンテには、ラインバッハ二世の勢力がすでに入り込んでいること。
 そして、マノウォック公爵家にキカ一家の参謀格であるシグルドさんの姿ある、というのです」

「シグルドが?」

「はい、何度か会話の機会もあり、間違いはないとスノウは言ってきていますが……」

 これにはリノも考え込む。
 キカ一家は海賊らしく、荒々しい気性の者が集まっており、腹心にも血の気の多いものが多い。ダリオにしかり、ハーヴェイにしかり。
 その中でただ一人、理性によって自分と周囲を制御できる者がいる。シグルドである。
 この理性的な異色の「海賊」は、キカ一家のなかでも比較的新参だが、キカの信頼も篤いし、キカへの忠誠心も強い。キカにとっては貴重な、参謀としての能力の高い片腕であった。

 キカはこれまで、マクスウェル襲撃に始まったこの事件に首を出していない。関心を持っていないわけではないだろうが、いずれ接触してくるとしても、その相手はリノかカタリナ、あるいはマクスウェルではないかと思っていた。
 いきなりガイエンに、しかも腹心中の腹心を寄越すとは思っていなかったのだ。
 リノが長考の入ろうとするところで、ケネスが思いを吐き出す。

「シグルド氏は過去、ラインバッハ二世の下で私設艦隊の指揮を執っていた経験があるそうです。
 当然、ラインバッハ二世とは、何かしら交流や因縁はあったと思われます。それを踏まえての潜入ではないでしょうか」

「ふむ……」

 確かに、説得力はある。ラインバッハ二世を直接知る者に彼の動向を探らせるにしても、彼の領地であったミドルポートや、現在彼の拠るオベルに直接出向かせるのは危険だろう。
 実際にラインバッハ二世は、シグルドにキーンという暗殺者を差し向けたこともある。
 シグルドはいまやキカ一家にいなくてはならぬ存在だ。いかにキカでも、シグルドを単独でそこまで危険な目には合わせたくないはずだ。
 だとすれば……。

「つまりキカは、ラインバッハ二世がガイエンに絡んでいると、独自に考えていたわけか。
 彼の経歴を考えれば当然、そこには行き着くだろうが、なかなかどうしてキカのセンスもあなどれんな」

「しかし、果たしてラインバッハ二世がガイエンを頼りとするでしょうか?
 彼がはるか昔にガイエンに見切りをつけたことは有名な話ですが」

 いぶかしげな表情のターニャに、リノが顔を向ける。

「頼りにするとは限らないだろう。引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておいて、放っておくつもりなのかも知れん。
 ガイエンの官僚には期待できる何者もないが、それだけに下手に口を出されると厄介だ。
 口すら出せない状況を作ることで、西からの不確定要素を減少させることはできる」

 軽く分析しておいて、リノはターニャにむける視線に、少し意地悪な光を乗せた。

「だいたい、こういうことを分析するのは軍師の仕事だぞ。
 一戦場の「戦術」を考えるだけで酔うようでは一流の軍師とはいえない。
 群島全体の状況を肴に「軍略」という名の銘酒を嗜むのが軍師というものだ」

 自らの未熟を理解しながらも、やはり少し気に障ったのか、ターニャはわずかに緑色を含んだ薄い金色の長い髪をなびかせて、ぷいとそっぽを向いた。

「私は下戸です。酔っ払ってクダを巻きながらデタラメな戦略とやらを周囲に吹き込むような薄い舌は持っていません」

 リノは年若いターニャの強がりについ苦笑した。もちろん彼は、ターニャの師であるエレノア・シルバーバーグが稀代の酒豪であることを知っている。
 エレノアはすっかり酒焼けした声で、魔法のような戦略を酒の肴代わりに次々とひねり出した。それには多くの皮肉か少しの自虐がおまけとしてついてくることが多かったが、とにかくも、エレノアは群島全体を視野に入れることができたし、いまも実際にこの事件全体を視野に入れて独自に行動を起こしている。
 ターニャがエレノアの域に到達するのは、まだまだ先のことであろう。

「まあいい。エレノアについで、キカも動き出した。これを朗報とするためには、一刻も早くこちらからキカに接触せねばならん」

 ただ、これは難事であった。
 キカは正義を身上としているが、それはあくまで海賊としての正義である。
 多くの部分がリノの正義と重なるとはいえ、やはり完全に一致するわけではない。
 気難しいこの女海賊を説得するための論客を誰にするかは、最大の悩み事であった。
 さらに言えば、キカの本拠地である海賊島のはっきりとした位置が不明である点も悩みどころだった。
 海賊にとって、本拠地が知られることは死活問題になりかねない。その「隠れ家」を知られないように工作をするのは当然といえる。

 このとき、すでにマクスウェルがアカギとミズキをキカの元に派遣している事を、リノたちは知らない。この首脳部の中では最大の協力者であるカタリナにすら知らされていなかった。

 そして事件は起こった。これも、彼らの予想外の地で。

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(初:14.06.19)