クォ・ヴァディス 31

5-10

 四月二十九日。
 深夜の闇の中、リノ・エン・クルデスは、春先の冷えた空気を、自らの精神の冷たさでさらに温度を下げながら、歩いていた。
 息が詰まりそうなグレンの旧私室から出、ラズリル海上騎士団の館の中庭に出ていたのだ。
 この中庭は五万平方メートルという広大な面積があり、ラズリル騎士団の宿舎の高い建物に周囲を囲まれている。
 昼間には、若い騎士たちが戦闘訓練に精を出していたり、訓練校の生徒が騎士団長の訓示を整列して聞いていたりするが、さすがにこの時間には誰もいなかった。
 リノ・エン・クルデスの巨体だけが、広大な中庭の中央にぽつねんと立ち尽くしている。
 彼にとっても、ここは懐かしい場所だった。
 群島解放戦争のおり、ラズリルに駐留していたクールーク艦隊を打ち破り、その支配からラズリルを解放した。
 そのとき、この場所で、群島解放軍指揮官でありラズリルの出身者でもあるマクスウェルは、ラズリルの市民を前に、彼らしくもない熱烈な大演説をぶち上げたのだ。
 その脇で彼を見ていたエレノアとリノは、マクスウェルが、ガイエンの元一騎士から英雄へと変貌した瞬間を、驚きと共に見上げたものであった。
 わずか二年前の出来事であったが、それも遠い昔のように感じるのは、自分が年をとってしまったからか、それとも時の流れを正確に感じる機能が麻痺してしまっているのか。
 どちらにしろ、健康的な要素でないことだけは確かだった。

 ここ数日、マクスウェルは悩みながらもなんとか前進を始め、カタリナやケネスは来るべき再戦の時に向けて忙しく動いていたが、最も活発に動いていなければならないはずのリノ・エン・クルデスは、その巨体を縮こめたまま動きを見せないでいた。
 彼は、カタリナらと行う朝夕の軍議には、オベル側の代表として殊勝に参加はするものの、積極的に討議に参加するようなこともなく、沈黙を守ることが多かった。
 沈黙を守るだけならばまだ良いが、最近は会議の進行が耳に入らぬような態度を示すこともあり、カタリナを困惑させ、ターニャを苛立たせている。
「オベルのために」という意識が少なからずあるラズリルとしては、オベル国王のこの態度は、不安と不満とを募らさざるをえず、どうしても意気も上がりづらかった。
 唯一の救いは娘のフレア王女が活発な動きを見せていることであったが、残念ながら彼女にはまだ父王ほどの強い影響力はなく、リノ・エン・クルデスの心に広がる波紋は、そのままオベル海軍、ラズリル騎士団の人心の波紋としてラズリルに広がりつつあった。

 人々の驚きと困惑の本当の理由は、オベル国王の態度そのものではなく、「あの豪胆なオベル国王でも、ここまで落ち込むことがあるのか」という事実への認識であったのだが、これはリノ・エン・クルデスへの過大評価であろう。
 いくら彼が豪胆な偉丈夫であり、剛健な武人であるとはいっても、彼は神でも超越者でもなく、リノ・エン・クルデスという一人の人間である。落ち込むことも拗ねることもあろう。
 ただそれを理解しえても、その落ち込み方が極端すぎることは事実であった。
 ラズリルの面々やマクスウェルが早期に立ち直れたのは、何よりもアグネスやターニャという外部の要因があったからであるが、リノ・エン・クルデスにはそれもなく、それどころか、彼の身近にいる人間の全員が彼を貶めようとしているかのようですらあった。
 マクスウェルの凶行に始まり、カタリナの先日の態度、毎日のように続くターニャの執拗なあげつらいなど、彼にとって快い要素など、一欠片もなかったのである。

 特にマクスウェルの「オベル島攻撃」という行為が、彼の心境に及ぼした影響は大きかった。
 その能力や人格を高く評価し、重用もしていただけに、逆に「裏切られた」という意識も強烈だった。
 マクスウェルが自分の意思でオベルを攻撃したわけではない
 彼の性格を良く知るリノ・エン・クルデスには、そんなことは百も承知である。
 だが、確かに【罰の紋章】はコントロールも難しい厄介な代物ではあろうが、彼はなんとかそれをコントロールしていたのだ。これまでは。
 なぜ【あの瞬間】だったのか。なぜ目標が【オベル島】だったのか。
 あの海戦中、オセアニセス号に巻きついた化け物を消滅させたのは確かにマクスウェルではあるが、その瞬間に彼がすでに【罰の紋章】に乗っ取られていたのだとしたら、それも果たして【功績】と言えるのかどうか。
 理性でも感情でも、納得できないこと、理解できないことが多すぎた。

 なによりも、その【暴挙】を行った当人のマクスウェルが、自分のもとに謝罪に来ない、そのことも、リノを苛立たせた。
【暴挙】を行ったのが他国の人間ならば、謝りに来るはずもあるまい。彼としても、一方的に断罪すれば済むことである。
 だがマクスウェルは違う。彼は客将とはいえ、リノ・エン・クルデス国王、そしてオベル王国の臣下であるのだ。
 当然、オベルの国民と国土に対して、愛着も責任もあるだろう。
【罰の紋章】による攻撃が彼の意思によるものでないにしろ、いや、彼の意思でないからこそ、マクスウェルはリノ・エン・クルデスとオベル国民に対して、真剣に謝罪するべきではないのか。
 それが、現段階ではオベルの統治者ではないフレアには謝罪しておいて、自分に謝罪に来ないのはどういうことなのか。
 マクスウェルにとって、オベルと言うのはその程度の価値しかないのか。
 都合が悪くなったら、責任者の前から平気で逃げ出す。彼にとってオベルとは、その程度のものでしかなかったのか。
 マクスウェルの無作法もそうだが、この認識が、リノ・エン・クルデスのいらつきの第一の原因と言ってよい。
 もっとも単純に言ってしまえば、

「そんなに、俺に頭を下げたくないか」

 という感情にいきつくであろう。
 それとも、彼は一年前の言葉を、そのまま実行するつもりなのだろうか。
 一年前、クールーク国内でキリルと共に戦っていたとき、マクスウェルはリノ・エン・クルデスの信頼に対して、こう応えたのだ。

「この【罰の紋章】に何かあれば その時は黙って去ります。
 ……その時がくるまでは、ずっと、リノ様にお仕えしましょう」

 ……と。
【罰の紋章】に、起きてはいけぬことが起こってしまった。それは確かだ。
 だから何も言わず、オベルへの責任をすべて放擲したまま、マクスウェルはリノ・エン・クルデスの前から去ってしまうつもりなのだろうか。
 ……それでは何も解決しない、ということが理解できぬマクスウェルでもあるまいに……。

 これは確かに、マクスウェルの失点ではあった。
 どのような理由があろうと、彼はまず、リノ・エン・クルデスに謝罪するべきだった。
 だが彼は、リノ・エン・クルデスの雷威を恐れ、父親よりも彼の心情に同情しそうなフレアを選んで謝罪した。
 事実はそうではないが、そう見られてもおかしくはない。マクスウェルには、大国の重臣としての配慮が確かに欠けていた。
 マクスウェルとリノ・エン・クルデス、二人ともが、明らかに相手を避けていたこと、二人のスケジュールがなかなかかみ合わなかったこと、という不運があったとしても、である。
 少なくとも、リノ・エン・クルデスが彼を裏切ったわけではない。
 マクスウェルはそれまでのリノからの信頼にすがりついて、甘えていた。それも確かだった。

 そして、そんな彼の心のヒビを、無用にえぐりまわしているのがターニャである。
 ターニャは、先の海戦の敗北の理由と責任を、激烈な口調で、執拗すぎるくらいに責めた。
 リノとて歴戦の武人である。戦いの最中に自分が焦っていたことを、よく理解している。
 だがそれも、他人から、しかも戦闘に関わりもしなかった部外者から正面から非難されれば、快いもののはずがない。
 敗戦のショックと、死者への後ろめたさ、そしてマクスウェルとターニャへの苛立ちが、彼の苦悩を倍化させていた。

 そしてその心理状況を体現するかのように、彼の歩は、素面のくせに、まるで酩酊しているかのようにたどたどしい。
 酒に酔っているわけではない。敗北感に悪酔いしている。しかも、極めてたちの悪い二日酔いであった。
 彼は自分が立ち直れることを知っていたが、それがいつになるか分からなかった。
 彼が求めているのは唯一、その方法であったが、身近にいる人間は誰も教えてくれそうになく、足と視線とをふらふらと浮遊させていた。

「…………………………?」

 違和感があった。誰もいないはずのこの中庭である。
 なにかがぼんやりと視界に入り込んだ気がして、リノ・エン・クルデスは視線を地面から水平に上げた。
 そこに、【彼女】がいた。
 背の高い女性である。腰まで流れた長い銀色の髪と、闇夜でも浮き上がるような白皙の肌を最低限の面積しか覆っていない、かろうじて衣装と呼べるかどうかの布を、身体に巻きつけている。
 その闇を照らす月と同じ、金色の視線が、意味ありげにリノ・エン・クルデスを貫いていた。
 リノ・エン・クルデスは、この女性を知っているはずだった。
 群島解放戦争のとき、【罰の紋章】を持つマクスウェルの助けとなり、クールークにおける紋章砲事件の折も、賢者シメオンと共にキリルの良き相談役だった、稀代の紋章師。
 そのどちらの事件のときも、リノ・エン・クルデスは彼女と会話くらいは交わしている。

「お前は……」

 群島解放戦争のときの、と続けようとして、リノ・エン・クルデスは不意に強烈な違和感に襲われた。
 リノは、その女性の名前を知っているはずであった。ジーン、という彼女の名前を。
 ジーンとリノが最初にあったのは、群島解放戦争のときのはずである。
 戦中、たまたまナ・ナルの紋章屋に滞在していた彼女を、マクスウェルが見込んでスカウトしてきたのだ。
 そのとき、オセアニセスでマクスウェルに紹介されたときが、リノとジーンの初見のはずである。
 だが、リノの精神に、強烈な違和感がある。
 自分がジーンに会ったのは、本当にあの時が最初か?
 最初のはずだが、この正体不明の違和感は、いったいなんだ。
 自分は、あのとき以前から、ジーンを知っていた?
 いつ会ったのか、どこで会ったのか。
 そもそも、なぜ今頃・・・・こんな疑問にぶち当たるのか・・・・・・・・・・・・・
 まったく意味も分からずに、リノはジーンのほうに厳しい視線を向ける。
 その視線を反射するかのように、ジーンの瞳の色が輝きを増したように見えた瞬間、リノの脳裏に、ある風景がフィードバックした。

 正確に思い出した。四年前、突然、王宮に現れた女性の勧めによって、オベル遺跡を掘り返した。
 そのとき、広大なワンフロアであった地下八階で見た、異様過ぎる光景を。

 突然だった。思い出したのは。そうとしか言いようがない。
 リノ・エン・クルデスの表情が、一瞬で強張った。警戒と呼びうる要素のすべてを、その表情は内包していた。
 その口が、震えながら開く。

「お前は四年前の……。
 あの時王宮に来たのは、確かにお前か」

 ジーンが髪をかきあげる。

「ええ、そうですわ、国王陛下」

「……なぜだ。俺はあの時、確かにお前に会っていた。
 ならばなぜ、群島解放戦争のとき、俺はお前を思い出さなかった?
 クールークの時もそうだ。解放戦争のときのお前を覚えていて、なぜ四年前のお前を覚えていなかった?」

 ジーンほどの強烈な個性を、人材に貪欲なリノ・エン・クルデスが、そうそう忘れるはずはない。
 叫ぶように言い放った後、急に言葉を沈めた。だがその言葉は、震えていた。

「……お前はいったい、何者だ」

 その質問が、マクスウェルがケイトに対して向けたのと同じものであることを、リノは知る由もない。
 オベル王の重厚な胸郭から吐き出された質問に対し、銀の髪を持つ紋章師は、優雅なまでの仕草で応えた。

「陛下があの時、私のことを思い出せなかったのは、そういう【順序】だったから……」

「順序だと?」

「そう。この事件で【変化】の介入にズレが生じることは、ある程度予測できていたの。
 それを起こさせないために、私は陛下、あなたに遺跡のものを守るように、と忠告を差し上げた……。
 しかし、あなたはそれを守りきれなかった……」

 ジーンの目はリノ・エン・クルデスを見ていない。
 彼を通して背後の空間を見ているかのような風で、ジーンは銀色の髪をかきあげた。

「だからこの事件が起きた。【変化】のきざし……あの少女も、本来現れるはずのない時間と場所に現れてしまった。
 歴史の順序にズレが生じてしまったから、思い出せるものが思い出せなくなってしまった……」

「……いったい、なにを言っている? いや……」

 警戒の度合いをさらに上げながら、リノ・エン・クルデスはジーンを睨みつける。
 彼の聡明は、ジーンの言葉のうちに聞き逃せない要素を見出していた。

「気になることを言ったな。
 俺が【アレ】を守りきれなかったから、この事件が起きただと?
 この事件の責任が俺にあるとでも言うつもりか。
 そもそも、【アレ】の正体を、お前は知っているとでも言うのか」

 そうとしか受け取れないことは重々理解しつつも、納得は出来ず、リノ・エン・クルデスは凄んでみせる。
 だが、ジーンは意に介した様子も無く、微笑を浮かべている。
 まるでどこまでも透き通った、深い湖のような視線だった。
 リノの苛立ちを受け止めつつも、それを溶かしきって動じることもない。

「あなたも理解しているはずよ、オベル国王。
 マクスウェル……彼が【罰の紋章】の呪縛から逃れられないように、あなたも例外ではない。
 あなたも、【罰の紋章】のしがらみに絡め獲られている。昔からね……」

 唐突に【罰の紋章】が話題に出たことで、リノの口元が歪む。
 リノ・エン・クルデスは、ある意味ではマクスウェル以上に【罰の紋章】に因縁がある者。ジーンの言葉は間違いではない。
 オベル遺跡の奥に眠っていた【罰の紋章】の封印を解いたのは彼の妻、オベル王妃である。
 もう十九年も前のことだ。
 どこまでも偶然が重なっての出来事で、王妃も望んでこの凶悪な紋章を身につけたわけではない。
 だが【罰の紋章】だけではなく、【真の紋章】にはいずれも、所有者に自らの力を使わせようとする、もしくは、使わざるをえないような状況に追い込む【星まわり】というものがある。
【罰の紋章】を宿した王妃も結局、自分たちを襲った海賊に向けて【罰の紋章】を用いた。用いざるをえなかった。
 その代償として王妃は生命を失い、生まれたばかりの息子は行方不明となり、【罰の紋章】はその場にいた誰かに受け継がれた。
 リノは、深い後悔と哀悼に突き動かされながら【罰の紋章】の行方を追い、めぐり廻ってマクスウェルがそれを彼の元に持って帰ってきたのである。

 苦い記憶を刺激され、それを味覚で感じでもしたかのように表情を苦みばらせたが、リノはジーンの言葉から別の事実をかぎとっていた。

「……遺跡の奥に眠っていた【アレ】が、【罰の紋章】に関係のあるもの。そう、言いたそうだな。
 この事件を起こしたクレイが【罰の紋章】に拘泥していることは知っていたが、【アレ】がそもそもの原因だとでも言うつもりか」

 二十年前、彼が管理しきれなかった【罰の紋章】は、彼から妻と子を奪っただけでは飽き足らず、今度は国まで奪おうというのか。
 自分はそこまで断罪されなければならないほど、罪深い人間であるのだろうか?
 理性では抑えきれない苛立ちが、リノの問いには溢れている。

「【罰の紋章】はきっかけに過ぎない。引き金を引いたのは、人間よ。
 でも、その引き金を引かせたのは、【あれ】と【あれ】が眠るオベル王国とを守りきれなかった、あなたの油断……」

「ち……」

 ターニャほどの鋭さは無いが、痛いところを突かれことにはかわりはなく、リノは弱々しい舌打ちをした。
 誰かに指摘されるたびに、彼の犯した過ちが、その大きさを増していく。
 しかも、そのすべてが彼自身の油断と断ずるには酷な「過ち」であった。
 リノ・エン・クルデスとて、二十年前も、そして今も、【罰の紋章】の被害者の一人であることには変わりはない。
 だが、国王という立場上、全ての責任を彼は負わねばならず、その責任から逃げることはできなかった。
【罰の紋章】の監視者として、そしてマクスウェルの上司として、彼は全ての責任を受け止めなければならず、受け止めた上で何とかしなければならないのだった。

 そして、ジーンの糾弾に苛立ちを抑えつつも、その言葉の中から、秘かに提示された解決策を嗅ぎ当てるのは、その課せられた責任の大きさゆえの嗅覚か、それとも彼が生来持っている聡明さのゆえか。
 リノ・エン・クルデスは腹立たしさを表情のあちこちにばら撒きながらも、ジーンの瞳を正面から見据えた。

「お前の言い分から察するに、遺跡の奥に眠っていた【アレ】に手を出した者は、ラインバッハ二世とグレアム・クレイだ。そうだな?」

 ジーンは何も答えないが、その沈黙が肯定の反応であることを、リノは悟っている。
 ジーンはまた、曖昧な言葉を返した。

「正確に言えば、まだ彼らは【あれ】に到達しているわけではないわ。
 だけど、それも時間の問題。【罰の紋章】は彼らの意思に触れて、覚醒の度を早めている。
 過去に例がないほど紋章との相性が良いマクスウェルでも抑えきれないほどに」

「【罰の紋章】の覚醒? なんのことだ」

 ジーンの言葉は、リノ・エン・クルデスにとってはいちいち聞き逃せぬ要素の塊だった。
 押し倒さんばかりの迫力の彼に、ジーンは初めて表情を動かした。困ったような表情を少しだけ浮かべた。

「ここから先は私が言うべきことではない。
 あなた自身が道を切り開いていくことで、おのずと見えてくるものよ。
 私はただ、傾いたバランスを正しに来ただけ。ここに来れない、誰かさんの代わりにね」

 意識的にリノから一歩遠のいて、ジーンは姿勢を正した。
 リノが彼にしては珍しく、挑戦的に片頬を上げて笑った。
 この正体不明な女紋章師に、苛立ちを募らせ始めている。

「思わせぶりな前置きをばら撒くわりには、何も解決させられない小説家のような結論だな。
 まあいい、ヒントはそれなりに頂いた。くよくよしている暇はない、ということもな」

「【罰の紋章】は今後、あなたやマクスウェルを深い闇に立ち入らせるでしょう。
 できることならば今のうちに彼と、マクスウェルと和解しなさい、リノ・エン・クルデス」

「それを言うべきは、俺ではないな」

 リノ・エン・クルデスは、低い声で、だがはっきりと言った。

「和解を望むなら、マクスウェルに言え。彼がオベルにそむいたのだ。オベルが彼に背いた訳ではない」

「……そのかたくなさは、あなたを救いはしないわよ。誰よりも、自分が理解しているでしょうけれど」

「何とでも言うがいい。自由に放言できる立場は、同時になんの責任もないものだ。
 羨ましい限りだが、俺には永遠に必要のないものだな」

「…………………………」

 ジーンは何も言わなくなった。それがリノ・エン・クルデスの決断ならば、彼女から言うことはもうない。
 それにしても、この亡国の王は知っているのだろうか?
 自分の立場や意見に固執しているその姿が、彼が批難したマクスウェルの姿にそっくりだということを。
 間違いなく、彼らは奥底に共通した人間性を持っている。指摘されたところで、今は喜びもしないだろうが……。

「話は以上か? ならば俺は行くぞ」

 マクスウェルのことを話に出されて不快感を助長されてしまったのか、リノ・エン・クルデスは不愉快な心の中を隠そうともせずに、身を翻した。
 だがその大きな背中は、先ほどまでにはなかった要素、行動力で満ち溢れている。
 リノ・エン・クルデスは、有能な為政者の常として、複雑な話を単純化して視ることができた。
 分かりにくいジーンの話から、その本質を見抜き、一つの結論に達していたのだ。

「難しいことは必要ない。【罰の紋章】も今は考えなくていい。
 クレイとラインバッハ二世を倒し、オベルを取り戻す。
 ヤツらがなにを望んでいようと、それですべては解決する」

 事件の発端から考えてみれば、それがもっとも分かりやすい解決の方法であった。
 ただ、そこにマクスウェルや【罰の紋章】という要素が絡んでいるだけに、必要以上にリノの心を刺激し、彼の目に事件を複雑に見せていたのだ。
 どちらも、彼にとっては無関係を決め込むわけにはいかない代物であったから。
 だが、ここにきて彼は割り切った。
 遅まきながら、自分の行く道を決定付けた。
 後はただ、まい進していくだけであった。

「舐められてたまるものか……!」

 ラズリルの闇に、リノ・エン・クルデスの雄叫びが響く。
 その瞳には、強烈な炎が灯っていた。彼は敗北者のまま終わるつもりはない。
 最後に大地に立っているのは、彼であるべきだった。
 そして、彼に背いた誰もかもを、見返してやるのだ……。

5-11

 のしのしと大またでその場を後にするリノ・エン・クルデスの大きな背中を見送り、ジーンは場所を変えた。
 リノ・エン・クルデスとマクスウェルの居室のある塔の屋上、ラズリル港を望む見張り台の上である。
 普段ならば、深夜といえどもラズリル騎士団の面々が灯を点して見張りをしているはずなのだが、今宵はなぜか、その姿が見えない。
 火は煌々と焚かれていたが、その場にいるのはジーンだけであった。

 ジーンは何かに気付いたように、背後に視線を向ける。
 この場にいるのが、自分だけではなくなったことを知ったのだ。それは空中から現れた。
 異様な風体をした巨人だった。
 いや、宙に浮いているから、人間とは断言できぬ。その巨大さに見合わず、気配というものもない。
 闇に浮かび上がる白を体現するジーンとは対照的に、今にも再び闇に溶け込んでしまいそうなほどの黒を体現している。
 ジーンはさして驚くこともなく、この巨人に声をかけた。

「あら、久しぶりね、導師。
 マクスウェルやテッドに倒されたと聞いていたけど、まだ生きていたの?」

 巨人が、骨に響くような重厚な低音バスの声を発した。

【我の命は、既にこの大地に染み付く残留思念のようなもの。
 この世界に復讐するまで、我は死なぬ。何度でも蘇るさ】

再生思念リジェネレーター……か。便利なものね」

 妖艶な動作で石壁に背中を預けたジーンは、自分の倍もあるその「導師」を見上げた。
 この「世界」に復讐するだけの力を求め、ヒクサクとは別の意志で【真の紋章】を集めようとしていたこの「霧の船の導師」は、一時はテッドを篭絡ろうらくし、真の紋章の一つ、【ソウルイーター】を所持していたが、【罰の紋章】と共に歩むマクスウェルの強さに感化されたテッドに裏切られ、その存在ごとこの世から消えた。
 ……はずであったのだが。

「そのあなたが、あの永遠の都にも帰らずに、またのこのこと出てきたのは、どういう理由かしら?」

【理由など笑止なことを聞く。真の紋章が強き意志で動き出している。
 これを求むるは、我の本懐。諦めはせぬ】

「……しつこい男は、嫌われるわよ」

 ジーンの言葉を無視して、導師は別のことを口にした。

【我のことはよい。もう一人、この場に出てこなければならぬ者がおろう。
 バランスの執行者。貴奴はどうした。自らの責務を放擲したか】

「ああ、レックナート? 彼女なら、ソルファレナよ。
 ゼラセといっしょになって、てんてこ舞いになっているわ」

 やはり真の紋章の一つ、【門の紋章】を持つ女性の名を、ジーンは上げた。
 導師は、うなり声のような響きを吐き出した。笑っているらしい。

【ソルファレナか、なるほど、「罰の紋章」が覚醒し始めていることを、「太陽の紋章」は気付いているわけだな。
 自らの半身を奪った者が自由に動き出すことに、「太陽」は落ち着いてはいられまい】

「まあ、そうでしょうね。
【罰】が軽いいたずら心で【夜】をそそのかすことさえしなければ、【夜】が【太陽】との絆を断ち切ることもなかっただろうし、【罰】がその名を冠することもなかったでしょう」

【そうして残されたのは、黄昏と黎明……「太陽」の二粒の涙と、「罰」の後悔か。巨大すぎる代償だ】

「……昔のことよ。遠い遠い、昔のこと」

 一瞬の沈黙を置いて、ジーンが話題を変える。

「しかし、この事件は、やはりなにかがおかしい。
 本来、【変化】の兆し……あのテレポーターの少女は、この時期、ソルファレナに現れなければならなかった。
 それがこちらに導かれてしまったということは、【太陽】よりも【罰】の意志の方が強かった、ということになるわ。
 真の紋章のなかでもとりわけ強い力を持っている【太陽】、運命の輪廻を循環しているはずの【変化】。
 この二者の【道】を捻じ曲げるほどの意志を【罰】が持っているなど、ちょっと考えられない」

【「罰」は、あの宿主の青年のことを、よほどお気に入りのようだ。
 彼の存在を許容するばかりか、二度も心を開いておるしな。
 もしかすると、「罰」はあの青年に、自分のすべてを見せるつもりではないのか】

「全てって……まさか……」

 ジーンが絶句した。

【そうだ。この世のすべての原罪にして、「罰」のもっとも忌まわしき後悔の記憶……「原聖痕スティグマータ・オリジン」までをな】

 この女性にしては珍しく、ジーンは一瞬、呆然とした。
 何かを反論しようとして口を開きかけたが、再び何事かを考えて沈黙した。
 かまわず導師が続ける。

【宿主を信頼し、自らの最深部に導こうとしていた矢先に、その最深部に手を出そうとした愚か者がいる。
「罰」ならずとも、怒るであろうよ。「罰」の強き意志の源泉は、純然たる怒りであろうな】

「それが真実としても、人間である彼が【原聖痕オリジン】に……【彼女】に触れて、無事で終われるわけがないわ。
 彼が死んでしまっては、なんの意味もない。また【罰】は次の宿主を探さねばならない。
【罰】は彼の……マクスウェルの死を願っていると言うの?」

【あるいは、彼を「神」にしようとしているのかもしれぬ。
 ……が、いずれにしても、真の紋章が自らの意志で定めたことだ。
「意志の強さ」という一方面に特化するならば、元来、「罰」は充分に「太陽」に抗しうる。
 我らには、その意志をはかる術は無い】

「………………………………」

 しばらく無言で沈思したあと、ジーンはその銀の髪をなびかせて、導師に背を向けた。

「いいヒントをありがとう、導師。私は行くわね」

【「罰」の下へ行くか】

「ええ、いま私が行くべきところは、彼のところだろうから。
 あなたが彼の紋章を狙うのならば、私もお相手するわ。そのときは、どうぞよろしく」

 導師は、クククと、低い笑い声をもらした。

【そのときは道連れよ……共に帰ろうぞ、あの永遠の都へとな】

「そういうことは、エレシュかシェプセスカに言いなさい。喜ぶわよ、あの娘たちが聞いたらね」

 そう言い残し、手を振りながらジーンはその場を後にした。
 残された導師も、徐々に身体を闇に溶かしていった。

【真の紋章から見れば、人間などしょせん家畜にすぎぬ。
 だがさて、家畜の身より神になる者が現れるか否か……。
 見ものではあるが……】

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(初:09.11.16)
(改:10.02.10)
(改:10.03.22)
(改:15.03.03)