クォ・ヴァディス 32

5-12

 五月一日早朝、ラズリル騎士団のカタリナの執務室に、六人の人間が集まった。
 ラズリル側からカタリナとケネス、ターニャ、オベル側からリノ・エン・クルデスとフレア、そしてこのどちらにも属していないケイトである。
 リノ・エン・クルデスはジーンに諭されてからようやくその精神に火がついたらしく、この二日ほど、ラズリル側との作戦会議や、オベル海軍の再編成など、山積した仕事に手を付け出していた。
 オベル海軍は、カタリナが出した入港条件の第三項「兵の所属に関する自由意志の尊重」と、リノ・エン・クルデスの不甲斐ない憂鬱によって、ほとんど解体に近い状態にあり、国王の周囲にいる旧臣はすでにミレイ一人、という惨状であったが、リノに残された最後の楯であるオセアニセス号は、国王の復活にあわせるかのように、その巨体に相応しい活気を取り戻しつつある。
 そんなオベル亡国王の姿に、ラズリル側も口うるさいターニャも、ようやく本格的に行動に移ることができると安堵の表情を見せていた。

「それにしても、あんたの師匠とやらは、本当に人使いがあらいね」

 ケイトがぶつぶつ文句を言いながら、ターニャに厳しい視線を向けた。
 ケイトの言によると、彼女を現在雇っているエレノア・シルバーバーグは、先日までこのラズリルにいたのだという。
 自分が忍びの術に長けているのを良いことに、色々とこき使われているらしい。

「エレノア師がここにいらしたですって? 一言も聞いていませんが」

 ターニャが疑わしげな視線をケイトに向けたが、マクスウェルの恫喝でも小揺るぎもしなかったこの女忍びには、なんの効果もなかった。

「知らないね、個人的な事情はそっちで片付けてくれ。私が頼まれたのは、この手紙だ」

 言ってカタリナに、仰々しく封をされた一通の親書を渡した。
 親書に封をしている蝋には、かろうじて見覚えのあるクールークの印章が押してあった。
 カタリナがその親書を開け、テーブルに広げる。リノ・エン・クルデスやフレアにも読んでもらうためだ。
 今は結束のためにも、どのような情報でも共有しなければならない。

 親書は、元クールーク皇国の将軍の一人、オルネラからであった。
 現在のオルネラは、旧クールーク領内で、元部下や弟のバスクと共に一勢力を率いている諸侯の一人である。
 クールークがまだ健在だった頃、皇王派の実力者の一人であった彼女の元には、旧クールーク軍の残党が集まりだしており、その勢力は周囲にとって無視できぬ数となっていた。

 その親書の内容を要約すれば、こういうことであった。
 旧クールーク領内を分割支配している勢力には、旧皇王派と旧長老派の二つの流れがあり、ミドルポートによるオベル占領に手を貸したのは、長老派を起源とする一派である。
 クールークの恥をこれ以上国外に晒すのは自分たちの本意ではなく、オベル国王にはコルセリア王女を助けてもらった恩もある。
 また、亡国の思いを経験した自分たちであれば、今回はオベル国王に協力させていただきたい……。

「なんてこった」

 リノ・エン・クルデスが、怒りとも呆れともつかないような唸り声をもらした。

「あいつら、クールークで決着がつかなかった皇王派と長老派の争いの続きを、群島に持ち込んでまでやる気かよ!?」

 クールーク皇国は巨大な国家であったが、内部は決して一枚岩などではなく、二つの勢力が常に勢力争いをしていた。
 皇王の血族である「皇王派」と、官僚の集団である「長老派」である。
 皇王親政による理想の貴族政治アリストクラシーを目指す皇王派と、現実的な政治の形態を知っている長老派の間には、融和など生まれようもなく、典型的な政治闘争の結果として、クールークという国は瓦解してしまった。
 皇王派は、現実的な長老派から常に「夢見る集団ドリーマーズ」などと揶揄されたが、決して人がいなかったわけではない。
 クールーク瓦解直前の時期にあっては、皇太子マルティン将軍、海軍のトロイ提督、そして近衛司令官を勤めたオルネラ将軍が、皇王派では際立った人物として知られた。

 もっとも、ライオンのように猛々しい風貌と、その風貌に相応しい巨体を誇ったマルティンは、外見からイメージされる印象そのままの猛将であり、軍人としては評価は高かったが、皇家の一員としてのプライドが高すぎ、政治家としてはほとんど評価されていなかった。
 オルネラは精神的に鋭敏な嗅覚と平衡感覚を備え、地方行政に自ら関わるなど行動力もあったが、「国家のために」と皇王派と長老派のスムーズな融和路線を意図した結果、かえって優柔不断のそしりを受けてしまい、ついに主流派になることができなかった。
【海神の申し子】と呼ばれ若くして偉才を謳われたトロイは、清廉潔白な精神も慕われており、将来を嘱望されていたが、その忠誠心ゆえに自ら活躍の場を海軍の内に限定してしまい、政治の舞台に上がる前に、群島解放戦争にて壮絶な戦死を遂げてしまっている。
 クールーク崩壊の直接的なきっかけとなったのは、後の世に「グラスカの大淫婦」などと悪名を残したマルティン皇太子妃ミランダが、奸臣イスカスに心の隙を利用されて政治を引っ掻き回したことであったが、その土台には、長年に渡る両派の対立の歴史があった。
 権力の中心にいたのは常に皇王派であったが、彼らは手練手管な長老派を押さえ込むことができず、その争いはクールークという国がなくなってからも続いているのだった。

「ターニャ、お前が以前言っていた「援軍」というのはこれか。
 俺にはクールークの権力亡者どもの争いに利用されているだけのようにも思えるが」

 リノ・エン・クルデスが意地悪く問うと、ターニャは鼻を曲げて反論する。

「違います。私たちが、クールークの勢力を利用するのです。
 権力亡者であるが故に、逆に利用もしやすい。
 ラインバッハ二世が長老派と結託したのも、そういった精神の浅ましさを手玉に取り安かったからでしょう」

「ま、「権力亡者」という面では、俺も人のことを悪く言えた義理ではないがね」

 ターニャの言を若さゆえの強がりと見たのか、リノは口の端で笑った。
 これまでのリノ・エン・クルデスには見られなかった表情の一種である。
 リノは視線をカタリナに向けた。

「それで、どうするね、カタリナ団長。彼らの力を借りるのか否か」

 問われたカタリナは、既に意志を決めているようで、力のこもった視線でリノを見る。

「どの程度まで信用すべきかは、直に会ってみないと分かりませんが、責任の所在がはっきりするのは好都合ですわね。
 クールークのことは、クールークで責任を取ってもらいましょう。
 私たちが責任を持ってすべきは、群島側の混乱を収束させることです」

 既にラズリルとオベルで構成されている艦隊にクールークが加われば混乱を極めるかもしれないが、敵と目的とがはっきり区別できれば、その混乱も最小限に抑えることができるかもしれない。
 カタリナはケネスを通して、マクスウェルらの一派とも、暗黙の了解のうちに協調行動をとっているが、それもこの目的のためであった。
 つまり、混成ならば混成なりに、対決すべき対象を限定させておくのだ。
 旧クールーク皇王派のオルネラらには、クールークの長老派を。
【罰の紋章】を持つマクスウェルには、それを狙うグレアム・クレイを。
 そして、自分とリノ・エン・クルデスは、オベルを占領したラインバッハ二世とそれぞれ対決する。
 こうして相手をはっきりさせておくことで、味方勢力内での複雑な思惑のぶつかり合いを最小限に抑えることができるし、敵の勢力の分断を図ることもできる。

 それに、別の目的もある。
 実はリノ・エン・クルデスとマクスウェルは、未だに和解に至っておらず、この両者に協調関係を強いるとあれば、微妙な緊張が生まれるであろう。
 両者の中間にいるラズリル騎士団としては、とばっちりになる可能性があるその要素を、早い段階で取り除いておきたかった。
 マクスウェルの立ち位置は、オベルにもラズリルにも近すぎ、また下手に名声があるため、この場合は扱いに困るのだ。
 このあたりは、激しい状況の変化の皮肉と、ラズリル側の読みの甘さも原因であった。
 先日はケネスが、他ならぬマクスウェルを、オベルとラズリルの仲介役にしようとしていたのだ。
 マクスウェルとリノ・エン・クルデス、二人の関係の悪化が、ここまで深く、ここまで長引くとは予想できなかったのである。
 彼が迷いながらも自らの一派を率いることを決意したことは、カタリナにとっては僥倖ぎょうこうだった。
 マクスウェルが独自の行動をとるとなれば、おおっぴらには動きにくいラズリルを出て、別の場所に本拠を構える可能性が高い。
 少し人が悪い言い方だが、ラズリルからマクスウェルが出てさえくれれば、ラズリルはそれだけ、オベルとの結束に意を注げるのである。
 無論、マクスウェルに一方的な損をさせる気も、カタリナには無い。カタリナにとって、マクスウェルは恩人の一人である。
 彼の一派形成とラズリル出奔については、最大限の助力をするつもりであった。

 カタリナからそのことを説明され(意識的にマクスウェルのことには触れなかったが)、リノ・エン・クルデスはにやりと微笑んだ。
 以前と比べれば幾分、挑戦的な要素を含んだ微笑であったが、行動力の存在は確認できた。

「よろしい、理に適ってもいるし、我々はラズリル騎士団長の意志に従おう。
 今後も共に対策を進めていきたい。よろしくお願いいたしますぞ」

 リノ・エン・クルデスは開き直っているのか、かつてほどの反感をカタリナには持っていない。
 味方に反抗心を向けるくらいなら、まだ敵を呪詛したほうが合理的である。殴るのなら、味方よりもまず敵を殴るべきであった。
 そのことを、彼は知っていたのである。

「ああ、それとね」

 最新の情報ではないが、と前置きして、ケイトが、オベル沖開戦が始まる直前に、オベル島に潜入したときのことを語った。
 セツが王宮に軟禁されていること。
 トリスタンが反ミドルポート勢力を率いて孤軍奮闘していること。
 ジェレミーが行方不明になってしまっていること。
 そして、ロウセンがグレアム・クレイによって殺されたこと。

 これらの話を、リノ・エン・クルデスはケイトが驚くほど、落ち着いた面持ちで聞いていた。
 ロウセンの死に話が及ぶと、さすがに少し表情を沈めて、

「そうか、彼には悪いことをした」

「ロウセンが死んだ……」

 と、リノ・エン・クルデスは一言だけ言った。

マクスウェルは、呆然として一瞬を過ごした後、口元を怒りに満たして、壁を殴りつけた。

「役目を全うしてくれた彼に、何らかの形で報いねばな」

「……俺に、彼の死を嘆く資格は無い。だけど、このままにはしておかない、必ず……!」

 リノ・エン・クルデスは、あらかじめ決めていたような言葉を口にした。

マクスウェルは、激情を無理に押さえ込んで、うめくように低い声を吐き出した。

 彼としては、そうとしか言えなかったであろう。

 彼としては、そうとしか言えなかったであろう。

 権力者同士の駆け引きを、ケイトは興味深げに見守っていたが、自分が更なる駆け引きのカードを持っていることを、彼らには告げなかった。
 ケイトはこの時、似たような親書を、彼らよりも半日も前にマクスウェルにも手渡していることなど、カタリナにもリノにも、ターニャにも語っていなかった。
 ロウセンの死、という事実に対して、マクスウェルがリノとは異なる反応を示した、ということも。

5-13

 カタリナに黙認され、リノ・エン・クルデスには黙殺されているなかで、マクスウェル独立の噂は、静かだが力のある奔流と化して、ラズリルの周辺を流れていた。
【オベル島攻撃】の暴挙によって、幾分名誉を失墜したとはいえ、マクスウェル自身の才腕や、なによりも真の紋章の持つ可能性は、未だ計り知れない。
 この噂は、事件を見守りつつ、それを知る人々の決心に、ある程度の方向性を与えると思われていた。

 マクスウェルたちは注意深くその様子を探りながら、自らも行動を起こしている。
 マクスウェルはケネスやカタリナと毎日のように会い、フレアやビッキーともできる限り時間を作って協議を重ねた。
 リノ・エン・クルデスだけを徹底して避けていたのは、明らかに不自然な行動ではあったが、それはリノの方でも同様だった。

 そんな忙しい彼ら一派のなかでも、もっとも活発な動きを見せているのは、意外にもリシリアというエルフの少女である。
 マクスウェル独立の噂を聞きつけて、ラズリル騎士団やオベル海軍から、彼を慕って尋ねてくる兵士が徐々に増えつつあるが、それらの人物を見るたびに、リシリアはポーラの後ろに隠れながら、

「ポーラ、こいつは【悪い心】の持ち主か?」

 と、この時期のラズリルで最も有名になってしまったセリフを言った。
 リシリアは、彼らが本当にマクスウェルの役に立つ存在どうか、といった大人の事情など全く関係なく、自分の欲求に従って、人間というものをストレートに知ろうとしているようであった。
 マクスウェルの元を訪れるのは、マクスウェルのために何かできないかと思っている者、より活躍の場を求めて近寄ってくる者など、彼に接近する動機は様々であるが、その奥底には、マクスウェルという英雄の【ブランド】に日和ることで、未来の自分に齎される利益を計算したり、などといった打算が全く無いわけではない。
 リシリアの幼い瞳に貫かれた彼らは、

「いきなり面接官か尋問官に下心をのぞかれた様で、心臓に悪い」

 などと、そろって苦笑した。
 そしていつのまにか、「このエルフの少女の人選眼にかなえば、独立勢力の一員として認められる」という、いささか奇妙な暗黙の了解が成り立ってしまっていた。
 マクスウェルは、その様子を黙って眺めていた。
 一つには、ただでさえ忙しいさなか、一日に会う人物の数を、これ以上増やしたくなかったのだ。

 この時期のマクスウェルを最も喜ばせたのは、ラインバッハが彼の一派への参加を熱望してくれたことだった。
 ラズリル入港直後、オセアニセス号の船牢から開放されたラインバッハは、「ぜひミドルポートの新しい指導者に」という盟友シャルルマーニュの懇願を、極めて丁寧に、だが頑として拒絶した。

「自ら民を裏切った愚者の一族が、同じ民を率いるなどという恥知らずな真似は、私にはできない」

 という彼の意思は、どうあっても動かすことができず、シャルルマーニュも諦めざるを得なかった。
 もともと詩人めいた、繊細な感性を持つラインバッハである。実の父への憤りは大変なもので、彼の決断と行動は非常に早く、噂を聞いたその日には、マクスウェルのもとを訪れていた。
 この青年貴族の誠実さは、少なからず彼の助けとなるであろう。

 カタリナの予想したとおり、彼は本拠地をラズリルには構えないことを決心していたが、それをどこにするのか、場所が決まったとしてどうやってそこまで行くのか、問題は山積している。
 そのために、マクスウェルはまず、アカギとミズキにチープーへの手紙を持たせ、ネイ島に派遣した。船にとりつけることで常識外の高速航行を実現する「流れの紋章」を調達するためだ。
 マクスウェルは、アカギからナ・ナル島での事件の顛末を聞いたときから、この紋章の利用法を考えていたらしい。

 実はもう一つ、マクスウェルからチープーにあてられた手紙には、今後のマクスウェル一党の進退に関わる重要な一案が添えられている。
 エレノアとアグネスの思惑により、マクスウェルは既に自らの独立勢力の中核となるべき部隊を海外に求めているが、その勢力と、元より自分についてきてくれている一派との融和を図るために、マクスウェルはチープー商会の群島における影響力を最大限に利用するつもりだった。
 無論、チープー商会側にもメリットをもたらす形で、である。
 様々な悩みを抱えながらも、マクスウェルの視点はすでにラズリルの外に向いている。
 では、脱出するための肝心の船のほうはどうするのか。その問題を解決するために、五月三日、マクスウェルはアグネスを連れ、ラズリルの漁村を訪れた。
 ラズリルの漁業を取り仕切る責任者、シラミネに会うためである。

 シラミネはラズリルの出身ではないが、異国のラズリルでも尊敬されるほど、漁師としての腕前は確かだった。
 筋骨逞しい長身の青年だが、その表情には、ナ・ナル島のロドルフォのような荒々しさはない。
 常に落ち着いた大人の気性をもっていたが、唯一、その体格からは想像しづらい、妙に甲高い声が、彼に接する人の意表を突いた。
 そのシラミネが、マクスウェルの眼前に、あぐらをかいて座っている。

「ムウウウウン、船を貸せと簡単に言われるが、詳しい状況が何もわからぬではなあ……」

 シラミネは顎に指をあてて、細い目をさらに絞り、首を派手にヒン曲げた。
 古風な言い回しと奇妙なうなり声は、この偉丈夫の口癖であった。

「貴殿らの話は理解できるし、拙者は貴殿を尊敬しているから、味方はしてさしあげたいが、それと船の話はまた別でなあ。
 日取りも、人数も、行き先すらわからぬ。そのようなあやふやな状況で、協力を求められても困る。
 我らは無理に戦争だの政治だのにかかわらずとも、漁師として平和に暮らせればそれでいいのだが」

 まったくもってそのとおりだろう、とマクスウェルも思う。
 言ってしまえば、マクスウェルの独立の話は、シラミネたちの生活には関係のないことである。
 そんなところに一方的に船を貸せ、などと言い寄られるのは、迷惑以外の何者でもないだろう。
 シラミネを説得するには、彼らの現実に即した、それなりの「理」が必要だった。

 しばらく、マクスウェルとシラミネの、丁重な押し問答が続く。
 慎重なシラミネに、後ろで話を聞いているタルがじれてきている。
 タルはマクスウェルやケネスの海兵学校の同窓であるが、マクスウェルやケネスなど性質的に大人しい者が多かった優等生集団にあって、彼はそのひょうきんな性格で、ジュエルとともにムードメーカーとなることが多かった。
 今回も、親友のよしみもあってか、彼はマクスウェルに同情的だった。

「シラミネさん、らしくないぜ、なに躊躇してんのさ。
 マクスウェルが、また悪いヤツと戦おうってんだ。ここは味方してやるのが男の道ってやつだろう」

「ムン……」

 シラミネは腕を組んだまま首を振った。

「タル、それは騎士の男の道だ。漁師の男の道ではない。
 お主はなるほど、海上騎士の出身だから、そのような道の捉え方もあろうが、いまはいまの立場で己を見よ。
 拙者たちがまず護るべきは、家族と、漁場と、船である。
 たとえ領主が騎士団からいずこの者に変わろうと、これに危害が加えられぬ限り、我らの生活に変わりはない。
 我らは、軽々に周旋(政治活動)に乗り出すべきではない」

 このような視点でものを見ることができるシラミネは、ただ筋骨が逞しいだけの武辺ぶべんではなかった。
 ナ・ナル島の漁師のように、強烈な保守性、攻撃性によって、自らの生活そのものを破壊してしまうような短慮さはない。
 その慎重さは、時にことなかれ主義のようにうつることもあるが、どちらかといえば性質的に大人しいラズリルの漁民たちの間では、むしろ彼の慎重さは信頼された。
 シラミネの大きな背中は、若い漁師たちに、説得力という大きな重石となって、どっかりと彼らを制御している。
 マクスウェルとシラミネの会談が硬直しかけたとき、初めてアグネスが口を挟んだ。

「シラミネさん、私を覚えておいでですか」

「ムン?」

 シラミネはほぼ直角に首を曲げてアグネスを見てから、ぽんと手を叩いた。

「おお、エレボス軍師の元におられたラスネール君ではないか、久方ぶりじゃのう」

「ラスネールじゃなくて、アグネスです! しかも誰ですか、エレボスって!」

 全力で突っかかろうとするアグネスを、マクスウェルとタルの二人がかりで羽交い絞めにして止める。
 当のシラミネは飄々として、

「拙者、名前と顔がなかなか一致せぬ。
 マクスウェル殿とはよく釣りを共にした仲ゆえ、よう覚えておるが、そなたとは久方ぶりゆえじゃと思うて、まあ堪忍堪忍」

 などと、手を振った。
 しばらく、アグネス改めラスネール改めアグネスが大暴れしたが、場が片付けられ、会談は再開した。
 アグネスが呼吸を整えて言う。

「現在、ラインバッハ二世の下には、グレアム・クレイがいます。
 クレイ商会がかつてクールークと組み、占領地の漁師に何をしたか、お忘れではないでしょう」

「ムン……」

 シラミネは苦々しい顔で黙り込んだ。
 クールークと組んだクレイ商会は、「クールークとの貿易を見越した、現地の海産物の生産調整」などと称して、地元の漁船の大半を破壊してしまったのである。
 無論、生産調整などというのは方便にすぎない。実際は、地元の漁師の生活の糧を奪い、力を落として反抗させないための政策である。
 また、外部との連絡を独自にとりにくくする、という意味もある。
 これには、シラミネの知っている多くの漁師も被害にあっていた。
 アグネスは重ねて、シラミネの苦悩を煽る。

「しかも、ラインバッハ二世はミドルポートの領主だった時代、漁師たちの水揚げした魚や、漁業に使う道具をすべて政府の専売にしようとして、地元漁民からの大反発を買った過去があります。
 無論、政府専売にされれば、せっかくの魚は極めて安く買い叩かれ、多くの漁師が廃業に追い込まれるでしょう。
 金が入るのは、ラインバッハ二世の懐のみ。漁師の懐からは、金は出て行くのみです。
 ただでさえ漁師たちの生活向きは芳しくないと聞きます。
 現在、オベルに拠るラインバッハ二世が群島に覇を唱えた場合、守銭奴である彼が、大規模にその過去を再現する可能性は、極めて高い。
 ラズリルの漁師を守るあなたが、その状況を見て見ぬふりをされるのですか」

「それに、だ。
 当時のクレイ商会は、海賊まがいのたちの悪いやり方で海上の漁船から暴利を貪っていた。
 オベルの支配にかかる金銭を得るために、今でも海上を荒らしまわっているという話もある。
 彼らの行動範囲は広い。決してラズリルのみが別天地というわけではない」

 アグネスとマクスウェルの話を、無言のままシラミネは聞いている。
 タルも不安そうに、先輩漁師の背中を見ていたが、シラミネはついに決心した。

「貴殿らの言上は承り申した。
 だが、貴殿らの言う懸念は、いまのところすべて予測・予想に過ぎぬ。
 ラインバッハ二世の失政も存じているが、それも彼が若いときの話だと聞いておる。
 未確認の情報と不確実の危機に慌てふためいて、世を荒げるわけにはいかぬ」

「シラミネさん、そんな暢気な……」

 マクスウェル以上に焦った物言いで、タルが後ろから声を上げたが、シラミネはそれを、背中越しの視線だけで制した。

「まあ待て、タル。
 拙者、世に擦れた愚者なれど、マクスウェル殿の英気はよう存じている。
 そして、群島世界、漁業の世界が危機に瀕しているのも、事実であろう。
 拙者はラズリルの漁師の生活を守る立場として、貴殿らの協力要請には慎重をもって当たるほか無し。
 だが、世の危機を知れば、拙者の目を逃れて勝手に行動する不届き者も、きっと出てくるであろうなあ」

 シラミネは笑った。ニヤリ、という表現がぴったりの笑顔である。
 一瞬、タルはぽかんとし、マクスウェルも口元を引き締めたが、すぐにその意を理解して口元を緩めた。
 要するに、表立って派手に協力することはできないが、協力したい者が勝手に協力するぶんには掣肘せいちゅうはしない、ということだ。
 無論、シラミネは、タルがマクスウェルの同窓であり、親友であることをよく知っている。
 タルは勢いよく立ち上がって、真っ黒に日に焼けた腕を叩いた。

「ありがとよ、シラミネさん!
 よし、いくぞマクスウェル。どれだけの船が出せるか、よく調べておかなきゃな!」

 言うと、マクスウェルの腕を引っ張って、二人して出て行ってしまった。

「拙者の目を盗んでいけと、言うたばかりではないか……」

 シラミネは呆れている。
 若者を中心に、タルが内々に打診した結果、大小、十八隻の漁船が協力してくれることになった。
 収容可能人数は最大で七十七名である。

「数的には充分すぎるほどだな」

「というよりも、供給過多、とすら言えますね。
 何せ、私たちはまだニ十人程度しかいないんですから」

 意気揚々と結果を報告してきたタルの話を聞いて、マクスウェルもアグネスも苦笑した。
 ラズリルの漁師の協力に対して、マクスウェルはかなりの額の金銭的寄付を約束した。
 また、漁師の生活の向上に関してラズリル騎士団や群島各島の領主と会談を持つ気があるのなら、自分がその仲介をしてもよい、と申し出た。
 漁師たちにしても、これは悪くない条件であろう。

「とりあえず、五十人を目処めどに仲間を集めよう。
 集まればそれでよし、集まらなければそれでもいい。
 人数が少なければ、それだけ静かにラズリルを出ることができる」

 アグネスは頷いた。
「マクスウェル一味」の「ラズリル脱出計画」は、今やマクスウェルの軍師と目されているアグネスの双肩にかかっている。
 エレノア・シルバーバーグの一番弟子、その腕の見せ所であった。

COMMENT

(初:09.12.08)
(改:09.12.16)
(改:09.12.22)

 皇帝派→皇王派の誤りを訂正。
(改:10.01.30)

(改:10.03.23)