グレアム・クレイという男が初めて歴史にその姿を現したのは、意外に早い。
今から二十五年ほど前、十代後半か二十歳前後の時には、すでに赤月帝国の軍事部門で辣腕を振るっていたエレノアの副官の一人として、その名が登場している。
当時から寡黙な青年ではあったが頭脳は優秀だった。
特に少ない情報から真相にたどり着く異常な嗅覚は、エレノアに重宝されていた。
寡黙とはいっても、現在のように人間味まで見せないほどのものではなく、まだ充分に普通の人間の範疇に入るもので、少ないものの親友と呼べる人間も存在したようである。
クレイも、エレノアの非情とも言えるほどの行動力と決断力には敬意を示していたようで、この組み合わせは、さしあたって誰も不幸にはしていなかった。
エレノアの元で軍人として歩き出したクレイだったが、ある日、この若者の名を帝国の中央に知らしめる事件が発生した。
赤月帝国では新年度の始めに首都グレッグミンスターにおいて、ルーグナー家の皇帝陛下と主だった皇族、そして重臣たちが一堂に会し、食事会を開く慣習がある。
招待客を含めて五百人ほどが参加する大規模なもので、軍事部門のトップ、つまり赤月帝国の臣下の首座に位置するエレノア・シルバーバーグも、当然、最も皇帝に近い場所に席を与えられ、会食することになっていた。
だが偶然が重なった。エレノアは前年の末からクールークとの国境で発生していた紛争の解決のために戦地に赴いたままで、新年の会食には間にあわなかった。
そこで、別の任務を終えて首都に帰還していた、まだ若いグレアム・クレイが、エレノアの代理として参加することになっていた。
ここに、一人の奇人が登場する。
ブラニガン公クルガリス。当時の赤月帝国では、最もうらやむべき立場にいた人物である。
ブラニガン公は皇族であり、皇帝の従兄弟にあたるが、当時の皇帝には兄弟や子供が多くいたため、皇位継承権は八位と低かった。
そのため、皇帝一家が事故で全滅する、などの奇跡的な偶然でも起こらぬ限り、公爵が皇帝の地位に就く可能性は限りなくゼロに近いと思われていた。
政治に関わる機会はほとんどなく、軍事や経済にもさして才能があるわけでもない。
それでいて、皇族であるからそれなりに敬意は払ってもらえるし、食うに困ることもない。
彼は通ぶった趣味人として、四十代の半ばにさしかかるまで、宮廷で大して上手くもない詩を、好きなだけ書き散らす生活を送ることができたのである。
薬にはならないが毒にもならない常識人で、それなりに人望のあったブラニガン公であったが、たった一つだけ、致命的な欠陥があった。
極めて酒癖が悪いのだ。
普段は人格者だが、酒を飲むと豹変した。誰彼かまわず当り散らし、周囲が白けるまで誰かをこき下ろした。
しかもトドメをさすまで口撃を止めないものだから、彼が成人する頃には既に、彼と個人的に酒席を共にしようなどと言う物好きはいなくなってしまっていた。
このブラニガン公の酒乱癖には、皇帝も頭を痛めていたが、より困っていたのは、帝国の儀式を司る文官たちである。
新年の席には酒は欠かせぬものであるが、酒乱がいるとわかりきっている席で、誰が素直に酒を楽しめるだろう?
しかし、まさか皇帝の従兄弟に当たる人物を新年の席に呼ばぬわけにはいかぬ。
ブラニガン公一人にだけ酒を振舞わない、というやりかたも不自然極まりないし、彼の扱い方、あしらい方は、当時の宮廷の最大の難事の一つであった。
そして、この新年の食事会は、その懸念が最悪のかたちで実現してしまったのである。
周囲が止めるのも聞かずにハイペースで酒を嗜んでいた公爵閣下は、立ち上がると、やおらにある女性の悪口を言い始めた。
「この麗しき酒の場に、あのは、大変喜ばしいことである。
もう三十も過ぎるというのに、結婚もせず、子をつくることもせず、女の身でありながら人殺しの研究ばかりをしておるがゆえに、顔まで剣呑な作りになってきおる。
いったい、何が楽しみで生きておるのやら」
公爵は賢明にも実名を挙げることは避けたが、それがこの場にいない重臣、エレノア・シルバーバーグのことであることは、誰が聞いても明らかだった。
その場にいた関係者全員が、胃と神経とに霜をはびこらせた。
この当時、宮廷におけるエレノアの発言力は既に動かしがたいものになっており、誰も正面を切ってエレノアを批判しようなどと思いもしなかったが、公爵の発言はそれどころの騒ぎではない。
批判などというレベルではなく、エレノアの職務から人間性にいたるまで、正面から全否定してのけたのである。
皇族を席から追い出すわけにもいかず、誰も身動きができぬなか、ただ公爵の薄い舌だけが速度を上げ始めた。
彼はクレイの席の後ろに立つと、ガラスを砕くような高貴な笑いを上げながら、こんなことをのたもうた。
「そちが、あの女丈夫殿の、お気に入りの副官とやらか。
いったい幾らで飼われておるのかは知らぬが、忠告しておいてやろう。
あの女丈夫殿は、そろそろ身体の方も
下品といえば、これほど下品な発言も滅多になかろうが、場が騒然としたのは、まったく違う理由だった。
それまで無表情のまま、静かに杯を煽っていたエレノア・シルバーバーグの若い副官は、いきなり立ち上がると、ブラニガン公クルガリスの顔面に向かって、強烈なストレートパンチを見舞ったのである。
何が起こったのか、誰も分からなかった。恐らく殴られたブラニガン公すら、瞬時には判断しかねたであろう。
だが彼は、判断する時間すら与えられなかった。
クレイは公爵に飛び掛り、顔面だろうが胸だろうが、ところかまわず殴り続けたのだ。
音程の破壊された公爵の悲鳴が、宮廷に響き渡った。
それが合図となったように、ようやく近衛兵が我に返った。
屈強な近衛兵たちに羽交い絞めにされ、クレイは公爵から引き剥がされた。
一介の軍事仕官が、公爵閣下に馬乗りになって暴行する、という前代未聞の大事件は、結局二分ほどで幕を閉じた。
話を聞き、慌ててグレッグミンスターに帰還したエレノア自身が、クレイを尋問したが、
「公爵の言に、個人として看過できぬ部分があった。
それを早急に訂正するには、言葉ではなく行動をもってする他ないと、即断したまでのことである。
人間に対しては言葉も用いるが、酒乱の
自分は己の行動と決断に、なんら恥じるところなし」
クレイはこう繰り返すだけで、最後までエレノアのことは無関係だと言い張った。
クレイの行為は、軍部のエレノア閥や、公の酒乱に嫌気がさしていた宮廷の文官らからは秘かな賞賛をもって受け入れられたが、彼が皇族を傷つけたという大罪は確固たる事実であったから、当然、それには罰をもって報われることになった。
かろうじて死罪にならなかったのは、エレノアや軍部が必死になってフォローしたからであったが、それでもこの事件は、当時のグレアム・クレイからすべてを失わせた。
すべての公職からの追放。五年間の謹慎。軍人の彼にとってその処罰は、遠まわしの死刑宣告となんら変わるところはなかった。
だが、この事件で大罪人となった元副官に対し、エレノアは全幅の信頼を寄せるようになった。
謹慎中の五年間も、エレノアは様々な手段を講じては、クレイに自らの国家論や軍事論を叩き込んだ。
クレイも、自らの境遇にくじけなかった。
他にやることもなかったからであろうが、エレノアの教えだけでなく、様々な知識や情報を貪欲に収集し、研究し、自らの内部にとりこんだ。
こうしてグレアム・クレイは、謹慎期間があけるころには、独自の理論を構築する、
謹慎中には結婚もし、子供もできた。
軍部に復帰するのと同時に、エレノア・シルバーバーグの副官として再任された。
クレイにとっては、まさしく、人生の新たなスタートの日となったであろう。
これから五年、赤月帝国における軍事的、政治的な成功のほぼ八割までが、このコンビによってもたらされた。
二人とも気が強く、強かな戦略家であり、格調ある卓抜した理論家でもあったから、一度となく対立して意見をぶつけあったが、そのエネルギーがもたらす相乗効果もまた、大きかった。
エレノア・シルバーバーグとグレアム・クレイの成功を全て列挙すれば、事典の四〜五冊はすぐにできあがるであろう。
もはや軍部にエレノアとクレイに異を唱えられる者はおらず、宮廷における権力も日ごとに増し、エレノアは暗に「影の皇帝」などと呼ばれる有様であった。
数年後、エレノアは宰相として国家の全権を担い、クレイはエレノアの後任として軍部を一手に率いることになるだろう。
それは不確定の未来ではなく、既に決定事項のようにすら思われていた。
だが、長く続くと思われたこの権力構造に楔を打ち込んだのは、たった一つの事件だった。
軋みが聞こえてきたのは、エレノアらが強固な支配体制を築いていた中央ではなく、南方の国境付近からであった。
エレノアらの政策で、赤月とクールークの国交も落ち着いていた時期だ。
中央の栄華から取り残された辺境の貴族たちが、のし上がる手段を血眼になって探している時期でもあった。
彼らは、一つの策を弄した。
手柄を手にするには、敵が必要である。
だが、赤月にとって最大の敵であるクールークとは、永続のものではないにしろ、休戦協定が成立しており、クールーク側から軍を動かす可能性は極めて低かった。
そこで、貴族たちは考える。
敵が動かないのならば、敵が動いたように見せかければすむことであった。
そうして彼らは、自らの領地の一部と、その周囲の赤月領の村々、自分たちの国土であるはずの土地を、クールークの仕業と称して焼き払ったのである。
グレアム・クレイの故郷がそこに含まれていたのが、辺境貴族たちの計算だったのか、偶然の産物だったのかは、彼らがクレイによって殺しつくされてしまった現在、我々に知る術は無い。
どちらにしろ、いかにも無能な者が飛びつきそうな、この無策な行動は、中央の軍閥を激怒させるに充分だった。
エレノアもクレイも、隣国の動向は辺境貴族たちよりもよほど詳しくつかんでおり、クールークが軍を動かすには時期的にも不自然すぎることは百も承知であった。
二人はこの程度の愚策を見抜けぬほど節穴の目も持っておらず、即座に断罪のための行動を開始する。
この時期、エレノアは体調を崩しており、代行としてクレイが軍務を統括していた。
クレイは騒ぎを長期化させないためにも、自ら軍を動かして調査に当たるために、南方に赴いた。
そして、クレイは、狂った。なにが彼をそこまでの狂気に追い込んだのか、エレノアは現在に至るまで、知らされていない。
事件がどのような顛末を辿ったのか詳しく知っている者はグレアム・クレイ一人のみであり、中央に伝わってきたのは、クレイの指揮の下、敵も味方も関係なく血泥の底に沈めつくされた、残虐極まりない皆殺しの結果のみであった。
前段階の、クールークを語った赤月貴族自身による赤月領襲撃事件も含めれば、三千人を超す死者を出したこの「赤月の人狩り事件」は、国境付近だけでなく、中央にも巨大な闇をはびこらせた。
左腕を鋼鉄の義手に替えたクレイは、一度だけ病床のエレノアの元に顔を見せたが、それ以降、赤月で彼の姿を見た者はいなかった。
首都においては、クレイの上司であり、軍部のトップであるエレノアに対する批判が、このときとばかりに吹き上がった。
エレノアに敵対する者たちから見れば、この事件は彼女が見せた、最初で最後の失態であるかのように思えた。
ここで攻勢に出なければ、もうチャンスは来ないようにも思えたであろう。
彼らは、過去にエレノアの軍閥と因縁があるブラニガン公爵を引っ張り出し、エレノアを強烈に批判した。
エレノアにとっては、時期も悪かった。
彼女がわずらっていた病は、中年の女性に多く見られるもので、精神がいくぶん、不安定になることが多かった。
それでもエレノアは、自らの批判に対して誠実に対応したし、強引に攻めるべきところは、呵責をいれずに力を用いた。
だが、それも一年に及ぶと、彼女のほうで疲れきってしまった。
全てを投げ出したいという衝動に駆られていたところに、ブラニガン公爵が酒席で放ったという強烈なエレノア批判が、自身の耳に飛び込んできた。
それは、軍人として、重臣として、そして女性としてのエレノア・シルバーバーグという存在を、過去も現在も含め、相当に口汚く罵った言葉で、ブラニガン公の酒乱の歴史の中でも、最も低俗な言葉として歴史に刻まれたほどのものだった。
エレノアが、【国家】と【男性】、双方の存在に対して真に絶望したのは、この瞬間であると言われる。
人狩り事件から一年二ヵ月後、エレノアは皇帝に対して辞表を提出し、全ての公職から退いた。
「第二皇帝陛下」とまで称されたエレノアの権勢は、砂上の楼閣が水に流されるように、跡形もなく消え去ってしまった。
エレノアは赤月の国内からも姿を消し、行方をくらました。
約十年の時を経て、群島解放戦争という歴史の荒波の中、エレノアとクレイ、二人が揃って表舞台に姿を現したことは、歴史の皮肉であったろう。
そして二人は再び出会い、そして離れた。同じことが繰り返されない、という保障は、誰にもできないであろう。
クレイが発端となった現在の事件で、この師弟が再び対決にいたる可能性を、当のクレイ自身が確信に近い予測として、計算に入れている。
自らの決断が、その対決を早めるであろうことも。
マクスウェルが無人島を攻略する直前の五月十日、ラインバッハ二世とグレアム・クレイが、久しぶりに朝食の席を共にした。
「同盟者」という体面上、この二人の関係は対等のものであり、統治のラインバッハ二世、軍事のクレイ、という役割分担も自然発生的なものであった。
ただ「同盟者」とはいっても、打算と妥協との不純な結婚の元に生まれた同盟であって、完全な信頼関係とは言いがたい。
お互いの能力に対してはともかく、人格に対しては、二人ともさほど敬意を払っている様子も無い。
おかげでこの麗しい朝食の席に並べられたハムも、パンも、卵も、いずれも最高級の食材ではあったが、親和や友愛という調味料を見事に欠いており、最高級というだけで、それ以外の価値をまったく持たせてもらえなかった。
二人の会話もいたって殺伐としたもので、無味乾燥極まりない。
「軍備の艦艇や燃料は、数は充分ですが、御領主殿が地元から持ち込まれたものと、クールーク長老派などが新たに持ち込んだものの整理や、兵力人員の再編にはいま少し時間が必要です。
また島内の反乱分子も小うるさい。リノ・エン・クルデスとの間に新たな戦場を設定するにはやや時期尚早と思われますが、御領主殿のほうはいかがなっておいでですかな」
相変わらず、不実で不変の笑みを顔面に張りつかせたクレイの言葉を無視するかのように、ラインバッハ二世は黙々とナイフとフォークと口とを動かしている。
感情が分かりづらいクレイではあるが、ここのところの充実は隠せぬようで、自らの言葉ほど危機感を感じているわけではないように、ラインバッハ二世には見える。
実際、オベル港に駐留しているラインバッハ二世旗下の艦隊は、先の海戦後に新たに加わった数を含め、大型艦だけで十四隻に達している。
軍人と商人、両方の経歴を有するクレイにとって、物資や兵員の再編作業は、まさしく天職とも言うべき居所であった。
無論、戦略家としての活動も忘れてはいない。ラインバッハ二世と共に、様々に触手を伸ばしている。そして物資と兵員の再編が完了し次第、新たな戦いに向けて牙を研ぐことができるだろう。
それに対しラインバッハ二世はといえば、決して不機嫌ではないけれども、クレイとは異なり、辞書どおりの意味で無表情を貫いている。
「オベル国民は大抵の国の民と同じで、忠誠心はあるが知恵はない。口が回るだけの近視眼どもだ。
それに、民の意識を分散させるためにも、最低限の反乱分子は必要。どうとでも動かしようはあるから、統治のほうは問題は無いが……」
ラインバッハ二世は、洗練された動作でコーヒーカップに口を付けた。
洗練された動作というものが、必ずしも容姿の洗練に結びつくわけではないのだな、と、クレイは酷いことを考えているが、ラインバッハ二世は気づくよしもない。
「問題は外交と発掘だな」
ひとつ溜息をついて、ラインバッハ二世はグラスをテーブルに戻す。
ラインバッハ二世とクレイは、オベルを追われたリノ・エン・クルデスがラズリルに亡命した、との報告を受け、北方の群島やクールーク地方、及び西方のガイエン公国との密接な関係強化の可能性を、早々に断ち切った。
群島諸国連合の一方の雄であるラズリルは、北方のネイ島やイルヤ、ナ・ナルといった島々に大きな影響力があり、そのさらに北であるクールーク地方とは連絡が取りにくい。
ガイエン公国は面積こそ広いが、ここ数年、クールークとの争いに敗れたり、ミドルポート、ラズリルといった有力都市に次々に独立されたこともあって、かつての威光は見る影もない。ラインバッハ二世やクレイも、現在のガイエンにはなんの魅力も感じていなかった。
しかし、ガイエンの大商人や貴族の多くにはラインバッハ二世の影響力が強く効く。さらに、その凋落ゆえのガイエンの政治的な「拗ねっぷり」も激しい。
かつてナ・ナルの過激派を扇動したように、ガイエン政府に「群島諸国連合」の危険性とラズリルの野心を懇々と説いている。
密接な協力関係を作り上げるには、ガイエンにはなんの魅力もないが、「利用価値」はまだ残されていた。危機感というエサをばら撒き、ガイエンのヒステリーを上手く利用できれば、彼らにとっては有利な状況をつくることもできるだろう。
もっともクレイは、
「しょせんは死体の痙攣だ。地震を起こすことはできぬ」
と、かなり手厳しい。
ラインバッハ二世とクレイが注力したのは、北よりも南、ファレナ地方であった。
ファレナ女王国は、その名のとおり、ファレナ女王家によって治められる広大な国であるが、広大であるが故に、首都ソルファレナから離れた地方名門貴族達に野心があるのも実情である。
まだその野心が結集し、顕在化することはないが、かつてのクールーク皇国のような政治的な二重構造ができあがる下地は存在した。
彼らは、そこにクサビを打ち込もうとしていた。オベルを占領するしばらく前から、クレイのパトロンであるハルモニア神聖国の英雄ヒクサクの盛名と「吠え猛る声の組合」の脅威をアメとムチのように使い分け、ハルモニアとの将来的な橋渡しを条件に、現在の協力を引き出そうとしていたのである。
そして、オベルとの最初の戦闘に勝利したことで、実際にいくつかの有力貴族が、彼らの要請に応じるところまで話は進んでいた。
ラインバッハ二世がもしも預言者としての能力を持っていれば、有力貴族だけではなく、フェイタス川に陣取る小船団にまで着目したであろう。彼らが独占し、群島ではマクスウェル一味のみが所有している「紋章」までを利用したであろうが、残念ながらラインバッハ二世も全知全能ではなかった。
「しかし、それらには大掛かりの輸送と連携が欠かせますまい。
ファレナ地方との連携は、確実にこなせますか?」
「輸送の規模は問題ない。ただ、面倒なのは……」
クレイの無機質な声での問いに、ラインバッハ二世も目元をしかめた。
オベル島とファレナ地方の間には、たったひとつ、だが大きな問題が残っている。
「海賊、キカ一味ですな」
クレイは表情も態度も変えない。その代わりか、ラインバッハ二世の目元のしわが増える。
「キカ一味の我々への妨害は、散発的ながら、相変わらず続います。
まったく神出鬼没な連中で、やっていることも気まぐれです。一発撃って逃げるときもあれば、本気でこちらを沈めに来ることもある。
本拠がどこにあるかも定かではありません。我が船団のなかにも、苛立つ者が増えています」
「そうやって私達を怒らせるのが、彼女らの目的だ。安い挑発には乗らないことだ」
コーヒーを飲み干し、ラインバッハ二世は初めてクレイに直視した。
「キカが我々に敵対の意志を持っていることは確かだ。しかし、リノ・エン・クルデスやカタリナと連携している様子はない。
それはなぜだ?」
「まだ不確定要素が多いと感じているのでしょう。あちこちを針で突いて様子を見ている、といったところですかな」
「クレイ殿、君はキカ一味に対してどうすればよいと思う?」
クレイは取り乱すことなく答える。
「攻撃に対しては反撃するべきです。しかし、こちらが先方に対して交渉の意志があることは、常に表明しておくのです。
被害を最小限に抑えつつ、交渉の機会をさぐりましょう。彼女達ののど元に食いつくまで、じっくりやることです」
神妙な表情で、ラインバッハ二世は頷いた。
「よかろう、現場の監督は君に任せる。
リノ・エン・クルデスとわれらと、どちらが先にキカと接触するかは、微妙なところだな」
クレイが合図をすると、脇に控えていた秘書官が、群島南部の海図を広げた。
クレイはそれをひとにらみすると、オベルの南東、ドーナツ島の更に南にある島を指差した。
オベルとファレナとの、ほぼ中間地点である。
「ドーナツ島からこのニルバ島にいたる中継点の開発を急きましょう。
総責任者のメルテザッカーの職務を二分します。開発はシールタに任せ、メルテザッカーには制海権の確保に集中させるがよろしいかと」
クレイの指令は、短いが的確である。これぞ、と思う人材を普段から頭に入れているため、人材の登用も、効率が悪いと思われる箇所の変更も早かった。
ラインバッハの表情に、賞賛の要素が混ざった。なるほど、その視点と決断の速さは、伊達に一国の軍事を仕切っていた器ではない、ということか。
クレイはラインバッハ二世の乏しい表情の変化には気付いたが、感想を述べることはしない。
ラインバッハ二世は話題を変えた。
「最大の問題は発掘だ。一度掘り返したものを埋めた後だから、掘り返すのはたやすいが、何せあの遺跡は深い。
このままでは、具体的な成果がかたちになって現れるのは、予定よりも遅れそうだ」
内容は深刻であったが、言葉の内容とその口調が一致していない。危機感が無い。
果たして、この男たちは究極の楽観主義者なのか、それともただ何も考えていないだけなのか。
聞く者が聞けば、そうとしか思えなかったであろう。
クレイが、言葉面だけの危機感を煽ってみせる。
「ほう、お互いに肝心なことには結果が出ていない、ということですな。
ラズリル騎士団もオベル海軍も全滅しているわけではありません。いま攻められれば、我々としては苦戦は避けられぬでしょう。
果たして、いかがしたものか」
その言葉の裏にある真の意味を見抜いており、ラインバッハ二世の口の端が、初めて上方にカーブを描いた。
不健康な策略の地下茎から発芽する、不実の笑みであった。
「クレイ殿、君は商人、私は元経済官僚、充分に分かっているはずだ。
金も時間も同じだ。目前にそれが無いからと慌てふためくのは、愚者のやることだよ」
コーヒーカップを静かにテーブルに戻し、ラインバッハ二世は、その大きな腹の上に両腕を添えて、再び笑った。
「そう、金も時間も同じ。無いのなら、作ってしまえばいいのだ。自分のこの手で、な」
クレイは、何も答えなかった。
二人の心のこもらぬ笑顔だけが、周囲の状況をあらわす記号となっていた。
クレイとの心のこもらぬ朝食を終えた後、ラインバッハ二世は政務をとる前に、二人の屈強な兵士を引き連れて王宮の地下へと向かった。
暗く細い廊下を歩きながら、ラインバッハ二世は不快な湿度に不快な表情を示す。オベルの政治の中心だからといって、王宮の地下の湿度だけがゼロになるわけではない。
自然は平等であり、それに文句をつける、という非生産的行為は時間の無駄だと知っているため、ラインバッハ二世は特に口を開かず、もくもくと歩いている。
彼は地下一階、セツが現在も軟禁されている地下牢を素通りし、そのまま地下二階に向かった。
オベル王家や家臣の中でも、ごく限られた者しか知らぬ扉を抜けると、その先はそれまでとは異なる風景が広がっている。
それまでは、市民の目には触れぬとはいえ王宮の一部であるから、少なからず装飾が施されてはいたが、その扉の先は、まるで装飾の加えられていない、岩を掘りぬいただけの粗雑な空間だった。採掘途中で放棄された炭鉱を思わせる。
その坑道をさらに十分ほど歩いた先に、その扉はあった。
普通の扉ではない。まさに「鉄の塊」としか言いようのない観音開きの鉄板。その扉の無骨なノブが、さらに金属の鎖で幾重にも封印されている。
ある意味で荘厳とすら言える風景だった。内部に古代の宝物が眠っているのでなければ、何百年も前の忘れ去られた死体が転がっていてもおかしくない。そんな雰囲気だ。
ラインバッハ二世が合図をすると、脇に控えていた兵士の一人がこれまた無骨な鍵をとりだし、まずノブに巻きついた鎖を慎重に外していく。
主君の舌打ちを二度ほど聞きつつ、悪戦苦闘して鎖を外すと、今度は扉の鍵を開けた。その無骨な扉は、巨漢の兵士二人がかりで、ようやく開いた。
気の利かぬ錆びた金属音を出しつつ開かれたその扉の奥。さらに異様な風景が広がっている。
そこは部屋とは言えぬ。岩石がむき出しのままの洞窟の最奥。
灯りも何もないが、不思議と暗黒ではなかった。周囲の岩が、不自然に淡い光を放っている。地面には泉がわいており、その底も同様の光を放っているため、そのスペース全体が、荘厳な空気に包まれていた。
ラインバッハ二世は、迷わずその泉に歩を進めた。さして深くはないが、彼の豪奢な衣装の膝辺りまでは浸かる。
入り口に兵士を待たせ、服が濡れるのも厭わずに、彼は奥に進んだ。それは、彼を知る者が見れば驚く光景であろう。普段ならば、自らが汚れる、あらゆる行為を嫌う男である。
そして、ほとんど光の入らぬその泉の奥。ラインバッハ二世の目的が、そこに「いた」。
人間がいる。一目で少女と分かる。
その小柄な少女は、衣服を何も身に着けていなかった。全裸で腕を拘束され、天上から吊り下げられている。下半身が泉につかっているから、足は床についているのだろうが、いかにも痛々しい。
左右に二つに纏められた、ブラウンの長い髪は、手入れもされずにただ垂れ下がっている。
だが、その感想を少女が口にすることはない。少女は、目も、口も封じられていた。目にも口にも黒い布が巻かれ、その上からなにか呪術的な文様の封印が施されている。
成長しきっていない胸が微妙に上下している。その呼吸運動だけが、少女の生きている証だった。
ラインバッハ二世が、まるで美しいオブジェクトを思わせるその少女の前に立ち、薄い笑みを浮かべた。
相手の都合などまるで考えていない、ただ自分の都合だけで生み出された薄い笑みだった。
その太い指が、少女の顎を軽く持ち上げる。少女からは、なんのリアクションも返ってこない。ただ、呼吸しているだけだ。
「ほう、まだ生きているか。もっとも、いまお前に死なれては、私も困るのだがね」
くく、と、ラインバッハ二世は笑った。うなる様な、低い笑い。
「だが、もうすぐだ。お前に辛い思いをさせるのも、もうすぐ終わる。もうすぐ、お前を殺してやれる」
大の大人が、まるで大きめの人形に話しているかのような、極めて不自然な風景。
しかし、少なくとも当事者の一方は、自らのことを不自然ともなんとも思っていなかった。
「リタ……か、いい名だ。そして、美しい。その美しさのまま、君は永遠の世界に旅立てる。
老いさばらえた私にとっては、うらやましい限りだ」
自分勝手につぶやき、自分勝手に納得したらしい。肩を揺らし、大きな声を上げて笑った。
おそらく、世界中で彼だけが納得している情景であろうが、それに対して抗議をあげる存在もいなかった。
自分勝手に満足して、ラインバッハ二世は、リタ、と呼んだ少女に背を向け、歩き去った。ただ、静寂だけがリタの周囲を再び覆った。
ラインバッハ二世は入り口まで戻ると、そこで待たせていた兵士に命じた。
「残る【姫】はあと三人だ。一人はこの島にいることが分かっている。発見を急げ。
オベルのフレア王女は、今はどうにもならぬであろう。ナ・ナルの低能どもめ、せっかくくれてやった切り札の使い方を誤り、誘拐をしくじりおった」
軽く舌打ちをして、ラインバッハ二世は続ける。
「残る一人、これはナ・ナルにいるはずだ。誘拐でもなんでもよい、私の前に生きたまま連れて来い。
姫に手出しはならぬが、望みどおりの額の報奨を呉れてやる」
「は、承知いたしました。して、その【姫】とやらの名前は?」
「【リキエ】だ」
一言だけを残し、ラインバッハ二世は足早に地上への道を戻った。
(初:11.02.10/前半部分)
(初:10.01.05/後半部分)
(改:10.01.10/後半部分)
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