湿度の高い地下から地上に戻り、太陽の光をあびて、ラインバッハ二世は人心地がついたように汗を拭いた。
近年、肥満の傾向が目立つ彼にとっては、地下の高い湿度は、常人よりも高い不快指数を示すようだ。大きな腹を揺らして不機嫌そうになにかを呟いていたが、やがてそれも終わりを告げた。
王宮の玉座の間に帰還した彼は、玉座の脇に一人の珍客が待っているのを見つけたのである。
以前のロウセンの侵入事件以降、警備がさらに厳重になったはずの領主の近辺に、誰に気付かれることもなく入り込んでいた侵入者に、彼の傍にいた二人の兵士は一瞬にして緊張の水位を上げたが、それをラインバッハ二世はなだめ、さらに驚くべきことを言った。
「私の客だ、心配はない。それより、彼女と二人で話がしたい。お前たちはしばし退出せよ」
二人の兵士は、困惑と疑問とに表情を二分したが、領主の命令には従わねばならない。納得には程遠い態度で、彼等は領主の前から退いた。
珍客が言った。
「ずいぶんと無警戒じゃないか。あたしをそこまで信用していいのかい?」
「お前は、私と同類だからな。今はそれで充分だ」
「……褒められてる気がしないね」
その珍客は、呆れて肩をすくめて見せた。
長身の女性だ。その身体にフィットした動きやすい衣装に身を包み、濃いブラウンの髪を揺らしている。
激しすぎる意志の強さが、切れ長の目元にはっきりと現れていた。
ラインバッハ二世は無表情に続けた。
「それにしても、お前が私の依頼を受けるとはな。さすがに少し驚いたぞ。
お前の同胞がオベル側についていることは知っている。迷いもなにもないのか」
「さっき、あんたが言ったばかりだろ。あたしはあんたと同類さ。
あたしが信じるのは金だけだ。依頼者のイデオロギーなんか、知ったこっちゃないね。
その時その時で、あたしに一番高い値をつけた者の依頼を受けるだけさ。あんたは違うのかい?」
「いや」
この女性の前にして、初めてラインバッハ二世は表情を崩した。
「私は契約にのみ信頼を置き、契約書にのみ宣誓し、結果のみを評価する。人間など信じる必要もない。
よかろう、お前との契約を信頼することにするが、先方の依頼とは重なってはいないのだな?」
「さあ、どうだかね。例え受けていたとしても、あたしは他の依頼者の情報は漏らさないよ」
「……まあよかろう。仕事さえこなしてくれれば、私はかまわん」
納得して、ラインバッハ二世は一枚の紙切れを、その女性に渡した。
「依頼内容は口頭では説明しない。そこに書いてあることのみに専念すればよい」
その紙片を見た瞬間に、女性の表情が不敵に変化した。
(なるほど、こりゃ噂どおりの悪人だ。……あたしが人のことをいえた義理ではないが)
「私の依頼はその一事だけだ。無用な詮索は許さぬ。その代わり、報酬は充分なはずだが」
「ああ、こんな金額は初めて見た。前金二五〇万、達成報酬七五〇万とはね」
この群島では、よほど神がかり的な贅沢を望まなければ、十万ポッチもあれば、一家族が一年間は遊んで暮らすことができる。
合計一〇〇〇万ポッチという金額は、この手の特殊な依頼に対する報奨としても、おそらく前例があるまい。
「あんた、群島の騒ぎをここまで大きくするだけで、けっこう金をばら撒いてるんじゃないのかい。
それで、よくもまあ、こんな金が残ってるもんだね」
少し怪訝な顔をしたその女性――ケイトは、すぐに無表情に戻った。
実は、ラインバッハ二世は二ヶ月ほど前にマクスウェルの首に同額の賞金を賭け、ナ・ナルの独立派を扇動している。
ケイトに提示した報酬は、実はその賞金を当てたものだ。「真の紋章」を持つマクスウェルの暗殺という、望みの薄い成功に大金を温存させておくくらいなら、まだ成功の可能性の高いほうに資金を投入するのが、投資の基本である。
「ま、いいさ。あたしはクライアントを満足させるだけだ。その代わり……」
ラインバッハ二世を、ケイトは厳しい視線で貫いた。
「誰であれ、あたしは裏切り者は許さない。それだけは覚えておくことだ」
「お互いにな」
「ふん」
片頬を吊り上げて笑みを浮かべると、次の瞬間、その場からケイトの姿は消えていた。
ラインバッハ二世は下がらせていた部下を呼び込むと、さらに別の来客の存在を告げられた。技師であるという。
続けざまの来客だが、これもさきほどのケイトと同じように、ラインバッハ二世が自ら召集をかけた客であった。
ラインバッハ二世の前に現れたのは、白衣を着た中背で中年の男性である。やや疲れた表情をしていたが、それは生来のものだった。
「よく我が誘いに応じてくれたな、マニュ君」
「はい……」
緊張しているのか、マニュは何度も汗をぬぐっている。もともと誠実ではあるが小心な男で、このような緊張感を強いられる面談は好きではなかった。
これが顔見知りでやはり技師のオレーグであれば、嬉々として応じたであろうが、技師にも色々なタイプがいるのだった。
「そ、それで今日は、私になんの御用でしょうか?」
マニュの緊張を察してか、ラインバッハ二世は心持ち表情を和らげた。もちろん、それが本心からの表情であるという保障は、彼はしない。
「技術家を呼んだのだ、君の技術の話に決まっている。君の技術を買いたいのだ」
「私の技術……?」
「そうだ。君のその腕と、君の発明した「えれべーたー」の技術を買いたいと言っているのだ」
マニュの眉間に、小さなしわが走る。緊張の表情に、少しずつ興味の波が揺れ始めた。
マニュは腕のいい技師だが、それだけでは群島の歴史には名は残らない。腕の良いだけの技師なら、一つの町に何人でもいる。
マニュがその名を歴史に残したのは、技師だけではなく、発明家としての一面もあったからだ。
彼が遺した最大の発明は、「えれべーたー」という移動機械である。大きな箱上の物体に六〜七人の人間を乗せ、自由自在に上下に移動する。
その便利さと有効さは、群島解放戦争のとき、解放軍の旗艦オセアニセス号に設置されたことで証明された。階段を使った煩雑な人間と物資の移動を一気に簡略化・効率化したことで、彼は歴史にその名を残す権利を得たのである。
こうして、発明家としてのマニュは歴史には名を残したが、一方で技師としての彼は、長く不遇だった。
群島開放戦争後、彼の自慢の発明である「えれべーたー」が、なかなか売れない。便利な機械ではあるが、その代償に、設置するには一定の空間が必要だったし、その構造や移動の理論は複雑すぎて、もはや開発者であるマニュにしか理解できない代物だったからである。
マニュの持参した設計図や仕様書を読んだガイエン公国のある商人は、「知らない国の預言書のほうが、まだ理解できそうな気がする」と言って、その図をマニュに叩き返した。
ところが、目の前の領主は、そんなマニュの発明に一定の理解を示した。これは、マニュが望んでなかなか得られなかった反応だった。
「君の仕様書には目を通した。いくつか質問したい点はあるが、理論と構造は理解したつもりだ。
まったくすばらしい発明だよ、なぜこれが普及しないのか、私には不思議でならない」
マニュは、少し沈黙して目前の領主を眺めた。嬉しいのは嬉しいが、いきなりその褒め言葉のすべてを信頼できるほど、かれは若くない。
「あの技術は、複雑で繊細すぎるのです。設置も調整も整備も、私にしかできないうえに、安いわけでもありません。
その点がわずらわしさを与えているのでしょう」
「なるほど、人は自分の理解力をあまりに超えるものには、否定的な反応を示すものだ。
君の存在は、まだ歴史に速すぎたのかもしれないな」
「………………」
「しかし、私は違うぞ。正当な発明には正当な対価を支払い、それをとことん使い尽くす。
マニュよ、私に力を貸せ。私の元でその力を出せ。私なら君の発明を、有効に使い尽くすことができる」
マニュは、ラインバッハ二世を凝視している。その本心を探ろうとしているように、ラインバッハ二世には見えた。
ラインバッハ二世は、マニュが自分の要請を断るとは思っていなかった。
技術家にとって、自分の技術が生かされない生活にはなんの意味もない。マニュのような特殊な技術を扱う技師にこそ、その傾向は顕著だろう。
だから、その生活を一変させてやる。彼の生活を歓喜に満ちたものに変えてやろうというのだ。生粋の技術家であればあるほど、断る理由がなくなる。
……よほど、自分のことが嫌われているのでもないかぎりは。
「無論、これは君と私との【契約】だ。私は契約には嘘はつかぬが、君が契約書に何を書こうが、それは君の自由だ。
この契約に関するかぎり、選択の自由は君にある」
「……この王宮に「えれべーたー」を設置するのですか?」
「「えれべーたー」を設置してほしいのはオベル遺跡だ。だが、契約上の詳細はまだ話せぬ。
これは契約を結んだ者にだけ話せばよいことで、私たちの個人的な感情とは別の話だ」
「………………」
「私が君に期待する回答は、二つだけだ。
拒むつもりなら、私はそれでもいっこうにかまわぬ。君に代わる発明家を探すだけのことだからな。そんな者がいるのかどうかは分からないがね」
考える時間を与えるつもりも、曖昧な回答を許すつもりもないということか。
マニュは理解した。ラインバッハ二世は当然、自分の現状についてもよく調査はしているのだろう。この契約を受けなければ、マニュの生活は破綻の直前である、ということも。
結局、マニュはラインバッハ二世の契約に応じた。
発注されたのは、オベル遺跡に設置する「えれべーたー」を五基。これは、マニュが当初考えていた仕事量の八年分にあたる。
さらに興味深いのは、「現在の(縦に動く)えれべーたーの技術を応用して、「横に動くえれべーたー」の技術を早期に開発すること」という一項だった。無論、そのための支援はラインバッハ二世が行う。
そして、この契約の間はラインバッハ二世の専属として、オベルに居住すること。
(何に使うのか知らないが、難しいことではないな)
ラインバッハ二世の真意はともかく、マニュの心は躍る。技術家としての本領を、久しぶりに発揮することができそうだった。
ラインバッハ二世との心のこもらぬ朝食を終えたあと、クレイは自らのオフィスとしている港に近い施設に赴いた。
ラインバッハ二世は小高い山頂にある王宮に活動拠点を置いたが、クレイはそこに落ち着こうとはせず、この立地の距離の差が、そのまま二人の心の距離の差である、と見る者もいる。
二人が四六時中行動をともにしないのは、実務的な意味がないわけではない。
想定外のトラブルによって、二人が同時に倒れることを防ぐためだ。クレイかラインバッハ二世、どちらかが残っていれば、残ったほうが倒れたほうの目的を受け継ぐことができる。
無論、残ったほうが倒れたほうを心から悼むかどうかは別の問題であるし、別々の責務を担っている関係上、同時に行動するような時間的な余裕があったわけでもないが。
クレイは午前中にいくつかの報告を受け、書類を決済し、現場の作業の状況を自らの足で視察した。
クレイへの好悪の反応はともかく、彼の仕事ぶりを公然と非難できる者はいなかった。クレイ自身、非難の口実を外部に見せることもなかった。
逆に「そこが可愛げがない」という非難――というより悪口――もあったが、クレイは自分が人に好かれるような人間でないことを、自分でよく理解していたようで、そのことについて口にしたことはない。
クレイが次々と出す指令を受けた兵士が敬礼して去っていくなか、それと入れ替わるように、クレイの前に一人の偉丈夫が現れた。
鉄灰色の髪とあざ黒い肌、いかつく四角い顎を持つ、長身の中年男性である。
ラインバッハ二世に味方している旧クールーク勢力のトップ、ヤンセン提督であった。
彼は先のオベル・ラズリル連合海軍との決戦においてミドルポート艦隊の指揮を執り、かろうじて敗れはしなかったものの、頭に血を上らせて無残な結果を残した。
激怒したラインバッハ二世は、ヤンセンを更迭しようとした。これはクレイの助言によって思いとどまったが、結局は、戦死者の喪が明けるまで現職のまま謹慎、という処分となり、事実上の更迭とかわりない状況にあった。
そして今日、あらためて許され、更迭を解かれて現場に復帰したのである。
ヤンセンとしては喜んでもいい状況のはずであったが、彼は不機嫌であった。自分の敗北にも納得していなかったし、自分の復帰をもっとも後押したのがグレアム・クレイだった、という事実も不愉快であった。
ヤンセンは、朝から不機嫌な顔をしていたが、クレイを見ると、不機嫌の度合いを百倍にしてそれを隠そうともしなかった。
あからさまな舌打ちを抑えただけ、まだ気を利かせたのかもしれない。
クレイは彼を見ると、事務的な表情で頭を下げ、機械的な動作で握手を求めた。ヤンセンはそれに応じなかった。
「これはヤンセン提督、あらためての復帰、おめでとうございます」
「いたみいる」
きわめて心のこもらぬ言葉の応酬は、にらみつけるようなヤンセンの視線でさらに鋭くなっていた。
ヤンセンが、少し大きな声で問う。
「クレイ、あんたが俺の復帰を後押ししてくれたことは聞いている。
一応、マナーだから礼は言っておくが、だからと言って、俺に貸しを作ったと思うな。
俺がこんな田舎まで来たのは
「ご随意に」
動じないクレイが面白くなかったのか、彼の真意が読めなかったのか、ヤンセンは今度こそ舌打ちをすると、不機嫌な足取りで、大またで去っていった。
クレイがオフィスに戻ると、そこに一人の男が待っていた。
彼を待っていたのは、先ほどのヤンセンとは雰囲気が異なる男だった。
鋼鉄の塊のようなヤンセンの剛毅さではなく、スマートで俊敏そうな長身と、やや長めの黒い髪を持っている。
しかしクレイは、その男がかなり闇に近い空気を纏っていることを感じ取ることができた。
槍でも入っているのだろうか、背中にやけに細く長いバッグを提げている。
その男は、腕を組んで壁に背を預けて座ろうとはせず、クレイも無理に席を勧めようとはしない。
それどころかそのまま自らの仕事机に向かい、まるで男がその場に存在していないかのように、黙々と書類に目を通す。
黒髪の男も、言葉を投げかけることもなく、不自然な沈黙が室内を支配した。その沈黙に比例するように、室内の緊張感は一秒ごとに増していく。
耐性のない人間ならば、いつ逃げ出してもおかしくない沈黙と緊張。だが、その原因となっている二人の男は、視線を交わすこともせず、表情も変えようとしない。
クレイが書類をめくる音だけが、しばらく室内に響いた。
十五分。ようやく、男が口を開いた。
「……ヒクサク様は、軽々しく御名を使われることを好まぬ……」
その一言を発した後、また男は口を閉ざした。
クレイは、その言葉の意味を理解していたが、即座に反応はしなかった。
さらに数枚の書類に目を通し、ペンを走らせ、書類をめくる。
その動作を続けながら、たっぷり間をおいて、クレイも口を開く。
「ファレナ貴族を釣り上げることに、ヒクサク様のお名前を借りたことですか。
ハルモニアの禄を食むものとして、軽率な行動だと仰りたいのですかな」
クレイはようやく手を休め、椅子に体重を預けながら、初めて男に視線を固定させた。
男は顔を下げて表情を隠し、クレイの顔には不実の笑みが浮かんでいる。表情から本心をさぐることは困難だった。
「お言葉ですが、今回の件に関しては、私はヒクサク様に自由な裁量を与えられている。
そのことは、「組合」の長老たちも承知のうえのことだと思っていましたが?」
「……………………」
男はすぐには答えない。慎重な性格であるのか、無口なのか。
それとも、言質をとられぬように言葉を選んでいるのか。
「……誰も彼もが、貴様の甘言を信じていると思わないことだ。
貴様の行動が、少しでもハルモニアにあだなす時は……」
「そのご自慢の得物で、私を射殺いたしますか?
ナ・ナル島の若者を射殺したときのように……」
「……………………」
男の殺気が、瞬間的に増大したのを悟って、クレイが言葉を濁した。
「冗談です。あれは私が依頼したこと。
あなたは常に自らと「組合」の使命に忠実なだけ……」
再び室内を沈黙が支配する。
春から夏にかけての陽気は、二人の関係性まで暖かくするものではなかった。
クレイの言う「組合」とは、ハルモニアの特殊ギルド「吠え猛る声の組合」のことだ。
ハルモニアの対外政策における特殊工作を一手に担いながら、神官長ヒクサクの直轄機関というわけでもなく、ヒクサクに対しては、常に一定の距離を置いている。
もっとも、その徹底した秘密主義のゆえか、外部の人間からは「ハルモニアの犬」などと、誤解に基づいて揶揄されることも少なくない。
その組合は、この黒髪の男と、そしてクレイの現在の母体でもあった。
数分の沈黙の後、今度はクレイが言った。
「「吠え猛る声の組合」は、ヒクサク様の直轄組織ではなく、政治的には完全な独立性を保っていると聞きました。
ハルモニア政府の要請に応じて協力することはあっても、それは組合がハルモニアの手先であることを意味しない、ともね」
「……なにが言いたい」
男の声色は、会話が進むごとに低くなっていく。
ただでさえ少ない言葉が、凄みを増しているようにも思えたが、クレイは意に介した様子もない。
「しかし、その組合の中にあって、あなたの存在は異質です。
ヒクサク様への一途な忠誠を持つ者が、組合に皆無というわけではないが、あなたの忠誠心は跳びぬけている。
私は興味があるのですよ。あなたがなぜ神官将の道を自ら閉ざし、あえてこの組合を選んだのか。その理由にね」
クレイはわざとらしく顎に手をあてて、黒髪の男の様子を観察する。
男は腕を組んだまま、顔をわずかに下げた。髪が目元を覆い、その表情をさらに読みにくくする。
「……まさか、貴様から異質などと言われるとはな……」
「不本意ですかな?」
クレイが問う。
男は何も答えないまま、クレイの執務室を出て行ってしまった。
それまでの剣呑な空気が嘘のように、春と夏の間の陽気が室内を満たした。
「言いたいことは言った、というわけですか。それにしても……」
クレイは思わず肩をすくめてしまう。
「ヤンセン提督といい、私も嫌われたものだ」
そうして、クレイは書類の整理を再開した。
ラインバッハ二世はオベル本島を占拠したのちも、オベル市民の生活に大きな変化は出ていない。
オベルの新たな主として王宮に君臨するラインバッハ二世が、市民、特に商人に出したメッセージは二つだけだ。
1、誰に対しても、不当に商品の価格を上げないこと。
2、同じく、不当な理由で不売行為を行わないこと。
「誰に対しても」という言葉の対象が、ラインバッハ二世の一派であることは明らかであろう。
売買の平等。当然のことを言っているようでもあるが、一部の商人は、やはり眉を潜めた。
「てめえが強盗よろしくオベルを強奪したくせに、俺達には平等に商売しろ、だとよ。
いつの世も、強盗の理屈はわがままだ」
彼らが大声で喚かないのは、市街のあちこちにミドルポートの軍装をした兵士が立っているからである。
無論、オベルの支配者が代わる前も兵士はあちこちに立ってはいたが、それは純粋に市民を守るための行動だった。
ミドルポート兵も、第一には市民を守るために配置されているのだが、市民を監視することも、同じくらい重要な役割だった。
商人達が面白くない理由は、もう一つある。
ラインバッハ二世がオベルを支配して以降、エックス商会という、それまで聞いたこともない商人達がオベルで活動を始めたのだ。
それも小規模な活動ではない。彼らは様々な商品を、常に大量に購入していくのである。
恐らく、それをオベル国外で売りさばき、かなりの利益を得ているであろう。
このエックス商会が、ラインバッハ二世資本の商会であることは誰の目にも明らかであったが、だからといって生活のために取引をしないわけにはいかない。意図的に相手を選ぶ不平等な取引は、ラインバッハ二世によって強く禁止されている。
そうするとどうしても、他の商人よりも高値をつけるエックス商会に、商品を卸さざるを得ない状況になるのだ。
皮肉なことだが、このエックス商会の大規模な商業活動によって、オベルの地元商人の売り上げは、むしろ開戦前よりも一割ほど増えていた。
自分達の利益が増えるのを純粋に喜ぶ商人もいたが、皮肉に頬を吊り上げる者もいた。エックス商会が儲かっているということは、つまりラインバッハ二世の懐も潤っているということだ。
「無法な侵略者を自ら養って、喜んでいられるか」ということであった。
五月二十日。その夜も、四人の商人が宿の酒場にあつまり、あまり麗しくない愚痴で盛り上がっている。
気に入らないものへの文句とか愚痴が酒の肴になるのは、恐らく千年前も、そして千年後も変わらないだろう。
四人はかなり杯を重ねていたが、まだまだ飲み足りない様子で、ウェイトレスに酒の追加を要求した。
そこに、ふらりと五人目の男が参加した。彼ら四人の見知らぬ男だったが、共通の話題さえあれば誰でも仲間になれるのが、酒の席のいいところである。
「やあ、景気はどうだね、兄さん方。文句が進んでいるようだが、商売で失敗でもされたか?」
「ありがたい新参の御領主様のおかげで、儲けさせてもらってるがね。
だが、俺達のおかみは、やっぱりリノ国王さ。いまの領主は、なにからなにまで細かすぎる。
細けえことを気にしなくてよかったリノ国王の御世が懐かしいぜ」
「そうさな、エックス商会との取引はデカくていいが、奴らはいちいち、細かいことに注文をつけすぎる。
これが大陸のやりかただと奴らはいってるが、なにが大陸だ、ミドルポートのやりかたじゃあねえか」
五人目の男は、興味深そうに頷いた。
「へえ、俺も儲けさせてもらったが、奴らはミドルポートの商人なのかい。聞いたことないけどな」
「いや、奴らはもともとクールークの貴族資本さ。
戦争のあとに、群島のごたごたに乗じて勢力を伸ばしてきたんだがな、肝心のクールークが潰れちまって後ろ盾がなくなった上に、群島じゃチープーの奴に見事にやられて、事実上壊滅してた」
「それが、また最近は景気がいいのはどうしてだい。クールークは潰れちまって、有力貴族は商売どころじゃないだろ」
「それがだ。ラインバッハ二世がその死に体の商会を買い取ったんだと。
で、商会を隠れ蓑にして、占領地の商売を仕切ってるってのがもっぱらの噂だぜ」
「ラインバッハ二世といやあ……」
最も恰幅の良い商人が、酒で真っ赤になった顔を少ししかめた。
立派な口ひげが揺れる。
「あのおっさん、最近、反抗的なオベル兵を捕まえて、けっこうエグいことやってるって話だぜ?」
その商人の話は、こうである。
ラインバッハ二世は反抗的なオベル兵を捕らえ、数々の拷問を行っている、というのだ。
その内容は凄惨そのもので、殴る蹴るの暴行はもちろん、生爪を剥ぎ取る、目隠しをして肌にナイフを突き刺す、水死直前まで顔を水につける、あり得ない方向に身体をねじるなどの拷問が、兵士が死ぬ直前まで行われるという。
だが、話はそこで終わらない。これらの拷問を受けた兵士には、その後にまったく異なる環境が与えられる。
豪華な治療室が与えられ、傷ついた兵士が望むものは何でも与えられる。もちろん、治療も最高レベルのものが与えられ、医師はどこまでも兵士に同情してくれた。
最初は強く意識を保って口を閉じたままの兵士も、最悪の拷問と最高の治療が繰り返されるうちに、否応なく精神が狂う。自分を治療してくれる医師が神様のように思えて、精神の堤防に徐々に穴が開く。
そして、自分が贅沢に治療されている最中に、「今日は誰それが、眼球に針を突き刺されて死んだ」「明日は誰それが、殴り殺されるだろう」と延々と聞かされ続けると、ついに兵士の精神は壊れる。
自分は死にたくない、もう拷問は受けたくない、という恐怖への逃避から、医師に対して何もかもを喋ってしまうのだ……。
「しかし、そこまでやってラインバッハ二世は何が知りたいんだ?」
恰幅のよい商人が、やや大きめの鼻を指でこすった。
「さあなあ。でも、ラインバッハ二世の部下たちが、しきりにオベル遺跡に出入りしているらしいから、そこになにかあるんじゃねえのか」
「ふーん。ま、俺にゃあ関係のない話だね。
ラインバッハ二世にいうことがあるとしたら、もうちょっとエックス商会に、オベルの商売の風習を叩き込めという程度か」
五人目の男は、二杯目のジョッキをぐっとあおってエール酒を胃に流し込むと、テーブルにかなりの額のコインを投げ出した。
「今日はちょっと儲けさせてもらったんでね、この場は俺のおごりだ。
俺は明日も早いから抜けさせてもらうが、みんなは好きにやってくれ」
「お、いいのか兄弟、俺達は遠慮はしねえぜ?」
「同じオベル人じゃあねえか、遠慮なんていらねえよ。
しかし、そのコインで飲める酒量で終わっとかないと、明日はきついぜ?」
「なに言ってやがる、俺達は底なしよ」
商人達が景気よく笑うのを見ながら、男はその宿を、酒にふらつく足で後にした。
宿を出てしばらくはふらふらと歩いていたが、男は周囲に人影がないことを確認すると、急に確かな足取りでスピードを上げ、街の外れへと足を向けた。
(初:11.6.10/前半部分)
(初:10.03.05/中部分)
(初:11.06.16/後半部分)