クォ・ヴァディス 33

INTERMISSION - 太陽暦380年、ラズリル -

「おばあちゃん、入るよ。いい?」

 集中力の外から元気な声がして、老ターニャを現実の世界へと引き戻した。
 ターニャは微笑ましいため息を一つつくと、読んでいた本とまぶたとを閉じ、こめかみを軽くもんだ。
 体力は同年代の老人達よりもあるつもりだが、さすがに疲労は同年代の老人と同じように積み重なるようだ。
 集中力が人並み以上に持続するぶん、疲労の蓄積は人よりも感じてしまうのかもしれない。
 自分の年齢を自覚していないわけではないのだが、趣味の世界に年齢はない、というのが老ターニャの持論である。
 もっとも、生意気盛りの孫娘などは、

「おばあちゃんの場合は、自分の年齢としを自覚した気になってるだけだよ。
 年齢と行動と感情が一致しない人が、家族にどれだけ心配かけてるか、そっちのほうを自覚して欲しいよね」

 と、手厳しい。
 そう祖母を批判しつつも、この孫娘は、群島の歴史と【罰の紋章】に関する詳細な歴史を数々の資料から纏め直し、歴史学上の再発見に多大な貢献を成した祖母のことを尊敬はしているようである。

 ターニャが自ら収集し、解析し、纏め直した資料群を元に著した大著「パニッシュメント・ブリーフィング」(全153巻)は、その引用資料の豊富さ、引用の正確さ、歴史俯瞰の視点の斬新さ、記述の繊細さなど、あらゆる意味で、群島解放戦争前後四十年間の群島の事情を知る資料としては、まず第一級のものとされている。
 特に、数々の戦渦でその原本が失われたとされていた、マクスウェルとリノ・エン・クルデスの手記の再発見は、ターニャの歴史学研究においても、最大の功績とされていた。
 公式の歴史書では触れられていないこの二人の「本心」が、群島解放戦争以降の群島を貫くひとつのキーワードであることは疑い得ない事実であって、これを知ると知らないとでは、その研究成果に天地ほどの差が生まれる。
 この事実一つでも、ターニャは歴史に名を残す資格があろう。

 この孫娘は、あまりに気難しく、好んで近づく人も少なくなった老ターニャの書斎に足しげく通っては、祖母が収集した様々な資料に目を通し、分からないことがあると遠慮も何もなしに質問をぶつけてきた。
 老ターニャは、この好奇心旺盛で理解力に富む孫娘が、自分の業績を引き継いでくれることを期待して、できるだけ時間をとって孫につきあっている。
 時に的外れな質問をすることもあるが、わからないことを自らの目で確認しなければ気がすまない行動力と気の強さは、間違いなくターニャの遺伝であろう。
 その知識と識見においてターニャと双璧を成した、クールーク・赤月地方の歴史学の権威であるアンダルク・ベルグマンは、惜しくも先年、九十八歳の天寿を全うして世を去ったが、彼は死ぬまで、歴史学という地味な努力を必要とする学問の後継者不足を嘆いていた。
 後継者不足は群島の歴史学者も同じで、しかも代が替わるごとに小粒になっているような印象もあるが、ターニャはそこまで危機的な印象は持っていない。
 あと二十年でも経てば、自分の孫娘が学会を引っ張っていく存在になろう。
 それだけの器量は、あの娘には期待してもよいはずだった。

「おばあちゃん、勝手に入るよ。
 あ〜あ、またこんなに本ばっかり散らかして」

 扉を開くなり、口から文句を飛び出させたのは、その孫娘である。
 ソニアという名のその少女は、小柄でスレンダーだが、いかにも俊敏そうな身体と、強い意志を感じさせるグリーンの瞳をもっており、その行動力を全身で体現しているかのようである。
 やや白みがかった金髪をショートにしていることだけが異なるが、それ以外の印象は、若い頃のターニャの生き写しと言っていもいい。
 もっとも、この孫娘がそんなことを言われて喜ぶかどうかは、また別の問題である。

 ソニアは二つのティーカップと、軽いデザートの乗った皿をテーブルに置いた。
 祖母を相手に、歴史の資料をだしにして、昼食までの間、ティータイムを楽しもうというのだろう。
 祖母の老獪な知識や話術と、孫娘の若々しい感性は、このうえなく相性が良く、時々行われるこの時間は、双方にとって楽しみであった。
 もっとも、二人とも気が強く、口が悪く、滅多なことでは自説を曲げない、という共通項があり、ときには自分の年齢を忘れ、掴みかからんばかりの勢いで討論が喧嘩になることも珍しくはないが。

「何を読んでいたの?」

 とソニアが尋ねてきたので、ターニャは腰を上げて孫と同じテーブルにつきながら、先ほどまでの読書について語った。
 群島の英雄であるマクスウェルが、ラズリルを出奔したところまでの回想である。

「マクスウェル、か」

 ソニアは独語した。
 ターニャにとってマクスウェルは、歴史学の研究題材であり、なにより戦友であったこともあって、身近な存在に感じられるが、若いソニアにとっては二世代も前の人物である。
 群島の英雄、と一言で言われても、百年前も五百年前も同じで、彼は歴史表のなかの登場人物に過ぎない。
 ただ、ソニアは、マクスウェルというその名前を聞くたびに、まるでその生命力が至近に存在しているような感覚を覚えるのだ。
 自分の祖母がその英雄を支えた歴史の当事者であることが最大の原因であったろうが、彼の時代から後世に、膨大な資料が残されたことも理由の一つであったろう。
 マクスウェル本人の手記をはじめ、彼が関わった様々な地方の、様々な同時代人によって、彼の人物や業績について書かれたメモリアルは、後世にとっては見逃せぬ重要な資料でもあった。

 もちろん、数が多いということは、それだけ内容も雑多だということだ。
 研究に使う資料の取捨選択は、歴史学者にかなりのセンスを要求する。
 例えば、マクスウェルの最大の盟友の一人で、後の世に「薔薇の騎士」として高名を残したシュトルテハイム・ラインバッハ三世は、マクスウェルについて、

「その人格、清廉潔白にして公明正大。
 外に勇気あり、内に叡智を秘め、人に驕らず自らにうぬぼれず、出ずる言葉は人民をすべからく感服せしめる。
 世にいう人徳たる言葉をこれほど顕現する存在は昔日にも未来にもなく、百世に一人現れしこの英傑と交わる喜びを、いかに言い表すや。
 涙で語る以外の手法を私はついに知りえず」

 と、まるで神様をあがめるているかのような、彼らしい激烈な感動で記録に遺している。
 そうかと思えば、常にマクスウェルと敵対する陣営に身を置いた、元クールーク皇国海軍将校のヤンセン提督は、同僚への手紙の中で、

「かのマクスウェルなる若輩者には、ほとほと手を焼いた。
 エルイール要塞の悲劇にはじまり、我が皇国の滅亡に加担して多くの無辜むこ(罪の無いクールーク人)を殺し、次にはその強暴たる紋章の力で、彼にとって大恩あるはずのオベルの無辜を殺そうとするなど、彼の行動はまさに鬼畜の所業である。
(中略)
 彼の行動には一切の人の情が無い。
 人に対してはまだ戦いようもあるが、悪魔に対しての戦い方は、私はこの年までついぞ知ることが無かった。
 あれはまさに、人の皮をかぶった悪魔そのものである」

 と、まったく逆のことを書いている。 「真の紋章」という、人の理解を超える力を身につけてしまったマクスウェルの存在は、敵対するヤンセンにとっては、理解不能の悪魔としかうつらなかったのであろう。

 この二点の文章からは、マクスウェルが仲間から慕われ、敵には恐れられた、ということはかろうじて読み取れるものの、ここまで極端に感情的だと、残念ながら公平な歴史的資料にはなりにくい。
 最初から歴史に残すことを目的に書かれた文章ならともかく、筆者の主観のみによって書かれたメモリアルを歴史資料に用いるかどうかは、なお多くの議論が交わされなければならない。
 その主観が、歴史的な事実を正確に捕らえているとは、限らぬからである。

 だが、当時の人物の心の動きまでを探るならば、それらの資料を無視することはできない。
 各国の記録文書はたしかに客観的に事実を伝えてはいるが、いっさいの主観を排した編年体から、登場人物たちの躍動するような心の動きまでを読み解くことは、ほぼ不可能である。
 それらの事実を基にして英雄達の活躍を描いた歴史小説などもあるにはあるが、フィクションを基準にして歴史を語ることの危険性については、ここであえて触れるまでも無いだろう。

 幸い、マクスウェルという人物に対しては、肯定的なもの、否定的なもの、両方の記録が豊富に遺されており、資料の選別にはことかかない。
 このソニアの時代においては、当時を知る数少ない生存者として、祖母ターニャの記憶がもっとも尊重されるべきものであるはずだが、ターニャは、若い頃の自分の記録を客観的に引用することはあっても、

「一週間前に何を食べたかも覚えていない老人が、七十年も前のことを正しく語るわけがなかろうが」

 と、公的な場で当時の思い出話をすることは、死ぬまでなかった。
 ターニャのこの観念論的な傾向は、後にシュリックが著書「群島歴史学俯瞰」の中で、

「歴史を知るものが、自らの記憶を後世に語り継ぐのは、そのように忌避されなければならぬことであろうか?
 歴史学における「記録」が、「記憶」という概念を持ち込む事で血肉を与えられ、より確実にちかい証拠となりうるのは今更語るまでもないことだが、ターニャが自らの「記録」を解放し、「記憶」の解放を拒んだことは、残念ながらその証拠の実体化を自ら拒否したことに他ならない。
 ターニャの歴史学者としての功績が賞賛すべきものであることは誰も疑うところではないが、「歴史行動者」としての彼女の観念が、「歴史学者」としての自らの功績をややも薄める結果になってしまったのは、残念というほかはない」

 と、彼らしく小難しい筆致で惜しんでいるが、ターニャ自身は、群島の歴史学における自らのポジションをよく理解していたから、曖昧な記憶でいい加減な歴史を語りたくはなかったし、シュリック曰く「歴史行動者」としての自分が既に、歴史表の中の登場人物として、「語られる側の存在」になりつつあることも理解していたのである。

 ソニアは、祖母が記した大著の第五十八巻を、本棚から手にとって、パラパラとめくった。
 マクスウェルがラズリルからもオベルからも独立し、彼にとって正念場となる時期の記述の部分である。
 意識したわけではなく、偶然の選択だったが、老ターニャはそこになにやら興味を惹かれたらしい。
 このときの彼女の様子を、ソニアの手記から引用してみよう。

「私がその本を手に取ったとき、祖母の表情が、明らかに興味の色に染まった。
 きわめてまれなことに、いつもしかめつらしい顔をしているターニャが、まるで昔を懐かしむ、普通の老人のような表情で頷いていた。
 私が興味を示した部分が、自分がもっとも活躍した時期の記録だったことが、素直に嬉しかったようだ。
 公式の場では、歴史家はいい加減な記憶で歴史を語るべきではない、と口癖のように言っているターニャであるが、このとき、私はふと思った。
 外に向けては、自分で設定したルールで厳しく自分を律しているこの人は、本当は自分の活躍した時代の話を、誰かに話したくてしかたがないのではないか?
 その人並みの願望を、人並み以上の意志でおさえこんだ反動の力が、この人をして一流の歴史家たらしめたのではないか?
 手にした彼女の著書を読み終えたとき、私は確信していた。
 ――若い頃からこの人は、素直ではなかったのだ。どうしようもないほどに――」

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(初:10.06.29)