ガイエン公国の首都オリゾンテから馬の足で半日ほど離れたところに、イグネシアという小さな街がある。
南は大河デレフ、北は壮大なレマー山脈に挟まれ、季節ごとに美しい自然に彩られるガイエン公国屈指の景勝地だ。
その小さな街のはずれに、ガイエン大公家の広大な別荘が建てられている。現大公スタニスラスは高齢のせいもあってか、首都からあまり動かないため、この別荘を使用しているのは主に大公妃シドニアであった。
シドニアは必ず年に春、夏、秋の三回、計二十日ほどをこの別荘で過ごす。疫病のような闇の蔓延する首都での垢を落とすのだ、と言われていた。
その荘厳な別荘の廊下を、一人の男が歩いている。建物の荘厳さとも、周囲の自然の彩りとも、まったく無縁のように思われる男だった。
黒の頭髪はやや長い。やはりあざ黒い肌は、頭の先からつま先まで、抜き身のサーベルのような印象がある。良くも悪くも、「鋭い」。
特徴的なイヤリングをしているが、印象的なのはその目だ。癖なのか、右目は常に閉じられており、黄金の左目の印象が際立っていた。
男は彫刻のような険しい表情で、夏を間近に控えた中庭を窓から眺めながら歩いている。時折すれ違う大公家お抱えのメイドたちに挨拶をされると、儀礼的に慰労の一言は返すので、特別に機嫌が悪いわけではないようだが、あまり喜ばしいことを考えているようにも見えなかった。
その男性、キャンメルリング公爵ギネは、贅を尽くした大きな扉の前に立つと、二回ノックした。
「ギネ・キャンメルリングです」
「お入りなさい」
室内から落ち着いた女性の声が響き、ゆっくりと扉が開く。
そこは応接間であった。屋敷の広大さに正比例する広い部屋だが、一国の支配者が賓客を迎えるにしては、意外に質素な趣であった。
ただ、部屋の東側の壁にしつらえられた巨大な窓は、この世のものとは思えぬほど綺麗な中庭の風景を望むことができた。またその窓の上部には、これも人の手によるものとは思えぬほど精緻なつくりのステンドグラスがはめ込まれている。
その窓際に、二人の女性がいた。一人は二十代だろうか、ブラウンの髪をショートカットにしている。若い女性にしては珍しく化粧気がないが、飾り気のない、ごく自然な美貌を持っていた。
もう一人は六十代であろう。柔らかなクリーム色の髪と、柔らかな表情が人柄を忍ばせる。美しい容姿をしていたが、それ以上に、「美しく年齢を重ねた」という印象の女性だった。
その年長の女性が、キャンメルリング公ギネを見て微笑んだ。
「よく来ましたね、ギネ」
そう言って女性――ガイエン大公妃シドニアは、傍のソファに腰を下ろし、ギネに対面の席を勧めた。
ギネは大公妃と公爵、というお互いの立場を考えてか、少し返答を躊躇したが、シドニアは首を横に振る。
「ここで立場を考えるのはお止めなさい。叔母が甥に同席を勧めて、なにが不自然なことがありましょう」
さらに一呼吸置いて一礼し、ギネはようやく腰をおろす。
「では、
シドニアは二回、手を叩いた。部屋にいたメイドたちが退室し、扉が閉じられた。これで、室内に残ったのは、ギネとシドニア、そしてシドニアの脇に控える女性の三人。
ギネがちらりとその女性に視線を向け、さらに視線を動かした。
「ステンドグラスが変わりましたな、叔母上」
明らかに間を持たせるための話題であったが、甥がそこに気づいたのが嬉しかったのか、シドニアはこころもち満足げな表情を見せた。
「ええ。最近、群島から
まだ若い娘でしたが、穏やかで良い子でしたよ。あの娘はなんという名前だったかしらね、アメリア?」
問われた女性が、一礼した。
「ナタリーです、殿下。イルヤ島で窓職人を営んでいます」
「そうそう、ナタリーといったわね。このアメリアとも旧知だというので、快く協力してくれました。
首都の者たちは群島の文化を野蛮だというけれど、あの娘を見れば、真に野蛮なのがどちらなのか、わからなくなるわ」
アメリアと呼ばれたブラウンの髪の女性が、ギネに向かって一礼した。
ナタリーと同じく群島に深い縁のある女性だ。流浪の剣士であったが、偶然に立ち寄ったラズリルで群島解放戦争に巻き込まれ、ラズリル市民の護衛役として、市民を戦渦から守った。
その剣の腕を見込んだマクスウェルに誘われ、群島解放軍にも参加している。
戦後はまた流浪の生活に戻っていたが、半年ほど前から縁あってガイエン大公妃付きのボディガード役として、このシドニアに従っていた。
シドニアが手を二度叩くと、メイドたちが入室し、ギネとシドニアの前にカップを置いた。ギネはコーヒー、シドニアは紅茶である。
メイドたちがふたたび退室してから、シドニアが話題を変えた。
「今日、あなたを呼んだのはほかでもありません、ギネ。その群島の現状についてですが」
シドニアの表情がやや憂いを帯び、緊張のためか、ギネの肩が少し上がった。
「群島の争いは続いていると聞きます。我がガイエンにも無関係なはなしではありません。わが国は、いかなる道を選択するつもりなのですか」
シドニアの問いにギネは一度、開かれていた左のまぶたを閉じた。
本来なら、シドニアのこの疑問は、彼に向けられるべきではない。彼女の夫であり、ガイエン公国の全てを決定する義務を持つガイエン大公スタニスラスに向けられるべき疑問であった。
だがシドニアは、様々な意味で自分の夫がすでにそのような決断を「できない」ことを知っていた。ガイエン大公はすでに、玉座に座っているだけの存在であり、それは「君臨」という言葉と同じ意味ではなくなっていたのである。
ギネは叔母の心配そうな表情を、左目だけで直視した。
「残念ながら、わが国の明確な方針は、いまだ定まっていません。
しかし、大勢がラインバッハ二世の側に傾いていることは否定できないでしょう」
アメリアの表情が、微妙に険しくなる。ギネは言葉を続けた。
「この国におけるラインバッハ二世の影響力は絶大です。この国のほとんどの貴族や商人は、彼に買収されている」
といっても、彼らは賄賂を受け取っているわけではない。ラインバッハ二世は、ガイエンの国法になんら触れることなく、彼らに対する影響力を強めている。
ラインバッハ二世は、貴族や商人たちが抱える借金を自らの金で肩代わりしているのだ。不正な金権政治が横行するガイエンだが、昨今は物価の上昇と景気の低迷が激しく、その経済力の後退は著しい。賄賂で潤う一部の大商人や、もともと財力のある大貴族を除けば、貴族も平民も関係なく、貧困と借金にあえでいるのが実情であった。
大公妃の威光を背景に、違法な経済活動を厳しく取り締まるギネの登場がもう二年はやければ、彼らはギネを全力で後援したであろう。そして社会を作り変える原動力となったに違いない。
だが実際は、彼らは借金をラインバッハ二世に肩代わりしてもらい、その代わりにほとんど身売りに近い状態でラインバッハ二世の影響下にあった。それは、ラインバッハ二世がガイエン公国の経済官僚を辞し、ミドルポートの領主として父の後を継いだ直後から始まった現象らしい。
不景気なガイエンの商人を一人二人囲ったところで意味はないが、それが百人単位になれば話は別だ。貴族が含まれるとなれば、また影響力も上がる。
ラインバッハ二世が群島で起こしたこの事件が、はたしてその頃から計画されていたものかどうかは分からないが、ガイエンに対する彼の影響力は年々強くなっているのが事実だった。
「ラインバッハ二世は、正式な使者をわが国に派遣しているわけではありませんが、彼の手の者と思われる間者が首都オリゾンテに入り込んでいるのは確かです。
そして、私やマノウォック公爵など、いまだ彼の影響下にはない何人かの有力貴族たちと接触しているようです」
この場合の「有力貴族」とは、ギネの敵対者である「汚職を良しとする者」たちのことである。マノウォック公爵はその筆頭格とみなされており、ガイエン政府の閣僚の一人である。ガイエンでもっとも格式の高い貴族でもあった。
「彼は有力貴族たちに、群島諸国連合の危険さを説いています。
オベル王国がごく近い将来、連合盟主の地位を利用して、群島地方において、ガイエンに代わって覇を唱えるであろう、と……」
そこでギネは話を区切った。アメリアが複雑な表情をし、シドニアは首を横に振った。
「それで、貴族達は慌てふためいているのですね。群島における既得権益を失うわけにはいかないと。
ミドルポートとラズリルを失った時点で、ガイエンは群島地方における発言力を失っている。それどころか、いまは自分たちがラインバッハ二世に買収されかけている。
そのことは子供でもわかりそうなのに……」
「金に目がくらめば、目に見えるものも見えなくなってしまうのです。
彼らは無能ではありませんが、その視界には金銭しか映っていません。自らの利益になることならば、極端なはなし、彼らはラインバッハ二世にガイエンという国を売りわたすことにも躊躇はいたしますまい」
「代々、大公家の寵恩をたまわり、ガイエンの禄を食んできた者たちが、この国を裏切るというのですか」
「叔母上、彼らにとって、祖先の功績も大公家の大恩も、大した価値はないのです。
空気と同じで、そこにあるのが当然のもの。自ら功績を挙げたわけでもないのに、持っているのが当然のものなのです。
だから大したありがたみも感じずに、恥知らずな営利活動に走ることができるのですよ。この国の貴族制度とは、すなわち制度化された盗賊のことです」
ギネの言葉に、露骨な嫌悪感が混じる。彼は、大公も国民もないがしろにし、国民の血税を平気で穢れたポケットにしまいこむ貴族や官僚たちに対する嫌悪感を隠したことはないし、彼らを糾弾する機会を逃したこともない。
それは彼の父が、敵対する貴族によって無残に殺害されてしまったことと無縁では在るまい。ギネの父、つまりはガイエン大公妃シドニアの兄である。
キャンメルリング公爵は現在、穢れた国の機構に対して公に弾劾の言葉を吐くことができる、唯一の人間であるといっていい。発言力と同時に権力も有し、実際に、不当な賄賂や公と民との不適当な癒着を禁止する法律もいくつか、かなり強引にではあるが、成立させている。
しかし、汚職官僚たちは、そのたびに法律の抜け穴を探し出しては、そこから金銭をねじこんで懐に放り入れた。そんなときに限って、彼らは異常な嗅覚を発揮した。ギネの糾弾と対立者の汚職は、国家レベルのいたちごっこの様相を呈している。
「それでギネ、あなたはどうするつもりなのです? このまま状況を静観しているのですか」
シドニアの声が、少し低くなった。ギネの敵は、すなわちシドニアの敵でもある。
憎悪の根源はややことなるが、対立していることには変わりはない。
「まだ慌てて動くときではありません。群島の状況を見守りつつ、貴族達を牽制しておくことが肝要です。
しかし、有力貴族がラインバッハ二世の手のひらの上で簡単に踊らされるようなら、手は打たねばなりますまい。
どちらにしても、今はラズリル側も意志を確認しておく必要があります。ラズリルの意志が伝わってこないことも、オリゾンテで貴族達が混乱している理由の一つですからな」
「あなたは、ラズリルと組むつもりなのですか」
「その可能性もある、ということです。戦況がどう動くかによって、可能性はいかようにも変わります」
シドニアが寂しげな表情で、巨大な窓から中庭を見つめた。
「巨竜の背骨を、たった一本の小枝が折ってしまうこともありましょう。
ガイエンが巨竜でありえたのは、もう過去のこと。なりは小さくても、頑丈な身体を持っていれば、外部からたやすく折られることもあるまいが、こうも内部が混乱しているのでは……」
叔母の寂寥を、甥は静かに見守っている。
暗い表情のまま、シドニアは二度手を叩いた。彼女のカップも、甥のカップも、とうに空になっている。
メイドが入室してきた。二人のテーブルの脇に立ち、二つのカップを置いた。
ギネの鋭い視線が、メイドを貫いた。白い肌と黒い髪の、幼さの抜けきらぬあどけない表情の娘だ。大公妃の前だからか、かなり緊張しているようで、身体はわずかに震えている。
だが、ギネの黄金の左目は、この娘の不自然な動きを逃さなかった。
娘の左腕が、わずかに動いた。緊張した表情のまま、細いその腕が、大公妃に向かって伸びたのだ。
その瞬間、この鋭い公爵は、そのサーベルのような身体を豹のような身軽さで動かした。素早く腰を浮かせると、娘の左腕を掴んだ。
危険な一瞬だった。ギネの動きがもう一秒遅ければ、娘の腕が大公妃に届いたであろう。
そしてさらに一秒遅れて、アメリアが娘の髪をわしづかみにし、そのまま乱暴に床に押さえつけた。
娘の野暮ったいメイド服から、悪意の物体が零れ出た。左袖の先から、小さなナイフが床に落下した。
ペーパーナイフのような
二人がかりで取り押さえられ、娘が小さな声で呻くが、ギネは容赦なく娘の腕をひねり上げる。
「大公妃づきのメイドがなぜ、このような剣呑なものを持ち歩く」
一瞬前の静けさが嘘のように、室内は混乱した。近衛兵が呼び入れられ、畏れ多くも大公妃を害そうとした罪深き娘を縛り上げた。娘は、ただ苦しそうな嗚咽を上げ、恐怖に満ちた表情を浮かべ震えるだけであった。
アメリアが大公妃に視線をむける。シドニアは思わず立ち上がり、蒼白な表情で口元を押さえている。襲ったほうも襲われたほうも、「何が起こっているのかわからない」という雰囲気であった。
「あ、ああ……、これは一体……」
狼狽するしかない大公妃をアメリアに委ね、ギネは侍従長を呼び出した。老齢の侍従長も驚愕と狼狽とに見事に支配されていたが、それは目前の事態によるものか、それとも冷酷ともいえるギネの視線によるものかはわからない。
「大人しく礼儀正しい娘です。小心者で、決してこのようなことを起こす者では……」
「それが娘の真実の姿だとは限らぬということだな」
周囲の喧騒をよそに、ギネは一人で思考の中に沈んだ。
昼、キャンメルリング公ギネの客室を、一人の女性が訪問した。アメリアである。
ギネは特にソファを勧めるようなことはせず、陽光の入る巨大な窓の傍に立ち尽くしている。アメリアも、扉の傍から離れようとはしない。
お互いに、微妙な警戒の空気を解いていなかった。
「大公妃殿下のご様子はどうかね?」
「しばらくは恐慌のうちにおありでしたが、今はお休みになっています。
お目覚めになれば、いくぶん落ち着きを取り戻されるでしょう」
「そうか、賊も牢を抱かされているし、ひとまず危険は去ったとみてよかろう。
君もよくやってくれた。甥として、叔母の危機を救ってくれたことを感謝する」
「私は何も……」
アメリアはわずらわしげに一礼した。ギネの表情を、直視できなかったからである。
窓際に立つギネの横顔は、なんともいえぬ感情を浮かべていた。目元で怒り、口元で嗤っていた。
怪物のようなギネの印象には触れず、アメリアは話題を変えた。
「大公妃殿下を襲った女は、なにか供述を?」
ギネはアメリアに半身を向けたまま、首を横に振る。
「いや、何も聞きだせぬ。震えるばかりで、尋問どころか会話もできそうにない」
「………………」
「しかし、考えられる可能性はいくつかある。
一つは、我らの勢力に対抗する者たちの差し金。そしていま一つは、ガイエン国内の混乱を狙った外国勢力の差し金だ」
「閣下は、どちらだとお思いに?」
落ち着いたアメリアの問いに、ギネは一呼吸を置いた。そして、応えた。
「断言はできぬ。だが、両方の可能性もある。オリゾンテの貴族どもは、金や危機感さえちらつかせれば、幾らでも尻尾を振る連中だ。
彼らに私の後見である叔母上を殺害させる。当然、私は彼らをこれまで以上に憎み、骨肉の争いを繰り返すだろう。ガイエンの政治はさらに混乱する。
そして、それをガイエンの外から喜んでみている者がいる、ということだ」
初めて、ギネがアメリアに正対した。
「アメリアと言ったな。君にひとつ質問をしたい」
「わたしに答えられることであれば」
「オベル国王リノ・エン・クルデス、ラズリル騎士団長カタリナ。
果たして彼らは、このような姑息な手法をとることができる人物かな」
アメリアは、複雑な感情を込めた視線でギネを見つめた。
この浅黒い肌の公爵は、自分をいったいどのような大物だと勘違いしているのか。ギネの思惑をはかりかねている。
アメリアは確かに群島に縁が深いが、群島の出身というわけではない。アメリアの精神と群島とを結びつけているものは、ほとんど群島解放戦争という大きな経験の記憶だけだ。そのときにできた知り合いを訪ねて、何度か群島地方に立ち寄ったこともあるが、定住はしていない。
その後に起きたクールーク崩壊事件のときも、キリルやマクスウェルに協力はしたが、そのときはほぼクールークの国内でのみ戦い続けたため、群島にはほとんど寄っていない。
アメリアはわずかに首をかしげ、答えた。
「残念ながら、わかりかねます。私は流浪の一剣士にすぎません。
例に出たお二人を語れるほどの大物ではありませんし、直接的に知り合う機会もありませんでした」
「ふむ」
ギネは釈然としない表情をしたが、それ以上の追求はしなかった。ギネ自身、群島解放戦争のことは色々と報告は受けているが、内部的な事情まで詳細に知っているわけではない。
解放戦争において、巨大船オセアニセスに解放軍の主だったメンバーが皆乗っていたことは知っているが、その内部の人間関係にまでは、ギネの知識は及んでいなかったのである。
ギネは、質問を変えた。
「では、彼ならどうかな。ミドルポート領主、ラインバッハ二世ならば」
これも、アメリアは首をかしげる。人名が変わっただけで、アメリアとは離れた立場にいる人物であることには変わりはない。
だが、ラインバッハ二世に関わる断片的な噂ならば、いくつかアメリアも聞いている。
「あのタヌキ親父ならばやりそうだ」
……などとも思うが、それは事実を元にした人物評ではなく、噂を元にした憶測だった。さすがに、それをこの場で公言するわけにはいかなかった。
アメリアは、一礼した。
「残念ながら、それもわかりません。いま少し、群島の事情に明るい者にお尋ねください」
アメリアの態度に、右目を閉じたままの黒髪の公爵は、特に態度を変えなかった。
最初から、実りある解答を期待してたわけではないのかもしれない。「万が一」の可能性もあるから、ためしに聞いてみた、というところだろうか。
「いや、由のない質問をしたな。時間をとらせたことは謝ろう。
君は信頼できる。今後も、叔母上のことをよろしく頼むぞ」
アメリアを下がらせてから、ギネは再び窓から中庭を見つめる。西日は強烈となり、夕刻の風情を楽しむには、半端な時間帯であった。
この暗殺未遂の裏にラインバッハ二世がいる、という推測は、自分で言ったにも関わらず、ギネ自身は懐疑的であった。そんなことをしなくても、ラインバッハ二世はすでにガイエンに影響力がある。はたしていま、これ以上ガイエンを混乱させる必要や理由があるのかどうか。
誰が聞いているわけでもないが、ギネはぽつりとつぶやいた。
「鍵を握るのは、やはりラズリルの使者か。果たして、カタリナは誰を我が元によこすかな……」
大公家の別荘には、さすがに牢のように罪人を拘束する施設はなく、ここで罪科を働いたものは全て、敷地の外にある番所に拘束される。別荘の敷地内と同じく、ここも大公家の「直轄地」である。街の中にありながら、イグネシアの領主は手も口も出すことができなかった。
ここに、大公妃の弑逆を企んだメイドは収監された。格子状の牢があるわけではないが、分厚い壁に囲まれた部屋には窓がなく、扉も鋼鉄製のものが用いられ、人間の腕力で脱出できる環境ではない。
夕刻、ギネはこの施設を訪れた。彼のような国家の重臣がここを訪れた例は過去にほとんどないが、やはり自ら捕まえた暗殺未遂犯が気になるのか、兵士の敬礼を受けながら入り口の門をくぐると、ギネは担当者を呼んだ。
「女の様子はどうだ?」
「それが、拷問以外の手は尽くしてみましたが、怯えるばかりでなにも喋りません。関係者の話から、本人に特に知能的な問題は認められず、会話の能力もあるようですが……」
「持ち物から背後関係は分かりそうか?」
「関係箇所を捜索しましたが、今回の事件に関係のありそうなものはまったく発見できていません。命令書のようなものは持っておりませんし、所持していた武器らしきものも、大公妃殿下に向けられた、あのペーパーナイフのみです。
今後、首都に送還して本格的な尋問を行うことになりますが……」
「無駄だ。君達に陥落できぬ者が、首都の貴族達に買収されている獄吏どもに落とせるものか」
「ところで閣下、その首都のマノウォック公爵閣下より、凶悪な暗殺未遂犯を引き渡す由、要求が内密になされておりますが……」
「マノウォック公爵が?」
一瞬、何かを思案して、ギネは苦笑に近い表情を浮かべた。
「事件が起こってまだ半日程度、相変わらず耳の早いことだ。あの御仁の興味の赴くところは、私にもわからぬ。
しかし、その要求には応じられぬと伝えよ。大公家にて起こった事件は、大公家直属の然るべき部署が管轄することは、国法に定められていること。
公自ら法をないがしろにされるは、いかなるご意思によるものか、とな」
「はぁ」
担当者は、少し気の抜けた声を出したが、すぐに姿勢を正した。
「そのような回答を寄越されては、マノウォック公のお怒りを買うのではありますまいか」
有力貴族にとって、ガイエンの国法というものは、すでに有名無実のものであった。それを破ることになんの呵責を感じることもなく、むしろ、自らの利益を追求するに及んでは、邪魔以外のなにものでもないのであった。
ギネは言う。
「かまわぬ、この要求は、マノウォック公爵の本心ではあるまい」
「と、おっしゃいますと?」
「マノウォック公自身は政治にも経済にも関心を失って久しい。今度の要求も、子飼いにしておる小物たちに突き上げられてのものだろう。
あるいは、そのあたりに事件の真実があるやもしれぬがな」
この場に存在しない者たちをかるくあざけっておいて、ギネは分厚い扉の前に立った。大公妃暗殺未遂犯を収監しているだけあって、脇には常に、逞しい四人の兵士が見張っている。
「ここか?」
「はい。しかし……」
担当者は、言葉を濁した。
犯罪者からあらゆる手段で情報を得るのは、彼らの仕事である。この施設は大公家の直轄地であるから、流血の惨事を起こすわけにはいかないため、拷問は行われないが、それでも厳しい尋問は行われる。
しかしこの女は、恐慌状態にあるのか、それともなにか精神的な操作でも受けているのか、その厳しい尋問でも口を割らなかった。ただ怯えるばかりであった。
つまり、この場で公爵にできることはできることは無いのではないか――思っても口には出さないが。
大柄な兵士が敬礼し、慎重に扉を開いた。鋼鉄の重々しい外観に相応しい重々しい音を立てて開いた扉の向こうに、その犯人がいた。
女は、麻縄で両手首と両足首をそれぞれ拘束され、質素ないすに座らされていた。壁に磔にされるわけでもなく、大逆の罪を犯そうとした者にしては軽い拘束であろう。だからといって、全ての対応が紳士的というわけにもいかなかった。
兵士が一人、女に近寄り、乱暴に黒髪を掴んでその顔をギネに向けさせた。その容姿は美しかったが、美人、というよりも可憐、と表現したほうがいいほどの年齢であろう。尋問中に何発か殴打されたらしく、白い右頬に
少女のあどけない顔はギネに向けられたが、その青い瞳には、生気が宿っていない。肉体も精神も虚脱しきっているように見える。魂の抜け殻のようだった。
(なるほど、これでは何もしゃべれまいな)
おそらく、あの瞬間。大公妃に向けた自分の左腕が、ギネによってつかまれてしまった瞬間に、この少女から、すべての緊張とともに、すべての生命力が抜けきってしまったのだ。それほどに自分を追いつめていたに違いない。
あるいは、誰かにそこまで追いつめられていたのか。
どちらにしろ、この少女が口を開かぬ限り、この事件の真相、あるいは黒幕の正体に迫ることはできない。
「少々荒療治となるが、仕方あるまい」
ギネは、奇妙な命令を出した。少女の髪を掴んでいる兵士に、しばらく目を閉じていろ、と言ったのだ。
尋問の担当者はギネの背後にいる。いまギネの正面にいるのは少女と兵士のみだ。その兵士が命令どおり、目を閉じて顔を背けた。少女の青い生気のない瞳だけが、ギネを見ている。
担当者は、ギネの背中ごしに、これまた奇妙な彼の言葉を聴いた。
「さあ、しゃべってもらおう。君を扇動したのは、どこの何者かね」
シンプルといえば、気味が悪いほどシンプルな質問を、気味が悪いほど落ち着いた声で公爵は尋ねた。
担当者は溜息をつく。自分達の厳しい尋問でも口を開かなかった、と何度も説明はしているはずなのに、この公爵はなにを聞いていたのか。「喋らないのをやめて喋れ」というのは、まるで泣いている子供に対して「泣き止め!」と言っているようなものではないか……。
だが次の瞬間、この担当者は目を疑った。少女の細い身体が、異様な動きを見せた。それまで虚脱して力を失っていた少女の身体が、なにか見えない力に操られているようにいきなり立ち上がったのだ。明らかに少女の意志ではなかった。
そして、身体を細かく痙攣させながら、思い切り胸をのけぞり、顔を天井に向けてそのまま硬直した。髪を掴んでいた兵士が、おもわずのけぞってしまうほど、急で力強い動きだった。
「驚愕」の二文字が飛び跳ねて場の空気を凍らせていくなかで、唯一落ち着きを保っていた男が、同じ質問を繰り返した。
「君を扇動し、このような事件を起こさせたのは誰かね」
少女の身体が二度、大きく震えた。それにあわせて、公爵の背後から状況を見ている者たちも二度震えた。
そして、少女の口からかすれるような小さな声が零れ落ちる。
「ナ……ナ、ハ、ト……アルバ……レ、ズ……」
言い終えて、また変化が起こった。少女の身体が力を失い、椅子に崩れ落ちた。どうやら意識を失っているようである。
ギネ以外の全員が呆然としている中で、その様を演出した本人は、少女を見下ろして呟いた。
「ナハト……アルバレズ子爵ナハトか。なるほど、確かにマノウォック公の子飼いの貴族だが、小物だな。
功に
ギネの思考が深く、そして速度を上げ始めた。
(初:11.11.11)
(改:12.02.05)