クォ・ヴァディス 28

5-6

 ゆっくりと目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。
 そこがどこなのか、考えずとも分かる。
 ラズリル海上騎士団――マクスウェルが関わっていたのは、その前身であるガイエン海上騎士団が瓦解する直前までだったが、その当時、自分が使っていた部屋である。

 グレン・コット殺害の濡れ衣を着せられてガイエン海上騎士団を追放されて以降、群島解放戦争が終わってラズリルに帰ってからも、マクスウェルがこの部屋に落ち着くことは無かった。
 彼は裏通りに面した、大して広くも無い部屋を借り、そこに居住していた。
 戦争終結後、群島解放の英雄としてラズリルでは特に慕われた彼ではあるが、騎士団に対しては懐かしさと同時に複雑な思いがあったのか、騎士団の旧友を訪ねることはあっても、かつての私室やグレンの私室のあるこの塔に足を踏み入れることはなかった。
 短期間とはいえ、マクスウェルの前に【罰の紋章】を宿していたのは、グレンである。
 ほかの騎士団員と違い、グレンが【罰の紋章】の暴走によって望まぬ死を強制された瞬間を、マクスウェルは間近で目撃している。
 余りにも壮絶すぎたその場面を、情景としては覚えていても、マクスウェルは未だに確たる現実としては受け入れきれずにいた。
 グレンの私室や、彼が命を落した屋上のあるこの建物に入るということは、グレンの死を現実的に、かつ強制的に直視しなければならないような気がして、マクスウェルは逃げ続けていた。
 そして最終的には、リノ・エン・クルデスからの召喚に応じるかたちで、オベル王国まで逃げてしまった。

 その現実を受け入れることが、恐かったのだ。

 彼の養父であるラズリルの領主ビンセント・フィンガーフートは、捨て子であったマクスウェルに対して、教育と呼べるものは何一つ提供しなかった。
 騎士養成学校にマクスウェルを入れたのも、同じく養成校に入った息子スノウの付き人をさせるためだった。
 彼は、養父から能動的な発達を、何一つ期待されていなかったのだ。
 そんなマクスウェルの眠らされていた素質を発見したのが、グレンである。
 グレンは戦士としても優秀だったが、それ以上に教育者として天才と言ってよかった。
 マクスウェルの同期だけでも、現副団長のケネスを発掘したのも彼だし、ジュエルやポーラ、タルなど、優れた素材を拾い上げた。
 グレンの教育方針は明快で、短所には余り手をつけず、長所をできるだけ伸ばすような教育方針を好んだ。
 カタリナは昔からグレン団長を尊敬していたが、騎士団の副団長となったばかりの頃は減点主義を好んでいた。彼女は、グレンになぜ減点主義を採らないのか、尋ねた事がある。

「副団長、よく覚えておくがいい。
 人間というのは、「長所」をとことん伸ばしてやると、「短所」は「欠点」から、「味わい」に変わるのだよ」

 この一言で、カタリナは自分がグレンに適わないことを知った。

 グレンはマクスウェルを、スノウの付き人という立場から解放すると、逆に自らの付き人として、これまで彼に与えられなかった教育を、全て与えた。
 グレンは影で「鬼」とあだ名されるほど厳しい教官だったが、マクスウェルもその厳しさの本質を見抜いており、グレンにはよく懐いた。
 マクスウェルにとって、グレン団長は人間としてのすべてを教えてくれた、父親以上の存在であった。

 そのグレンの死を自分に押し付けた騎士団やカタリナを、心情的に許すには時間がかかったが、なんとか両者の関係は修復した。
 だが、グレンの死そのものを受け入れるには、まだマクスウェルには時間が必要だった。

 第二次オベル沖海戦の途中、オセアニセス号の甲板から【罰の紋章】に身体を乗っ取られ、オベル島を攻撃してしまったところまでは、マクスウェルにも記憶がある。
 だが、それ以降、記憶は飛び飛びだった。
 なぜ、オセアニセス号にいたはずの自分が、ラズリルの旧私室こんなところで目を覚ましたかは分からない。
 マクスウェルは、まだ自分が、政治の餌としてオベル側からラズリル側に身柄を移されたことを知らない。
 だが、ここで目を覚ましたことは、マクスウェルにとっては喜ばしいことではなかった。
 二度と足を踏み入れまいと思っていた部屋である。
 ここで目を覚ましてしまった直後、その薄暗い現実の認識に乗っかる形で、例の【罰の紋章】の凶行を思い出してしまった。
 衝動的にこの紋章を切り落としてしまおうと港に行き……。
 ポーラに抱きついて大泣きしてしまったところまでは、記憶があるが、なぜそれがまたここで目を覚ましたのか。

 泣くだけ泣いて意識を失うか眠ってしまって、ここに連れ込まれた、としか思えない。
 とりあえず、マクスウェルは恥じている。
 様々な原因、様々な感情が重なったとはいえ、いかになんでも取り乱し過ぎた。
 幼い時から兄弟同然に育ったスノウはともかく、同級生の前で涙を見せたことなど、初めてのはずである。
 いつも、グレンの厳しすぎる授業に挫けるスノウや同級生をなだめるのは、マクスウェルの役目だった。
 その後に群島解放軍のリーダーや、オベルの客将として活動していくうえで、自分自身も勘違いしていたようである。
 闇の世界で長く生きているケイトはさすがであろう。
「あんたみたいなアマちゃん」と、マクスウェルの弱さを見抜いていた。
 そう、自分はそんなに強い存在ではないのだ。取り乱すときもあるだろう。
 だが、収穫はあった。
 自分が取り乱した、と振り返られるくらいには、精神は回復しているようである。

 マクスウェルはベッドに横たわったまま、左手の紋章を薄暗い灯りのなかで眺めた。
 灯りが機能しているということは、誰かが自分の様子を見てくれていたのかもしれない。

(情けないことだ)

 と思う。
 どのような立場に立っても、自分は誰かに心配されている。
 あの時。
 オセアニセス号の甲板上で【罰の紋章】に乗っ取られたときもそうだった。

「艦長、止めてください!! あそこにはまだ、俺たちの家族も、守備に残った同胞もいるんですよ!!」

 そう言って、自分を止めてくれた青年。
 その声は、自らの内部に閉じ込められていたマクスウェルにも届いていた。
 心から、同胞やその家族を思いやって、勇気を振り絞って止めてくれたのだろう。
 その勇気に、自分はどのように報いた?
 思い出すのも嫌だったが、マクスウェルには、彼の勇気に向き合わねばならぬ義務がある。
 それは自分が受け入れなければならない【罪】であった。
 自らの意志で殺したのではないにしても、【罰の紋章】を制御しきれなかった責任は、結局は自分自身に帰ってくる。
 それは【罰の紋章】の【罪】であるのと同時に、マクスウェルの【罪】であった。
 それから逃げることはできない。しっかりと正視し、あがなうべきときに、贖うべき人に対して贖わねばならない。

「人間、どう生きようと自由だがな、卑怯なことだけはするな。
 卑怯な人間は、それだけで敗者となる」

 グレンのその言葉が、マクスウェルの行動様式の根源でもあった。
 とにかく、考えなくてはいけない。
 自分がこれからどうするべきか。
 あのような凶行に及んでしまった以上、悲しいことだが、もうオベル王国の関係者としてオセアニセスに足を踏み入れることはできないだろう。

 一年前、クールーク皇国で戦っていた最中、オベル国王は「できればずっと俺のもとで働いてくれ」とまで、自分に言ってくれた。
 その期待に対し、マクスウェルはこう応えた。

「この【罰の紋章】に何かあれば その時は黙って去ります。
 ……その時がくるまでは、ずっと、リノ様にお仕えしましょう」

 その時が、来てしまった。
 リノ・エン・クルデスが自分にかけてくれた期待も、自分がリノ・エン・クルデスに対して持っていた忠誠心も、本物であったと信じたい。
 それが、こんなに早く、こんな形で崩れようとは、お互いに予想もしていなかったに違いない。
 マクスウェルは改めて、悔しさと情けなさとを視線に乗せて、【罰の紋章】を睨みつけた。
 自分にどうしようもできないことを、「運命」のひとことで片付けて押入れの奥に蹴飛ばして笑っていられるほど、人間は強くはできていないのだ。

 だが、立ち止まってもいられない。人間はどのような方角にでも、とにかく歩かなくては生きてはいけない。
 ならば、これからどうするべきか。このままラズリルで安楽に暮らすか?
 できるものならばそれでもいいが、この【罰の紋章】を持っている限り、この力を目当てに襲い掛かる者もいるに違いない。
 オベルに対して起こしてしまった凶行を、ラズリルに対しても行わない、という絶対の自信は、今のマクスウェルにはなかった。
 では、先ほど自分でそうしようとしたように、ここで【罰の紋章】を腕ごと切り落とすか。
 できることではない。それは自らの罪から逃げることだ。
 贖うと決めたからには、この紋章と共にあらねばならない。

 冷静に、冷静に。
 ともすれば、様々な方向に逃げ散ろうとする精神を、なんとか正面に繋ぎとめながら、マクスウェルは考え続ける。
 マクスウェルは再び記憶を辿る。
【罰の紋章】に乗っ取られてしまったとき、【罰の紋章】と自分に、いったい何が起きていたのか。
【罰の紋章】の凶行は、もう言わずもがなだ。だが、気になることが一つある。
【罰の紋章】はあの時、オベル島に向けて、たしかにこう言った。

 姉上、と。

【罰の紋章】が言葉を発しただけでも驚きだというのに、【姉】という言葉を用いたことは、もはやマクスウェルの理解力の限界を超越している。
 だが、確かに理解不能ではあるが、【罰の紋章】が【姉】と呼ぶなにがしかの物体か存在かが、オベルにあるのは間違いないのだろう。
 その【姉】の正体については、マクスウェルは考えなかった。考えても分かるはずが無い。
 ものごとを推理するのは好きなほうだが、推理というのは、ある程度の情報、知識が存在してこそ成立するものである。
 その両者ともが欠けている推理は、もはや推理としては機能しない。
 そういうものがオベルにあるのだ、と、覚えておきさえすればよい。

 では、【罰の紋章】に乗っ取られたとき、自分には何が起きていたか。
 マクスウェルはそのとき、【罰の紋章】の中にいた。
 そうとしか言えない。
 彼は、ほとんど光の入らない、薄暗い紅色と黒色のみが支配する空間にいた。
 マクスウェルにとっては、あまり良い意味ではないが、慣れた空間である。
 そこで、【罰の紋章】が自らの身体を使い、あの巨大な怪物を消滅させ、続けてオベル島を消滅させようとした光景を、見せ付けられた。
 その異常な光景に、自分自身も半狂乱に叫んだ。
 問題は、その次の瞬間に起きた。全身が、強烈な不快感に襲われた。
 精神の内部を掻き毟られるような、異様な痛みが、全身の神経網を駆け巡った。
 その不快感に耐えかねて、思わず膝をついてしまったとき、再び【それ】が起こった。
 これまでに【罰の紋章】を宿してしまった者の悲劇、【罰の紋章】に焼き殺されてしまった者の無念の慟哭が、すさまじい速度で、すさまじい数が、マクスウェルの精神を駆け抜けていった。
 何年か前、オレーグという技師に、その場の状況をまるで人が見たように記録する「カメラ」という不思議な機械を見せてもらったことがある。
 マクスウェルの精神の内部で起こっていたのは、この「カメラ」の記録した映像の連続再生に似ている。
 それも、最悪の映像だ。悲惨な殺人行為を最初から最後まで映した映像が、何百と再生されるのだ。

 マクスウェルがこの状況に襲われたのは二度目である。最初は、ナ・ナル制圧艦隊の進発直前だ。
 オセアニセス号の甲板で、彼は倒れかけた。
 だが、今回はその【記憶映像】の密度が全く異なる。
【罰の紋章】の内部にいるせいか、状況の再生が、余りにも生々しすぎた。
 被害者の慟哭、死体のきしみ、そして紋章が発する音まで、すべてがマクスウェルの脳裏に再生される。
 それは、血の臭いを強烈に含んでいる。それにあてられて、マクスウェルは強烈な吐き気に襲われながら、倒れた。
 そして意識を失う直前、最初のとき、オセアニセスの甲板上でこれを見せ付けられた時と同じ最後の光景が一瞬映し出される。
 だが、二度目のラストシーンには、更に続きがあった。
 もう意識を留めるのも限界を迎え、視界が半分ほどになってしまったとき、そこに意外すぎる顔が見えた。
 マクスウェルも、知っている顔。
 美しい女性の顔。白皙の頬に、真っ白な髪。
 だが、その白い髪の中からは、明らかに人間のものではない【角】が生えていた。

(……ヨーン……?)

 マクスウェルは、それだけを理解した。キリルと行動を共にしていたはずの、美しき異形。
 ヨーンの口が、小さく、ゆっくりと開閉している。何かを伝えようとしているのか。
 だが、それを理解する前に、マクスウェルの意識は途切れた。
 視界が闇に染まり、思考が閉鎖した。
 マクスウェルの肉体と精神は、同時にその動きを止めていた。

「………………………………」

 ベッドに横たわったまま、ぼうっとマクスウェルは左腕を顔の上に掲げてみる。
【罰の紋章】は、なんの反応もしない。
 マクスウェルが二度も見せられた光景が、どういう意味を持つのか、マクスウェルには分からない。
【罰の紋章】が何かをマクスウェルに伝えようとしているのか、それとも単に【罰の紋章】の感情が爆発しているのか。
 この現象に、【罰の紋章】が言う【姉】とやらの存在が関わっているのか。
 分からない事だらけだった。
 意識しない声が、マクスウェルの口から漏れる。

「……オベルに、行かないといけないだろうか……」

【罰の紋章】は、明らかな敵愾心を持ってオベルを攻撃した。
 オベルに何かあるのは、間違いない。
【罰の紋章】の真意を知るにも、その正体を知らねばならないだろう。
 それに、マクスウェルがオベルに赴かなければならない理由が、もう一つある。
 マクスウェルにとっての大切な人たちが、まだオベルに取り残されているのだ。
 ジュエル、キャリー、セツ、ジェレミー、トリスタン、ユウ……。
 皆、マクスウェルにとっては大切な友人たちである。
 彼らがどうなっているか分からない。
 助けなければならないだろう。
 自分を支えてくれた人たちに、恩を返さなければならない。

「一人でもいい。……行こう、オベルへ……」

 マクスウェルは、顔の上に掲げた左腕を、ぎゅっと握り締めた。
 その表情に、徐々に力の成分が含まれ始める。悲壮な、決意の力。
 マクスウェルの心の中で、一つの季節が過ぎ去っていた。

5-7

 ラズリル海上騎士団の朝は早い。午前四時には、既に最初の船がラズリル港から出港する。
 そんなラズリルのせわしない空気に影響されてしまったか、アカギやポーラも、予想以上に早く目を覚ましてしまった。

「まだ、ナ・ナルでの疲れが抜けきっていないってのに、規則正しい生活は厳しいねぇ」

 腰を叩きながら、まだ三十歳にも達していないアカギは、年寄りくさくボヤく。
 ガイエン海上騎士団出身のポーラは、規則正しい生活に慣れているはずだが、それでも、彼女には珍しく大あくびをしながら、よろよろと歩いている。
 そのポーラの周囲をちょこまかと跳ね回るリシリアというエルフの少女だけが、元気を全開にしていた。
 これまで閉鎖的なナ・ナルを出たことがないこの少女は、賑やかな人間世界の港町にあるすべてのものが珍しいのか、様々な場所に行き、様々な人に会い、様々なものを手にとって、目を輝かせている。
 アカギたちを苦笑させたのは、リシリアは人に会うたびにポーラに向かって、

「ポーラ、こいつは【悪い心】の持ち主か?」

 などと、大声で問うことだった。
 それに対する人々の反応も様々で、生真面目なケネスはあからさまに嫌な顔をした。
 シャルルマーニュは、エルフの少女に対して、こんこんとミドルポート市民としての善悪のありようとラインバッハの素晴らしさを説明し、「あ、そ」の一言で流されて愕然としていた。
 カタリナはその元気さに対して、好意的に微笑んだ。
 すでにポーラはガイエン騎士団の崩壊と同時に団を抜けており、その後身のラズリル騎士団とは直接的な関係は無いが、彼女が連れてきたこの少女は、ラズリルの上層部の間で、いい意味で異彩を放ち始めていた。

 そんな、ラズリルの早朝である。
 眠そうなアカギとポーラ、元気一杯のリシリア、相変わらず無表情のミズキが、マクスウェルの部屋を朝一番で訪れた。
 昨夜、泣くだけ泣いてそのまま意識を失ってしまったマクスウェルを部屋まで送り届けたのは、この四人である。
 やはり、その時の状況が普通ではなかったため、リシリアを除く三人は、心配だったのだ。
 何と言っても、アカギとミズキにとっては上司にあたるし、ポーラにとっては大事な友人である。

「一晩おいて、少しでも落ち着いてくれればいのですが」

「落ち着けって言ってもよ……。昨日が凄まじかったからなあ」

 ポーラの心配そうな声に、アカギが心配そうな声で答え、心配そうな慎重さで、その部屋のドアを開けた。鍵はかかっていない。
 マクスウェルが眠っているにしても、目を覚ましているにしても、泥流の底のような沈んだ空気を予想し、息を殺していた二人だが、その視界に飛び込んできたのは、意外な光景だった。

 マクスウェルが、普通に朝食をとっていた。

 部屋の中央にある小さなテーブルに、皿と水を並べ、落ち着いた様子で口を動かしている。
 朝から「まんじゅう」という悪食あくじきぶりは相変わらずだが、四人の姿を確認したマクスウェルの表情は、意外なほど落ち着いている。
 マクスウェルは、最後のまんじゅうを口に入れて急いで飲み込むと、四人を部屋に招きいれた。
 アカギもポーラもミズキも、自然と表情が緩む。
 アカギが、声を弾ませて尋ねた。

「どうした、昨日とは随分、印象が違うな。大泣きして、吹っ切れたか?」

 マクスウェルが苦笑した。

「吹っ切れたというか、我に返って途方に暮れている、というのが本当のところだね。
 ところで、ポーラ」

 名前を呼ばれて、少しポーラは身を硬くした。マクスウェルが、頭を下げる。

「昨夜は、いきなりのことですまなかった。驚いたろう」

 昨晩、ポーラの姿を確認して、いきなり抱きついたことを言っているのだろう。
 ポーラは笑顔で頭を振った。

「いいですよ、あのくらい。
 マクスウェルがあれで落ち着けたなら、それはそれでいいではないですか」

「いや、そうもいかない」

 珍しく、マクスウェルが頑なになっている。
 どういう状況であったにせよ、自分が立ちなおるきっかけをくれたのは、ポーラである。
 それに対して礼もしたいのだろう。

「どういう理由にせよ、男として責任はとるさ」

「責任って……」

 マクスウェルに真剣な視線で貫かれて、どういう想像をしたのか、ポーラの頬が朱に染まる。
 マクスウェルは、その真剣な表情のまま、静かに言った。

「ちかいうちに、イルヤ島のケヴィンさんとパムさんのつくる、芸術的な饅頭を君にたくさん……ポーラ、痛いから足を踏むのはやめてくれないか」

 どうしたことか、ポーラが壮絶に拗ねてしまい、相手をしてくれなくなってしまったので、アカギが話を受け継いだ。

「とりあえず、立ち直ったのなら、それに越したことは無い。
 あんたも色々と大変だったんだろ。
 やりたいことはあるかもしれんが、今日くらいはゆっくりしておけ。
 昼はまずいが、晩になったら、息抜きにでも連れて行ってやるよ」

 マクスウェルだけでなく、リシリアも不思議そうな顔をした。

「息抜きってなんだ。どうして昼だと駄目なんだ?」

 アカギが顔を寄せ、無意識に鼻の穴を広げながら、声を潜めた。

「おジョウちゃんには、まだ分からんかもしれんが、紳士には紳士の社交場があるんだよ。
 ラズリルにだってあるんだろ? キレイなお姉ちゃんがたくさんいる飲みやがあああああああ!」

 突然、マクスウェルとリシリアの視界から、アカギの姿が消えた。
 アカギの声が、余りにも綺麗に内緒話から悲鳴にシフトしたので、マクスウェルにも最初は何が起こったのか分からなかった。
 事件は、マクスウェルの見えないところで起こっていた。
 アカギの隣にいたミズキが、自分のブーツのカカト部分で、アカギの足の小指を、力いっぱい踏んだのである。
 自分の足を抑えて転げまわるアカギを尻目に、ミズキはいたって平静な声で、マクスウェルに言った。

「マクスウェル様、このように、事件や陰謀はどこで起こるか分かりません。
 大切な御身、今日はご養生くださいませ」

「………………………………」

 まるで壊れた人形のように、マクスウェルは勢いよく首を何度も縦に振ったが、それを許さない人物が一人いた。
 ポーラが、同郷の少女を呼んだ。

「リシリア」

「な、なに、ポーラ、目が恐いんだけど」

「そんなことはどうでもいい。貴方に教えてあげることが、ひとつあります」

 言って、アカギとマクスウェルを、物凄い目でめまわして言った。

「今まで黙っていましたが、この二人、実は【悪い心】の持ち主です」

「なに!」「なにぃ!?」

 リシリアとマクスウェルの、意味合いが大きく異なる二つの驚きの声が、室内に響く。
 あくまで普段の声のまま、ポーラはリシリアを諭すように言った。

「リシリア、私がナ・ナルで貴方に言ったこと、覚えていますか?」

「え、ええ、人が人を傷つけるのではなく、心が人を傷つけるのだと……」

 ポーラの、正体不明の異様な迫力に押されて、リシリアもじりじりと後ずさる。
 だが、エルフの姿をした魔王は、静かに少女の肩をつかんだ。

「リシリア、貴方が正しい判断力を発揮することを、期待していますよ」

 その迫力に、ごくりと唾を飲み込んだリシリアは、ゆっくりとマクスウェルのほうに向いた。

「そ、そういうわけで、やむを得ぬ事情でこうなった。
 悪いが、退治されてくれ」

 されてくれ、と言われて素直に退治される者もおるまいが、この事態を沈静化させるためにも、マクスウェルは大人しくすることにした。
 いったい、どこで人生を間違ってしまったのであろう。
 いまさら後悔しても仕方が無いが、エルフとはいえ、小さな女の子がやることだ。
【退治】などと大仰な表現を使っても、一発くらいは耐えられるようなことだろう……。
 そう覚悟を極めたマクスウェルに、リシリアは右腕を突き出して、何事かを呟き始めた。
 その事態に気付いたのは、アカギである。
 アカギは、リシリアの右腕に宿された「紋章」に気付いてしまったのだ。
 五行、【風の紋章】の上位紋章、【旋風の紋章】……。

「やめろ! こんな狭いとこで、そんなもの使うんじゃねえ!」

 アカギの悲鳴もすでに遅く、リシリアの腕が、淡い緑色の光に包まれた……。

COMMENT

(初:09.09.03)
(改:09.09.13)
(改:15.03.03)