クォ・ヴァディス 36

6-4

 無人島占領以降、マクスウェルは精力的に行動を開始した。
 オベルにあるラインバッハ二世やクレイに気付かれる前に、ある程度の状況は作っておかねばならない。無駄にできる時間は一秒も存在しなかった。
 幸いにも、マクスウェルの陣営にはビッキーの姿がある。
 自分に触れた者を任意の場所に転送させることができるテレポーター、という、他に類を見ない能力を持っているビッキーは、先の群島解放戦争のときもマクスウェルの元にあって彼らの勝利に多大な貢献を為したが、今回もどうやらそうなりそうであった。

 ただ、ビッキーの能力は、自由自在に世界中への移動を可能にするものではなく、課せられた制限も多い。
 まず最大の制限は、テレポートが可能である場所が「ビッキー自身が訪れたことがある場所、しかもそのことを覚えている場所に限られる」という大前提であった。
 マクスウェルが無人島にあるこの段階で、群島の枠内でビッキーが覚えている場所といえば、彼女が捕われていたナ・ナル島と、後に治療を受けたラズリル、そして群島解放戦争の際に常駐していたオセアニセス号の艦内のみである。
 少なくとも二年前の解放戦争において、ビッキーはマクスウェルらと共に群島内を転戦した経験があるはずだし、ナ・ナルに捕われていた期間には、オベル王国に暗殺部隊を「送らされた」ことがあるはずなのだが、そのことをミズキに問われると、ビッキーは顔じゅうにクエスチョンマークを乱舞させて、全力で首をかしげていた。
「覚えていない」のではなく、「本当に知らない」といった様子だった。
 当時のビッキーの性格をよく知っている者たちは、早々に彼女への追求をあきらめた。
 人好きのする良い娘なのだが、余りにほがらかすぎて、「柳に風」というか「暖簾のれんに腕押し」というか、とにかく議論というものには徹底的に向いていない性格なのである。
 行方知れずとなっていたこの二年間、ビッキーの身に何が起こっていたのか、神ならぬ関係者たちは想像するしかない。

 だが、少なくともラズリルとナ・ナルへは、使者を一瞬のうちに送ることができる。
 ナ・ナルに着きさえすれば、チープー商会のあるネイ島や、これもマクスウェルと旧知のイザクが治めるイルヤ島は、目の前であった。
 北側の勢力との連絡が、圧倒的にとりやすくなる。この事実は、他の勢力には無い、マクスウェルの武器の一つである。
 ビッキー自身もやる気満々であったが、マクスウェルはビッキーにテレポートを依頼することは、多くても一日に二回(二往復)に留めた。
 ビッキーが、アカギとミズキの手によってナ・ナル島で救出されてから、わずか半月。
 ラズリルで充実した治療を受けることができたし、陣営の中には医師もいるが、無理をさせるにはまだ時期が早いと思われたのだ。
 ほかの事には鷹揚に対応することの多いマクスウェルであったが、ビッキーの健康面への対処だけは、徹底して仲間に言い聞かせた。

 無人島を占領した当日の五月十二日早朝、マクスウェルは早くもカタリナへの手紙をミズキに託してラズリルへ送ると、艦隊をアグネスとヘルムートに任せ、自らはポーラとアカギを連れてナ・ナルへと飛んだ。
 この時期、責任者であるマクスウェルが艦隊を離れるのは決して適切な行動とは言えないが、マクスウェルとしては、自分自身がナ・ナルやイルヤを訪れることができるのは、ラインバッハ二世とクレイの目がラズリルに向いたままの、今しかないようにも思えた。
 マクスウェルがナ・ナルの砂浜を踏むのは、この事件が起こってからは初めてである。
 まさか、こういうかたちで訪れることになろうとは思いもよらず、無人島に上陸したときと同じように、彼の胸には複雑な思いがよぎったが、それを表情に出すことは無かった。

 マクスウェルはナ・ナルに着くと、真っ先にアクセルとセルマの元を訪れた。
 事件直後の半月前に比べれば、二人の怪我もほぼ癒え、アクセルの力感もセルマの仏頂面も、彼ら本来の調子に戻りつつあったが、ナ・ナルそのものの傷は、まだまだ深かった。

「昔のことを思い出してくよくよするなんざ、時間の無駄の最たるものさ。
 もっとも、今は目の前に積まれた問題をどう片付けるか、そのことに必死で、後悔する時間なんて元からありゃしねえけどよ」

 そう苦笑するアクセルの隣で、セルマが大真面目に応じた。

「我らエルフにとっても、今回の事件は良い契機になる。
 悠久の時の中で、どうしてもエルフは自らの哲学の中に閉じこもりがちだが、それだけでは何も解決しないということが、よく分かった。
 今後はもっと、自らの足で外の世界を開拓せねばならない」

 言って、マクスウェルと、その隣に寄り添うように立っているポーラを一瞥した。

「そのための先鞭として、ポーラとリシリアを外に送り出したのだ。
 二人が貴様に同行したのは自らの意志だろうが、この二人の身に何かあったら、我らナ・ナルのエルフは黙ってはいない。心しておくがいい」

「わかっている」

 言われるまでもない、という表情で、マクスウェルは頷いた。
 頷いて安心した。ナ・ナル復興への道は厳しいが、二人のリーダーが落ち込んではいないことが、せめてもの救いだった。
 心が折れない限り、道は幾らでも切り開いていけるものだ。
 二年前、共に群島解放戦争を戦い抜いた彼らは、そのことを共通の経験、共通の知識として、心の奥底で共用していたのである。
 一時間ばかりの、さして長くも無い会談の中で、マクスウェルはこの事件の全貌と、群島を取り巻く現在の状況を二人に説明した。

「マクスウェル艦長」

 と、アクセルが言った。
 解放戦争当時からオセアニセス号の艦長を勤めていたマクスウェルだが、当時の同志たちの中には、未だに彼をこの肩書きで呼ぶ者も多い。
 親しみもあったし、とりあえず敬称に困ったときには便利な呼び方でもあった。
 アクセルの場合は、単なる癖であったのだが。

「ナ・ナルの若者の中には、何らかの形で、ナ・ナル人の手でこの事件に決着をつけたいと思っている者も少なくない。
 本来なら、俺が彼らを率いて、どこぞの勢力に参戦すべきなんだろうが、俺はいま、この島を離れられない。
 もしナ・ナルの者で、あんたを頼る者がいたら、悪いが面倒を見てやってくれないか」

 マクスウェルは協力を確約した。

 マクスウェルは二人との会談を終えると、早々にナ・ナル島を発ち、ネイ島に向かった。
 昨夜の敵船襲撃から、ほとんど休息らしい休息もとらない強行軍であったが、今のマクスウェルにとっては、下手に身体を休めて焦りを募らせるよりは、気忙きぜわに身体を動かして事態を前進させるほうが、むしろ安心できた。
 手に入れたばかりの「流れの紋章」による圧倒的なスピード感が、その意識を加速していたのも事実であろう。
 アカギとミズキが最初に体験し、マクスウェルが群島で初めて戦争に応用したこの紋章は、これ以降の群島における艦隊戦の様相を激変させた。
 これまでの艦隊戦は、魔術師であり科学者でもあったウォーロックが開発した破壊兵器「紋章砲」による破壊力勝負になりがちだったが、キリルたちの活躍によりその「紋章砲」がこの世から姿を消した後、群島における艦隊戦は、機動力中心の、緻密な作戦が要求されるものに変貌していく。
 そしてその最初の例といえるのが、この事件におけるマクスウェル一派の戦術であるのだが、その詳細が明らかになるのは、もう少し先のことである。

 マクスウェルらは早くも昼過ぎにネイ島に到達したが、そこには長居をしなかった。
 一応上陸はしたが、マクスウェルが旧友のチープー商会長、ネコボルトのチープーと短時間、なにごとかを協議したのみで、ゆっくりと久闊を叙す暇も無く、何かに追われるかのように再び船に腰を落ち着けた。
 次の行き先は、ネイよりもさらに北、群島諸島のなかでは最もクールークに近い島、イルヤである。

6-5

 イルヤ島は、二年前の群島解放戦争において、最大の被害をこうむってしまった島だ。
 イルヤ島の北、クールークの最南端にあるエルイール要塞に設置された、超巨大な紋章砲の一撃によって、島の表面のほとんどを焼き尽くされたのである。
 以降、生き残った住人は殆どがこの島を離れてしまい、最低でも十年間は、復旧は不可能と思われていた。
 しかし、一部の人々は諦めなかった。イザクという一人の戦士が中心となり、細々と復旧活動が始まった。
 最初は微々たる動きだった。だが、かつての住人たちの間に、故郷の復旧活動の噂が広まると、彼らは進んでイザクのもとに集い、それはさしたる時間もかけずに、一大運動へと規模を拡大していった。
 戦争の末期には瓦礫の山しか残っておらず、十年は復旧不可能と言われたイルヤの旧市街は、わずか一年で旧来の姿を取り戻した。

 かつて、イルヤはネイと同じく、過疎の島だった。
 漁業を営めるような体力自慢たちは、こぞってラズリルやミドルポートなどの都市へ流出し、残った人々は、細々と綿織物とわずかな放牧で生活を営んでいた。
 しかし、島の復旧の途中、偶然に発見された遺跡から、自然の元素の力を宿した「紋章の欠片」が大量に発掘されるに及び、様相は一変した。
 島に静かな発掘ブームが巻き起こり、一攫千金を夢見る若者たちが、多く島に住み着くようになった。
 クールークの南進政策が思わぬ余波を生み、島の何もかもを変えてしまっていたのである。

 そのイルヤ島にマクスウェルたちが降り立ったのは、五月十二日夕方である。
 ナ・ナル、ネイ、イルヤと、三つの島を船で一日で回るなど、この時代、群島の誰にも、想像のつかぬことであったろう。
 無論、そのスピードによる代償も大きいことは大きく、マクスウェルもアカギもポーラも、イルヤに到着したときには、ヘトヘトになってしまっている。
 それでも身体に鞭をうって、マクスウェルはイルヤ島のリーダー、イザクのもとを訪れた。

 イザクは五十二歳になる、中年の男性である。
 オベル王国の宰相であるセツと同年だが、セツよりもずっと背が高く、身体つきもがっちりとしている。
 解放戦争のときは、マクスウェルの指揮の下、自分の身長ほどもある大剣を振り回して幾多のクールーク兵をなぎ倒した、凄腕の戦士であった。
 だが、その内包した迫力を彼の外見から見破るのは、まず不可能であろう。
 やや眠たげな目や、端整な口ひげ、それらを包み込む柔らかな笑顔。そして、聞く者を優しく諭すような、静かな語り口。
 普段の彼は、戦場に立たった時の迫力が嘘のような、人格者であるのだった。

 この紳士を尊敬するものは過去も現在も多く、マクスウェルもその一人である。
 解放戦争当時、イザクに多大な信頼を寄せていたマクスウェルは、作戦のことをエレノアやリノに相談する一方で、プライベートなことをこの紳士に相談することも多かった。
 父親も同然だったグレン団長を失った直後の、マクスウェルの心の空隙をわずかでも埋めてくれたのは、間違いなくこの紳士の優しさであったろう。
 この当時、多くの仲間に恵まれたマクスウェルではあったが、イザクは他の仲間とはやや毛色が異なる「同志」であった。

 そのイザクを前にすると、さすがに緊張が解けたのか、マクスウェルの顔に、疲労と同時に安心感が広がった。
 イザクはあの時と同じように、人好きのする笑顔で彼らを迎えてくれた。

「久しぶりだ、マクスウェル君。色々とあったようだが、まずは元気そうでよかった」

 オベルから遠く離れたこのイルヤにも、群島中央部の騒ぎは伝わっている。
 ただ、ナ・ナルは例の惨状だし、ネイの老人たちは活発になりようもないためか、詳細な情報は殆どなく、イザクは事件がイルヤへどの程度の影響をもたらすのか、気が気でない毎日を送っている。
 イザクは群島解放戦争の後、マクスウェルがオベルで活躍していたことを知っていたので、一通りの挨拶の後、まずは情報を求めた。
 マクスウェルもそれに答え、これまでの経過を語った。
 彼の口から重い言葉が続くたびに、イザクの表情もつられるように重くなっていった。

「【罰の紋章】は、落ち着いているのか? 君自身の身体はどうなんだい」

「今は紋章も身体も落ち着いています。なんの影響もありません。
 ただ、紋章の意志は覚醒しているようで、たまに夢見が悪いときはありますが……」

 マクスウェルの表情が落ち着かない。彼が何か言いよどんでいることを、イザクは気付いた。
 好奇心がないわけではないが、人が言いにくいことを強引に聞き出せるほど、イザクは無遠慮な性格ではなかった。
 気を利かせるつもりで、イザクは話題を変えた。

「それで、このイルヤまでわざわざ足を運んでくれたのは、どのようなわけでかな。
 この重要な時期に、世間話をしにきたわけではないだろう? 忌憚のないところを聞かせてくれないかね」

 元より、マクスウェルはこの紳士に対して嘘をつく気はなかったが、その真摯な視線に貫かれると、精神のうちにある下心を全て見透かされているようで、気が引き締まった。

「ご協力を願いたいのです。話を聞いていただけますか」

「協力の内容にもよるね。悪いが、戦争だの戦闘だの、そういうことにイルヤの力を期待されると困る。
 今のイルヤには若者も多いが、ナ・ナル人ほどの闘争心を持っている者は少ない。
 島に居ついた目的が、闘争心を必要としないものだからな」

 自身が優れた戦士であるためか、イザクの若者たちへの評価は意外にシビアだった。
 それだけ正確に、島の現状を把握しているということであろうけれども。
 マクスウェルは首を振った。もとより、イルヤを戦争に巻き込むつもりはない。

「お願いしたいことは、二つです。
 まず、ラインバッハ二世やグレアム・クレイの勢力が近づいてきたときに、この島で発掘されている「紋章の欠片」を彼らに譲らないでほしいのです」

「紋章の欠片」は、それ単体ではなんの役にも立たないものだが、同じ種類の欠片を集め、実力のある紋章師が精製すると、本来の姿である「紋章」に戻すことができる。
 紋章は身体に宿すことで、攻撃手段や回復手段など、様々な効果を発揮することができるものだ。
 マクスウェルの持つ【罰の紋章】、テッドの持つ【ソウルイーター】、ヒクサクの持つ【円の紋章】など、真の紋章と呼ばれるものが全紋章の中でも最大の力を持つものだが、これらは世界に二十七しか存在しない。そのためか、破壊力などの「効果」のほうも人知をはるかに超えている。
 真の紋章ほど極端なものではないが、普通に精製できる紋章でも、使いようによっては充分な効果を期待できた。

 イザクは即座には回答せず、マクスウェルの言葉の続きを待っている。
 約束は簡単にできるが、ラインバッハ二世やクレイの手の者が、正直に自分の立場を話すとも思えなかったし、「紋章の欠片」は現在、イルヤでもほぼ唯一の産業資源である。
 どれだけ止めても、外部に売ろうとする者は出てくるだろう。

「二つ目は、その紋章の欠片を、全て我々に譲ってほしいのです。
 保管してある物、店先に並んでいる物、現在、このイルヤにあるだけすべての物を。
 無論、ただで渡せ、などとは言いません。
 了解をいただければ後日、チープー商会がここを尋ねます。
 彼等と取引をして、適正な価格で売ってもらいたいのです」

 この提案には、さすがにイザクは驚いた。
 イルヤにあるすべてのもの、と言うのは簡単だが、合計すればどれだけの価格価値になるのか、想像もつかない。
 また、精製する紋章師の腕にもよるが、「紋章の欠片」は簡単に破壊兵器にすることもできる。
 だからこそイザクも、紋章の欠片に関する商売には厳重なルールを定め、商人たちに守らせているのだ。
 彼らがラインバッハ二世に紋章の欠片を譲るな、というのも、破壊手段への転用を防ぐためだろう。
 ならば、マクスウェルが大量の欠片を手に入れてどうするのか。
 ラインバッハ二世に代わって、彼自身が破壊の権化になろうというのだろうか。
 誰よりも【罰の紋章】による破壊に苦しんだ、彼自身が。
 イザクが、大きなため息をついた。

「私は、【罰の紋章】と戦い続けた二年前の君を、よく知っているつもりだ。
 君が、決して安易な破壊兵器を望む人ではなかった、ということをだ。
 だからこそ尋ねたい。その大量の紋章の欠片を入手して、君は何がしたいのだ」

 当然、予想していた質問であったのだろう。
 マクスウェルの表情は穏やかだったが、またも彼は何かを言いにくそうにしている。
 そして、最初に別のことを言った。

「ポーラ、アカギさん。すまない、しばらく席を外してくれ」

「なんだ、俺たちに秘密だっての?」

 余りにも意外な言葉だったからか、アカギの声が裏返った。
 ポーラも心配と不審とに表情を見事に二分したが、マクスウェルの言葉には従った。
 渋るアカギを引っ張り、イザクとマクスウェルの前から退出した。

「身内にも話せないようなことなのかい?」

「じきに彼らにも話します。
 でも、今はまだ無理なんです。不確定の要素が多すぎる」

 そしてマクスウェルはイザクに語った。
 彼が【罰の紋章】に見せ付けられた光景、その中にあった驚くべき現象、どうしてもそれを再現する必要がある、ということを……。

「……君がやりたいことはわかった」

 全てを聞き終え、イザクは声を低めて呻いた。

「全力で言わせてもらおう、やめるべきだ。
 君の命がもはや君一人のものでないことを、誰よりも自分が理解しているだろう。
 君の願望は、君の元に集う全ての人間への裏切りになるかもしれないのだぞ」

「分かっています。危険な賭けです」

「危険な賭けだと分かっているのなら、なおさら止めるべきではないか。
 失敗すれば、いや、例え成功しても、君が無事のままでいられるという保障はまずない。
 そのような考えに、私は賛成するわけにはいかん」

 マクスウェルは、イザクの優しさに浸っているのか、驚くほど優しい表情をしている。
 死を覚悟した者の開き直りなのか、それともなにかを悟りきっているのか、イザクにはわからない。

「イザクさん、俺だって、自分の死を望んでいるわけではありません。
 でも、真の紋章を身に宿しているということは、死よりも辛い思いをしなければならないときもあるんです。
 真の紋章を宿していること、それは体内に台風を抱えていることと同じです。
 圧倒的な力でのべつ幕なしに周囲を破壊し、中心にいる自分にはなんの被害もない。
 ある人に指摘されました。俺は「アマちゃん」だと。アマちゃんの俺には、そんな状況は耐えられないんです」

「……………………」

「ある意味では、自分も【罰の紋章】からのダメージにさいなまれていた時期の方が、今よりも気が楽でした。
 他人を傷つけ、自分も傷つく。当然の報いがそこにありました。
 しかし、紋章に認められた今の俺には、それすらありません。
 自分の行為はおろか、紋章が勝手に人を傷つけることにすら、持ち主の俺にはなんのリスクもない。
 そんな馬鹿げた話があっていいはずが無い」

「……………………」

「俺だって聖人ではありませんから、自分の身を守るためには力も使います。
 だけど、それ以上の殺傷はもうこりごりです。自分の意志の介在しない破壊など、もう充分です。
 この力が原因で、他の人に迷惑をかけることにも」

 何も喋れないでいるイザクに、マクスウェルは優しい表情を向ける。
 その視線に込められた覚悟の激烈さを感じ取って、イザクは表情を暗くした。
 マクスウェルが静かに言った。

「……だから、これで終わりにします。
 この事件を最後に、俺は歴史から消えます。もちろん、【罰の紋章】といっしょに。
 生きるか死ぬかはわかりません。
 ですが、【罰の紋章】が今後、表舞台に出てくることは、多分無いでしょう」

 イザクはしばらく顔を伏せてテーブルをにらみつけていたが、今度は顔を上げて天井を見上げた。
 これまで誰にも話せなかったことを一気に言い終えたマクスウェルは、大きく息を吐き出し、背伸びを一つした。
 イザクは、マクスウェルの一派とは直接には関係の無い人物である。
 そして、マクスウェルが最も信頼している人物の一人である。
 そういう人物だからこそ、マクスウェルはイザクに素直な心境を吐露できたのだった。
 近くにいるからといって、心にあることをなにもかも話せるか、といえば、決してそうではない。
 むしろ、遠くの人物にこそ言えることもあった。

「やれやれ、いきなり来たと思ったら、とんでもない話を聞かせてくれたものだね」

 イザクが表情の選択に二瞬ほど迷った後、苦笑した。
 どのような対応をすればよいのか、イザクは相当に苦慮しているようで、この紳士をして常識的な反応に終始させた。
 唯一つわかったことがある。下手な説得は、彼は聞くまい。
 そのことは確実に思えた。だから、説得はしなかった。

「少し気が楽になりました。ご迷惑をかけたとは思っています。すいません」

「謝ることはない。年少者は年長者に迷惑をかけるものだと、相場が決まっている。私も気にしない。
 だが、迷惑をかけたと思っているのならそのお返しに、私のわがままもひとつ聞いてもらおうか」

「お力になれるのなら、なんなりと」

「君に今更、覚悟をひるがえせなどとは言わない。
 だから、私は君についていこう。君の傍にあって、君の覚悟を見届けよう。
 そして、私の剣が君の助力になるのなら、それに勝ることはない」

 イザクは本心を語らなかった。
 ケネスが彼を説得しきれなかったように、語ったところで、今の彼の覚悟には届くまい。
 イザクは過去、彼が【罰の紋章】のことでどれだけ苦しんできたか、よく知っている。
 マクスウェルには、どのような形でもいいから生きていて欲しかった。
 人生にあるのは苦しみだけではないのだと、マクスウェルに知って欲しかった。
 彼の傍にいることで、ゆっくりとでもそれを教えてあげることができればいいと思った。
 イザクの言う「助力」とは、そういう意味が篭められていた。

 イザクの意志をどこまで理解したかはわからないが、マクスウェルは彼の参戦を歓迎した。
 優れた戦士としてよりもむしろ、年長者としての存在感を歓迎したように、イザクには思えた。
 戦いにも様々あるように、戦い方にも様々な種類がある。
 イザクがマクスウェルに助力しようとしているのは、どちらかといえば心の戦いに属するものだろう。
 簡単ではない。イザクは、その端整な口ひげに隠れた口元を引き締めていた。

COMMENT

(初:10.01.05)
(改:10.01.11)