クォ・ヴァディス 50

9-5

 ラズリルのカタリナがガイエン公国への使者の派遣を正式に決定したのは、マクスウェルの使者がラズリルを訪れた同日の五月十八日のことだ。
 カタリナはすぐに、ガイエン公国の主であるガイエン大公スタニスラスへの手紙をしたためると、使者を選び、二人の護衛をつけてガイエンへと送り出した。
 使者の人選には時間はかからなかった。カタリナは悩むことなく、一人の男性を指名した。
 ラズリルの立場やガイエンとの関係などから、最初から人材の選択の幅が限られる難しい役目ではあるが、カタリナは最初からその人物に目をつけていたようである。
 男性は声高に文句は言わなかったが、快諾もしなかった。一瞬の逡巡を置いて任務を承諾したが、納得にはやや遠い表情だった。
 こうして、マクスウェル最大の盟友であり、前ラズリル領主の長男であるスノウ・フィンガーフートは、重要な手紙と二人の護衛を引き連れて、十五年ぶりにガイエン公国の首都オリゾンテを目指すことになった。

 ラズリルから公国首都のオリゾンテまでは、海路と陸路とを継いで二週間の旅路である。
 群島諸国はもちろん、ガイエン国内も政局は安定しているとは言えず、スノウと二人の護衛、シャーロックとラベンナは、万一のことを考えて商人に身をやつしオリゾンテまで向かわねばならなかった。

 スノウ・フィンガーフートは、ケネスよりも一歳年長の二十一歳。代々ラズリルを所領とするフィンガーフート伯爵家の嫡男である。
 その生涯はよく盟友マクスウェルと対比されるが、ことに群島解放戦争は、表の主役であるマクスウェルに対して、裏の主役とも言われる存在だった。
 外側に跳ねたややくすんだプラチナの髪と、中性的で繊細な美貌が、その血筋の良さをうかがわせるが、反面、スマートながら筋肉質で、その剣術は技術よりも腕力に頼るワイルドなものである。
 幼少期のマクスウェルの雇い主・兼・兄貴分であり、ガイエン海兵学校では、ケネスやタル、ポーラたちと同期である。先代ラズリル領主の父の威光を背に、在学中は同期のリーダー格をつとめ、卒業後は死亡したグレンの後を継いで、十九歳の若さでガイエン海上騎士団長、そしてクールーク海軍の海賊討伐の責任者にまでのぼり詰めた。
 グレン死亡の原因を、関係が悪化していたマクスウェルになすりつけ、ラズリルから追放したことで、後に群島解放軍の首魁となったマクスウェルと激しく対立し、何度となく争った。
 基本的には善意の人で、気概にも勇気にも富んでいたが、独善的な一面があり、思考が自分の内部からなかなか外へ向かなかった。
 ガイエンの保護を失って孤立したラズリルを護るために、戦わずしてクールークに降伏するなど、よかれと思った政治判断で周囲の信頼を失っていき、数々の成功を収めたマクスウェルとは対極的に没落した。
 最後は終戦間際、餓死寸前で漂流していたところをマクスウェルに助けられ、ようやく和解。以降、彼の最大の理解者、盟友として、常にマクスウェルの心理的な右腕となった。
 戦後は全ての公職から退き、爵位も返上し、資産をラズリルの市民のために寄付した。自分は公式の場にはいっさい出ることなく、ラズリルの片隅で細々とボランティアをしながら生活していたが、今回、カタリナに請われる形で、渋々ながら公的な役を請け負った。
 カタリナが彼を選んだのは、フィンガーフート家の嫡男として、ガイエン社交界の間に小さくない関係があるからだが、スノウにとっては手放したい過去のしがらみでしかない。それでも、過去の罪の清算になるならと、この困難な役目を受けたのである。

 現在のスノウは、以前のとげとげしい英気ははずれ、マクスウェルが驚くほど人格的に丸くなっているが、それだけに、人間として崩壊しつつあるといわれるガイエン大公スタニスラスや、百戦錬磨の政治家達を、ラズリルに敵対させないように誘導する万全の自身は、スノウには無い。
 無論、説得の最大の武器はカタリナの親書であるが、それだけで誘導される大国とも思えなかった。この旅路に出る前、スノウはカタリナの軍師であるターニャから、首都オリゾンテについてからの行動を諭されている。

「大公家に昔日の威光はありません。大公よりも、公国の有力者を選んで説得するのが最良です。
 大公家をのぞくと、公国には三つの公爵家がありますが、ラフォレーゼ公爵家は断絶して、いまは名が残るのみと聞きます。
 ならば残る二家、新進の最強硬派キャンメルリングと保守の名門マノウォック、この両公爵に、いかにしても近づいてください」

 ターニャの考えをスノウは素直に受け入れ、彼の同行をしている二人の護衛、シャーロックとラベンナにも伝えている。他人の意見を素直にとりこめるのは、スノウの美点の一つである。
 だが、シャーロックとラベンナは歴戦の兵士ではあっても、政治や社交界については疎い。どのようにして公爵たちに近づくか、結局はスノウの裁量にかかっている。

 五月三十日、スノウたち三人はオリゾンテに到着した。
 オリゾンテは公国よりも長い歴史を持つ町で、この地方でしか採掘できない貴重な鉱石を集積・研磨し、周辺国へと出荷する貿易の要地として栄えた。
 しかし、その鉱石が十年前に掘りつくされてしまうと、それ以降は目だった産業も開発できず、発展も栄光も頭打ちになってしまい、巨大なだけの空虚な町になってしまっていた。
 その不景気ぶりを示すように、街角には昼間から若者達がたむろし、物価の異常な高騰と政治の腐敗に対して呪いの言葉を吐いている。目立つのは高利で金を貸す者たちと、不正な賄賂で私腹を肥やす役人達ばかりであった。

「これは……」

 思い描いていた風景とあまりに落差があったのか、長身のシャーロックはその状況に言葉を失った。いかに力を失ったとはいえ、群島の人間にはまだ、ガイエンは「なにもかも巨大な国」という認識がある。
「巨大なだけ・・の空っぽの国」とは、なかなか思えないのだった。

「どこも状況は同じだよ」

 と、スノウは言う。

「クールークも、解放戦争での敗戦と、政治の腐敗とが原因であっけなく崩壊した。
 コルセリア皇女の迅速な決断があったとはいえ、国家解体の混乱は、国民達を迷わせたと思う。
 果たして、国が即死するのと、緩慢に壊死していくのと、国民にとってはどちらが不幸なのかな」

 様々な感情を込めたその言葉を、二人の護衛は黙って聞いていた。

 イグネシアでの大公妃暗殺未遂事件は発覚して間もないこの時期、オリゾンテではひとつの歌が流行している。

「世にも名うての講釈師、太鼓の傍に蔓う(かずらう)大葉を射抜き、ついには太鼓もぶち破る。慌ててこれを四尺で一打ち」

 これは、言葉遊びを使って現在の政治を皮肉った歌だ。解釈は様々だが、一般には、
「講釈=公爵(キャンメルリング公爵)」
「太鼓=大公家」
「大葉=叔母(キャンメルリング公爵の叔母、シドニア大公妃)」
「四尺(長剣の暗喩)=子爵(アルバレズ子爵)」と見られている。つまり、

「現在、辣腕を振るっているキャンメルリング公爵は、大公妃殿下と姦通して権力を壟断し、ついには大公家を乗っ取るつもりでいる。アルバレズ子爵は、これを見てみぬふりはできず、いずれ公爵を討つだろう」

 ……という意味にとられることが多い。
 もっとも、この内容が市民に信じられているかどうかは別の話である。大公妃暗殺未遂事件は、前代未聞の政治スキャンダルとして市民も話題にしたが、その犯人がアルバレズ子爵ではないか、という噂は、早くも事件直後から国内に流布していた。
 この「子爵犯人説」を噂として流したのがキャンメルリング公爵であり、アルバレズ子爵がそれに対抗して作ったのが上の歌ではないか、というのである。この時代にこの噂の真実が明らかになることはなかったが、市民の口から口へ、噂は光の速度で伝わっている。

 ……余談だが、暗殺未遂事件に関わるこの二つの噂の真相が明らかになるのは、これより百年ほど後のことだ。ある歴史家の調査により、「アルバレズ子爵犯人説」も、「アルバレズ子爵がキャンメルリング公爵を討伐する」という歌も、実は両方ともキャンメルリング公爵の陣営から流されたものであったことが判明したのだ。
 この事実ひとつでも、この時代の首都オリゾンテの政治混乱の度合いがわかるであろう。

 この自分に対する誹謗に対して、アルバレズ子爵ナハトも、ただ無言を貫いて牙を研いでいたわけではない。むしろ、彼は積極的に己の保身のために幾人かの大物の周囲をめぐっている。
 一人は彼の最大のパトロンであるマノウォック公爵であった。この三年ほど、子爵は公爵に取り入り、その太いパイプを通して経済的な特権をいくつか獲得している。無論、一般的には綺麗とは言いがたい、どす黒い色をした特権であったが、それで子爵の尽きかけていた財布が潤ったのは確かだった。
 夜、天蓋つきのベッドで、その豊満な肉体にはべりながら、子爵は公爵につぶやいた。

「閣下、かのキャンメルリングなる成りあがり者は、私に対して許しがたい誹謗をわめいております。
 しかし、私は己の行動に対して、一片の後ろめたさもありませぬ。キャンメルリングは、公国の格式と伝統とを破壊する不逞の者。
 これを除かずして、公国の未来の安泰はありませぬ。そのためには、私はこの身を惜しむことはありあせん」

 ピロートークにしては物騒な内容のその呟きを、公爵は意味ありげな表情で聞き流し、立ち上がって裸身のまま窓際に歩を寄せた。

「公国の伝統を破壊する者。なるほど、ギネは確かにそうかもしれぬな。あれは公国の伝統とやらに複雑な想いを持っておるゆえ」

 少女のような動作で笑い、公爵は言葉を切る。

「じゃがナハトよ、わらわにまで虚言を弄すとはどういうことじゃ」

「は、虚言とは?」

 アルバレズ子爵の額に汗がこぼれ、白く貧弱な身体が細かく震える。いまこの公爵に見放されては、公国どころか、彼の未来はない。
 自分の行為の正当性を主張するために、彼なりに考え抜いた言葉で、何度も公爵に助力を願い出た。しかし、公爵ははっきりとした回答を寄越さずに、のらりくらりと聞き流すだけで、彼の苛立ちを焦りを募らせるだけだった。

「私の言に虚があるとおっしゃいますか」

 大げさな動作でわざとらしく驚く子爵を、マノウォック公ハーキュリーズは冷ややかな視線で貫いた。精神が凍りつくような緊張に包まれながらも、子爵は弁明に終始する。

「閣下、私は閣下に対して、なんら虚言を弄したことはございません。
 私が大公妃殿下に刃を向けたことも、その動機も、私が語ったことはすべて真実であります。
 なにをして私の言を偽りとおっしゃるのか」

「その言葉以外のおまえのすべてが偽りなのじゃ。違うか、ナハト」

 絶句した子爵を冷ややかな視線で貫いたまま、公爵は一笑した。

「己の身を惜しまぬ覚悟がありながら、なぜ己自身が剣を取ってギネを狙わぬ? なぜ少女おんなを使い、なぜ大公妃おんなを狙う?
 心から野心を語るお前は、いまの何千倍も何万倍も美しかったというのに、いざ行動が伴うと一枚もメッキを保てぬではないか。
 すべてのメッキを自ら剥ぐだけ剥いで、残ったのは虚言の王か。高級料理も、残飯になってしまえば何の価値もない」

 窓から入る月明かりに照らされる公爵の肉体は、神々しいまでの潤いと艶を放っている。だが、対するアルバレズ子爵は、彫像のように蒼白に成り果てて固まっている。
 マノウォック公爵が、子爵の顎に指を添えた。

「そもそも、大公妃殿下にお隠れになっていただくなどというたくらみ自体が、お前の、お前ごときの頭から出たものではあるまい。
 誰からそそのかされた? わらわにも言えぬことか」

 子爵は公爵のグリーンの瞳に射抜かれて身動きもできぬ。口では大言を吐くが、その実はこのように、ただ臆病な男であった。
 大公妃暗殺などという大それたことを実行できる精神力など、この男にはないのである。
 彼のおびえと沈黙が、すなわち肯定の返事だった。誰かが、この口先だけで臆病な男をそそのかしたのだ。
 だが、マノウォック公爵には、それが誰か、ということは興味はない。おびえ切って硬く瞳を閉じる子爵の顎から指が外れ、小さな衣擦れの音が聞こえた。
 目を開くと、簡単な夜着に身を通した小柄な公爵の姿が見えた。彼女は、部屋の扉に手をかけていた。

「まあよい。わらわに見放されたくないのならば、己の能力でなんとかせい。
 わらわの肉体だけでなく、わらわの精神も、このガイエン公国も、己の力で陵辱してみせるがよい。
 できぬのなら、それはそれでよい。己の能力にふさわしくない事を起こした者の、惨めな死体がひとつ転がるだけじゃ。
 また、その程度のことができぬ男に、わらわは用はない。ギネは強いぞ。そなたが思う、何倍もな」

 石のように硬直した子爵の前で、扉が閉じられた。木製の扉のはずだが、子爵の耳には、大理石の地獄の門が閉じられていくような響きを感じさせた。
 それは子爵にとって、希望の扉が閉じられてしまったことに等しい。大きな庇護を失った彼は、ただの小さな存在にすぎなかった。
 これからどうするのか。これからどうなるのか。そんなことすら、蒼白にそまった子爵の頭では、考えることができなかった。


 スノウたち三人はとりあえず宿を定めると、大公の住む宮殿に赴き、担当の役人に自分達の立場を述べ、大公への謁見を願い出た。当初、「大公は多忙のため、重要な御使者とはいえ、謁見は最速でも一ヵ月後になる」と役人は言った。そして、こう続けた。

「しかし、そなたらの【誠意】が本物であれば、大公殿下も御心を動かされるかも知れぬ」

 スノウは、この役人の言葉を真正面から受けてしまい、誠意とやらのありようについて悩んだ。彼に意味を教えたのは赤い髪のラベンナである。ラベンナはスノウを物陰に誘い、小声で言った。

「彼は、賄賂を出せ、と言っているのです。その金額に応じて、謁見の優先順位を上げてやる、と言っているのです」

 スノウは一瞬の間をおいて、あからさまな不快感を目元ににじませる。

「なるほど、誠意か。ラズリルとガイエンでは、「誠意」の意味が随分違うようだね。これは新しい辞書が必要だな」

 そう吐き捨てはしたものの、時間を無駄にすることもできない。スノウはラベンナの助言を聞き入れ、「誠意」としてかなりの額の「寄付」を申し出た。
 その「誠意」は役人に感銘を与えたようで、当初は「一ヵ月後」だった謁見の日時は、明日の午前九時と決まった。

「そなたらの「誠意」は、必ずやガイエンとラズリルの明日のために生かされるでしょう」

 役人は満面の笑顔で言ったが、シャーロックはこの笑顔に冷淡だった。

「何を言ってやがる。その「誠意」の大半は、自分のポケットにねじ込まれるんじゃないのかよ」

 宿に帰る道すがら、彼は不機嫌を前面に出して言い放った。

「決めつけはよくないよ、シャーロック、誤解のもとになる。たぶん、君の言うとおりだとは思うけれど」

 たしなめはしたが、スノウの表情も好意的とはいえない。改革派のキャンメルリング公爵ギネがいくら独力で汚職を追放しようとしても、三年や五年では、劇的に見える効果を出すのは難しい。
 ガイエンへの不快感と不信感は、一秒ごとに深くなっている。だがそれは同時に、道理でガイエンを説得することの困難さを示しているのではないか。
 ラズリルに敵対しないようにガイエンを説得するのに、権謀術数の才が必要とされるなら、自分はこの役を受けるべきではなかった。もっと、相応しい人がいたはずである。
 二年前ならともかく、現在のスノウに残された武器は「誠意」しかない。しかし、その「誠意」の意味が、ガイエンとラズリルでは異なるようだ。こうなったら、カタリナの親書が否定されてしまった場合、自分にできる手段は限られる。

「さて、八方ふさがり、ですかね?」

 不安そうにベッドに荷物を投げ出すシャーロックに、スノウは落ち着いた動作で椅子に腰掛けながら答える。

「八方のうち、六方くらいはふさがれていると思う。残りの二方から解決できればいいけど、これは相手次第だね」

 うんざりした表情で、シャーロックがベッドに背中を投げ出す。

「いざとなったら、実力行使で逃げ出すしかないですかね」

「非現実的だな」

 ラベンナの容赦のない言葉に、スノウが苦笑した。

「まがりなりにもぼくたちは一国の使者だから、堂々と害されることはないと思うけど。
 謁見のために宮殿に入ってしまえば、なにかあったら、脱出は難しいな。シャーロック、君は一人で二十人の近衛兵を殴り倒す自信はあるかい?」

「ありませんね」

「なら、もう少しラズリル流の誠意で悪あがきしてみよう。マクスウェルなら、きっとそうする。
 彼は最後まで諦めないだろう。なら、ぼくも真似してみるさ」

 ドアの傍に立っているラベンナが、興味深くスノウを見つめた。

「スノウ様。ご存知ではないかもしれませんが、私は二年前、クールーク海賊討伐艦隊の砲兵として、あなたの指揮で解放軍と戦いました。
 今のあなたは、そのときのあなたとはまったく別人のようです。あなたにとってマクスウェル様の存在が大きいことは有名ですが、それは、あなたを変えてしまうほどの大きさなのですか? 出すぎた質問で申し訳ありませんが」

 確かに出すぎた質問である。スノウ一瞬だけ難しい表情をし、一言だけ呟いた。

「ぼくが彼のためにできる唯一のこと。それは……」

 スノウは、途中で言葉を切った。不思議そうな顔をする二人の護衛を横目に、静かに眼を閉じて考え事にふけった。

COMMENT

(初:11.6.18)