クォ・ヴァディス 47

INTERMISSION - 太陽暦380年、ラズリル 〜 ガイエン公国史概略 -

 ラズリルは午後二時を過ぎようとしている。書物とメモと静寂に埋め尽くされた老歴史家ターニャの書斎は、しばらく静かな時間が流れていた。
 孫娘のソニアは、普段は活発な動きを見せる表情と舌を止め、祖母の大著を熱心に読みふけっており、ターニャは孫が淹れた紅茶を飲みながら、その表情を興味深げに見守っている。
 この祖母と孫娘は、根本的なところがよく似ている。頭の回転が早く、気が強く、二人そろって口がいいとはいえない。
 興味のあることに没頭すると、周囲を無視して納得するまで自分の空間から出てこない。基本的に自分の主張にはこだわりを持つが、一度誤りを認めれば、修正には柔軟である。
 もっとも、ターニャを超えるほどの歴史的知識の持ち主はそうはおらず、ソニアは若さゆえか必要以上に意地っ張りで、この二人に誤りを認めさせることは簡単ではないが。
 気難しいソニアは、若い頃のターニャを知る者から「当時のおばあさんにそっくりだ」と言われるたびに全面的にそれを否定したが、その姿は、若い頃に同門の姉弟子であるアグネスとの討論(に近い口論)で、意地を張って自説を曲げなかった気難しいターニャにそっくりであった。

 さて、読書に没頭するソニアが、ページをめくる速度は、徐々に上がっている。窓の外からは、港町としての喧騒と、先端都市としての格調が微妙に入り混じるラズリル独特の空気が風に乗って入ってくるが、ソニアはまったく意に介している様子はない。
 ソニアは既に、偉大なる祖母の大著「パニッシュメント・ブリーフィング」を何度か読み返しているが、そのたびに思い知らされるのは、自分の視野の狭さ、そして語彙の貧弱さだった。
 ソニアにはまだ、ターニャの歴史観に修正を加えるほどの広範な知識も視野も持っていない。発想力は斬新といっていいが、それもまだ、祖母を驚倒させるような結果をもたらしたことはない。
 歴史に関わった時間に圧倒的な差があるから当然のことではあるが、それで自分を納得させて簡単に平伏するほど、ソニアは素直な娘でもなかった。
 ソニアの当面の目標は、祖母のこの名著に適切な注釈か修正を加えて、老ターニャをあっと驚かせることである。しかし、八九歳のターニャに残された時間の中で、自分がその領域にまで到達することが果たして可能かどうか、この強気な娘にも自信があったわけではない。
 その焦りが、ソニアの貪欲な知識欲の源泉となっているのは間違いない。

 ソニアの指が、あるところで止まった。マクスウェルが無人島において「オベリア・インティファーダ」を名乗って独立を果たした前後のことだ。
 太陽暦三〇九年の事件当時、ラズリルに在ったカタリナとリノ・エン・クルデスは、マクスウェルの独立と前後して自らの勢力を固めることに注力していたが、その一環として、周辺国にラインバッハ二世に対抗する自分達の正当をアピールすることも忘れなかった。
 これは、マクスウェルからカタリナに宛てられた親書に「腹案」として提示されたことだが、重要な外交政策の一環として、それ以前からリノ・エン・クルデスの胸の内にはあったようだ。ただ、政治家となって短いカタリナの想像力は、めまぐるしい日常の中でそこまで伸びるまで時間がかかった。周辺国への使者の人選がやや遅れたことは、残念ながら事実であろう。


 この時代よりほんの少し前、太陽暦三〇〇年前後、群島諸国に接する国の中で最大の影響力を持っていたのは、群島諸国の広がる海洋の西方に位置する広大な島国、ガイエン公国である。
 ラズリルやミドルポートの元の宗主国であるこの大国の歴史は古く、太陽暦がはじまる前、つまり群島解放戦争からさらに三百年以上さかのぼることができる。
 太陽暦以前、このラズリルほか群島地方全域と現在のガイエン公国全土を支配していた巨大な帝国が存在していた。この帝国は、その面積の広大さに 比例するように、各地方における文化の多様性も広範にわたっていた。
 建国当初、この帝国は皇帝の強権でもって、これらの異文化に対する同化政策を強引に推し進めたが、それはそのまま困難と反発、そして頓挫の歴史だった。五代目の皇帝の時代に、この強引な同化政策が裏目に出て、逆に民族分裂による帝国瓦解の危機に瀕したこともあってか、建国以来の政策を宥和政策へと転換させた。
 わずかだが地方領主に権限が認められるようになり、地方の不満を力で押さえつけるよりも、ゆっくりと逸らしていく方針がとられた。
 ところが、これがさらに裏目に出た。権限を与えられた地方領主達は、それを国への忠誠ではなく、国からの独立への布石にしようとしたのである。ある者は兵力や財力を着々と蓄え、ある者は中央政界に進出して大きな発言力を持つに至った。

 ガイエン大公家は、元来はサザーランドという姓を名乗っていた。旧帝国の西の一地方を治める小領主でしかなかったが、財産は豊富で、所領の狭さのわりには高い爵位を持っていた。
 その理由は、一族の戦闘能力の高さにある。サザーランド家は代々、戦上手の家柄で、当主には知将・猛将が多い。さらに兵の調練もうまく、サザーランド家の配下は国内でも一二を争う強兵で知られた。
 歴代の皇帝は、サザーランド家の戦闘力を頼りにし、たびたび戦争や内乱の鎮圧に出兵させたが、同時にその力を恐れてもいて、高い報酬や数々の名誉を与える一方で、その私兵が正規の軍隊に編入されることはなく、中央の政治にはまったく参加させなかった。またサザーランド家もその野望を持たず、謹直な武の家系らしく、皇帝への忠誠を頑なに守った。

 しかし、帝国の方針が同化政策から融和政策へと転換すると、サザーランド家もそれまでの方針を単純に守るわけにはいかなくなった。地方領主の発言力がだんだんと強くなっていく中で、皇帝は自らを守る楯としてサザーランドを頼った。彼らを中央に進出させ、その武力をもって地方領主を牽制しようとしたのだ。
 当時のサザーランド当主べレニケは、皇帝一族と婚姻関係を結ぶことで大公の位を授かり、帝国の兵権を全て与えられた。同時に、群島を含む帝国東方のガイエン地方を所領として与えられ、「ガイエン大公家」と呼ばれるようになった。
 それまでの帝国の歴史にも前例のない強権を誇ったガイエン大公家であったが、もともと彼らは武門の家系で、政治を御する能力には優れていなかった。彼らはよく皇帝を補佐し、特に群島地方で頻発し始めていた反乱もよく鎮圧したが、それは情勢の根本的な解決にはいたらなかった。
 飛びまわる蜂をいくら勇敢に叩き落しても、蜂の巣を駆除しなければ、いくらでも蜂は飛び出てくる。ガイエン大公家の武力は、結局は帝国の瓦解を十年ほど先延ばししたに過ぎなかった。

 太陽暦〇〇五年、それまで散発的だった地方領主の蜂起が激しさを増し、互いの利害を超えて協力する者が現れ始め、帝国は内乱状態へと突入した。べレニケの後を継いだばかりの二代ガイエン大公フォルクマール・バルデは、ほとんど独力で戦い続けたが、〇〇八年、ついに帝国首都バルヒアラは陥落した。皇帝一家は全て処刑され、フォルクマール・バルデは本拠地であるガイエン地方の中心地オリゾンテへと撤退を余儀なくされた。

 皇帝が処刑された翌年の太陽暦〇〇九年正月、勝利した反乱軍の首脳部、通称「五月五日会議」による有名な「バルヒアラ宣言」により、帝国は正式に消滅したが、だからといってその後を継ぐ国はすぐには現れなかった。
 反乱軍の主だった地方領主たちは、自らの功績と権力の配分をめぐってすぐに仲たがいをはじめ、早くも四月には「五月五日会議」は分裂した。一部が自らの領地に帰り、よりによって今度は「打倒五月五日会議」を掲げて武力蜂起したのである。
 この混乱はすぐに旧帝国領全体に波及し、多くの地方都市が独立を宣言した。群島地方のオベル王国が独立を果たしたのも、この時期である。
 長く混沌とした時代が続いたが、この混乱を最終的に勝ち残った者たちこそ、旧帝国の武の名門、ガイエン大公家であった。

 当時の第六代ガイエン大公オクタヴィアは、第五代ロムアルドの妹である。兄が若くして死去してしまったこともあって、当初は幼い甥チェスターが成人するまでの、中継的な大公家継承であるはずだった。平和な時代であれば、「当時では珍しい女性当主」という一行のみが、歴史書に残ったであろう。
 しかし、戦乱の世が、当時二十三歳のこの若き女性大公を、大公家の歴史上、最大の軍事的英雄とさせた。
 後に「戦女神」と称されたこの女傑は、恐るべき用兵と精悍な強兵でもって、周囲の領主達を次々と打ち破った。初期には一度ならず敗戦も経験したが、同じ敵に二度敗れたことはなく、特に二十八歳のとき、当時の最大の敵対者であったカプタイン家を完膚なきまでに討ち破った「アルテタの戦い」以降、前線の指揮から退くまでの二十五年以上もの長きにわたって、一度も敗れることがなかった。
 オクタヴィアは四十三歳でチェスターに家督を譲ったが、それ以降も大公家の軍事的象徴として戦い続けた。そして太陽暦〇五五年、オクタヴィアとチェスターは、最後まで抵抗していたボナム家の本拠地トラレスを攻略、ついに群島地方を除く旧帝国領のほとんどを掌握するにいたる。
 オクタヴィアは旧帝国を再興させる気はなかったが、「ガイエン大公家の現在があるのは、旧帝国があってこそである」として、自らは「王国」とも「帝国」とも名乗らず、統一国家の国号はあくまで「ガイエン公国」とした。
 そして逞しく成長したチェスターの後見として、七十八歳で亡くなるまで、ガイエン公国の精神的主柱であり続けた。

 後継者の第七代チェスターは、一説には身長二メートル十五センチという圧倒的な巨漢である。
 分厚い筋肉に守られた逞しい肉体、赤銅色の肌につりあがった蒼い瞳、逆立った紅い髪、常に怒りに充たされてる(ように見える)表情をし、複数の美姫を侍らせて轟然とワイングラスを傾ける様は、「一国の国主よりも、悪魔の頭領という立場の方がよほど相応しい」と評されるほど恐れられた。
 しかし、歴史書におけるチェスターはむしろ、叔母のオクタヴィアほどのインパクトはない。それは彼が、戦場の勇者だった叔母と違い、純然たる政治家だったからであろう。
 彼の功績は、そのほぼ全てが政治的なものであり、オクタヴィアの戦功のような極彩色の派手さをともなっていなかった。しかし、叔母が築いた公国のシステムを順調に発展、安定化させ、強国として確固たる地位を築いた手腕は本物であった。
 ガイエンの国定の歴史書は、公国の基礎を築いたこの二人を、このような表現で賞賛している。

「オクタヴィア大公こそ、最大の「英雄」である。そして、チェスター大公こそ、最大の「名君」である」


 それから二百五十年。ガイエン大公家は当初、武門の家柄らしい断固たる政治姿勢で国を運営していたが、それも長くはもたなかった。政治にも経済にも不得手な彼らは、徐々に官僚たちに政治権力を乗っ取られ、現在では、世界で最も腐敗した国の一つに上げられるほどにその地位は低下してしまっている。
 何をするにも賄賂を要求され、税金を横領した不正な蓄財が平然と横行し、貧富の差も広がる一方であった。現在のガイエン大公を支える閣僚のほとんどが、その地位を金で買った、とも噂されている。
 過去には何人かの良心的な政治家や官僚が国を憂い、この状況を打破しようと立ち上がったこともあったが、そのたびに彼らは汚職官僚たちの団結力によって叩き潰され、中央から去っていった。

 最も高名なのは、一時的とはいえ国家財政を立ち直らせたラインバッハ一世とその子、同名の二世であろう。ラインバッハ家は遠縁ながら大公家と血縁関係にあり、財政家としての手腕もあって、一時期は宮廷においてもささやかながら発言力を有していたが、二代続けてその功績や努力が正当に報われたとは決して言えず、最終的にはガイエンという国家に絶望し、早々に群島の小都市ミドルポートに引退してしまっている。

 現在のガイエン大公スタニスラスも、若い頃は聡明で知られた。彼は二十代の半ばで、すでに経済、軍事、演劇など、幅広いジャンルの著書を七冊出版しており、「やや先人への敬意に欠けるきらいはある」ものの、その知識と考証はたしかなもので、どれもまず名著とされている。また、多くの分野の著名人と積極的に交流し、その知的行動力が旺盛だったことは疑いない。
 人々はこの「若君」に、腐敗しきった国家の建て直しを期待した。清新な国主による、清新な政治を期待した。
 しかし、先代大公が亡くなり、スタニスラスが大公位を継承したとき、人々の前にあらわれた彼は、すでに若かりし頃の印象を残していなかった。大公の就任式に出席したオベル王国の使者は、家族への手紙で、

「新大公はまだ四十歳というはなしだったが、少なくとも外見は、実年齢よりも二十歳ほど年長に見える。
 私だけでなく、初めて大公を目の当たりにした人の多くは、彼がつい先日まで三十代だったとは、決して信じないだろう」

 と、大公の印象を書き送っている。
 しかし、ガイエン大公スタニスラスの行動力の衰えは、外見よりもさらに二十歳ほど先んじていた。
 群島解放戦争が起こった太陽暦三〇七年は、スタニスラスが大公位に就いて三十四年になる。二十代にあれほど知的行動力に富んでいた彼は、その三十年以上の間、独自の政策らしい政策をなにひとつ行わなかった。
 朝、起床してベッドから這い出すと、昼は官僚が用意したスケジュールを淡々とこなし、夕は料理人が用意した食事を淡々と平らげ、夜は世話係が用意した美女を淡々と抱く。そんな日常を延々と三十年、一万日以上も淡々と繰り返していた。
 彼の昔日の聡明さを知る人々は、当然、彼の変化に強烈な疑問を感じ、様々な行動でその疑問を解こうと試みたが、解答を得られる者はいなかった。
 疑問は解けなければ、当然、疑惑に変わる。若きスタニスラスの聡明さと、それに対する国民の期待は、ある人種にとっては厄介なものであった。つまり、国を私物化していた汚職官僚たちである。
 官僚らは、スタニスラスが正式に大公家の後継者に指名された前後から彼に接触した。そして、なんらかの方法でスタニスラスを、官僚のいうことを聞くだけの廃人としてしまったのではないか。ガイエンという国の現状を知る者ならば、誰でも導けそうで、そして誰にも否定しきれない推論であった。

 大公に極めて近い立場にも、この疑惑を追求しようとしていた者はいた。たとえばガイエン大公妃シドニアもそうである。
 シドニアは、スタニスラスの大公就任と同時に編制されたハーレムの一員だった。兄の政治的な思惑によって大公に差し出された、いわば人身御供であったが、シドニアはそこから大公妃へとのぼりつめた。
 シドニアがそこまでいきつくまでの過程で、一回りも年上のスタニスラスとの間にあったとされる幾つかのロマンスが、小説や戯曲の題材となり、市民の間にも広く知られている。そのほとんど、あるいは全てが作者の想像の産物であるとされているが、スタニスラスとシドニアの間に、まったくそういった精神的な交わりが無かったわけではないようで、シドニアは徐々に変貌していく夫を見るに見かね、様々な対抗手段、防衛手段を考え、情報の収集も行おうとしたが、それはほとんど無駄に終わった。シドニアは、自分自身の政治的な手の短さを思い知らされただけだった。

 だが、シドニアは諦めない。彼女は自分にできることを全てやったあと、自分にできないことをできる人物を求めた。そして、太陽暦三○六年、一人の男を首都オリゾンテへと呼び寄せた。
 先年に不慮の死を遂げた兄の門地を継ぎ、苛烈な粛清で怠惰と腐敗を領地から一掃して名をあげたシドニアの甥、キャンメルリング公爵ギネである。この男の登場によってガイエンはさらなる混乱に陥り、オリゾンテの政治的な状況は泥沼化していくことになった。

 とりあえずここまでが、ラズリルから使者が向かう直前までの、ガイエン公国の現状である。

COMMENT

(初:11.6.18)
(改:11.09.22)