クォ・ヴァディス 38

6-8

 無人島に居を構えることになったマクスウェルらは当然、いつまでも軍艦で寝泊りしているわけではない。
 艦隊の訓練と並行して、徐々に数を増していく一派の居住空間を確保するために、広大な無人島の開発が行われている。
 だが、マクスウェル本人が、自らの一派をあくまでこの事件が終結するまでの結成であり、機能を永続させるつもりがないためか、島のかたちを変えるほどの大規模な開発には消極的だった。
 そこで担当者があれこれと苦悩した結果、ネイ島にあるネコボルト族の集落の建築物が、主な建物のモデルとして採用されることになった。
 ネコボルトの建築技術は、資材が少なくて済む、建築期間が短い、撤去も早い、と、メリットだけで三つもあった。
 だが、その特殊な工法にはネコボルト族の協力は欠かすことができず、チープー商会の紹介でナルクル、チャンポらの若いネコボルトの一団が、秘かに島を訪れることになった。
 すべては順調に進んでいるように見えたが、一つだけ致命的な失敗があった。
 ネコボルト族は、ドーム状の建築物に、猫の模様のレリーフや飾り付けをするのが慣例である。当然、ナルクルやチャンポたちも、しっかりとその慣例に従った。
 その結果として、群島解放の象徴である英雄と、彼の率いる一派が本拠とするこの島は、猫型の愛らしい建物が何棟も並ぶという、異常事態になったのである。

「中途半端に飾りつけるくらいなら、ここまで徹底的にやったほうがまだ割り切れるな」

 と、全く割り切れていない、投げやりで乾いた笑顔を浮かべつつ、マクスウェルは途方に暮れていた。

 この無人島には元々、人が住むために整備されたものは何一つなかったが、自然が用意した過酷な自然環境の中には彼らを喜ばせるものがひとつだけあった。
 海岸線に面したいくつかの洞窟の奥に、海底温泉が発見されたのだ。
 そのうちのひとつは、かつてマクスウェルたちがこの島に漂着した際に発見したものだが、より安全で楽しみやすい環境の温泉の発見は、一派、特に女性たちを狂喜させた。
 彼女たちに突き上げられる形で、何よりも優先して設備が整えられた温泉施設は、無人島の中でも数少ない女性たちの聖地として、男子禁制の別天地と成り果てた。

 ある夜、ジーンがその温泉を訪れたときにも、何人かの先客が存在した。
 女性として、ほぼ完成されたプロポーションを持つジーンを見た先客たちの反応は、様々である。
 黒髪で小柄のアグネスは、自分とジーンの身体に何度か視線を往復させ、自信を喪失したような顔でぶくぶくと湯に沈んだ。
 身長だけはほぼ同じポーラは、無関心を装ってはいるが、隠し切れない興味の波が表情に表れていた。
 本当に何も考えていないのはビッキーとリシリアで、精神年齢が似通っているのか、声を上げて騒ぎながら温泉ライフを楽しんでいるようである。
 次の瞬間には湯船で泳いでいそうな二人を横目に見ながら、ジーンはゆっくりと湯につかる。

「ふう……」

 長い銀の髪をまとめ、ジーンは文字通り、一息ついた。
 一派随一の紋章師であるジーンは、紋章砲が存在しないいま、艦隊戦に関わる機会は減ったものの、それでも彼女にしかできない仕事に追われる毎日を過ごしている。
 彼女はまず、【罰の紋章】を持つマクスウェルの主治医であり、彼がイザクを説得してイルヤから大量に持ち帰った「紋章の欠片」の管理と研究も任されている。
 どちらも並みの紋章師に勤まる仕事ではなかった。
 ジーンが自分のことを周囲に語りたがらないため、彼女の正体を知っている者は、マクスウェルを含めて一派にはいなかったが、それでもこの正体不明の紋章師には、大きな信頼が寄せられていた。

「ジーンさん、お疲れ様です」

 ポーラとアグネスが寄ってきて、車座をつくった。
 いずれもマクスウェルを囲む、もっとも重要で、もっとも微妙なトライアングルであったが、彼女たちがこうして会話をする機会はそう豊富ではない。

「ふふ……あなたたちも、お疲れ様。お互いに仕事がハードだから、疲れを抜くのも大変ね」

 と、少なくとも表面上は疲労を見せることなく、ジーンが微笑む。
 アグネスは軍師として、対ラインバッハ二世だけでなく、対ラズリル・オベル連合艦隊との折衝にも意を砕かなくてはならないため、精神的な疲労がピークに達している。
 ポーラは一見、マクスウェルの護衛として傍に立っているだけだが、アカギやラインバッハなどと違い、危なっかしい彼の精神面にまで気を配らなければならないためか、すでに「傍に立っている」こと自体がハードワークと化していた。
 三人はいずれも、マクスウェルにとっては何者にも代えることのできない、その分野のオンリーワンの存在となりつつあるし、そのことをそれぞれが自覚しているが、それには巨大な精神的な負担を代償とした。

「マクスウェルさんにも困ったもんです」

 と、アグネスがため息混じりに言い、伸びをした。

「信頼してくれてるのは分かるんですけど、自分はなかなか本心を見せてくれないっていうか、時々なにを考えているのか分からないときがあります。
 彼って昔からああだったんですか?」

 話をふられたポーラが、少し首をかしげた。

「苦労性でしたからね、彼は。
 昔から考え無しに行動していたスノウのフォローに引っ張りまわされていましたから、身に染み付いた慎重さがあるんでしょう。
 でも、確かに落ち着きのある人ではありましたけど、隠し事ができるような人では……」

「人間は変わるもの、成長するものよ」

 ジーンが口を挟んだ。

「特に彼の場合、変わらざるを得ないような体験をいっぱいしているもの。仕方がないんじゃないかしら」

「変わらざるを得ない……か」

 天井を見上げながら、アグネスが呟く。
 それはつまり、【罰の紋章】に寄生されたことであったり、無実の罪で島流しにされたり、群島解放軍のトップに祭り上げられたり、といったことであろう。
 特に、それまで信頼していたラズリルの人たちに裏切られたという経験、その後に多くの信頼すべき仲間に恵まれたという経験は、マクスウェルの精神や人格に、多かれ少なかれ影響を与えているに違いない。

「要するに、素直じゃないってことですね」

 と、まるで未熟な精神分析医のような結論で納得する。

「……随分とシンプルにまとめたわね。間違いではないけれど」

 ジーンは呆れたような感心したような、難しい表情をしたが、すぐに普段の落ち着いた雰囲気に戻った。

「気難しいところもあるけれど、彼は人の痛みが分かる、良い人よ。
 深くつきあえばつきあっただけ良さが分かる、尽くせば尽くすほど報いてくれる、そんな人。
 ついていくのは大変だろうけど、大事にしなさいね、あなたたたち」

 意味ありげな流し目を向けられて、ポーラとアグネスが身を固くした。

「な、なんで私たちに言うんですか」

 アグネスの声のトーンが一オクターブ上がった。

「大体、なんでジーンさんにそんなことが分かるんですか。
 マクスウェルさんの何を知っているっていうんです?」

「あら、気に触ったかしら」

 ジーンは少しも動揺することなく、優美な動作で髪を上げた。

「長いこと女をやってると、見えてくるものもあるのよ。色々とね」

 さらに突っかかってやろうとしたアグネスが、不意に思い直して姿勢を落ち着けた。
 自分がマクスウェルに愛情を持っていると誤解されても困るし、なによりこの女性にはかなわない気がした。
 突っかかっただけ泥沼にはまりそうな気がしたのだ。

「確かに、群島解放戦争のときからマクスウェルさん、妙に人気がありましたもんね。
 でも、今は誰でも無理なんじゃないですか? マクスウェルさんの眼中には今、ジュエルさんしか映っていないみたいだし」

 ポーラが無言のまま、思いつめたように唇をかみしめた。
 ポーラのマクスウェルに対する思いは、アグネスとは明らかに方向が違うものだった。
 親友ジュエルを一刻も早く助けたい、という自分の強い思い。
 その思いが目的意識として、マクスウェルと共有できる限り、自分が彼を、彼が自分を裏切ることは決してないと確信している。
 だが一方で、その目的意識を共有している限り、どこまでいっても、ポーラはマクスウェルの「頼りになる友人」であり、それ以外の、そしてそれ以上の何者でもなかった。
 歩を並べて目的に向けて共に走ってはいても、ゴールには常にジュエルがいて、マクスウェルの視線の先にはジュエルしか映っていない。
 マクスウェルの視線が、隣を一緒に走っているポーラに向けて固定されることはないのである。
 その事実に気付いたときから、ポーラは突き刺すような鈍い痛みを胸に抱えていた。
 マクスウェルが、ジュエルに対してどのような想いを抱いているかが、いまいちハッキリしない。そのことも、ポーラを不安にさせていた。
 大恩人として純粋に感謝しているのか、それともそれ以上の想いを持っているのか……。

「………………?」

 不意に、ポーラは疑問にぶつかった。
 いつからだろう? 自分がマクスウェルに、こんな複雑な思いを持ち始めたのは。
 海兵学校のときも、群島解放戦争のときも、彼のことは尊敬はしていたが、それはむしろシンプルな感情だったはずだ。
 いつからこんなに、彼に深入りしてしまったのか……。
 ポーラにある心当たりは、一つだけだった。
 ラズリルの、あの夜の港。崩れかけていたマクスウェルに、抱きしめられ、想いの全てをぶつけられた。
 あの彼の涙を、受け入れてからか……。

 ポーラの百面相を、アグネスとジーンはそれぞれの表情で見ていたが、ビッキーが突然、状況にまったく無関係に、爆弾を打ち込んだ。

「そういえばわたしー、マクスウェル君に裸を見られたことがあったっけー」

 思索にふけっていたポーラが現実に引き戻され、ビッキーに視線をはりつけにした。
 当のビッキーは、自分が爆弾を炸裂させたことにも気付かず、のほほんと長い黒髪をいじっている。

「……どういうことです?」

「いや、気付いたらマクスウェル君のベッドで裸で寝てたっていうか」

 なにか見えざる存在に横殴りにでもされたように、ポーラの頭がぐらついた。
 余りにショックが強かったのか、ビッキーの「あれ? あれってヒューゴ君だったかな? ジョウイ君だったかな?」という呟きは、ポーラの耳には届いていない。
 そして更に悪いことに、ジーンがその爆弾を誘爆させてしまう。

「あら、それなら私もあるわよ。私の場合は、旗艦のお風呂場で、だったけど」

 物凄いで勢いでポーラの首がジーンに向けられ、思わずアグネスが悲鳴を上げかけた。

「……それで?」

 様々な感情に突き動かされたポーラの問いかけに、ジーンはすぐには答えない。
 だが、なにかを思い出したように頬をうっすらと紅に染めたジーンの「艶」は、それだけでポーラを魔王に変じさせるのに充分だった。
 ジーンは微笑んで、ゆっくりと言った。

「……。めちゃくちゃにされちゃった……」

 確実に、それが引き金だった。
 ビシッ、と音が聞こえそうなほどの感覚で、ポーラの周囲の空気が一瞬に張り詰め、その背中から立ち上る怒気が、周囲の熱気を圧倒した。
 怒りが度を越してしまったのか、ポーラは口の端を引きつらせて笑いながら、ゆっくりと立ち上がった。

「……すいませんが、急用を「思い立ち」ました。先に上がります……」

 一歩一歩、大地と湯と怒りとを踏みしめて去っていくポーラを、怯えながらアグネスとリシリアは見送った。

「どうなっても知らないよ、これ……」

 魔王の退場を見送ってから、心底安心したように、アグネスがすとんと湯船に腰を落とした。

「ポーラさんって、口数が少ないからクールな人かと思ってたんですけど、直情的なところもあるんですね」

「ポーラは意外とうっかりやさんだぞ。ミニスカを穿いてるのを忘れて、あぐらをかいてたりするし。
 でも、怒るとめちゃくちゃ恐いけどな」

 リシリアが背筋を震わせる。
 原因となったビッキーとジーンは、それぞれの笑顔でゆっくりと湯を楽しんでいる。
 ふと思い立って、アグネスはジーンに詰め寄った。

「ジーンさんはマクスウェルさんに何をされたんですか?
 マクスウェルさんって、どちらかというとムッツリスケベっていうか、女をもてあそぶような器量があるようには見えないんですけど」

 なにげにひどいことを言っているが、ジーンは気にした風もなく、ぽつりと言った。

「彼ったら、余りにも慌てすぎて、私の【服】をめちゃめちゃに散らかして行っちゃったのよ。
 ひどいと思わない?」

「あ……」

 アグネスは呆れて口を大開きにしたあと、ようやく一言だけ呟いた。

「あんたは鬼だ……」

 その晩、島の見回りを行っていたアカギとミズキは、意外な場所で、意外な人物を発見した。そして、首をかしげながら近づいた。

「よお、大将、そんなところで何をやってるんだ?」

 呼ばれたのはマクスウェルである。彼はその不自然な姿勢で、アカギのほうに向き直る。
 どうやらマクスウェルも考え事をしているようで、言葉も要領を得ない。

「うーん……。実は俺にも、自分が何をやっているのか、よくわかっていないんだが……」

 アカギが、思わず首をかしげる。

「あんた、自分でよく分からないうちに、木の枝から逆さづりになるクセでもあるのか」

 と、文字通り、大木の枝にロープで逆さづりにされた自分たちの大将に、怪訝な目を向けた。
 明らかに不自然な状況だが、マクスウェルが自分に何が起こったのか理解し切れていない様子が、更に不自然だった。
 マクスウェル自身、未だ夢の中にいるような状況である。
 一派の中から募集した自分たちの軍名の候補を選別しているとき、いきなりポーラに呼び出され、なにがなんだかわからないうちにこの有様であった。
 マクスウェルとしては、ポーラによる理不尽よりも、自分がポーラを怒らせるようなことを何かしてしてしまったのではないか、という心当たりを探すのに必死であったが、どうしてもわからない。
 アカギとミズキは、自分たちの上司を助けることも忘れてひそひそと言葉を交わしているが、

「このごろ、色々あったからな……」

 ……というミズキの呟きが聞こえたときは、さすがにマクスウェルの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
 アカギが妙に納得したように応じた。

「そうだな……、疲れすぎてるのかもな。察するぜ……」

(察するですって? ふふ、誰が俺の気持ちを分かってくれるというの……)

 この世のすべてから自由になりたい心境のマクスウェルにアカギが近づき、その足を固定しているロープを断ち切った。

「俺たちが言うのもなんだけどよ、休めるときには休んどけよ。そのために俺たちがいるんだから」

「そうだね、気をつけるよ、ふふふふふ……」

 乾いた笑いを残して去っていくマクスウェルを、アカギとミズキは、心配そうに見送った。
 翌朝、すべてが誤解であったとアグネスから知らされたポーラが、平身低頭の限りを尽くしてマクスウェルに謝罪したが、その脇でリシリアが、

「ポーラが謝っているのは、マクスウェルが「悪い心」の持ち主ムッツリスケベだからか?」

 ……と、無邪気な声でマクスウェルにトドメをさしていた。

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(初:10.02.20)