クォ・ヴァディス 46

8-9

 宿を出た「五人目の男」が向かったのは、オベル島の北に広がる広大な森林地帯だ。
 オベル王国の首都として開発されたこの島だが、この森林は意図的に開発されず、原初の自然をそのまま残している。
黒の森カーラ・ネミ」と呼ばれるこの森が、開発されなかった理由はさまざまだ。表向きは単純に、人力での開発がほぼ不可能なほど森林が複雑で、範囲が大きすぎること。そして、人口が増えるに従って需要が急増する木材資源の確保と保存。
 裏の目的には、純軍事的に、オベル島が占領されたときのことだ。生き残った兵士達が、ゲリラ活動を行う際に行動しやすいように、わざわざ複雑な地形のまま残している。
 しかも、そのいざというときに本拠地となりえる施設まで、秘密裏に建築されていた。

「まあ、俺の代に使うことはないだろうがな」

 と、リノ・エン・クルデスは苦笑して、王家と一部の重臣にのみ伝わるこの施設の維持と修理をしていたものだ。
 歴史上、この施設の最初の使用者たる名誉を与えられたのは、トリスタンである。
 彼は、先のオベル沖海戦に先立ちオベル防衛の大役を仰せつかったが、ラインバッハ二世の罠にはまって、勇戦むなしくオベル島を明け渡してしまった。
 それでも、セツが投降者のトップとして自ら敵の捕虜となり、ジェレミーが島を脱出し、彼は残った。投降も脱出もよしとしない兵士達を束ねる者が必要だったのだ。
 彼の下に残った兵士は、およそ二〇〇。まさかこの兵力で、正面きってラインバッハ二世に決戦を挑むわけにはいかない。
 また、彼の下には行動を共にする一般市民や、ユウ医師と看護士キャリーとともに脱出してきた病人・けが人たちもいる。無理はできなかった。

 この大森林の中を、「五人目の男」は駆けに駆けた。森に入ってしまえば、単独行動で敵に発見される心配はまずない。
 さきほどまで酒を飲んでいたのが嘘のような健脚で男は駆け、とある場所にたどりついた。
 小高い丘の前である。周囲をみわたしても、鬱蒼たる木々が繁っているだけで、ほかには何も見当たらない。
 だが、その暗がりに、二人の男が、何かを守るように立っていた。槍を持っている。兵士だろうか。
「五人目の男」が、その二人に近づいた。当然のことながら、二人の槍が、男に向けられる。
 二人は緊張感のある声で、男に問うた。

「オベリアの桜は、どこに咲いているかね?」

「悪魔を哀れむ歌の中に」

「……………」

 しばしの沈黙のあと、二人の槍は上がった。つまり、これがトリスタンの指揮する残存部隊の「合言葉」だった。
 あまり上品な言葉ではないが、考えたトリスタンとしては、日常会話で使われにくい単語を必死に選択した結果だった。
 二人が、自分の背後にある扉をひらく。その扉は、丘の傾斜面に直接とりつけられていた。
 扉の奥は、大森林の地下に広がる、やはり広大な洞窟に通じている。オベル王家の緊急施設は、この洞窟の一部を加工して作られていた。
 元が広大であるから、加工されたのが一部とはいえ、生活用の面積はかなり広い。二〇〇人の軍人と同数の民間人を収容してなお、スペースは余っている。
 男は迷うことなく岩石の廊下を進み、大きめの扉の前に立った。ノックをすると、落ち着いた男性の声が返ってくる。

「入ってくれ」

 中は、司令室である。本来は難を逃れた国王が指揮を執る部屋のため、内装は少々豪華であった。現在、指揮卓には、痩身で肌の白い男が座している。トリスタンである。

「ご苦労だった。街の様子はどうだった?」

 トリスタンに問われて、男は細かく報告した。無論、酒の場で商人達から聞いた内容も含められている。
 トリスタンは時折激しく咳き込みつつも、その話を聞き終えた。

「では、遺跡になにかあるかもしれぬ、というのだな」

「はい。ですが、話は噂の範疇を出ておりません」

「噂がな、ふむ……」

 トリスタンはしばらく考え込むように沈黙したが、その兵士を下がらせた。
 彼は、その噂が真実の端っこを捉えているのではないか、と思っている。
 彼がオベル王家に仕えるようになったのは群島解放戦争の後であるが、国王リノ・エン・クルデスが、何年か前に熱心に遺跡を掘り返したことがある、という話は耳にしたことがあった。
 ひょっとしたら、その話と今回の噂が繋がっているのではないか、と思ったのだ。
 だが、トリスタンは慎重な男だ。その噂が真実だとしても、今の自分達にどうにかできることではないことは知っている。
 機会あるまでは妄りに動かぬほうが良い。

 ラインバッハ二世が、市民の生活を不当に抑圧していないおかげで、市街にトリスタンが放った密偵は、島の外の様子もいくらか拾ってくることができている。
 だが残念ながら、それは今すぐ彼らの立場が有利にはならないことを知らせるのみだった。ラズリルに亡命したリノ・エン・クルデスが、オベル奪還のための直接行動に出るまでは、もう少し時間が必要だと思われた。
 また、脱出したジェレミーのその後もまったく知れない。  小規模のゲリラ活動を繰り返し、ラインバッハ二世に対して牙をむいてはいるが、トリスタンに残された軍事資源も兵力も限られている。
 トリスタンとしては、焦る部下と自分の心とを抑える毎日が続いていた。

 深夜、トリスタンは司令室にユウ医師を招いた。
 かつて解放戦争にも参加し、群島随一の医療技術を持つユウ医師は、トリスタンの勢力の中にあっても、人々の支えとなっている。
 潜伏後一月、やや長めに伸びた髪はいつもボサボサで、視線はやや厳しく、一目にはとても医師には見えないが、それは以前からのことで、脱出後の心労が特別にたたったわけではない。
 無論、いくらかのストレスはあるだろうが、それを人前で見せないのはさすがであった。
 そのユウ医師が、トリスタンの前に座っている。

「食糧や生活に必要な物資は、森林の豊かな資源を活用すれば、いくらでも解決は可能だ。
 もっとも懸念すべきは、やはり避難生活のストレスだな。
 この洞窟は広いが、以前とは異なる緊張感のある生活は、兵士はもちろん、市民の心を蝕んでいることは間違いない。
 それと、私の立場としては、やはり薬剤の不足が懸念される。いくらか持っては来たが、この大所帯だ。今のゲリラ活動よりも戦闘の規模が大きくなれば、すぐに尽きてしまうだろう」

「薬剤に関しては、街に放った密偵に購入させ、徐々に整えていけばよいとおもっています。
 しかし、生活面の機微は、申し訳ないが私にはわかりません。
 今後も先生に大きく頼ることになると思いますが……」

 ユウ医師は、トリスタンが不器用に淹れたコーヒーを、不味そうに飲むと、カップを置いた。

「どちらにしても、永遠にここにいるわけにはいかないよ。
 この付近を開拓して、新たな街でも建設するなら話は別だが、そうでないなら、兵士も市民も、いつかはあの王宮を望む街に帰りたがるだろう。
 郷愁とは、人間の最も強い感情の一つだ。こういう環境でそれを永遠に繋ぎとめるのは、どんな英雄にも不可能だ」

「………………」

 トリスタンは、深刻に考え込んだ。自分の能力を超える責務を負ってしまったのではないか、と思うこともあるが、投げ出してしまうわけにもいかない。
 マクスウェルは、無人島に自分の勢力を結集すると、勢力を永続させるつもりはないのに、そこに早々と住居用の施設を建築した。そうすることで、船上生活のストレスから部下達を守ろうとした。
 トリスタンはそのことを知らないが、彼は迷った。オベル王家がこの森林を開発しなかったのには理由がある。彼が独断でその理由を放棄し、この森を開発してよいものかどうか……。

 ユウ医師の助言を心に留めながらも、彼は意図して話題を変えた。

「先生、【彼女】はまだ、目覚めませんか」

 ユウの眉が少し動き、続いて医師は溜息を吐き出した。
 ユウの患者達の中で、ただ一人、無意識のまま連れ出された少女がいた。
 ジュエルという名のその少女は、開戦直前にユウの患者となって以降、現在まで、一度も意識を取り戻すことなく眠り続けている。

「残念ながら……その兆候はない」

「まったく可能性はない、と?」

「それは、私に断言できることではない。だが、彼女はまだ生きている。間違いなく……」


 そろそろ日付が変わる時間だが、ユウの診療室では、まだキャリーが寝ずに、ひとつのベッドの脇に座っている。
 さすがに疲れているのか、黄金のロングヘアーはやや崩れ、表情からもいつもの笑顔は消えていた。

 そのベッドには、白色の髪をした少女が寝かされている。ジュエル――幾度もマクスウェルの危機を救った少女が、全身包帯だらけの痛々しい姿で寝かされていた。
 白色の髪は半分ほど包帯で隠れ、浅黒い肌理きめ細やかな肌も、包帯が衣服の代わりとなっていた。

 キャリーはそのベッドの脇で、しばらくジュエルの寝顔を見ていたが、小さく溜息をついた。

「いつまで寝てるの、お寝坊さん。マクスウェルさんが心配してるよ。いつも彼を心配するのは、あなたの役目でしょ」

 話しかけても、ジュエルが応えることはない。それはわかっているが、キャリーは思う。
 いつかこの元気な少女は、ひょっこり起きだすに違いない。そして何事も無かったかのようにご飯をおかわりして、みんなを呆れさせるのだ……。

「もう……、マクスウェルさんにあれだけ心配してもらえるだけでも……うらやましいのに……」

 その寝顔を見つめたまま、キャリーは無意識に呟く。
 それに応えたわけではないだろうが、ジュエルの口が、わずかに動いた。
 慌ててキャリーが耳を寄せるが、なにかを言ったかまでは聞き取れなかった。

「夢を……見ているの?」

 しかし、もうジュエルの口は動かなかった。

8-10

 ほぼ同時刻、オベルから遠く離れた、まったく別の場所での出来事。
 彼――マクスウェルは、紫紺の夢の中にいる。
「罰の紋章」の忌まわしき記憶。そして、「罰の紋章」によって望まぬ最期を強制されてしまった人たちの後悔の世界。
 薄暗く不快な湿度のその空間の中に、彼は「また」閉じ込められていた。

 マクスウェルがこの紫紺の夢の中に導かれるのは、ラインバッハ二世とリノ・エン・クルデスの最初の衝突となった第二次オベル沖海戦のときから、しばらく途絶えていた。
 しかし、ここ数日は連夜のように、彼はここにいた。
 マクスウェルが以前から感じ始めていたことではあるが、「罰の紋章」の意志が、目に見えて強く動き出しているのだろう。さらに、「罰」の因縁のある「夜の紋章」が、ミツバの手によって「罰」の身近に持ってこられて「しまった」ことも、「罰」の活発化の要因の一つかもしれない。

 マクスウェルにとっては、あまり居心地の良い空間とは言えないが、罰の紋章の真意を少しでも知っておく必要もある。彼は可能な限り、落ち着いて状況を受け入れようとした。
 しかし、状況は以前とあまり変わらない。あの、金髪の少年。育ちのよさそうなあの少年が何度か現れたが、何かを伝える前に、彼は空間に崩れていく。
 そして、ヨーン。彼女は「あの時」、オベル沖開戦での「罰」の暴走のときに一度現れたのみで、それから姿をあらわしていない。
 その原因を、マクスウェルは彼なりに分析しているが、あまりに荒唐無稽な説であり、更に誰にも、マクスウェル本人にすら立証が不可能なので、今はまだ誰にも明かしていない。
 とにかく、現在にいたるまで大きな変化はなく、ただマクスウェルに小さな負担を強いるだけの空間となっていたのだが、今回は少し事情が違うようだった。

 まず、この空間の第一の違和感である「湿度」の高さが異常だった。
 物理的に汗をかくわけではないが、体内に妙な液体が湧き出るかのような、異様な感覚をマクスウェルに与えた。
 そして、これは彼の主観かもわからないが「暗い」。いつも薄暗い空間だが、今回はより色彩が薄れて、灰色に近い空間になってしまっている。
 まだ何も起こっていないのに、彼は両腕に鳥肌を立たせ、足を震わせながら、ゆっくりと前に進む。
 いつもの少年がそこにいるはずだ。コミュニケーションをとることができず、また彼は崩れ去ってしまうかもしれないが、今はとにかく、誰かの顔を見たかった。
 マクスウェルは進む。どのくらい進んだか、感覚はまったく役に立たない。とにかく、彼は進んだ。

 そして、誰かが「いた」。
 妙だった。この空間に存在する者は誰しも、最初は赤いおぼろげな球体の形で現れる。マクスウェルが近づくと、それは人の形となるのだ。
 だが、その「存在」は、違った。まだ少し距離があるが、遠めに見ても、それは明らかに人型をしている。
 強い不安を感じながら、マクスウェルはついに走り出した。その「人型」に、彼は見覚えがある。

(まさか。まさか……)

 いつの間にか、マクスウェルは全力で疾走していた。どのくらい走ったのか、それすらわからない。だが、とにかく走った。

(まさか……。まさか……っ!)

 ただ、嫌な予感だけが、マクスウェルを突き動かす。彼は走る。そして、ようやくその傍まで走りついた。
 その姿を見つめ、マクスウェルは足を、次に身体全体を震わせた。自分の顔面から血の気が引いていくのを、彼ははっきりと自覚した。
 白の髪と健康そうな褐色の肌を持つ少女が、目の前に立っていた。

「……ジュエル……どうして、君が……」

 身体の震えが止まらない。それが声にまで伝播した。
 最悪の想像。
 この空間は、「罰の紋章」に殺されてしまった人間しか現れない。それは、マクスウェル自身が経験則によって知っていた。
 だが、目の前にジュエルがいる。これはどういうことか。
 最悪の想像。
 だが、現在のジュエルがどういう状況であれ、この場に現れるのは、やはりおかしい。
 たとえ――想像するのも恐ろしいことだが――オベルですでにジュエルが亡くなっていたとしても、その死亡には「罰の紋章」はまったく関係ないはずだ。
 ジュエルはナ・ナルの暴動に絡む事件に巻き込まれて重傷を負ったのであり、そこに「罰の紋章」はまったく関わっていない。ジュエルがここにいる説明には繋がらない。

 だが、現在のマクスウェルにとってもっとも重要なことは、「なぜジュエルがここにいるのか」、その理由ではなく、この事実そのものである。
 マクスウェルは、身体を震わせたまま、一歩も動きことができない。声すら、身体から出ようとはしなかった。
 この空間に現れるほかの存在と同じように、ジュエルは一言も喋らない。だが、その表情は大きく違う。常に苦しげなほかの存在と異なり、ジュエルは、まるで探していた誰かに出会えたような、安心しきった表情をしていた。

「ジュエル……?」

 どうしてよいかわからず、しかしとりあえず言葉を紡いだマクスウェルに、ジュエルは、その優しい笑顔のまま、二度、頷いた。
 そして、まるで踊るような軽いステップで、凍りついたままのマクスウェルに対し、背を向けたのだ。

「……ジュエル……、ねえ、どこに……」

 震える声を、震える身体から吐き出すマクスウェルを、ジュエルは一度、肩越しに見つめた。 その表情は、先ほどの笑顔ではなかった。なんともいえない憂いを秘めた、少なくともマクスウェルが見たことのない、悲しげな表情だった。
 そして、ジュエルはゆっくりと、彼の前から立ち去ろうとする。
 マクスウェルは、震える身体を無理やり動かして、ようやく手を伸ばす。

「だめだ、ジュエル……行っちゃだめだ……俺は、君を助けに、君だけを……」

 しかし、彼の足は動かない。緊張感で動かないのではない。動きたがるその意思に反し、周囲の空気がまるで物理的に邪魔をしているかのように、彼を動けなくしてしまっていた。
 それでも、彼は、必死で手を伸ばす。しかし、その手の届かない先で、ジュエルの姿は徐々に小さくなっていく。
 マクスウェルは既に悲壮ともいえる叫び声をあげる。

「だめだよ、ジュエル……行くな……俺を一人に、もう、俺を一人にしないで……。
 ジュエル――――!」

 その瞬間だった。悲しみに弾けかけた彼の心の中に、明らかな別の存在の意志が流入してくる。
 悲しみ、苦しみ、恐怖――あらゆる負の感情、そして強烈な絶望感が、マクスウェルの心を支配していく。
 次の瞬間。彼の意識下、精神の裏側に、「何か」が「張り付いた」。そうとしか表現ができぬ異様な感覚だったが、マクスウェルははっきりと悟った。
 この「何か」が、「罰の紋章」の意志だ。「罰の紋章」が、彼と自分の意志を同化しようとしている。
 常人ならば数秒で発狂しそうなほどの精神の「きしみ」を、だが、マクスウェルは耐え切った。「罰の紋章」との相性もあるのだろう。「罰」がマクスウェルを操りやすいように、逆もまた真だった。
 マクスウェルは、先ほどまでの震えが嘘のように、しっかりと足で体重を支え、全身に力を込める。

「邪魔を、するなあ……ッッッ!」

 マクスウェルの巨大な一喝が、精神を浸食しかけた違和感を一掃した。
 身体を包む不快感は相変わらずだが、精神的には、彼は立ち直っていた。様々な理不尽に対する強烈な怒りが、彼を突き動かした。

「今はお前なんかの相手をしている暇はないんだ! 今は、ジュエルを……ッッ」

 ジュエルの姿は、とうに視界から消えている。
 だが、彼は諦めない。物理的に動かない身体を、無理にでも動かそうとする。全身の筋肉と関節が悲鳴をあげたが、いまはそれどころではない。
 マクスウェルは、ただただ、猛り続ける。

「放せ、放せ! お前の相手なんか、していられないって言ったろうが!
 この野郎! ジュエルになにか起きていたなら、今度こそお前を許さないぞ!
 魚に食わせるどころじゃない、「夜」にされるまでもなく、俺が自分でお前を破壊してやる!」

 そうとうに過激なことを口走りながら必死であがいたが、それも数秒だった。
 段々と気が遠くなり始めた。目覚める前兆だ。彼が、この空間からはじき出される前兆である。
 だが、彼は諦めない。なおも猛り狂う。

「ぐ、、ああッッ!》

 夢の中での精神の興奮が現実まで浸食した。
 真夜中に、マクスウェルは眠ったまま大声を上げたのだ。
 彼の居室の両隣の部屋でそれぞれ眠っていたポーラとタルが、真っ先に異変に気づいた。
 二人は飛び起きると、着の身着のままでマクスウェルの部屋の前で鉢合わせた。
 彼らのリーダーの部屋からは、この世の終わりのような叫び声が上がり続けている。
 ポーラが、必死で鍵のかかったままのドアを叩いた。

「マクスウェル、なにがあったんですか、マクスウェル!」

 しかし、その必死さは報われない。どれだけ叩いても、中からの反応は叫び声だけだ。
 ほぼ一分後、アカギとミズキが駆けつけた。ミズキは二人の姿を見ても何も言わず、すぐに扉の開錠にかかり、数秒で鍵は開いた。
 そのミズキを弾き飛ばす勢いで、ポーラが中に飛び込む。続いて三人が部屋に雪崩れこんだ。
 その寝室は、群島に名を知られた英雄のものとしては、簡素な部屋である。
 だが、その中で営まれている光景は、異様としか言えなかった。部屋の主が、右手で自分の咽喉元を、左手で毛布を掴んで、亡者の唸り声のような吐息を発してのたうって・・・・・いた。

「マクスウェル、マクスウェル!」

 鬼のような形相で呻き続けるマクスウェルを、ポーラは抱き起こし、涙声で何度も何度も揺さぶった。
 マクスウェルはポーラの胸の中で、異様な絶叫を上げた。

《あ、あ、あッッ!》

 それは、幾人もの男女の声が重なったものと、さらにマクスウェル本人の声が複雑に織り込まれた、聞くものを混乱させずにはおかぬ大音声だった。
 だが、この絶叫が最後だった。彼は一度、ポーラの腕の中で大きく痙攣すると、それまでの狂態が嘘のように、がっくりとポーラのなかに倒れこんだ。

「マクスウェル!」

 周囲がざわめいたが、それをかき消すポーラの泣き声が部屋に響く。今度はポーラがマクスウェルの絶叫を受け継いで、彼を抱きしめたまま、その名前を呼び続けた。
 誰も手出しができない中で、ポーラを諌めたのは、いつの間にやってきたのか、ジーンである。

「落ち着いて、大丈夫だから。彼は生きている。大丈夫よ」

 静かに言い聞かせて、ポーラをマクスウェルから引き剥がし、彼をベッドに横にさせた。
 ポーラはとても落ち着いてはいられなかったが、ジーンの声が、不思議とポーラを涙を止めた。
 優しい表情でポーラに頷き、ジーンは、横にしたマクスウェルのシャツを、丁寧にめくっていく。
 全員が、固唾を飲んで見守った。そして、全員の表情が凍りついた。
 マクスウェルの上半身。その左半分に、禍々しく巨大な、螺旋の黒い文様が、びっしりと刻まれている。
 マクスウェルは、刺青などはまったく入れていない。親しいタルもポーラも、彼のこの姿を見たのは初めてだった。
 ジーンが、呻くように呟いた。

「「罰の紋章」の「浸食」……、ここまで一気に……」

 その声に反応したのは、アカギだ。彼はジーンに詰め寄る。

「おい、こりゃどういうことだ。大将は今、どういう状態なんだ!?」

 胸倉をつかむ勢いで迫るアカギをかわし、ジーンはアカギに対した。

「これが、今の彼の状態よ。
 マクスウェルの身体、そして恐らく精神も、「罰の紋章」に深く浸食されつつある」

「「罰の紋章」の浸食……。じゃあ、この文様は……」

 ポーラが声を震わせた。興奮が収まらぬアカギが、声を張り上げる。

「ジーンさん、あんたは大将の紋章を、いつも診察ていたはずだな。「罰の紋章」がこうなってることは知ってたはずだよな。
 なぜ言わなかった! なぜ今まで黙っていた!?」

 アカギの興奮が全員に伝播した。マクスウェル以外、この状況をただ一人、理解しているはずの銀髪の女紋章師に、非難の視線が集中した。
 だが、氷の針を含んだ八つの視線を受けても、ジーンはたじろがなかった。わずかに身体の向きを変えただけで、その優雅さはまったく失われない。表情の冷静さも、消えない。

「あなたたちがこれを知る立場にいるとして、本人が他人・・に言い出さないことを、あなたたちは軽々しく口外できるのかしら?」

 逆にジーンに問われて、全員が顔を見合わせた。
「他人」どころか、ここにいる四人、アカギ、ミズキ、ポーラ、タルは、マクスウェルに最も親しく、最も信頼されている四人だ。
 それが全員、なにも聞かされていなかった。マクスウェルに、自身の命に関わる秘密を明かされていなかった。
 その理由は、容易に想像することができる。たぶん、「心配をかけたくない」とか、考えるのもばかばかしいシンプルな理由だ。
 だが、その理由のシンプルさゆえに、逆に四人にはもどかしかった。自分でなくてもいい、誰かを信頼して、相談をしてくれれば、全てを一人で背負い込むこともなかったろうに……。
 彼が何のために自分達を集めたのか、その意味すら分からなくなってくる。

「信頼してくれてるのはわかるんだけど、本人はなかなか本心を明かしてくれない」

 ポーラは、いつか温泉で聞いたアグネスの言葉を思い出していた。この言葉が、現状を全て言い表している。
 誰も言葉を出せないその時、弱々しい声が響いた。

「すまない、俺がジーンさんに口止めしていたんだ。アカギさん、悪いのは俺だ」

 全員の視線が、ベッドに向いた。
 マクスウェルが目を覚ましていた。彼はゆっくりとベッドに上半身を起こすと、めくられたシャツを戻し、顔を上げた。
 すぐさま、ポーラが彼の傍に寄る。

「マクスウェル、大丈夫ですか? どこか痛むところはありませんか?」

 必死の言葉に、マクスウェルはやさしく微笑んで、一言「ありがとう」と言った。
 そして、ジーンに視線を移す。周囲の誰にも、なにも言わせない意志の力が、その視線には込められていた。

「ジーンさん、ひとつ聞いておきたい」

「なにかしら」

「俺は、あとどのくらいの間、マクスウェルでいられる?」

 壮絶な質問だった。マクスウェルは淡々と言ったが、ジーン以外の全員が絶句した。
 ジーンは何かを落ち着かせるように深呼吸し、マクスウェルの表情と、周囲の四人に順に視線を滑らせる。
「本当に彼らの前で言っていいのか」と、確認をする視線だった。マクスウェルは、小さく頷く。
 一泊をおいて、ジーンは難しい表情をして、壮絶な回答をよこした。

「その状態で考えれば、長くて、あと一年」

「……一年、か」

 どういう心境か、マクスウェルの声は落ち着いている。感情があふれでたのはポーラだった。
 ポーラは何かを言おうと必死で口を動かしたが、まったく言葉にならなかった。
 そして、目から大粒の涙をこぼしながら、マクスウェルに抱きついた。どこかに行こうとしている家族を必死で抱きとめるように、彼の身体を放そうとしない。
 それは、ラズリル港のあの夜の、逆の光景だった。あの時は、マクスウェルのあふれ出る感情を、ポーラが全て受け止めた。今は、マクスウェルがポーラを受け止めている。
 ジーンが、言葉を続けた。

「だけど、あなたが完全に「罰の紋章」に飲み込まれるとは思えないわ。
 実際にさっき、あなたは「罰の紋章」を拒絶した。その融合を抑えることができた。
 完全な今現在の自我を保つのは難しいかもしれないけれど、あなたのなかから「マクスウェル」の部分が消えることは、おそらくあり得ない」

「そうだな、そうなることを祈るよ」

「他人事のように言わないで。あなた自身のことなんだから」

 軽く怒ったようなジーンにたしなめられて、マクスウェルの表情が反省に変わりかけたその瞬間、彼はそれ以上の強烈な怒りに触れた。
 タルが物凄い勢いで近寄ってくると、力ずくでマクスウェルからポーラを離し、

「歯ぁ、食いしばれ!」

 と、言った途端に、強烈に固めた右拳で、思い切りマクスウェルの顔面を殴りつけたのである。
 マクスウェルの顔が、勢いよく後方に弾けとび、身体ごとベッドの反対側にずり落ちた。
 そのマクスウェルの身体を、タルは腕力で持ち上げる。

「いいか、マクスウェル。許すのは一度だけだ。
 今度、こんな大事を黙っててみろ、「罰の紋章」がお前をどうにかする前に、俺がお前を許さないからな。よく覚えとけ!」

 マクスウェルが親友に殴られたのは、ケネスに続いて二度目である。
 マクスウェルは、タルににらみつけられながら、さすがに少ししょんぼりと落ち込んだ。
 そして、呟いた。

「わかったよ、タル……。すまなかった……」

「ふん、まあいいだろう」

 タルがその手をはなすと、マクスウェルの身体が再びベッドに投げ出される。
 すぐにポーラがその身体にしがみついて、今度こそ放さなかった。
 アカギが、ジーンに再び詰め寄った。先ほどのような手荒なことはしなかったが、表情は厳しい。

「おい、さっき言ってたことは本当なんだろうな。
 大将が「罰の紋章」に飲み込まれることはないんだな?」

「完全に飲み込まれることはない、ということよ。
 真の紋章の浸食を一〇〇パーセント防ぐことは、人間には不可能だわ」

「じゃあ、マクスウェルはどうなるんだ。これから、俺達にできることはないのか?」

 一人で四人分の苛立ちを背負っているかのようにタルが室内を歩き回り、吐き出すように言った。
 この場の状況に一番詳しいのがジーンである以上、全ての質問がジーンに集中する。
 しかし、ジーンは銀色の髪をかきあげ、困惑の表情を浮かべる。

「確実なことは言えない。過去に例がないわけではないだろうけど……。
 私にできることは、彼の【痛み】をある程度やわらげることくらいよ。あとは彼次第だわ」

「大事はない」

 ポーラに抱きつかれて困惑しながらも、マクスウェルが発言した。

「どのみち、俺はこの事件を最後に、表舞台から姿を消すつもりだった。
 どんな結果になるかは分からないが、長引いても事件が年を越すことはないだろう。
 一年もあれば充分だ。なんの問題もない」

 落ち着いて、というよりも、淡々としてマクスウェルは語る。
 不自然なほどのその自然体に、四人の表情から不安の要素が消えることはなかった。
 この落ち着きは、自分の最期を受け入れた者の諦念の極地か、それとも何かを悟った者の高度な哲学なのか。
「罰の紋章」を持たぬ者には、それ以上わからない。
 マクスウェルが続ける。

「このことは、時期を見て中心メンバーには打ち明ける。俺からみんなに頼むことは一点だけだ。
 俺が打ち明けるまでは、みんなから周囲には口外しないでほしい。特に、「夜の紋章」を持つミツバには黙っていてくれ。
 ミツバには悪いが、俺はこの事件を、オベル対ミドルポートの対決、という政治問題で終わらせたい。
 真の紋章がいくつも関わるようなおおごと・・・・にはしたくないんだ。悪いけど、頼むよ」

 マクスウェルがそう思っているのなら、四人にはそれ以上言えることはない。
 満足にも納得にも程遠い表情だが、四人は頷いた。
 ただ、ジーンが釘をさした。

「あなたには分かっているでしょうけれど、私が言った「一年」という期間は、あくまでそのときに何事もなかった、というのが前提よ。
 もしも「罰の紋章」の力を使いすぎれば、あなたと「罰の紋章」の融合はそれだけ早くなる。
 あなたと「罰の紋章」の相性の良さは、同時に「諸刃の剣」なのだ、ということは覚えておいて」

「分かってるよ、いやというほど。
 ……今晩はもう疲れたな。そろそろ、眠らせてくれないか」

 マクスウェルが、大きく溜息をついた。疲労の色が濃いのは確かなようだ。
 タルは、無言のまま彼の傍を離れようとしないポーラに、彼の意思に従うように言った。

「わかった、無理はするな、マクスウェル。近くにいるからな、なにかあったらすぐに声をかけろよ」

「ありがとう、タル。頼りにしてるよ、みんな。……本当にね」

「そう思ってるんだったら、みずくさい隠し事なんかするな、バカ」

 アカギが低い声で言った。アカギは本気で怒っていたが、その夜は素直に彼の意思に従った。
 それぞれの表情で、五人は彼の部屋から退出した。
 マクスウェルはもう一度、大きく溜息をついた。

「一年、か。俺が人間でなくなったら、君は許してくれないだろうな。スノウ……」

 ジュエルのことは、意図的に考えないようにした。巨大すぎる不安に、今の自分が耐えられるとは思えなかった。


 ジーンは、マクスウェルの部屋を出てから、闇の中を少し歩いた。
 彼女の部屋とは方向が反対だ。ジーンは迷わず歩を進め、森を抜けて小高い丘の上に出た。
 前方には、切立った崖を挟んで、夜の海が視界一杯に広がっていた。

「………………」

 しばらく何かを待つように無言で立っていたが、その沈黙は長い時間は続かなかった。
 ジーンの後背の空間が歪む。わずかに空気が振動する。ジーンが振り向くと、そこに巨人が「浮いていた」。
 怪物のような風体をし、背はジーンの倍もある。目は闇の中、怪しく白く光を放っている。
 霧の船の導師――。

 導師が、骨に響くような低音バスの声を発した。

【あと一年、か。果たして、あの少年がそれまで自我を保っていられるかな?
「八房」……自らの原罪を求める「罰」の意志は、並みではないぞ】

「保たせてみせるわ、必ず」

 この女性にしては珍しく、ジーンが確固たる意志で応えた。
 常にマクスウェルやキリルのサポートに徹してきたジーンが、ここまで彼らの意思に関わるのは珍しい。

【なるほど、「バランスの執行者」の代役というわけか。ヤツは今、ソルファレナから動けまいしな。
 しかし、貴様にそれが適役かな。自らの「運命さだめ」からあまりに外れるは、危険極まるぞ。理解できぬ貴様ではあるまいが】

「わかっているわ。でも、真の紋章に関わるのだもの。それくらいは覚悟のうえよ。
 それよりも、あなたはどうするのかしら、導師?」

【どうする、とは?】

「いまなら、マクスウェルは弱っている。「罰」の力も全ては引き出せないでしょう。
 紋章を奪うのなら、いまが好機だと思うのだけど?」

【いや、まだだ】

 ごう、と、導師の周囲の空間のゆがみが大きくなる。一陣の風が吹きぬけた。

【まだ早い。まだ、彼は弱る。我は二度、同じ轍は踏まぬ。
 じっくりと、そのときを待つことにしよう】

 豪放な笑いを残して、再び空間が歪む。導師は、虚空に消え去った。
 残されたジーンが、潮風に身をゆだねながら、髪をかきあげた。

「残念ね、導師。「その時」は来させないわよ。幾ら待ってもね」

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(初:11.6.17)