クォ・ヴァディス 51

9-6

 そして翌五月三十一日、三人は謁見予定時刻の二時間前、午前七時には宮殿に赴いた。
 時間を守ることは最低限のマナーであるし、何が起こるか分からない現状では、少しでも宮殿内部の状況に精通しておく必要があった。
 前日、シャーロックはスノウの護衛をラベンナにまかせ、オリゾンテの街中である程度の情報収集に励んだが、わかったことの大部分は、現在のガイエンがいかに不健康で不機嫌な国か、という事実の再確認くらいであった。
 市民の話題はほとんど、起こったばかりの「大公妃暗殺未遂事件」に集中している。事件の詳細はほとんど伝わってこないのに、「犯人」とされる若い貴族の名と、彼の激しい狼狽ぶりだけは詳細に、というよりも誇大に騒がれていた。どこまでが真実で、どこまでが虚構なのかは不明だが。
 役立った数少ない情報は、現在のガイエンの閣僚名簿が入手できたことくらいであったが、それには役職名の他には氏名と年齢しか記されておらず、ここから解決策を講じるのは難しかった。
 スノウが気になったのは、その「閣僚たち」の平均年齢の高さだった。大公がすでに七十を超える老齢であるが、その閣僚もほとんどが七十歳を越しているか、それに迫る年齢である。しかも、ここ三年で入れ替わった閣僚は、先年、地方から異例の抜擢を受けた一人しかいない。
 頽廃と妥協に身を任せているだけの政府の通例かもしれない、とスノウは思ったが、その「十年で入れ替わった唯一の閣僚」が、意外に若い。まだ三十三歳であるという。カタリナやオルネラとさほど変わらぬ年齢だが、この閣僚達の中では、際立って若い。
 ガイエン公国は、事実はともかくとして、名目上は大公親政であるから、内閣が組織されても、よほどの緊急時を除いて宰相が置かれることはない。
 しかし事実としては、大公が政治に関わることはほとんどなく、内務開発大臣が事実上の宰相として政務を振るうのが慣例である。現在の内務開発大臣が、その三十代の若い政治家であった。
 市街の噂話では、愛人との性欲に溺れる大公と、彼を嗜めもしない重臣たちへの嫌がらせとして、大公妃がわざわざ地方から大抜擢したのだという。それが事実かどうかは定かではないが、スノウは、この若い閣僚の名を記憶した。それは、ガイエン入りの前にターニャが指摘した二人の公爵のうちの一人でもある。
 キャンメルリング公爵ギネ。

 スノウたち三人は、豪勢な待合室に通されてから、四時間待たされることになった。
 当初、九時から始まる予定だった謁見は、「大公の健康の都合」で二時間延び、午前十一時からとなったのである。
 三人は謁見の間に通された。二人の護衛を背後に従え、スノウが先頭を歩く。
 大きな窓から陽光が燦々と入る、広大な、広大なだけの謁見の間。スノウの正面に、三段高い陛(きざはし)が設けられ、その上の豪奢な玉座に、不健康そうな老人が、楽しくもなさそうに座っている。
 そして部屋の両方の壁際には、礼装に身を包んだ十名ほどの老人と、近衛兵たちが佇立している。おそらく、名簿にあった閣僚たちであろう。
 スノウにとって、ガイエン大公スタニスラスは、まったく印象に残らぬ老人だった。玉座に座っていても、その玉座の豪奢さの方がまだ印象に残る。
 白色に染まった頭髪はまだ豊かであったが、豪華な絹の服に包まれた身体は無残なほどに痩せ細っていた。目は落ち窪んで暗く、隈がひどく出ている。顔は深いしわに埋もれ、一目には表情を伺うことすら難しい。ずっと何かを呟いているのか、口だけは常に小刻みにぱくぱくと動いているが、周囲の生者ではなく、彼にしか見えない空想上の生物に語りかけているように見える。
 明らかに、何かの病的な雰囲気が感じられ、スノウは気を重くした。彼の治めるこの国と同様、健康さや覇気といった言葉とは、まったく縁遠いように見えた。

 スノウは、正面を向いたまま視線を軽く動かした。そして、中央の玉座にあるガイエン大公よりも、よほど印象に残る二人の人物を目に留めた。
 一人は青年だ。スノウから見て、玉座の右側に立っている。腰の曲がった老人達の中で、際立って背筋を伸ばして立っている青年がいた。傲然と、胸をそらして立っている青年がいた。
 最も大公に近い位置に立っているので、老臣達の中でも高い地位にいることはわかる。
 その青年も、気難しそうな顔でスノウを見守っている。黒い髪と浅黒い肌、それから浮き上がるような黄金の瞳と、右耳から下がった特異なデザインのイヤリングが強烈な印象を残すが、なにか事情でもあるのか、右目は常に閉じられたままである。
 おそらくこの男が、キャンメルリング公爵であろう。

 スノウの印象に残ったもう一人は、女性であった。スノウから見て、玉座の左側に立っている。キャンメルリング公爵と対になるような、金白色の長い髪と白皙の肌をし、肩と胸元を大きく露出させた、妖艶なドレスに身を包んでいる。
 その女性は雰囲気も、厳しさを体現するキャンメルリング公とは反対であった。悪意も厳しさもない、ほぼ興味だけの視線でスノウを見つめている。
 スノウは疑問を感じた。昨夜にシャーロックが手に入れた閣僚名簿には、女性の名はなかったはずである。外国からの使者と大公の謁見式に参列できる立場であることを考えれば、高い爵位か地位を持っていることは分かるが……。

 この女性はマノウォック公ハーキュリーズであるのだが、スノウが気づかなかったのは無理はない。「ハーキュリーズ」は男性名であるため、名簿を見ただけでは、普通はまず女性とは思わない。
 マノウォック公は、改革派に対する保守派の代表として、いわゆる「男妾めかけ」たちから、キャンメルリング公に対抗する重要なポストに祭り上げられているが、本人は政治にまったく関心を持たないため、そのポストも文字通りの「名誉職」と化していた。彼女自身が、「政治家」という肩書きで表舞台に立つことも、まずない。
 そのため、彼女がこの日、スノウの前に姿を現したことは、異例中の異例と言っていい。その理由をキャンメルリング公に尋ねられたときも、マノウォック公は、彼女らしい含みあのある笑顔を見せただけである。

 もっと二人を観察したい気分だったが、すでにガイエン大公スタニスラスの目前まで歩を進めてしまったため、その機会はなかった。
 スノウは片膝をついて頭を下げ、二人の護衛もそれに従った。

「今日という麗しい一日、謁見の栄誉をたまわり、光栄にございます」

 スノウの挨拶に、大公は「ご苦労である」とも「顔をあげよ」とも言わない。大公殿下は言葉のかわりに、退屈そうにあくびをひとつされた。
 大公のかわりに声を出したのは、閣僚の列にいた老人である。

「遠くラズリルから、よく参られた。このたびはご苦労なことである。
 その苦労に報い、特別なご恩をもって、大公殿下がそなたらの意を汲まれることであろう。
 では、その意図を示すが良い」

 妙に甲高く抑揚が無い声で、大臣はそう申された。
 他国の使者を迎えるに相応しい文言かどうかは相当に怪しいが、とりあえず意味は通じたので、スノウは頭を下げたままカタリナからの親書を取り出した。
 近づいてきた大臣が、それを受け取る。
 すると、さきほどの大臣は、やはり甲高いだけで抑揚の無い声で言った。

「そなたらの親書については、後ほど返事をつかわす。ご苦労であった。退出してよろしい」

 偉大なるガイエン大公と、ラズリル特使の面会は、これで終わった。時間にして、わずか七分である。
 大公が口を開いたのはあくびをした一度きりであり、スノウたちの姿を視界にとらえていたかどうかも怪しい。
 ガイエンが群島に対してどのような意図を持っているのか、その意図を確認するどころの話でもなかった。
 スノウはさすがに頭を上げると、口を開いた。

「大公殿下。非礼を承知ながら、進言をお許しください。
 現在、われらの群島は、たいへん不安定な状況にあります。それはこのガイエン大公国にとっても、無関係な話では無いはず。
 私達は、ラズリル、ガイエンの両国の幸福を願って参じた者。もう少し詳しいお話を……」

「黙らっしゃい」

 スノウの勇気ある提言は、大臣の一喝によって妨げられた。

「我が国の意志は、後ほど伝えると申した。一介の使者ごときが、しかもわが国を裏切り、独立などをしでかした一小国の使者如きが、尊大な差し出口を叩くな。
 しかもスノウ・フィンガーフート、そなたはガイエン領であったラズリルを、憎きクールークに売り渡した張本人ではないか!」

 スノウは頭を下げたまま、唇を噛みしめた。
 この大臣のヒステリックな叫びには、大きな誤解がある。ラズリルがガイエンからの独立を果たしたのは、群島解放戦争中、クールーク海軍によって危機に陥ったラズリルを、ガイエン公国が見捨てたことが遠因である。
 無論、ガイエンにはガイエンの政治判断があったには違いないが、ラズリル側にはなにも伝えられなかった。ラズリルは孤軍でクールークに対応せざるを得なくなり、当時ガイエン騎士団長だったスノウは、戦闘になって騎士団が全滅し、ラズリル市街がクールーク兵によって蹂躙されることを恐れ、クールークに降伏したのである。
 なにもかもが「やむを得ず」の措置だったのだが、両国の事実の認識には、大きな隔たりがあるようだった。

「本来なら、そなたがここに足を踏み入れることすら恐れ多いのだ。
 それが、わが国の国家政策に口を挟もうとは、尊大も極まる。身の程を……」

 ヒステリックな老臣の叫びは、だが、中断されてしまった。
 スノウが注目していた最も若い大臣、キャンメルリング公ギネが、右手を上げて制したのだ。

「ヘラウァー卿、他国の使者の前で余りにも激昂されると、ガイエン公国のかなえ軽重けいちょうを問われましょう。今はそれくらいにしていただきたい」

 そう老臣に釘をさしておいて、若者は指で銀のイヤリングをはじいた。繊細な音がこぼれ、場の空気を静める。そして、キャンメルリング公はスノウに視線を固定した。

「ヤング・フィンガーフート。ラズリルを独立に導いた君の英断と、この難しい使者の役を負った君の勇気とに、私は敬意を表する。
 だが、ガイエンとラズリル、両国の事実の認識には、浅からぬ溝があるようだ。あまり時間も無いが、お互いに誠意を持ってこの溝を生めることがかなえば、両国にとって幸福であろう。
 今日は退きたまえ。後ほど、ゆっくりと理解の場を設けるとしよう」

 言って、若者はもう一度イヤリングをはじいた。この公爵の癖であるらしい。
 スノウは恐縮し、かつ感嘆した。この若者は、スノウの貶めることなくその激発を抑え、老臣の激昂もやんわりと丸めこんでしまった。
 しかも、認識のずれがあることを認めながら、さりげなくラズリルの独立を肯定してしまっている。ガイエンとラズリル、双方のプライドを傷つけることなく、静かに問題を提起しているのだ。
 スノウは確信した。キャンメルリング公こそが現在、事実上ガイエン公国を動かしているに違いあるまい。
 この間、マノウォック公ハーキュリーズは一言も発せず、興味のあるおもちゃを見るような目で、スノウを見ている。

 わずかな沈黙の後、ガイエン大公がその沈黙を破った。大公は、再びあくびを一つすると、右手を大きく三度振った。
 スノウたちに退出を命じたのである。

「御使者、お役目大儀であった。後ほどわが国の返答を伝える。退出してよろしい」

 老臣の声が、わずか十五分の謁見の終了を宣言した。
 後ほど、ガイエン公国の公式判断が示されるであろうが、スノウたちはそれまでのんびりしているわけにはいかない。少しでも、ガイエンの総意をラズリルに対して好意的な方向に動かさなければならない。
 スノウたちは一旦宿に引き取ると、再び外出した。キャンメルリング公爵、およびマノウォック公爵と直接会談するためである。
 まずキャンメルリング公爵の屋敷を突き止め、面会を申し込むと、夜になるまで待つように、とのことであった。大臣としての職務もあるし、ラズリルへの対応を決める重要な会議もあるから、すぐには会えない。
 一方のマノウォック公爵からの返事はにべもない。「当主不在」の一言で追い返され、会談の予定すら立てさせてもらえなかった。スノウはこの対応を予想はしていたが、焦ってはいけないと思いつつも、はやる心を落ち着かせられないでいる。
 仕方なく、スノウは別の大臣、役人達と可能な限り会い、意見の調整をはかろうとしたが、その意図はことごとく失望に変わった。スノウが会談した者の半分は「自分の担当ではないから知らない」とはぐらかし、残りの半分は露骨に袖の下を要求した。
 スノウが少しでも渋い顔をすると、半数は露骨な嫌味を投げかけ、半数は無言でスノウを追い払った。彼らは、ラズリルやガイエンをめぐる状況には興味が無いくせに、なぜかスノウが伯爵位を返上したことは知っていて、はじめから一定の偏見をもって彼を見下していたようである。
 ほとんどまともな会談にならなかった。

(こんなことなら、爵位を返上するのではなかった)

 スノウは後悔している。当然のことと思ってしたことが、またしても裏目に出た。
 もしもフィンガーフート家の嫡男として彼らに対していたなら、もっと別の対応が待っていたはずである。
 政治家・役人としての良心は摩滅しきっている彼らではあるが、権力病患者としての感覚は一流であり、金や力に対しては非常に敏感に反応する。爵位は、そんな彼らに対してもっとも効果的な武器のひとつとなりえるはずだったのだ。
 しかし、事実として現在のスノウは、ラズリルの一市民にすぎない。権力の伴わない過去の題目など、現在の、しかも他人の繁栄には、なんら寄与しないのだった。
 さすがに落ち込んで、スノウたちが宿に戻ったのは、すでに夕方から夜になろうかというときだった。そんな傷心の彼らを、宿で待っている女性がいた。
 スノウには見覚えがある。午前、ガイエン大公との謁見のとき、キャンメルリング公とともに大公の一番傍にいた女性だ。その事実からも、スノウはそれなりの立場の女性であろうと思っていた。まさかこの宿で会うとは思ってもいない。
 スノウの驚愕の表情を、その女性は、金白色の髪を揺らして、興味深そうに眺めている。そして、こんなことを言った。

「ラズリル特使スノウ・フィンガーフートさま、キャンメルリング公爵様が、あなたとの会見を望んでおられます」

 スノウが真っ先に会談を申し込んだ、最年少の大臣からの使者だった。

9-7

 午後九時半、スノウたちはキャンメルリング公の屋敷に到着した。スノウを先導していた女性は、スノウたちの質問には何一つ答えず、粛々と歩いた。
 ただ時々、多分に興味の色の強い視線をスノウに投げかけ、ラベンナに警戒させた。その表情も、着ているものも、明らかに「貴族の使い」という雰囲気の女性ではない。また、夜道を一人で歩くような存在でもないだろう。
 その存在感と状況の融合が明らかに不自然すぎて、スノウたちはなにが自然なのかわからぬ錯覚に陥ったが、とにかく目的の屋敷に到着した。

 ラズリルからの使者が会見を求めている、と聞かされたとき、その青年は、あまり良い表情をしなかった。
 無言のまま書斎の椅子に腰掛け、右目を閉じたまま、腕を組んで思考の沈黙に沈んだ。
 あざ黒い肌と黒い髪を持つその青年政治家は、スマートという表現には、なにもかもが鋭すぎた。眉、目元、口元、顎。体型から身のこなしまで、そのすべてが鋭い。抜き身のサーベルを思わせる。
 キャンメルリング公は、少しのあいだ何事かを考えていたが、執事を呼ぶといくつかの指示を出した。

「ラズリルの使者と会う。彼らをここに召喚せよ」

 老執事はここまでは予想していたが、彼の若い主君は、もう一つ、意外なことを言った。

「使者には客間で会う。
 呼び出せるだけ全ての兵に武装させて、玄関から客間までのすべての廊下に配置せよ。
 もうひとつ、蔵に眠っているこれこれのものを、すぐに使える状態で、使者が来るまでにここに運び込んでおけ」

 物騒極まりないいくつかの指示に首をかしげながらも、執事は恭しく頭を下げ、主君の前から退出した。
 執事は玄関に出ると、恭しく礼を尽くしてスノウ、シャーロック、ラベンナの三名を迎えた。そのときにはすでに、スノウたちを先導していた女性の姿はない。

「さすがに大きな屋敷ですね」

「そうだね。ガイエンの重臣の風格だね」

 シャーロックとスノウがささやき合う。だが、玄関を通された直後、彼らはいきなり面食らうことになった。
 完全武装の兵隊が、玄関ホールにあふれていたのである。
 彼らはホールから廊下への壁という壁に沿って、びっしりと佇立していた。さすがに剣を抜いている者はいないが、巨大な盾を左腕に抱えている。
 彼らにいっせいにのしかかられれば、三名しかいないスノウたちは、あっという間に征圧されてしまうだろう。

「なんという物々しさだ」

 ラベンナが不快を隠そうともせず、呟いた。
 さすがに恐怖と緊張とに支配されながら、スノウは勇気を振り絞って案内する執事のあとをついていく。

「こちらでございます」

 執事はうやうやしく、ある部屋に三人を案内した。結局そこまで、兵の姿が途切れることは無かった。廊下の壁という壁が兵の甲冑姿で隠されていた。

「わが主は、こちらで御使者をお待ちしておりますが、御使者とは一対一での対面を希望しております。
 非礼ながらおつきの方は、別に食事を用意させていただいておりますので、こちらでお休みになってくださいませ」

 執事の言葉に、ラベンナがさきほどまでの不快を三倍にしたような声を吐き出した。

「お心遣いは無用。私達の役割は、使者の安全の確保である。
 その目的に不要な饗応はお受けするにあたらず」

「そうはもうされましても……」

 執事の困惑に、スノウが反応した。

「ラベンナ、かまわない。お言葉に甘えるといい」

「しかし……」

 さらに反論しようとするラベンナを、スノウは視線で制した。
 ひとつには、この屋敷の主人がそう言っている以上、スノウたちに与えられた選択肢はその一つしかないのである。その選択肢をスノウが選ばない限り、話は進展しないのだ。
 ラベンナは、理解はしたが納得はしていない表情で頷いた。シャーロックも従わざるを得ない。
 執事に案内されていく二人を見送って、スノウは豪勢な彫り物が施された扉を、慎重にノックした。

「入りたまえ」

 中から、鄭重さと尊大さの両方を微妙に含んだ声が返ってきた。
 スノウは一度、大きく深呼吸すると、震える手でノブを握り、それをひねる。

「失礼いたします」

 ゆっくりと部屋に入ったスノウは、二つのことに驚愕した。
 まずはこの屋敷の主人である。何もかもが鋭いその青年は、午前の謁見の場とはまた異なる表情をスノウに見せた。
 癖であるのか常に右目を閉じているが、あざ黒い肌についた黄金の左瞳が、スノウを睥睨している。身長は一七五センチのスノウと大して変わらないが、持っている気宇の大きさが違うのか、その身から発する空気は、スノウを食いつくさんばかりに獰猛だった。

 そして、スノウを驚かせたものがもうひとつ。その若者の後背に大げさに置かれた、巨大な物体だった。
 ギロチンである。
 斬首刑に用いられるその凶悪な機械は、すぐにでもその役割を果たせるように、磨き上げられた刃が吊り上げられていた。
 つまり、刃のようなこの青年は、スノウが何かをしくじったときに、この凶悪な機械の刃で、スノウの頭部と胴体とを分割してしまうつもりなのだろうか。

 だが、ここで驚いたのは、スノウだけではなかった。次の瞬間、この青年政治家も、スノウの態度に驚くことになる。
 スノウは、驚愕した次の瞬間、わずかに苦笑したのだ。スノウがたいへんな緊張感に支配されていることは青年も見抜いていたが、だからこそ、この反応にはなかば驚き、なかば動揺した。

「なにがおかしいのかね? ヤング・フィンガーフート。
 この場合、ラズリルではそのような反応をかえすように躾けられるのか」

 スノウは苦笑したまま、首を横に振った。

「ぼくだけではありません。他の誰がこの場にいても、同じ反応をするでしょう」

「なぜそう言える。失礼だが君の世界が、私の世界よりも広いとは思えぬ。
 年長の者をからかうものではない」

「あなたこそ、年下の者をからかうものではありません。
 仮にも大国ガイエンの政治家ともあろう方が、小国ラズリルの使者に対して、大勢の兵隊とギロチンまで用いたこの脅しよう。
 この様を見て、器量の大きさを尊敬する者は、あまりいないでしょう」

「………………………」

「たった一人の使者を論破するにここまでされたとあっては、それこそガイエン公国がかなえ軽重けいちょうを問われるのではありませんか」

 受け取りようによっては、この言葉も充分に脅しであろう。それも、小国が大国に用いるには危険すぎる脅しである。
 黒髪の青年政治家は、スノウに背を向けた。そして、わずかに肩を震わせた。
 まずい、とスノウは思った。思わず皮肉が口から出てしまったが、それが最悪の結果を招いてしまったかもしれない。
 緊張感のある空気が、しばらく二人の間を動き回った。それは、青年が指で弾いたイヤリングの音によって吹き飛ばされた。

「ふ、はははっ!」

 彼は、笑った。声を上げ、表情を弾かせて笑った。今度はスノウが驚く番だった。
 ひとしきり声を弾かせたあと、彼はあらためてスノウに向き直った。その表情には、先ほどまでの物々しさは無い。鋭さも残しているが、まず穏やかな表情と言っていいだろう。
 そして、スノウに対して頭を下げた。

「ヤング・フィンガーフート、まったく君の言うとおりだ。少しは驚いてぼろが出るかと期待したが、ぼろが出たのは私のほうだったな。
 だが、悪く思うな。兵を配置しているのは、なにも君を脅すためだけではない。なにしろ、この国では私は嫌われ者でね、いつ政敵の雇った暗殺者に襲われるかも分からないのだ」

「……これほどの警護を要するほど深刻なのですか」

「それはそうだろう。私はこの国の政治家や役人達の趣味を、すべて禁じてしまったからな。
 賄賂も、奴隷売買も、麻薬の闇取引も、全て彼らから奪い、違反した者をあるいは処刑し、あるいは追放した。人間、なにか楽しみがなくては、生きていてはいけないものだ。そして、私は彼らから等しく恨まれることになったというわけだ。
 そうでないよりは、正しい精神作用の結果といえるだろう」

 そして、ようやく若い客人に対してテーブルを勧めた。
 スノウはわずかに緊張がとれて、柔らかなソファに身体を沈めながら、大きく息を吐き出した。
 その姿を好意的な視線で眺めながら、青年は卓上のベルを鳴らす。入ってきた執事に、彼はコーヒーを淹れるように命じ、自らはスノウに、初めて名乗った。
「私はキャンメルリング公爵家当主、ギネである」、と。

9-8

 キャンメルリング家は、ギネの父の代までガイエン南部の小都市を治める地方領主に過ぎず、爵位もフィンガーフート家と同じく伯爵に留まっていた。
 ギネの祖父までは、その地位に不満は感じなかったようだが、父は野望を持っていたらしい。彼は自分の妹を当時、大公の座についたばかりだったスタニスラスのハレムに入れ、また中央の門閥貴族達に多額の賄賂をばら撒き、爵位を侯爵へと進めた。
 中央では「爵位を金で買った成り上がり者」と軽蔑されたが、キャンメルリング新侯爵は、その「爵位を売った」貴族達の嫉妬など意にも介さず、中央への足がかりを着々と築いた。

 しかし、怠惰の流れに支配された中央においては、「出ようとする杭は、出る前に打たれる」のが常であった。
 首都オリゾンテの権力構造は、門閥貴族たちの馴れ合いによって運営されている。暗い金によって運営される、暗い権力であったが、暗いなりにそれは安定はしていた。
 当然、そこに出張ろうとする新参者は、門閥貴族にとってはルールを破壊する厄介者でしかない。新侯爵が、汚職をよしとする自分達の同族か、清新な空気を吹き込む常識家か、それはまったく関係ない。
 同族であれば、多額の賄賂と利権をめぐるライバルとなるし、清新な常識家であれば、それははっきりとした「敵」であった。
 こうして、キャンメルリング新侯爵は、いよいよ中央政界に進出しようとした矢先、外出先で八人の暴漢に襲われ、全身を鈍器のようなもので滅多打ちにされて死んだ。
 その遺体は、人間であったときの面影がないほどミンチ状に叩き潰されていたというから、よほどの殺意をもたれていたのであろうが、この程度の事件はガイエンでは毎日のように起こっているので、対して民衆の興味を引くこともなかった。
 後を継いだのは、二十五歳になったばかりの若造である。これでしばらくはぽっと出の新参者に悩まされることはない、と首都の門閥貴族たちは安堵した。安堵して、暗い金の蠢く生活へと戻った。
 そして六年、三十歳を過ぎ、能力も野心もピークに達したこの若造は、彼らの息の根を止めるために、公爵に昇って首都にやってくることになる。

 ギネは中央への野心は父に劣らなかったが、その野心のありようが父とは異なっていた。
 父は地元の商人と結託し、彼らの商売を融通して彼らから「謝礼」をもらうことで私腹を肥やし、それを中央への足がかりとした。つまりは首都の門閥貴族達とおなじ、「ガイエン伝統のやりかた」を踏襲していた。
 ギネは、父の門地を継いだ翌月、自分に不法な賄賂を寄こし、不当な権益を要求したとして、あらゆる業界の商人と、彼らに関係する役人を告発した。強引な捜査の末に五十人を拘禁すると、その氏名と罪状を公表し、即座に処刑した。
 市民達はこの苛烈な措置に驚いたが、三ヶ月目に七十人が、四ヶ月目にも四十人が処刑され、キャンメルリング侯爵領では、百年以上続いた金権政治の伝統が、わずか半年でなりを潜めることになった。

「若君はガイエンの伝統をわかっていない。あれではきっと、父君よりも無残な死に方をするに違いない」

 金権政治に慣れた商人たちは苦い酒を飲みながらギネを痛罵したが、その悪口が祟ってか、二ヵ月後に彼らは処刑された。
 商人達には極めて悪評高いキャンメルリング侯ギネだったが、市民からの支持は高かった。
 賄賂にまわす金をつくるために、商人達によって不当に高く操作されていた物価が、金権政治が一掃されたことで、それまでよりも低い基準で安定し、いくらかの減税もなされ、市民はギネを若き名君と賞賛した。
 巨大な悪腫を取り除くには、少々の障害をものともせずになぎ倒すパワーと、少々の犠牲をも厭わぬ意志の力が必要だった。彼の先祖達がそのパワーを持ちえず、悪腫と共存する道を選んできた中で、ギネだけがそのパワーを発揮することができたが、それには高い代償が必要だった。
 父の跡を継いで一年も経たないうちに、妻と二歳の長男が、いずれも毒殺の特徴を残して世を去った。彼自身もある日の夕食に毒を盛られ、右目の視力と右耳の聴力を失った。
 そしてこの事件に関連したとして、さらに五十人が逮捕、処刑された。若き名君の政道は、同時に大量の流血を必要とした。

 三十一歳のとき、ギネは公爵となり、首都オリゾンテに進出した。
 彼を中央政界に呼び出したのは、大公スタニスラスのハレムの一員から妃となっていた叔母シドニアである。
 シドニアは、若かりし頃は地味ながら聡明と賞された夫スタニスラスが、徐々に廃人と化していく有様に、ある種の陰謀の影を感じ取り、ゆっくりと証拠を集めていたが、すぐに自分の権力の及ぶ範囲の狭さを認識して絶望した。
 そこで、地元で辣腕を謳われていた甥を頼ったのである。

 キャンメルリング新公爵は、意気揚々と首都に乗り込んだものの、首都に蔓延した腫瘍の大きさに愕然とした。地方と首都とでは、なにもかもが規模が違っていた。
 そして、汚職を一朝一夕には追放できぬことを悟ると、叔母シドニアと共同戦線を張って、大公を襲った陰謀の解明と、汚職政治を一掃する「下地」を作るための活動を開始したのである。

COMMENT

(初:11.6.22)
(改:11.9.15)
(改:11.11.14)
(改:12.3.20)
(改:12.4.5)
(改:12.5.12)