クォ・ヴァディス 51

9-9

「……二年前、ラズリルが群島解放戦争に巻き込まれた折に、ガイエンがラズリルに対してなんの支援も寄こさなかったのは、それができぬほど政治が混乱していたからだ。
 そして、その混乱の原因の一つは、私が政界を引っ掻き回したことにある。今更だが、ラズリルには悪いことをしたと思っている」

 やや声を低めて、ギネはイヤリングを軽く弾いた。
 このイヤリングは強力な魔法の産物で、聴力を失った彼の右耳の機能をかわりに果たしている。
 スノウが、高価な白磁のコーヒーカップに口をつけた。

「ラズリルでは当時、「ガイエンから見捨てられた」との意見が大勢でした。
 唯一の海上騎士団を駐屯させておきながら、ラズリルはガイエンの防衛にとっては捨石でしかなかったのか、と」

「捨石であるはずがない。当時、私にその権限があれば、見捨てたりはしなかった。
 だが、当時の権力者にとっては、ラズリルは捨石ですらなかったのだ」

「……どういうことです?」

「信じられぬだろうがね、ヤング・フィンガーフート。
 当時、オリゾンテで権力を握っていた門閥貴族の半数は、ガイエンに海上騎士団があるという事実すら知らなかったのだよ」

「え!?」

「要するに、自分達の権益闘争に明け暮れて、海外からの防衛など、二の次、三の次だったのだ。
 ミドルポートを失ったクールーク戦の惨敗から十年も経っていないのに、ガイエンはこの有様だよ。
 もしもラズリルとオベルがクールークを退けなければ、今頃、ガイエン全土がクールーク領となっていただろう」

 テーブルを挟んで、対照的な肌の色を持つ二人が、似たような表情で沈黙した。
 白い肌のスノウは、驚きを隠しきれずに目を見開いた。あざ黒い肌のギネは、苦々しく目元をゆがめている。
 縁が濃いとはいえないが、やはりスノウにとってはガイエンは故郷である。その凋落、腐敗は、ある程度聞き知ってはいたが、実情を詳しく聞けば、情けなくもあり、悲しくもあった。
 ギネが、中身のなくなったカップを、静かにテーブルに置いた。

「さて、昔話はこのくらいにしておこうか。ラズリル騎士団、カタリナ団長からの親書は拝見させていただいた。
 それへの返事の前に、このオリゾンテにおけるラズリルの現状を説明しておこう。
 ヤング・フィンガーフート、このオリゾンテでは、残念ながらラズリルの立場は有利ではない」

「………………」

 スノウが驚いたのは、キャンメルリング公ギネが情勢を断言したからである。
 昼間、スノウが合ってまわった役人達は、みな情勢に無知か無関心かのいずれかだった。
 二年前のように、まだ群島の情勢が伝わっていないのではないか、とすら思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 ギネは長い脚を組みなおし、腕を組んだ。

「ガイエン公国には、何年も前からラインバッハ二世によって買収されている商人や貴族が少なからずいる。その者たちを通じて、非ラインバッハ派に対して、オベル王国に対する警鐘が鳴らされていたのだ。
 さらに二月後半、つまり三ヶ月前、すでにこのオリゾンテに、ラインバッハ二世の密使が入っている。
 彼らは公式の使者ではなく、大公殿下に拝謁はしていない。しかし、すでに相当数の政治家や役人に根回しを行っている」

「閣下も、その使者には会われたのですか」

「当然だ。私の元にも足を運んで、ご大層な手紙を置いていった」

 ともすれば使者の役の範疇を超えるスノウの質問だったが、ギネは気にした様子もなく答えた。

「ラインバッハ二世は、オベル国王リノ・エン・クルデス陛下が提唱する群島諸国連合が、いかに危険な存在であるかを、切々と説いている。
 オベル王国が今以上に伸張し勢いに乗れば、ガイエンにとって必ず脅威となるであろう、と。
 ガイエンにとっては、オベルがクールークにとってかわるだけで、国外の脅威がなくなるわけではない、とな」

 つまり、ラインバッハ二世は、この争いが起こるはるか以前から、周辺諸国に対して根回しを行っていたのだ。ガイエンにしてこうであれば、例えば赤月帝国などに対しても、すでに同様の手は打っているだろう。
 そして、ガイエンの政治家、役人達がラズリルの使者であるスノウに無関心を演じて見せた、ということは、既にガイエンの大勢がラインバッハ二世に傾いている、ということだ。
 つまり、カタリナやリノ・エン・クルデスは、いいように先を越されている。

「もしも、群島の情勢が、ラズリル・オベル側に有利に働けば……」

「いまの状態では、ガイエンはその勢力を削ぎにかかるだろう。
 ラインバッハ二世は、オベルの脅威を直接的に取り除くことに協力すれば、将来の貿易に関して、かなり強力な見返りを、ガイエンという国家と役人個人に対して約束している。
 直接的な協力、つまりガイエンが出兵し、ラズリルに宣戦布告をすれば、な」

「現在の」利益ではなく、あくまでも「将来の」利益を約束していることが、ラインバッハ二世の狡猾なところであろう。
 現在の利益を約束するとあらば、ガイエンが行動を起こす前に、ラインバッハ二世の方から何らかの対価を支払う必要がある。ガイエンの行動の大きさに関わらず、だ。

「例えば、それが賄賂などというかたちで動いてくれれば、私も政敵を潰すのに苦労はしないのだがな。
 わが国の重臣達は、金を受け取るまでもなく危機感を煽られるだけで、事実の確認もせずに正気を失っている。まったく、舐められたものだ」

 ラインバッハ二世が策謀家として特異なところは、群島で有数の個人的資産を持ちながら、それを必ずしも賄賂として用いるわけではない、ということだった。彼はかつてガイエン公国で経済官僚として名を馳せた過去があり、不当な賄賂や報酬を手にする官僚たちを目の敵にしていた。そのあさましさ、醜さを身をもって知っているのだ。
 ラインバッハ二世の策謀の最大の特徴は、そのすべてが「契約」に基づいている、ということだ。ラインバッハ二世は、決して謀反や暴乱をそそのかしたりはしない。そのときそのときにおける「利」を説き、もっとも効果的な「商談」を持ちかけるだけである。
 ガイエン公国の商人や貴族に対して強い影響力を持っていることは確かだが、それは彼が賄賂をばら撒いたからではない。借金に苦しむ商人や貴族を「助けた」結果として、彼らがラインバッハ二世の側についている、というだけの話だった。ラインバッハ二世はこのガイエンで、一ポッチも不当な金、不法な金を使っていない。
 たとえば、ナ・ナルの保守派に対しては、ナ・ナルの群島における立場の重要さと、オベル王国の危険性を懇々と説き、ナ・ナルの「求めに応じて」武器や船舶・資金を提供した。ラインバッハ二世にとっては、これも「契約」なのである。道理の順逆はともかく。

 マクスウェルは、あらかじめ群島地方の食料を安く払い下げることで、コルトンやヘルムートらの協力を仰いだ。これもひとつの「契約」だが、ラインバッハ二世は、そのようなことをするまでもなく、ガイエンを味方につけつつある。
 果たして、どちらが自分に好結果をもたらすのか。まだ結果は出ていないが……。

「では、騎士団長カタリナの親書に対する、ガイエンの返事は……?」

 スノウにとっては、これほど回答を聞くのが恐ろしい質問もなかったが、聞かなければならなかった。
 それを聞くのが彼の役割であり、もしもそれがラズリルに対して不利な条件であれば、できるだけそれを覆すのが彼の役割だった。
 ギネはソファの背もたれに腕を回した。リラックスしている。スノウの緊張感とは対極にあった。

「午前の会議は、ラズリル騎士団からの「群島に手出しなきよう」という要請に対しては否定的な意見が多かった。
 群島諸国連合に重きを成すラズリルが、オベル王家と組んでラインバッハ二世と争うなら、こちらからラズリルへ直接的な行動に出るべきだ、との強硬な意見も出た」

「内政干渉……ですか」

「彼らは今でもラズリルの独立には否定的だ。少なくとも彼らにとっては、これは内政干渉ではない。
 ガイエンの一地方都市の行政権をストップさせる処置にすぎない」

「そんな、いまさら……」

「そうだ。いまさらラズリルの独立を認めないなど、時勢にも事実にも反する。
 現実感覚を欠きすぎる政策など、百害あって一利なしだ。現在、会議の進行は私の議長権限でもってストップさせている。
 明日にも、再度会議を開くつもりだが」

 スノウは緊張した面持ちで、膝の上に肘を乗せた。

「閣下、一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「なんなりと」

「ここまで、重臣の方々が、ラズリルの要請にたいして否定的であることはわかりました。
 しかし、わからないことが一つあります」

「それは?」

「閣下の御意志です」

 スノウが控えめに言うと、ギネの左目が興味に揺れた。
 スノウは呼吸を整えながら続ける。

「ここまで、閣下は御自分の意見を表してはおられない。果たしてラズリルに対して肯定でいらっしゃるのか、否定でいらっしゃるのか?
 会議の進行を止めてまで、意志の表明をためらわれているのは、なぜです?」

「……ほう、さすがに見逃してはもらえぬか」

 あごに手を当てて、公爵は感心したように声のトーンを変えた。

「実を言えば、私の意志はとうに定まっている。しかし、その意志を確定させるに、足りぬ要素があるのだ」

 ギネの表情が変わった。それまでとは異なる厳しい視線で、ラズリルからの若い使者を貫く。

「私に足りぬ要素。それは、ラズリル側の覚悟だよ」

「ラズリルの覚悟?」

「そうだ。私の意志はごくシンプルだ。
 門閥貴族がラインバッハ二世と結ぶのならば、私はその対立勢力と組み、彼らに対抗することになる。つまりは、ラズリル騎士団とオベル王家と手を結ぶことになる。
 しかし、性根は腐っていても、このオリゾンテにおける彼らの勢力はいまだ大きい。私が大臣権限のみで押さえつけるのは限界がある。「それ以外」の力で抑えるにしても、これまで以上に命がけとなるだろう。
 果たして、ラズリルとオベルに、私が命を賭けるに値するほどの覚悟と可能性があるのか。カタリナ団長の親書一通では、はかりかねるところがある」

「………………」

 スノウは、難しい顔で俯いた。
 ここでこの公爵に見捨てられては、ガイエン公国におけるラズリルの立場は決定的に悪化する。
 重要なのは、この公爵が、「自分がラインバッハ二世と組む可能性はゼロである」とは明言していないことだった。可能性として、門閥貴族を出し抜いてキャンメルリング公爵がラインバッハ二世と手を組む、というアクロバットもないわけではないのだ。
 この公爵がいま求めているのは、群島における権益ではなく、門閥貴族を追い落とすための口実なのである。
 最悪の場合、南からラインバッハ二世、西からガイエンに挟み撃ちにされ、ラズリル側は一敗地にまみれる可能性も出てくる……。
 難しい顔で考えているスノウを見つめつつ、公爵は続けた。

「……いま君に、その覚悟を求めるのは筋違いかな、御使者殿?」

「……?」

「そう不思議な顔をするような話ではあるまい。
 ラズリルを代表してここにいる君に、ラズリルの覚悟を見せてもらおうというのだ。
 私は、そう筋違いではないと思うがね」

 覚悟、か。スノウは、しばらく沈黙した。
 しかし不思議なもので、一つの課題を与えられれば、それに答えるべく心というものは自然と道を用意するものらしい。
 少なくとも、彼はそうだった。直前までの難しい悩みからは解放され、スノウは精神を入れ替えた。
 この場で求められているのは、理屈ではない。ただ、覚悟のみを求められている。
 ならばその覚悟を示せばよいのだ。簡単なことではないが……。

 公爵はスノウがどのような回答を寄こすのか、多大な興味を含んだ目でスノウを凝視している。
 スノウは上半身全体を使って、大きく息を吐き出した。そして、ソファから立ち上がった。

「閣下、申し訳ありませんが、ぼくの命は、ただ一人の友人のために使うものと決めています。
 それゆえに、この場で命をもって「覚悟」を示せぬことをお許しください」

 言って、スノウは移動した。彼の目の前には、公爵が彼を脅すのに使ったギロチンが置いてある。
 公爵は表情を険しくしたが、黙って成り行きを見つめている。
 スノウは右腕を伸ばし、その袖を捲り上げる。繊細な容姿には不釣合いなほど逞しい腕が、公爵の目に入った。
 スノウが、ギロチンの、本来は首をさしこむべき刃の直下の穴に、右腕を差し入れる。ギネも当然、スノウがなにをやる気なのかはわかっている。
 しかし、彼は止めない。スノウの覚悟が本物ならば、止めても聞くまい。もしも覚悟が偽のものならば、公爵がとめることを期待して、彼はいつまでも腕をギロチンに差し込んだまま、行為には及ぶまい。
 だから、ギネは止めなかった。

 スノウは右腕の肘よりもすこし奥まで、ギロチンに差し込んだ。
 もしもそのまま切断されてしまえば、彼の右腕は一生使い物にならない。少なくとも、これまでのような生活を送ることは不可能である。
 そしてそれを覚悟の上で、彼は行動に及んだ。ラズリルのための行動、というよりはむしろ、この場で求められた覚悟を見せるためだけの行動だった。
 勇気というよりは、衝動だった。

「ぼくの右腕では、ラズリルの覚悟にはつりあわぬかもしれません。
 でも、ラズリルの覚悟が本物であることは、うけとっていただきとうございます」

 やはり心の奥底では恐怖はあるのだろう。声は震え、顔は大量の汗に濡れている。
 だが、スノウは腕を抜かなかった。

「了承する」

 一言だけ、公爵が答えた。それが合図となった。
 スノウは左手で小剣を抜き、ギロチンの刃を支える紐に当てた。その紐を切れば、ギロチンの凶悪な刃が落下し、彼の右腕は永遠に彼から失われるだろう。

「では!」

 一瞬の間もおかず、スノウは紐を切った。


 …………………………。
 ……………………。
 ………………。
 …………。
 ……。


「あれ?」

 三瞬ほど間をおいて、先ほどまでの緊張感とはかけ離れた、間の抜けた声を、スノウは上げた。
 彼は確かに、ギロチンの紐を切った。その瞬間に刃が落下し、彼の右腕は永遠に彼のものではなくなる、はずであった。

 しかし、スノウの右腕はまだくっついたままである。
 確認するように、スノウは何度も拳を閉じたり開いたりしてみる。
 そして、上を見上げた。
 落下するはずだった刃は、紐を切ったというのに、まだ上に吊り下げられたままの状態である。
 いったい、どういうことか? 事実は明白だが、理解はしきれていないのか、腕を突っ込んだまま、スノウは公爵を見た。
 公爵は自らも立ち上がり、スノウの傍まで歩いてくる。そして、その凶悪な処刑装置に手をかけて、たいへんなことを言った。

「これはレプリカだよ、ヤング・フィンガーフート」

「……は?」

「さきほど言ったではないか。これは、脅しのために持ち込ませたものだと。
 本物と同じ作りではあるが、刃はレプリカで、しかも落下しない構造になっている。
 私とて、斬首の瞬間を見ながらティータイムを楽しむような、粗雑な趣味はない」

「………………」

 狐につままれたような顔、というのは、この時のスノウの表情のことをいうのであろう。
 ぽかんと口を開け、右腕をギロチンに突っ込んだまま硬直している。
 ギネは鋭くも柔らかな表情で、スノウの肩を叩く。そしてスノウを立ち上がらせ、再びソファに座らせた。
 スノウは席にはついたものの、落ち着かない。一旦決めた覚悟が体内から逃げていかないうちになんとかしなければ、と考えているようで、目が忙しく動いている。
 その様子を見て、ギネがはじめて、大きく表情をほころばせた。

「君は変わらないな、ヤング・フィンガーフート。
 十五年前だったか、初めて会ったときもそんな表情をしていたが」

 意外な言葉に、スノウが背筋を丸めて膝に肘を置いた。

「ぼくは閣下に、お会いしたことがあるのですか?」

「ああ、やはり覚えてはいないか。あの時、君は五歳か六歳だろう。
 大公殿下の催された園遊会で、君はちょっとした事件を起こしたのだよ。
 私もその場にいたがね、君のその表情と勇気は、大公殿下のご心象よろしく、君は直接お言葉を頂く栄誉にあずかったのだ」

 スノウは、なぜか恥ずかしさを覚えて俯いた。その「事件」とやらを、まったく覚えていない。
 ギネは、何かを見出すように、空ろな視線を空中に向けた。

「そう、あの当時からすでに酒色にふけってはおられたが、大公殿下はまだ、現在よりは健全な判断力と意志とを備えておられた。
 だが殿下はいまや、玉座とベッドとを往復するだけの人形になってしまわれた」

「大公殿下は、ご病気を患われておられるのですか」

 スノウの脳裏に、午前に謁見した大公の、青白い顔が思い浮かぶ。確かに、健康とは言いがたい印象だった。
 ギネは、スノウに視線を移す。

「いや、殿下はいたって健康だ。長期間、重臣達によって投与され続けた麻薬の影響さえ除けばな」

「麻薬!?」

 スノウが、飛び上がらんばかりの声を上げた。彼の常識を飛び越える事実だったに違いない。

「それは事実なのですか?」

「確証はない。今のところはな。
 だが、大公殿下の変化を説明しうる、最も説得力ある推論ではあろう」

「重臣達が、なぜそんなことを……」

「簡単なことだ。大公殿下が健全な政治を行うと、彼らにとって不都合があるからだよ。
 いや、彼らにとって、あらゆる健全さは敵なのだ。なにもかもが腐敗すれば、彼らの汚職も埋もれてしまう」

「しかしそれでは、自滅するだけではありませんか。
 赤月やハルモニアなどに征服されれば、彼ら自身も滅びてしまうというのに……」

「いや、彼らは滅びぬよ。支配者が変われば、その新たな支配者に取り入って、今度はその権力を腐敗させるだけだ。
 彼らを滅ぼそうと思えば、物理的に、存在そのものを叩き潰すしかない。
 ヤング・フィンガーフート、いや、スノウ」

 ギネはソファに深く座りなおし、額に手を当てた。
 再び緊張して、スノウは手に汗を握る。

「私はこのガイエンという国を憎んでいる。
 私の父を奪い、妻子を奪い、右目と右耳を奪い、そして叔母婿たる大公殿下を人間でなくしてしまったこの国の全てを、私は憎んでいるのだ。
 国を滅ぼす気はないが、腐った部分は徹底的に焼き尽くさねばならぬ。
 そのためにも、群島の騒ぎ、ひいてはラズリルとオベルを利用させてもらうぞ、スノウ」

「しかし、ぼくは求められた覚悟を、まだ……」

「かわまない」

 ギネが、閉じられたままの右目に手を当てる。その手がまぶたから離れた瞬間、スノウは息を呑んだ。
 右目のまぶたが開いた。本来、眼球が収まっているはずのそこに、明らかに異質な物体がはめこまれている。
 真紅の球体が。

「……まさか、紋章の封印球?」

「そうだ、少々乱暴な使い方だがね。
 私は体質的に紋章を宿すことができないが、右眼窩に直接、封印球を仕込んで、その機能と脳をリンクさせている。
 失った右目の光のかわりにはならないが、こうして対した相手の様々な情報を与えてくれる種類のものだ。私には、さきほどの君の覚悟が嘘ではなかったとわかっている。心配しなくてもいい」

「それでは」

 思わずテーブルに両手をつき、身体を乗り出したスノウに、右目を閉じたキャンメルリング公ギネは、右腕を差し出した。

「ラズリル騎士団長カタリナ殿の要求は、及ばずながら私が貫いてみせよう。
 そのかわり、ラズリルとオベルは、ラインバッハ二世の野心を打ち砕くのに全霊を尽くすのだ。
 お互いに眠れぬ日が続きそうだな、スノウ」

 スノウは、全身の力が体外に出て行ってしまったように虚脱してソファに崩れ落ちた。
 これまでの緊張感が、全て安堵に変わって、スノウの全身を弛緩させてしまった。
 スノウはギネの右手を両手で握ると、弱々しく揺らした。

「ありがとうございます、閣下」

 この瞬間が事実上、ガイエン・ラズリル相互不可侵条約の締結の瞬間だった。
 ラズリルの独立から二年を経て、ようやく両国は、関係正常化へ向けて動き出すことになった。

(To be continude...)

 

COMMENT

 封印球を目に突っ込むのは痛いのでやめましょう。

(初:11.6.22)