クォ・ヴァディス 54

9-13

 ガイエン公国において最も高い格式と古い歴史とを持つマノウォック公爵ハーキュリーズは、退屈な時間を持て余している。
 生来の男好きである26歳の女公爵は、この夜も男爵・子爵の位を持つ三人の若い男とベッドを共にした。そして、三人がかりで身を責めさせてみたが、ハーキュリーズは満足できなかった。
 彼らはただ、心は権威にへつらい、身体は一定の動きを繰り返すだけだ。ひたすらに情熱に酔いたいハーキュリーズの要求にはもとより応えることができないことはわかっている。

(それにしても)

 と、ハーキュリーズは思う。彼女は情事を終え、広大なベランダに夜着一枚で立ち、長い髪を風にくゆらせた。
 ハーキュリーズは二時間におよぶ行為の後でも疲れも見せないでいるが、彼女の相手をした三人の貴族は、精も根も尽き果ててベッドに倒れ付したままだ。

(なぜ、こうも歯がゆい? なぜ、男どもはこうも頼りない?)

 結局のところ、ハーキュリーズの不満はそこに行き着く。理想とは呼べぬ誇大な妄想を吹き、爵位を得た偉大な祖先の名を語るのみで、自らはなにもしようとはしない。
 その内容のない空虚な自信は、彼女をただ失望させるだけだった。

 ただひとり、マノウォック公ハーキュリーズの失望感を拭い去るものがいるとすれば、それはキャンメルリング公ギネであろう。
 彼はまだ爵位が侯爵だったころ、自らの領地においてガイエンの古くて汚れた体質に染まりきった商人・役人たちを皆殺しにした。民主的な手続きなど意にも介さぬそのパワー。
 彼が公爵に昇って首都オリゾンテへ乗り込んできたときは、ハーキュリーズ自身、背筋と下腹に熱さを覚えた。彼の存在は、良くも悪くも時代の流れが停滞しているこのオリゾンテでは新鮮だったのだ。

 だがそのギネも、ここへきて慎重になっている。ハーキュリーズにはそれは気に食わぬ。
 数年前、自らの視力も、聴力も、妻子ですら失いつつ旧弊を打破したその力。首都と地方では闇の濃さは違うだろうが、振るう力の種類は同じはずだ。

(なにをしている、ギネ。もはやお前には、失うものなどあるまいが。後ろめたさなどあるまいが。
 何故動かぬ? お前が名を惜しむわけはあるまい。早く、首都を陵辱してみせよ。早く、歴史を陵辱してみせよ)

 ハーキュリーズは、自分の子飼いの貴族には、何の期待もしていない。彼女にとって彼らはただのペットでしかなく、人間としてすらみていなかった。
 アルバレズ子爵ナハトも、相応の肉欲と小汚い利権とを与えてやったが、それも野良犬に肉を投げ与えたようなものであった。
 ギネが激しく動かず、他の貴族に期待できないとなれば、もうガイエン国内にはハーキュリーズの欲求のはけ口になるような男などおらぬ。
 だが、だからといって海外や群当地方にそれを自ら追い求めるような行動力も、ハーキュリーズにはない。彼女自身も、良くも悪くも停滞した時間の中にいる。

 豪奢な手すりに体重を預け、視野に失望を重ねてため息をもらしかけたとき。
 ハーキュリーズの表情が変わった。その変化に、ハーキュリーズ自身が驚いている。
 それまで空虚な失望感に満たされていた空気に、突然別の「におい」が混ざりこんだ。
 それまでのガイエン公国にはありえないにおいだ。そして、マノウォック公ハーキュリーズの好みの匂いだった。

 鉄の匂い。殺意を持つ人間のにおい。そして、戦いのにおい。

 ハーキュリーズは目と口の端を吊り上げて笑った。声さえ上げなかったが、それはおもちゃを与えられた子供の笑顔に似ていた。
 ハーキュリーズは勢いよく振り返り、ステップを踏むように屋敷に戻った。そして、すぐそばに控えていた執事に声だけを投げ捨てる。

「着替えを持て。すぐに出る」

 あわてたのは執事だ。というより、他の誰がいても、ハーキュリーズ以外の全員が驚いたであろうが。

「真夜中でありますが、どちらへ?」

「決まっておろう、このにおいのもとへ赴く。血を求める男たちのもとへ赴く」

 この回答を与えられて納得するものがいるかどうかは怪しいが、もとより他人の意見などハーキュリーズには必要ない。
 執事もそれをよく知っているし、詮索が許される立場でもない。

 大きく頭を下げて二つ手を叩く。着替えを用意する合図だった。執事が尋ねたのは別のことだ。

「別室にてお休み中のゲストの方々は、いかがおもてなしいたしましょう」

 今夜、ハーキュリーズの相手をした三人の貴族のことだ。だが、身体を重ねた直後だというのに、ハーキュリーズの応えは短い。

「裸のまま追い返せ。彼等に価値があるとすれば、彼らが着ている衣装だけだ。彼ら自身にはなんの価値もない」

 三人のメイドたちに外出用のドレスに着替えさせながら、ハーキュリーズは答える。
 笑顔のままだが、彼らを語るとき、その笑顔から温度が失われている。
 ガイエンの長い夜が始まる。

9-14

 ガイエン公国において、過去に最も名声を得た存在を上げろと市民に問えば、まず第六代ガイエン大公オクタヴィアの名が出るだろう。
 数限りないごく極彩色の武勲によって公国の基礎を築いた大公の名は、続く第七代大公チェスターを差し置いて、ガイエンの歴史の中でも傑出している。
 では、公国においてもっとも悪名を残した者を上げると、これがまったくまとまらない。奇妙なことだが、オクタヴィアから250年を数えて、悪と呼ばれ記憶される巨悪はあまり存在しないのだ。
 それなりの暗君がいて、それなりの暴君はいた。歴史と利権に寄生する小さな塵芥は山のようにいるのに、である。
 むしろ、利権にむらがる小悪が当然の存在であり、市民たちはそれを絶望とともに受け入れてきたのだった。

 ところが、この三ヶ月の群島地方の混乱とほぼ時期を同じくして、後のガイエンの歴史に悪名を残す者が現れた。
 本人がそれを望んだわけではない。むしろ、本人は(追い詰められていたとはいえ)、ガイエンの歴史を守るために行動したつもりであった。

 アルバレズ子爵ナハト。マノウォック公爵の周囲をとりまく若い貴族の一人だ。
 彼は自分を、覇気と才能に溢れた野心家、と評価していた。爵位を持つ者の義務として、ガイエン公国の歴史を守らなければならない、と思っていた。
 彼だけが、である。

 だから、ガイエン貴族の「たしなみ」である違法な蓄財も、搾取されて当然の市民から力で財産を奪う行為も法律で禁止してしまったキャンメルリング公爵ギネのことが、どうしても受け入れられなかった。
 彼だけが。

 頭が回る官僚や商人たちは、キャンメルリング公が法律によって悪辣な経済行為に禁止事項を追加するたびに、その盲点をついてわずかでも市民から金を吸い上げた。しかし、その金を賄賂に使ってまでキャンメルリング公に媚を売ることはしない。彼の経歴を考えれば、それは自分たちの破滅につながるだけだとわかったからである。
 このため、官僚たちとキャンメルリング公の争いはいたちごっこになっており、どちらも相手を追い落とす口実が見つけられなかった。

 無論、頭が回る官僚や商人・貴族など少数だ。頭が回らない者は、資源の枯渇したガイエン国内ではどうすることもできず破滅するか、違法行為に走ってキャンメルリング公に逮捕されるか、じわじわと群島のラインバッハ二世の勢力化に置かれつつある。

 アルバレズ子爵ナハトは、経済などわからない。市民から金を強奪する権利は、爵位と同様に先祖から受継がれた当然のものだった。それを取り上げられつつあるいま、彼に思いつくことといえば、国内に隠然たる力を持つマノウォック公に危機感を訴えるしかなかった。

 ナハトにとっては不条理の極みであろう。彼がこれほど(勝手に)追い詰められているのに、マノウォック公爵は冷笑を浮かべるだけで、相手にしようとしない。公国の歴史あるシステムをこのまま破壊してしまうつもりなのか。

 彼は、公国を守るつもりだった。公国を守るつもりでキャンメルリング公に繋がりのあるガイエン大公妃を襲った。身寄りのないメイドを暗殺者に仕立てあげた。

 あげくにキャンメルリング公に撃退されてマノウォック公から見放されてしまった。
 本来なら、もう公国に彼のいる土地はない。それどころか、殺されないほうがおかしい。

 それを本人が悟らなければならない立場でありながら、まだナハトは自分のことを公国の守護者であり被害者だと思っている。

 ナハトは血色の悪い白い顔を土色にしながら、ガイエンの宮廷の裏で自分の正統性を説いたが、それも「自分が大公妃暗殺未遂犯だ」と宣伝しているようなものだった。
 誰も、ナハトを積極的にキャンメルリング公に突き出すことはしなかったが、公に味方する者も現れなかった。
 だからと言って、ラインバッハ二世が彼を誘うようなそぶりもない。

 そうして一人で狼狽しながら破滅のダンスを踊り狂うナハトの元に、ひとつの情報がもたらされた。

「明日深夜、大公妃殿下が療養先のイグネシアから首都に御帰還あそばれる」という。

 ナハトの思考は、ここで強制的にひとつの境地へ達した。

「もうこうなれば、私が大公妃を襲撃するしかない。大公妃を害し奉り、キャンメルリング公を失脚に追い込むのだ」

 この歪んだ思考法が、後の世にアルバレズ子爵ナハトの名を悪名として残した。
 キャンメルリング公に対抗するのに、なぜ大公妃を執拗に狙い続けたのか。なぜ、キャンメルリング公を直接狙うという選択肢が浮かばなかったのか。

 だが、答えを導いてしまったナハトには、もう何もまともに見えていない。彼が見ているのは、深夜に大公妃の一行を襲う自分の私兵(彼自身ではない)であり、権力を失って絞首台へ連行されるキャンメルリング公であり、そしてそれを誇りに満ちて見下ろす自分自身だった。

 その光景を恐慌の崖っぷちで夢想しながら、ナハトは私兵を屋敷に集めた。

 その様子が、スノウ・フィンガーフートを通じて、政敵・キャンメルリング公に筒抜けになっているとも知らずに。

9-15

「馬鹿な!こんな馬鹿なことがあるか!」

 アルバレズ子爵ナハトは、自室の窓から深夜の屋敷の外を見下ろしながらわめきたてた。彼の周囲で、どうにもできない執事やメイドたちが、困惑気味に表情をゆがめている。
 アルバレズ子爵ナハトの屋敷は、多数の兵によって包囲されている。なぜこうなったのか、ナハトの理解の範疇を越えている。

 まさに今夜、かき集められるだけの私兵を屋敷に集め、首都オリゾンテ郊外に展開して、帰還する大公妃一行を襲撃するつもりだった。しかし、蓋を開けてみれば、この有様である。
 無論、深夜に兵隊を屋敷に集めることの不自然さや危険性までは、この男の頭は回らない。自分の行動の正統性、無謬性を、まったく疑うことはない。
 これは当時の若い貴族では自然な考え方だった。むしろ、マノウォック公ハーキュリーズとキャンメルリング公ギネ、二人しかいない公爵が、当時のガイエンでは異端だったのである。

 キャンメルリング公ギネは、スノウ・フィンガーフートからもたらされた「今夜、大公妃殿下に対し奉り害意の企てあり。“子爵”なるものに注意されたし」という一報を受け、即座に行動を起こした。
 大公宮を警備し、首都に通じる道をすべて封鎖した。そしてアルバレズ子爵邸を完全に包囲した。

 普段からいつでも行動を起こせるように準備はしていたが、自分が「偉大な勇気の持ち主」と評価したスノウが偶然にももたらしてくれた一報を、完全な形で生かしきった。

「どうしてだ!どうして私がこんな目にあわなくてはならぬ!」

 もともと顔色の悪いアルバレズ子爵ナハトは、すでにどうしてよいか分からず、正気を失いつつある。怒りと絶望の赴くままに執事を殴り倒し、メイドを蹴り倒した。
 ナハトにとっては、彼らはそうされて当然だった。爵位を持たぬ者は、爵位を持つ者のなぐさみものにならなければならない。それが、彼らが生きるべき唯一の理由だった。

 すでに屋敷の中も外も、恐慌状態に陥っている。屋敷を包囲していたのはギネの部下であり、立場的には首都における司法権を持っている。
 つまり、この場においてナハトはすでに、彼が守ろうとした公国の法に基づいて裁かれる立場にあった。理由は国家反逆罪などになるであろう。以前の大公妃暗殺未遂は、まだ法的に犯人が確定したわけではない。暗殺者の女がナハトの名を口にしたのはギネの前だけだ。

 ギネはその女を公的には隠し通している。いざというときのために切り札とするつもりなのかもしれない。

 皮肉なことに、罪と確定していない罪への負い目から深夜に首都で挙兵した時点で、ナハトの罪は確定した。己の誤断が招いた哀れな結末といえばそうだろう。
 現場の指揮を任されたのはパトリックという大柄な男だった。言葉は少ないが任務は忠実に、確実にこなし、ギネに信頼されていた。

 ギネは首都の封鎖を確認すると、自らもアルバレズ子爵邸に駆けつけた。視力を失った右目は常に閉じられ、その浅黒い肌は、深夜の闇に溶け込みそうになりながらも異様な雰囲気を漂わせている。
 パトリックはすぐに現場の指揮をギネに譲ろうとしたが、ギネは

「私は貴公にこの場の判断をすべて任せている。私の信頼に応えてくれるのなら、貴公の思うがままに指揮を執れ。責任はすべて私がとる」

 と言って、パトリックの提案を退けた。パトリックは沈黙したまま身震いしたが、すぐに表情を引き締めて兵たちを一喝した。

「すべて捕らえよ!激しく抵抗する者にのみ剣を使え!」

 そして自ら騎馬を正し、剣を振り下ろす。完全武装の兵たちが、一気に屋敷になだれこんだ。数はナハトの手勢の約五倍、武装や戦闘力ではまったく比較にならない。
 首都で怠惰の波に揺られるだけの貴族の私兵と、何度も死にかけた公爵が自ら鍛え上げ、武装と法律に守られた公国兵である。

 貴族と言っても子爵の位は下から二番目だ。屋敷もそう広いものではないが、それでも平均的な首都の市民の家が丸々三百戸は入るほどの広さである。
 その屋敷を、公国兵は蹂躙した。場はすでに、一方的な捕縛とわずかな虐殺になりつつある。
 ギネは目の前の状況には何も言わない。ただ、ひとつだけを確認した。

「ヤング・フィンガーフート一行はまだ見つからぬか?」

「……まだ見つかりません。まだ宿にもお戻りになられていないようです」

「そうか……」

 ギネは、少しうつむいて右耳のイヤリングをはじいた。彼のクセであるらしい。

「とにかく、ヤング・フィンガーフートは必ず保護せよ。彼らに危害を加えてはならん!」

 スノウの勇気に魅せられたギネにとって、首都の貴族のプライドなど、すでにゴミために捨てるだけのものだった。ナハトの歪んだ愛国心など、汚らわしさしか感じない。
 彼らが野蛮だとさげすむ群島のまだ見ぬ人たちに、ギネはたまらない魅力を感じ始めていた。それは、彼がスノウに感じた個人的な魅力かもしれないが、旧公国的な風習から脱却したい心の現われでもあったのかもしれない。

COMMENT

(初:14.5.14)