しかし、事件そのものはあっけなく終わっている。こういった突入作戦で、屋敷が燃えなかったのは奇跡と言っていい。
これは、キャンメルリング公の側が証拠の押収と市街への延焼を危険視して屋敷に放火しなかったのが最大の理由だが、もう一つには、アルバレズ子爵の側に、焼身自殺をしてもせめて相打ちに持っていこう、という徹底した覚悟がなかったこともある。
どちらにしろ、アルバレズ子爵はほぼ一方的に叩きのめされており、キャンメルリング公が敵地のはずの子爵邸内を部下に守られるまでもなく騎馬のまま悠然と闊歩する姿は異様ですらあった。
アルバレズ子爵の私室は屋敷の二階にある。突入開始からわずか一時間で、この部屋以外のすべての空間が制圧されていた。
流された血の量は思いのほか少なく、子爵の私兵の大多数は投降していた。逆に、投降者の数が多く、キャンメルリング公は瞬間的にだが屋敷の制圧よりも捕虜をまとめるのに人員をさかねばならぬほどだった。
戦闘後の喧騒が襲う屋敷に残された子爵の最後の領地。そのドアを、十人ほどの部下を引き連れたキャンメルリング公がノックした。
アルバレズ子爵が自殺していないなら、まだこの部屋にいるはずで、彼にそんな勇気などないことはギネは承知している。
そしてわざとらしくドアをノックするような「仰々しさ」が、追いつめられた相手の精神にダメージを与えることも知っている。
「入るぞ」
これもわざとらしい台詞とともにドアを開ける。時代がかった重いだけの音を立てて中に入ると、いたのは五人の人間だった。
四人は血を流しながら床に倒れている。死んではいないようだがダメージは大きいようで、ギネから表情が見えたメイドは、顔が変形するほどの殴打のあとがあった。
残った一人、青白い肌の青年はまだ抵抗する気らしく、思い切り歯を食いしばってショートソードを構えていた。
だが、ギネが開いた左目だけで一目見ただけでわかるほど不自然な構えだ。
ひざを曲げ腰は低く下げているが両足のかかとが浮いており、体の正面をギネに向けて左逆手で剣の柄を握り、右手を胸に当てている。
彼なりの美学か何かが基にはあるのだろうが、初めての子供に剣を握らせてもこんな不自然な構えにはなるまい。
ギネはすべてを諦めたように、両肩をすくめて失笑した。そして、彼など存在しないかのように部下に指令を出し始めた。
まず、自分の右後ろに控えていた者たちに言う。
「貴公らは、怪我人をゆっくり運び出して治療を与えよ。むごいことをされている。くれぐれも慎重にな」
「……おい」
ギネの部下たちが勢い良く声を上げて返事をし、自分の横をすり抜けて殴り倒された執事やメイドたちを運び出していく様は、さすがに青年を激怒させたらしい。
一瞬の忘我の後に、唇から血が出るほどに食いしばった。
「私がアルバレズ子爵ナハトだ」
だが、その傲慢な名乗りを完全に無視して、ギネは左後ろに控えていた部下に振り返った。
「貴公らはこの部屋を総ざらいにひっくり返して、証拠らしいものはすべて押収せよ。
美術品の類は美術館に収蔵するから、詳細なリストをつくるように。……もっとも、貴重なものがあるとも思えぬがな」
「私が! アルバレズ子爵家八代目当主、ナハトだ!
こちらを向け、成り上がり者のキャンメルリング! 貴様に毛ほどの誇りがあるなら、私と一対一の勝負をするのだ!」
狂気ともいえる言葉を投げかけられて、初めてギネがナハトのほうを向いた。だが、その表情は冷笑のままだ。
「私が君と勝負してなんの意味があると?」
「怖気づいたか!成り上がり者らしく、一片の誇りすらないのか!」
「私を成り上がり者と言うがね、子爵。こう見えて私は公爵、父は侯爵、祖父以前も伯爵だ。四代遡っても君の家より爵位は上だよ」
無駄な議論だ、と言いたいのだが、子爵には通用する気配がない。
「貴様の父は、侯爵位を金で買っただけの汚らわしき者ではないか!」
「では百年かけて爵位を買うことすらできなかった君の祖先は、よほど覇気にかけていたのだな」
「我が誇りある父祖を愚弄するか貴様!」
お互いに愚弄するつもりで言っているのだから、まったく会話になっていないわけではないが、不毛なことには違いない。ギネの思惑通りではあるが、気分がいいものではなかった。
「私の父は、自分の愚かしさにふさわしい非業の死を遂げた。では、君はどうなのだ、子爵? 我が父を悪し様に罵る以上、君も自分の言動にふさわしい最期を遂げる覚悟はあるのだろうな?」
そんなものがあればこのような状況にはなってはいないだろうが、自分の正当を疑えないアルバレズ子爵に、受け入れることは困難だった。
怪我人が運びだされ、部屋の物が次々と押収されていくなかで、自分の屋敷であるにも関わらず、子爵だけがずいぶん場違いな様相を呈している。
「……くだらぬ」
冷笑に失望を交えつつ、左目だけで子爵を見下していたギネが、話を打ち切ろうとしている。
「貴様……!」
そう叫んでギネをにらみつけるナハトの視界に、異様なものが映りこんだ。
……ギネの右目が開いている。
左目とは明らかに色が異なる深紅の光を放つそれは、明らかに目ではない。目の代わりに何か別のものが埋め込まれている。
(なんだ、これは!)
もともと正気の不確かなナハトの顔が、ギネの右目を見た瞬間に、さらに平衡感覚を失っていく。
情けなく身体を震わせ、肩を揺らし、足をぐらつかせている。
ギネにとって、これでこの忌々しい事件の幕引きとなる。始まりの終わりになる。……はずだった。
その魔眼に魅入られた者に次の一秒はない。それが、これまでの摂理であり、実際に侯爵はその摂理で数ある者を屠ってきた。ナハトの暗殺者のように。
だが、いま目の前にいるその子爵は、そうはならなかった。哀れな暗殺者のように、自分の剣を自分に突き立てたりはしなかった。
よだれをたらし、視線を呆けさせ、情けなく身体を震わせ、剣先を上下させるのみだ。
「…………」
ギネは右目を開けたまま失笑を強くしたが、目を閉じたりはしない。ナハトの魂をつかんだまま、離しはしない。
「う、うあああああああ……」
ナハトはついに頭が振り切れた。ビクンと足から頭まで痙攣すると、ギネに背を向けて走り出した。窓からベランダに抜け外に逃げるつもりか。
「無駄だ!」
ギネはナハトが外に逃げても、そこで討ち取れるように手配はしているから、慌てることはない。ゆっくりと追いつめるだけだ。
背中から近づいてくる死の空気を、つららを刺されたような冷たさを感じながら、ナハトは窓に走った。彼にとっては、そこが現世の明日に通じる唯一の扉のように思えた。
ナハトは悲鳴寸前の嗚咽を流しながら、窓に手をかけた。そして正面を見、今度こそ悲鳴を上げた。まるで視界に突然幽霊でも現われたかのような狼狽振りだが、ナハトが見たものは幽霊よりも場違いで、さらにたちが悪いものであったろう。
大きく胸の開いた豪奢なドレスを身につけた女性が立っていた。まるで悪魔の微笑みのように、口の端を吊り上げて笑っていた。
マノウォック公爵ハーキュリーズ。
「ひい!」
ナハトは思わず開けかけた窓を閉じようとしたが、ハーキュリーズの一喝がそれを阻止する。
「開けよ」
鋭くも厳しくもないが、魔性の気を籠めた一言だった。ついナハトは言われるがままに窓を開放してしまう。
ナハトの場合は、ハーキュリーズ個人の空気と権威に押されたのかもしれない。
とにかく、ハーキュリーズは部屋に入ってきた。まるで無人の野を行くように静々と。
ナハトにとっては不運以外の何者でもない。目前のハーキュリーズ、背後のギネ。前門の魔女、後門の死神。生き残れというほうが難しい。
このとき、ギネは先ほどまでの冷笑を一瞬で消し、とっさに右目を閉じた。
ハーキュリーズはギネのほうには顔を向けず、ひたすらナハトを見つめて悪魔の笑みを絶やさない。
「さあ、どうするのじゃナハト。あれだけの大口に、これだけの大事、まさか何事もなく終われるとは思うてはおるまいな。
進退窮まったのは公国か、それともお前か!お前が求めるのは誰の血じゃ、ナハト!」
凛とした声が部屋の空気を叩いた。いまのナハトに正常な判断を求めるのは酷というのものだが、なんにせよ彼は何らかの判断を強要されるだろう。
「生まれついての騒動屋だな」とギネは思ったが、この場では口に出さなかった。口に出したところでハーキュリーズは気にも留めないだろうが。
ナハトはすでに人間として許されるギリギリの顔をしていた。歯をカチカチと鳴らしながら、視線を右にやる。後ろのギネを気にしているようだが、顔は向けない。あの右眼を見ることなどできはしない。
結局、ナハトは答えを出した。例の妙な体勢で剣を構えると、
「う、うぃわあああああ」
と間と力が絶妙に抜けた声を張り上げた。
彼が襲い掛かったのはハーキュリーズだった。追いつめられたナハトは、悪魔の笑みを浮かべたままのかつてのパトロンに斬りかかった。
だが、結局、その勇気は無駄に終わった。彼の剣先がハーキュリーズに届くことはなかった。
ど、という衝撃を胸に感じたとき、彼の前進は止まっていた。衝撃は次の瞬間、痛みに変わっていた。続けざまに腹、右足、左太ももに激痛が走った。
何が起こったのか、詳細を確認する時間を、彼は与えられず、そのままハーキュリーズの足元に崩れ落ちた。
短剣が四本、体に刺さったらしい。血が、止まらない。命の流出が止まらない。
ハーキュリーズは倒れたナハトを軽く見下ろしたがそれも一瞬で、背後に視線を向けた。
「来るのが遅い。もう少しで虐められるところであったぞ……シグルド」
この場にあるすべての目が、ハーキュリーズの背後に向いた。そこには、一人の男が立っていた。
長身の男だ。黒髪をていねいに撫で付けている。表情はこの場にあって厳しさよりもむしろ憂いをたたえている。元来は優しい男なのかもしれない。
ハーキュリーズはもう一度ナハトを見下ろした。そして、見くだした。
「最初は
まあ、卑屈なそなたらしい良い死に様じゃ。ハエのように舞い、ダニのように死ね」
結局、彼は公国に現存するすべての公爵に冷笑で見送られて死んだ。これが名誉なことなのかどうか、本人にしかわからない。
とにかく、子爵の屋敷で二人の公爵がにらみ合うという、公国の歴史でもめったにない事態が発生している。
ギネは慎重に表情を選択していたが、脇にシグルドを控えさせたハーキュリーズはのんきなものだ。優しい表情でギネを撫でた。
「殺意を持つ者ならいくらでも殺せるそなたの魔眼も、さすがに殺意を騙るだけのナハトは殺せなんだようじゃな」
ギネが表情を一気に変えた。警戒心が慎重さをはるかに上回った。しかし、これに驚いたのはむしろハーキュリーズだった。
「何を驚く。以前にも言ったではないか、そなたの眼のことは知っておる、と」
真実か、それともハッタリか。ギネは選びかねている。
「なぜ知っているのかそんなに不思議か? その魔眼……【四鬼】の紋章球のことを」
ギネが歯を食いしばって聞いている。直情的な男ではないから、ナハトと同じ結末にはならないだろうが……。
ハーキュリーズは自分のヘソのあたりをゆっくりと撫でまわし、笑顔で続けた。
「わらわも同じものを持っておるからの。
「なに?」「は?」
ギネとシグルドの二つの声が重なった。二人の声とハーキュリーズの声は、真逆の感情に支配されていた。ハーキュリーズは楽しみ、ギネは警戒している。
「いま、なんと仰られた」
「わらわも体内に持っておると言うておるのじゃ。【八房】の八つの眷属紋章の一つを。
……もっとも、お前とはかなり使い方が違うがな」
「…………」
「【八房】は古来ガイエンにあったもの。その眷属がガイエンにあっても、別に不思議な話ではあるまい」
「…………」
そのとき、部屋に三人の男が入ってきた。二人は軍装、一人は貴族服を着ている。
軍装の男がギネに、貴族服の男がハーキュリーズにそれぞれなにかを耳打ちした。
「なに?」
とギネは驚きの声をあげ、
「ほう、ようやった」
とハーキュリーズは今にも笑いに変わりそうなほど声を弾ませた。
「同じ報告がいったようじゃな。聞いての通りじゃ。
そなたよりも先に、わらわがスノウ・フィンガーフートを見つけたぞ」
「スノウ・フィンガーフートをどうなさるおつもりか。彼はラズリルの大使だ、手慰みにされるには危険が伴いますぞ」
「ふむ、彼をどうするかはこれから決める。とりあえず、そなたがご執心だと聞いたのでな、顔を見たくなっただけじゃ」
ハーキュリーズは、自分の乳房の間から股間に抜けるラインを、なまめかしい動作で指でなぞった。
主を失った屋敷の窓を、月光が照らしている。熱い風が深夜の室内を吹きぬけた。
ハーキュリーズの舐めるような言葉が、ギネの鼓膜を叩いた。
「ついにとらえたぞ、そなたの心の端っこをな」
(初:14.5.18)