クォ・ヴァディス 30

5-9

 昨夜から波に揺られるように様々な感情に支配されているマクスウェルも、戦場から帰還したばかりのケネスも、ナ・ナルから帰ってきたばかりの者たちも、みな疲れが抜けきっていないことも考慮してか、アグネスがとりあえず散会を提案した。
 このとき、アグネスはマクスウェルの一派に加わることを断言はしなかったが、彼女はエレノアの言葉をマクスウェルに伝えるためにラズリルに来たのであって、成り行きとして、彼の独自の行動に歩調を合わせることになるだろう。
 後年、【罰の英雄】の軍師として高名を謳われるようになるこの女性は、今はまだ己の未熟を自覚もしており、「エレノアの弟子」という立場の方に安住したがっていた。

 さて、散会はしたものの、各人とも暇をもてあますような優雅な身分ではなかった。
 ケネスには騎士団副団長としての公務があるし、マクスウェルも挨拶をせねばならない人が大勢いる。
 彼はまず、現在、彼の身柄を預かっているラズリル騎士団長カタリナに会った。
 二人はガイエン騎士団時代から師弟の関係で、共にグレンの側近だったこともあって、気兼ねするような間柄でもないが、カタリナがマクスウェルの体調を気遣ったため、会談は短時間で終わった。

「ゆっくり休め、といっても無理かもしれないけど、休めるときに休んでおきなさい。
 これからどうなるか分からないし、あなたにはまだ、活躍の場があるはずだから」

 カタリナのそれは完璧な慰労の言葉であったが、マクスウェルは裏に微妙なニュアンスを感じた。
 少し神経質になりすぎているのかもしれない。
 明日の朝食を共にする、という約束を交わし、マクスウェルはカタリナの執務室を後にした。

 その後も、懐かしいラズリルの実力者たちの間を忙しく飛び回り、オベル王女フレアと会談する機会を得たのは午後になってからである。
 この会談はフレアが望んだものだったが、以前の二人の親密な交際を知っている者が見れば、不自然な流れではあったろう。
 彼の身を案ずるフレアに対して、マクスウェルはよそよそしい態度に終始した。
【罰の紋章】による蛮行の謝罪と、オベル沖海戦で死亡したサリシーザ号他の船員たちへの弔慰を伝えて、終わってしまった。

「マクスウェル、私は変わらず、あなたの良き友人でいるつもりよ。
 あなたが自分の意思でオベルを攻撃したわけじゃない。それは、みんな知っていることだから」

 別れ際にそう言ったフレアに対して、マクスウェルは物悲しい笑顔で頭を下げただけだった。
 自分は、意固地に負い目にしがみついているのだろうか。
 オベルから離されたことを口実に独自の道を行こうとする自分の行為は、もしかすると、オベルに対して最も恩知らずな裏切りなのではないか。
 見上げた空のようには、彼の心は晴れなかった。
 ビッキーと会うのは、マクスウェルの方が彼女の体調を考慮して急がなかった。
 一方で、リノ・エン・クルデスとの会談は、実現しなかった。
 これは果たして、どちらにとって幸福であったのか。この時点では、マクスウェルにもリノ・エン・クルデスにも分からない。

 あちこちを忙しく駆け回るマクスウェルの周囲には、常にアカギとミズキ、ポーラの姿がある。
 アカギとミズキは、オベル軍を無断で抜けることに全く後ろめたさが無いわけではないが、リノ・エン・クルデスが自分たちを避けていることには気付いていたし、なによりもナ・ナルでの事件が心に深く突き刺さっていた。
 誰かに使われるのではなく、自分たちの手で何か早く行動を起こしたかった。それには、規律のある海軍よりは、自由度の高いマクスウェルの下での方が、なにぶんにも動きやすい。
(後にこの二人の「離反」は、マクスウェルの懇願に応じたとフレアの裁可によって、改めて許可されている)

 ポーラは現在、立場的にはナ・ナル島の一島民にすぎず、彼女の行動を縛るものはない。ケネスのいるラズリル騎士団に協力しようかとも思ったが、今はマクスウェルの傍にいて、彼の身辺を守るのと同時に、彼の様子を見守ることを最優先にしていた。
 三人が三様の思いを持って、マクスウェルのそばにいるのだった。

 そのマクスウェルは、忙しい中でも、アグネスとあれこれと対策を練っている。
 夕方、休憩ばかりにマクスウェルの「隠れ家」へと立ち寄ったときも、話題はその話が中心だった。
 このとき、アグネスからグレアム・クレイがラインバッハ二世に関わっていること。そのクレイの後ろにヒクサクがいること、などを伝えられた。

「結局、すべての原因はこれに尽きるわけか。
 オベルの幸福というものを考えるなら、どうあっても俺の存在そのものが、一番の危険要素なのかも知れないな……」

 マクスウェルは、目元をゆがめて左腕の紋章を見ながら呟いた。
 マクスウェルは何かを沈思していたようだったが、このときはその思いも三瞬ほどで封じ込めて、精神のチャンネルを切り替えた。

「それで、アグネス。エレノアは俺に何をさせたくて、君をここに寄こしたんだ?」

 彼はストレートに切り込んだ。
 マクスウェルは、アグネスが偶然にラズリルに立ち寄っていたなどとは、最初から考えていない。
 恐らくエレノアは、最初からこの事件を予見していたはずだ、とマクスウェルは見ている。
 考えてみれば、おかしな偶然が続いていた。
 オベルで自分たちと共に偶然、フレア王女を助けた男が、今度は偶然にナ・ナルに立ち寄り、アカギたちに手を貸し、ラズリルに導いた。
 そして、ビッキーがラズリルに来たとき、偶然にエレノアの意をターニャに託されたシャルルマーニュが待っていて、ビッキーの力でリノ・エン・クルデスの前に姿を現した。
 はたしてこれらの一連のタイミングが、すべて【偶然】のひとことで片付く可能性は、いくらばかりのものだろう?
 もしかしたら自分たちは知らぬうちに、最初から誰かが立てた計画に動かされていたのではないか?
 その考えを聞いたとき、まずアカギがいぶかしい顔をした。

「エレノアさんが、以前からこの事件を予知してたっていうのか。さすがに考えすぎじゃねーの?」

 アカギの反応には、ポーラも賛同するような表情を作ったが、ただ一人、アグネスだけが感心したように頷いた。
 アグネスは同門のターニャと違い、奔放に胸中を放言するような無節操さとは無縁である。
 まず自分の中で、何が最善かを考え抜き、考え抜いてから行動に移す。
 精神的な速度ではターニャには及ばないが、結果的に効率的、能率的に動いているのは、アグネスの方だった。
 そのアグネスも、このときは即座にマクスウェルを賞賛した。

「さすがです。完璧じゃありませんけど、まず正解と言っていいです」

 周囲の驚きの声が治まるのを待って、アグネスは続ける。

「正確に言えば、どんな状況にも対応できるように、エレノア様は幾つかの布石を打っておいででした。
 その布石の一つのために、ご自分でも行動を起こされています。
 ですが、私やターニャさんの出番が来るのは、残念ながら最悪のパターンです。
 最高だったのは、ラインバッハ二世の裏切りを未然に防ぐことでしたからね」

「で、ですが、どうしてラインバッハ二世が裏切ることが分かったんです?
 予想のしようも無いと思いますけど」

 ポーラが驚きの声を上げたが、マクスウェルは、そうではあるまい、と思う。
 エレノアは、ラインバッハ二世が裏切ることを【予想していた】のではなく、【知っていた】。
 だからこそ、あれだけ的確なタイミングで、行動を起こせた。
 それには、ラインバッハ二世の動向だけを見ていたのでは、不可能だ。
 おそらく、エレノアが最初から見ていたのは、グレアム・クレイの方だったのだろう。
 ハルモニアに近づいたクレイの行動を探るうちに、彼がこれから起こすであろう事件を確信したに違いない。
 クレイの思考を誰よりも知悉しているのは、彼の師であったエレノアであろうから。

 そこまで考えて、マクスウェルはいくつかの疑問に当たった。
 エレノアの目的である。
 エレノアは、クレイをどうするつもりなのだろう?
 オベル側に助け舟を出しているように見えるから、とりあえずはクレイの行動を阻止することを目標にはしているのだろう。
 だが、その後は?
 エレノアは群島解放戦争の末期、マクスウェルの前で、クレイへの思いをぽろりともらしたことがある。
 そこに、かつて自分を苦境に追い込んだクレイへの憎しみは無かった。
 不肖の弟子をどうにか更生させてやりたい、という強い思いがあるようだった。
 エレノアは家庭の温かみというものを知らぬまま成長し、死ぬまで自ら家族を持つことも無かった。
 そんな彼女がただ一人、母性本能に近いものを向けていたのが、優秀な弟子であるクレイであったのだが、さすがにマクスウェルはそこまでは知らない。

 エレノアにクレイを殺す意志はない。
 ならば、クレイをどうする?
 そして、彼に扇動されたラインバッハ二世を、彼女はどうするつもりなのか。
 クレイがヒクサクとラインバッハ二世をそそのかして起こしたこの事件を、エレノアはオベルに、どう始末させるつもりなのだろうか?

 マクスウェルからこの疑問を向けられたときのアグネスの表情を、ミズキはしばらく忘れられそうもない。
 マクスウェルは、

「エレノアは自分たちに何をさせたいのか」

 という疑問から、一気に

「この事件にどう幕を引かせるつもりなのか」

 というところまで踏み込んできた。
 彼以外の者がいきなり聞けば、それは「理論の跳躍」以外の何者でもないだろう。
 マクスウェルは自分がナ・ナルの一派に襲われた時、冷静に状況を分析し、その背後にいる「第三者」の存在を予見してみせた。
 ミズキはミレイと共にその場に居合わせたから、マクスウェルの情報に対する異常な嗅覚にいまさら驚きはしないが、まだ内部の情報をすべて漏らしたわけではないアグネスとしては、多少の気持ち悪さを感じたのであろう。
 表情を驚きと怪訝さとに見事に二分させて、マクスウェルのことを見ていたが、それも二瞬ほどで閉じられた。
 アグネスは表情を消して呼吸を整えると、説明を始めた。

「ラインバッハ二世、及びクレイとの決戦が避けられぬ現状で、エレノア様が示された策はこうです」

 それはいわば、群島解放戦争の時に行われた、オベル包囲網の再現である。
 群島地域のほぼ中央に位置するオベルを、周囲の勢力を結集して撃破するのだ。
 だが、いまこうしている間にも、ラインバッハ二世は、旧クールーク海軍の残党をかき集めている。
 一方で、壊滅的な打撃をこうむったナ・ナル島からの助勢は期待できず、オベル・ラズリル艦隊も大きく数を減らしている現状では、充実した戦力を誇るミドルポート艦隊を破るのは難しい。

「じゃあどうするんだ。結局、打つ手無しじゃないか」

 がっかりしたように項垂れたアカギに、アグネスはびしっと指を突きつけた。

大丈夫だーいじょーぶっ。勢力が足りないのなら、増やせばいいのです」

 だからそのためにどうしろというのか、というアカギの視線を完全に無視して、アグネスはマクスウェルに向き直った。

「オベル海軍とラズリル騎士団の拡充については、ターニャさんが策を授けられて動いています。
 私の役目はマクスウェルさん、あなたに独立した勢力を結集させ、群島の英雄として立ち上がらせることです」

 一瞬、周囲がざわついた。
 マクスウェルの目元が険しさを帯びる。
 エレノアの真意をはかりかねている様子が、ありありと見て取れた。

「俺に指導者になれと?
 独立した一勢力、というからには、五人や十人の集団じゃないだろう」

「そのとおりです。
 群島解放戦争のときのように、周囲の協力が望めぬ今、ラインバッハ二世とクレイの勢力に対抗すべく人を集めるには、強力なカリスマ性を持つ人物の登場が必要です。
 現在の群島で、それができる可能性を持つ人は、たった三人」

 アグネスは、マクスウェルの眼前に三本の指を立てて、うちの一本を折った。

「一人はいわずもがな、オベル王国のリノ・エン・クルデス陛下です。
 先の海戦で敗れたとはいえ、群島最大の国家を率い、数々の事件を解決した実力と実績は、他国の領主の追随を許しません。
 この事件がどう動くにしても、当然、リノ国王の動きは、周囲に大きな影響を与えるでしょう」

 そして、二本目の指を折る。

「二人目は海賊島の主、キカ様です。
 海賊という立場ですが、個人としての高潔さはリノ陛下に劣らず、部下たちからの熱狂的な忠誠は、既に信仰にちかいものがあります。
 率いている一家の勢力も海賊としては群島最大。決して無視できる数ではありません。
 今回の事件では、まだ動きを見せていませんが、当然、何らかの関心は持っているでしょう。
 彼女が動くことで、事件が動く可能性も高い」

 そしてアグネスは、残った指を、マクスウェルの眼前に向けた。

「……もう言わなくても分かりますよね。
 三人目はマクスウェルさん、あなたです」

「……………………」

 心持ち険しい視線のまま、マクスウェルは沈黙を守る。
 それを「話を続けろ」という意志と受け止めたのか、アグネスは呼吸を整えるような仕草をした。

「クールークの侵攻を退けた、群島解放の象徴。
 そして、クールーク崩壊における、一連の事件においての活躍。
 マクスウェルさんが持つ【英雄】としての偶像性、そして【罰の紋章】を持つという強力なイニシアティブが群島に与える影響力は、まだまだはかりしれません」

「……………………」

「もちろん、マクスウェルさん自身の人柄や能力が認められている、ということもあります。
 あなたが決起すれば、恐らくあなたの予想を超える人が、あなたの元に参集するはずですよ。
 もちろん、私たちも下工作はしますが、マクスウェルさんがその人たちを率いて独立して初めて、ラインバッハ二世の包囲網が完成するのです。
 それに、マクスウェルさんのことを気に入っているキカ様が事件に関わる、新たな契機になるかもしれません」

 アグネスのテンポのいい話を、ポーラたちは内心で冷や冷やしながら聞いている。
 ポーラもミズキも、マクスウェル本人が、決して【英雄】と呼ばれるのを好まないことを知っている。
 豪華だが、自分のサイズに合わない洋服を無理に着せられて、とまどっている少年。そんな印象があった。
 そんなマクスウェルに、アグネスは「英雄として起て」などと発破をかけているのだ。

 マクスウェルの口が、微妙に皮肉な形にカーブを描いた。
 自分の話を聞いているはずなのに、まるで全くの別人の話を聞かされているような気分だった。
【罰の紋章】に憑依されたのも「たまたま」だし、群島解放戦争の時には、トップに立って目立ちたくない人たちに担ぎ上げられただけの話だ。
 クールークの紋章砲の事件の時だって、リノ・エン・クルデスの命令で、キリルに協力しただけのことだった。
 無論、やるからには全力と最善を尽くしたが、その行動の根源に彼自身の野望や政治欲のような、能動的な主体性があったわけではない。
 状況に流されて懸命に動いた結果、マクスウェルの名前は、彼自身の思惑を超えて、まるで別の巨大な生物のような流れとなって、群島市民たちの中に記憶されてしまった。

「噂に聞くマクスウェルってヤツは、大したヤツらしいね。
 俺と同じ名前なのに、あっちは群島の大英雄で、こっちは暢気な一船乗りだ。
 英雄と言うからには、いい生活してるんだろうね。うらやましいけど、大変だろうな」

 マクスウェルはアカギに、そうもらしたことがある。
 彼の関心を買おうと、わざわざミドルポートからオベルの一艦長の元に、莫大な投資話を持ってきた商人がいたのだ。
 その商人はにべもなく追い返されたわけだが、よほど皮肉な心境だったのか、そのときのマクスウェルの人の悪い表情を、アカギはよく覚えている。
 さすがに、これほどの強烈な皮肉を人前でもらしたのはこれ一度きりだったが、これがそのままマクスウェルの本心でもあったのだろう。

「……虚名にも使いどころはある、といったところかな」

 アグネスの話を黙って聞き終え、一瞬の空隙を入れて、マクスウェルは大きくため息を吐き出した。

「虚名で終わらせるかどうかは、自分たち次第ですけどね。
 それでエレノア様の策は、受け入れていただけますか?」

 アグネスの問いに、マクスウェルは静かに、だが強固な意志で答えた。

「断る」

 それは明快すぎるほどの拒絶の反応だった。
 ポーラは無言のまま、息を飲む。
 その様子には気付かずに、マクスウェルは語った。

「仲間の協力はありがたく思うが、俺はもう誰かの上に立つ気も、勢力として誰かを率いるつもりもない。
 人殺しのために誰かを利用することも、誰かに利用されることもしない。
 俺の目的はただ、世話になった人を助け出す、それだけだ。
 それ以外の目的のために、大騒ぎしながら同調者を集める気はない」

 マクスウェルの言葉の中に、朝と変わらず決死の覚悟が含まれていることに、ポーラは不安を感じていた。
「それだけ」とマクスウェルは言うが、それがどれほどの困難をともなうことか、分からぬ彼とも思えない。当然、最悪の選択も、彼の考えのうちには入っているだろう。
 それほどの覚悟を代償としなければならないほど、マクスウェルの精神の奥に刻み込まれた傷は、深いのだ。
 親友ケネスの必死の言葉と行動でも、完全に思いとどまらせることができない。
 ポーラが心を痛めている隣では、意外なほどあっけらかんとした表情のアグネスが、何度か頷いていた。

「分かりました。マクスウェルさんがそうお思いなら、仕方ないですね」

「おいおい、ずいぶんあっさり引き下がるな。
 その策じゃなきゃ、俺たちはヤバいんじゃないのか」

 アカギが不安げに声を低めたが、アグネスの声は場違いなほど陽気だった。

「正確には、危ないのはマクスウェルさんたちじゃなくて、オベル海軍とラズリル騎士団ですけどね。
 マクスウェルさんはもう直接的に戦争に関わる気はなさそうだし、その意味では危険はありませんよ。
 オベル海軍が敗れようが、ジュエルさんたちを救出さえできれば、それはマクスウェルさんの勝利ですから」

 マクスウェルの言葉をそのまま解釈すれば、決して間違いではないが、微妙に含みのある表現を、アグネスはした。
 アグネスも、そしてエレノアも分かっているのだ。
 口ではどんなことを言おうが、マクスウェルがオベルやラズリルに無関心でいられるはずがない。

「もっとも、私はマクスウェルさんがどんな道を選ぼうが、ついていきますけどね。
 私はエレノア様の策こそが、現状を打破する最良の手段であると信じて疑いませんが、この策無しでもマクスウェルさんに成功の自信があると言うのなら、エレノア様の弟子としては、ぜひ見せてもらわなければなりませんから」

 この言葉には、マクスウェルが素直に意外な顔をした。

「アグネス、君はそういうもの言い・・・・をする人だったかな」

 元々強気なところはあったが、それだけにストレートな人格ではなかったか、とマクスウェルは記憶している。
 そのような微妙な皮肉のスパイスを、言葉にふりかけるような人だったかな、と言いたかったのかもしれない。
 アグネスが、少し苦笑した。

「そうですね、二年前(群島解放戦争のとき)に比べれば、私も少しは意地の悪いことを言えるようになったかもしれませんね。
 強くなったもんです。この二年間、私にもいろいろあったんですよ、本当に。例えば……」

 意味ありげな視線を受けて、マクスウェルが口元を引き締めた。
 かまわず、アグネスは続ける。

「例えば、グレアム・クレイと共に旅をしていた……、とかね」

「………………!?」

 一瞬の間をおいて、場が騒然とした。
 マクスウェルの目が一層の厳しさを帯びたが、アカギとミズキはより直接的に、思わず立ち上がってアグネスを睨みつける。
 この場にいる人間の中では、かつてラマダの部下として、クレイ商会と組んで仕事をしていたこの二人ほど、クレイと縁が深い者はいない。
 直接、クレイと話をする機会はそう多くは無かったが、それでもアカギとミズキほどの忍びをして、どこか人間離れしたクレイの冷たい空気には、無意識のうちに危険なものを感じていた。
 このアグネスは、そのグレアム・クレイと旅をしていたという。
 組み合わせの意外さもさることながら、現在の事件の中心にいると思われるクレイと行動を共にしていた、という事実は、安易に聞き流せる要素ではなかった。

「二人とも落ち着いて。まだアグネスは、説明の途中のようだ」

 マクスウェルが二人をたしなめたが、半分以上は自分を落ち着かせる言葉であったろう。
 アグネスとしてもこの反応は予想していたのか、表情を変えることはない。
 そして語った。
 群島解放戦争の終戦直後、崩れ落ちるエルイール要塞からクレイを救出したのは、他ならぬエレノア・シルバーバーグである。

「もう一度、教育しなおさなきゃねぇ」

 そううそぶいて、エレノアは、かつての弟子と、新参の二人の弟子を引き回し始めた。
 こうして、エレノア、アグネス、ターニャ、そしてクレイという、奇怪な組み合わせの旅路が始まったのである。
 その旅路は結局、クレイが彼女たちの前から姿を消すまでの三ヶ月程しか続かなかったが、その短いさなか、殆ど口を開くことがなかったクレイの様子は、アグネスに強い印象を残した。
 世をはかなんでいるのか、それとも自分の境遇に拗ねているのか、仮面のように顔面に張りついた笑顔の下には、隠し切れない無情感が漂っていたが、それはまだ力を伴っていた。
 今思えば、どのような状況からでも逆転できる術と、その機会に対応できる心境というものをクレイは知っている。野宿の焚き火をにらみつけながら、彼はその手段を延々と考えていたのかもしれなかった。
 アグネスがもう一つ印象に残ったのは、エレノアが何をするにしても、自分やターニャをさしおいて、まずクレイを気にかけていたことである。
 アグネスが知る限り、エレノア・シルバーバーグは、他人に対してあまり情を見せる人物ではなく、その分だけ印象に残ったのかもしれないが、それに対してクレイが殆ど無反応を貫いたこともあったであろう。
 エレノアをして気を使わせる存在感への嫉妬と、それに対して無反応を貫ける態度への怒りが、アグネスのクレイの印象の強さの源泉と言ってよい。
 彼がエレノアの前から姿を消してしまったときは、心の端ではせいせいしていたが、ヤツはまた必ず何かをしでかすだろう、というエレノアの言葉には全面的に賛同した。
 あの力を失っていない目を見ていて、アグネスにも想像がついていた。
 それから、三人の女性の旅の目的は、グレアム・クレイという一人の諦めの悪い男の消息を追うことに変わっていった……。

「要するに、私はグレアム・クレイが嫌いなんです。
 彼にはなんの恨みもありませんが、彼が何か悪さをするのなら、それを阻止することになんの呵責もありません」

 明快すぎるアグネスの言葉に、マクスウェルは先ほどまでの厳しい表情を、少しだけ緩めた。
 完全に個人的な感情であるのだが、あまりに個人的すぎて、逆に好感が持てる。
 エレノアのはかりごとは確かに的確で最善なのだろうが、マクスウェルがどうも好感をもてないのは、自分の虚名を含めて、何もかもを利用する冷たさが垣間見え、どこか人の情を感じさせないからだ。
 もちろん、策とはそういうものなのだろうが、それにくらべれば、ストレートに感情をあらわにして見せたアグネスの方が、遥かに人間っぽさを感じることができた。

「どちらにしても、ジュエルさんたちを助け出すには、ラインバッハ二世とグレアム・クレイの脂ぎった中年コンビをブッ倒すのが、一番の早道なんです」

 若いアグネスにかかっては、群島の謀主も腕利きの闇商人も、まとめて「中年」で一くくりである。
 エレノアの言葉を借りていた先ほどまでと違い、自分の思いを語ったことで「地」が出てしまったのか、段々とアグネスの表現は過激になっているが、その語り口には嫌味がなかった。

「エレノア様はクレイを止めることを最優先にしておられましすし、私もそれは重要だと思いますが、私の心境は、むしろ皆さんに近い。
 私にとっても、ジュエルさんやオベルの人たちはお友達です。彼女たちを助けたい気持ちは変わりません。
 そのために、マクスウェルさんに傷ついて欲しくないという気持ちも同じです。
 さっき、意地の悪いことを言ったことは謝ります。最善の結果を出すためにも、最善の道を選んでもらえませんか、マクスウェルさん」

 これが、リノ・エン・クルデスに受け入れられなかったターニャと、マクスウェルに受け入れられたアグネスとの、最大の違いであったろう。
 現実をひたすらに指摘するだけでは、開ける道でも開けないことがある。
 リノ・エン・クルデスの失敗や、マクスウェルの凶行を指摘し、責任を追及することは、簡単なことだ。
 重要なのは、それがまだまだ覆すことができるのだ、ということを相手に理解させることであった。
 そのためには、ターニャのように、相手から一定の距離を置いて牽制打を打ち込んでいるだけではだめなのだ。
 ターニャは頭が良すぎ、何もかもを必要以上に客観視しすぎるきらいがあったが、時にはアグネスのように、相手の懐に飛び込んで、目的と心情とを共有することも必要だった。
 朝、ケネスとマクスウェルたちが激しいやり取りをしたときに、アグネスが一言も口を挟まなかったのも、少しでもマクスウェルたちの現状と心境とを理解したかったからである。
 神算鬼謀という言葉もあるが、人望というものは、その対象となる人物が齎す結果についてくるものではない。
 結果が重要な要素であることはたしかである。
 だが、結果を残せなくなった途端に、それまでの人望が嘘のように孤独に包まれる人物もいれば、どこまで落ちぶれても周囲を惹きつける人物もいる。
 本物の人望を生み出すものは、唯一、人格である。人格にこそ、人はついてくる。
 そして、そういう人物に認められることが軍師の生きがいであり、そのために策に血を通わせることができるかどうかが、軍師の腕の見せ所である。
 長くエレノアの元にいたアグネスは、そのことを知っていた。
 人情家のアグネスに求められるのはむしろ、そういった人と目的や心境を共有しながらも、軍師として一人冷静な視線を保ちえるかどうか、という忍耐心であったろう。

 マクスウェルは、難しい顔をしている。様々な思案が、その頭蓋骨の中身でうごめいているに違いない。
 アグネスも、ポーラたちも、つられるように表情が険しくなる。
 マクスウェルが、うなるような低い声で言った。

「エレノアの案が、ジュエルたちを助ける一番の早道。
 ……それは、本当なんだな。確かなんだな?」

 低い声と同様、視線も低い。
 立ち上がっているアグネスを見上げるそのブルーの視線には、救いを求めているようでもあり、決心を固めるための最後の一言を求めているようでもあり、複雑すぎる多くの思いがこもっていた。
 アグネスは、その思いの一端を叩きつけられて少しひるんだが、持ち直した。
 マクスウェルが二年前の彼ではないように、自分もエレノアの傍にいただけの二年前とは違うのだ。
 エレノアに一つの仕事を任されるようになった以上、自分がその責任に耐えうるということを証明しなければならない。
 アグネス自身も、歴史に試されていた。
 そのことを理解したうえで、アグネスはマクスウェルに頷いて見せた。

「私はそう信じています。
 そして、そのことを実証するために、全力を尽くすつもりです」

 数瞬の沈黙。
 にらみあうような真剣な視線を交わすマクスウェルとアグネス。
 その瞬間は、マクスウェルの長いため息によって終わりを告げた。

「分かった。エレノアの策に乗ろう。
 軍師アグネス、よろしくお願いするよ」

 オベルを攻撃した自分が、オベルの人を助けるために一勢力を率いる、ということへの皮肉や罪悪感がないわけではないが、ケネスに殴られ、アグネスにさとされ、マクスウェルにもようやく現実を受け入れることができるようにはなっていた。
 目的がはっきりし、いくらか現実味のある筋道を提示されれば、彼には自分の思案にこだわらず、最善の道を選択できるだけの能力も覇気もある。
 この柔軟さが、国王という立場に縛られたリノ・エン・クルデスでは発揮しきれない、マクスウェルの長所でもあった。
 疲れたような、だが何かを吹っ切った笑顔を浮かべたマクスウェルと、表情全体で安心した様子を現すアグネスが、固く握手をした。
 まだ足元はおぼつかないが、それでもマクスウェルは動き出した。
 歴史が彼と共にどのような動きを見せるのか、まだ予測できる人間はいない。

COMMENT

(初:09.11.03)
(改:09.10.11)
(改:09.10.19)
(改:09.11.04)