クォ・ヴァディス 27

5-4

 港町ラズリルがガイエン公国から独立を果たし、混迷の状況から抜け出していく中で、唯一、その役目を変えなかったのが、騎士団の存在である。
 彼らは、ガイエン海上騎士団からラズリル海上騎士団に名称が変わり、団長がグレンからスノウを経て、カタリナに代わっても、ラズリルの市街と市民との守護という、変わることのない役目に精を出しながら、一日の大半を船上で過ごしている。
 政治という怪物に翻弄され続ける市民たちが、いかに彼らの背中を頼もしく見ているか、恐らく彼らは想像もしていまい。
 彼らはいまや、都市国家ラズリルの警察機能と軍隊機能とを併せ持つ、最大の統治機関であり、最強の暴力組織であった。

 この騎士団の特長は、なんといっても騎士団員の若さにあるだろう。
 ラズリル海上騎士団は、騎士団と共に、海上騎士養成学校を併せて運営しており、周囲の島々からあぶれ出たものの、自らの生きる目的を見つけられない若者たちが、とりあえずたどり着く場所として、広く門戸を開いている。
 ナ・ナル島の窮屈な伝統に馴染むことができず、島をスピンアウトしてこの学校にいきついたジュエルや、人間とエルフの複雑な関係に翻弄され続けてたどり着いたポーラなどが、もっとも典型的な例といえるかもしれない。
 そして、海上騎士としてラズリルの治安と平和を守りながら、【正義の味方】を続けたいと思う者は人生をその道に乗せ、思わない者は再び流れていく。
 どのようなことに人生の主眼を置くかは、人それぞれだ。ラズリル海上騎士団は、それを強制したりはしない。
 とりあえず人生の渡り方は教えるが、その後のことは知らない。来る者は拒まず、去る者は追わず、というのが伝統的な考え方である。
 このあたりは、海の民らしく、瑣末事にはこだわらない、さっぱりとした気性の現れであろう。

 この騎士団の出身者の中で、現在ひときわ若く、そしてひときわ高名な二名の存在がある。
 若い騎士団員たちは、好んでその【先輩】の話に熱中した。
 高名なわりに自分たちと年齢が近く、決して手が届かない存在ではないことも、彼らに感じる親近感の一因でもあったろう。
 その二名とは、一人はラズリル海上騎士団の副団長として、彼らの直接の上司にあたるケネス。
 もう一人は、【罰の紋章】の継承者であり、オベル王国の客将として活躍しているマクスウェルである。
 二人は群島解放戦争でクールークを倒した功労者であり、解放軍の運営者としても、戦場の勇者としても、そして船長としても、衆に抜けた存在として尊敬されていたのである。

 若い団員たちが畏敬すべき彼らを、話の「つまみ」として俎上に乗せるとき、必ず論議を呼ぶ話題がある。
 すなわち、

「マクスウェルとケネスは、はたしてどちらが大人物であるか?」

 というのである。
 これは極めて興味を引く議題でありながら、一朝には回答のでない難題でもあった。
 なにより、マクスウェルとケネスは、精神的には「慎重派」という同じライン上にいるが、性格的には全く異なる人種と言っていい。

 彼らがマクスウェルを語るとき、必ずその特質として挙げられるのは、「ダイナミズム」である。
 マクスウェル自身は、決して大言壮語をするような人間ではない。彼自身の実績の巨大さにくらべれば、むしろその自己主張は地味と言ってよいくらいである。
 だが、自分の口でことさらに大声で喚かなくても、人は彼から目をそらすことはかなわぬ。
 彼は何も語る必要はない。マクスウェルが動けば、すなわち歴史が動く。
 群島解放戦争もそうだったし、クールーク紋章砲事件のときも、彼の登場によって事件は新たな局面を迎えた。
 そして、現在、群島を騒がせている一連の事件も、発端として、まずマクスウェル襲撃という要素から始まった。
 良きにつけ、悪しきにつけ、事件のスケールが大きければ大きいほど、彼の存在感は増していく。
 これらのダイナミズムは、ケネスには無い要素である。

「だが、マクスウェルあれも、実は損なヤツだ」

 と評したのは、リノ・エン・クルデスである。

「あれは確かに頭がいいが、頭が良すぎて、逆に人が馬鹿に見えることがあるらしい。
 口数が多いほうではないから、おおっぴらに他人を非難することは少ないが、いつまでも他人の下にくっついて、我慢できるような男でもないのさ。
【罰の紋章】に寄生されたことはともかく、【英雄】として祭り上げられたことは、あれにとってはむしろ幸運なことだろう」

 マクスウェルを無理やり【英雄】に祭り上げたのはリノ・エン・クルデス本人であり、彼がマクスウェルのことをこう評するのもずうずうしいというものであるが、その評価自体はまず正鵠を射ている。
 マクスウェルが騎士団の訓練校にいた頃、彼は常に領主の長男であるスノウ・フィンガーフートのお守役をさせられてきた。
 多くの人が彼のことを、「無邪気なお坊ちゃんを押し付けられた、もの静かな実力派」と理解していたが、実は無邪気のスノウの包容力が、マクスウェルの静かな烈気を覆い包んでいたことも、確かなのだ。
 事実、彼はスノウとの信頼関係がこじれ始めたとたん、無実の殺人の罪を着せられ、ラズリルから追放されている。
 その原因の全てを、スノウ・フィンガーフートの無知と不見識のせいにするのも、どこか不自然であろう。内心はともかくとして、実際に彼の無実を証明しようと行動を起こしたのは、ケネスとジュエルの二人しかいなかった。
 マクスウェルはまだその烈気を完全に隠し切るすべを知らず、確かに人望は高かったが、その人望も、この時点では彼の前面に立っていたスノウの幼い無邪気さへの反動に過ぎなかったのである。
 そして、そういう彼の本質を見抜いていたからこそ、リノ・エン・クルデスはマクスウェルを、「客将」という、ある程度の自由がきく立場で使っていたのだ。

 ならば、ケネスの評価はどうであろう。彼はマクスウェルに劣っているのだろうか?
 その回答は「NO」である。
 リノ・エン・クルデスはケネスのことをこう評している。

「ケネスには自らトップたろうとする精神的エネルギーに欠けるから、決してナンバー1にはむいていない。
 だが逆に、ナンバー2としては、あれほど得がたい資質を持っている者はそうはいない。
 安定した人格もそうだが、その邪心の無い至誠は、他人をいつの間にか納得させてしまう。
 なにより、彼には周囲の才能に対する嫉妬心が無い。こいつは大きな美徳だ」

 そう褒めておいて、最後にこう付け加えている。

「だが、あのクソ真面目な性格だけは、一長一短だな。
 ケネスに悪気は無くても、周囲が彼の生真面目さに鬱陶しさを覚え始めたら、彼にとっては悲惨だ。
 ケネスには、自ら独立勢力を率いて変事に立ち向かうようなパワーは無い。
 自分を理解しない周囲との軋轢にストレスを重ねながら、最後は自己崩壊するんじゃないか」

 ケネスにとって、唯一の上司が、やはり生真面目な性格のカタリナであることは、一面では幸運でもあったろう。
 似たもの同士、軋轢も生まれにくい。
 その代わり、彼らの部下にとっては、堅苦しさが二倍になるという、予想外の「恩恵」にあずかることになったが。

 若い騎士団員たちは、リノ・エン・クルデスの評価がケネスの真価を捉えていないことを良く知っていた。
 ケネスは軍人としても優秀だが、なによりも、官僚として際立った手腕を持っている。
 組織の中に入り、対立する意見を調整し、適材適所で人材を配置し、最も効果的な形でルールに改変を加える。
 そうかといって自分の意見に決して意固地にはならず、聞くべき意見は柔軟に取り入れる度量も身につけている。
 確かにリノが言うように、ケネスは生真面目な性格ではあったが、同時に、充分な柔軟さも持っているのである。
 ラズリルの独立の混乱の中で、騎士団が秩序を失わずにその形態を維持できたのは、組織のナンバー2としてあらゆることに奔走したケネスの功績であると言ってよい。

 こういう話もある。二人の剣技のことだ。
 騎士訓練校時代、マクスウェルもケネスも、騎士団の標準武器である片手剣を習い、その道で同級生たちの上位に顔を連ねた。
 ところが、同じ武器を用い、同じ型を習っていたというのに、二人の剣技の質は、恐ろしいほどに異なっている。

 ケネスの剣は、非常に綺麗な流れを持つ。スマート、という形容が最も当てはまるかもしれない。
 ケネスは訓練校に入る前から、剣技についてはグレンに師事していたこともあり、その薫陶厚く、騎士団の基本となるグレンの技を、誰よりも長く、細やかに会得している。
 その剣には一切の無駄がなく、流れるように型に剣先を閃かせる。
 オベル王国で剣術師範を務めるジェレミーが、「流撃剣」と称する「技」の剣を極めているが、ひたすら実戦で磨き上げてきたためか、ジェレミーの剣には血の臭気が強く、一種の殺伐さが抜けない。
 ケネスの剣も、確かに人殺しの道具であり、そのための技であるのだが、ジェレミーほどの血なまぐささはない。
 これは、ケネスがどちらかといえば、「戦わずして勝つ」手段を知っている、文人型の騎士であることも影響していたであろう。
 使わずに済むのなら、人殺しの道具など、使わないほうがいいに決まっている。

 それに対して、マクスウェルの剣は、完全に我流である。
 そもそも、彼の主要武器は片手剣ですらなく、小太刀の二刀流であり、さらに彼は剣士としては珍しい左利きである。もっとも基本的な部分から、彼は周囲とは違っていた。
 マクスウェルが幼い頃、たまたま両手に持った棒切れでモンスターを退治するのを、たまたま居合わせた冒険者の男性に褒められたことがある。
 それ以降、彼は二本の剣を両手に持ち、一人の師にもつかず、ひたすら我剣を磨き続けた。
 マクスウェルがスノウとともに訓練校に入ったとき、団長のグレンはマクスウェルの強さに目を見張りながらも、同時にその剣技のあまりのデタラメさ、無駄の多さに、大いに呆れたという。
 グレンはマクスウェルに、剣技の基本を徹底的に叩き込んだ。わざと右利きのほかの団員と同じ型で教え込んだのは、そうすることで彼本来の左剣も生きてくるからだ。
 マクスウェルはその基本を自分なりに解釈しなおし、グレン流の片手剣の道理を二刀流に昇華した結果、彼の剣技はますますワケのわからないものになった。
 ただ、その「ワケのわからなさ」ゆえに、彼の剣技は強い。動きが読めない。両手に剣を持ち、右利きと左利き、攻撃と防御を奇妙なタイミングでスイッチしながら、魔術師のような動きで相手を翻弄する。
 そもそも、二刀流の使い手自体が、群島では稀少であった。
 二刀流の達人としてよく知られた存在といえば、マクスウェルのほかには、海賊の女巨魁キカくらいしかいない。

 ひたすらに基本を磨き続け、それを一個の「技」にまで昇華してしまうケネス。
 道理の大略を瞬時につかみ、それを自分流に昇華して我流を貫くマクスウェル。
 同じ基本を習っていても、二人の性質と性格の違いが、その剣技の質までを、ここまで変えてしまう。

 結局、性質が違いすぎて、二人は比較の対象になりにくいのである。
 例えば、マクスウェルがナンバー1として組織の頂上にふんぞり返って大風呂敷を広げ、それをケネスがナンバー2として補佐する、という状況にでもなれば、どのような強力な組織が出来上がるか、若い騎士団員たちには想像もできない。
 実は一度だけ、そのような組織が歴史上に出現したことがある。
 群島解放戦争の初期、マクスウェルとケネスが、リノ・エン・クルデスの命令によって立ち上げた「解放軍」がそうであった。
 後にエレノアやキカが加わり、マクスウェルを頂上として、リノ、エレノア、キカの三頭体制がこれを補佐する形に移行したため、ケネスがマクスウェルを直接補佐する体制は一瞬で終わってしまったが、一瞬なりとも存在はしえた。
 マクスウェルとケネスが厚い友情で結ばれている、というのは有名なことであるし、何よりも今度のオベル海軍のラズリル入港の条件として、マクスウェルの身柄がラズリル騎士団に引き渡されたことも、彼らは知っている。
 近い未来、この体制が二度と発生しえない、と断言できる者はいないであろう。
 肝心のマクスウェルが、ラズリル騎士団に復帰する可能性は極めて低い、と思われているにしても……。

5-5

 時間の流れは、一定ではない。
 人により、またそのときの神経の状況によっても、驚くほど時間の長さは違う。
 既に時刻は午後十時を過ぎ、灯を点している窓の光も少なくなっている。
 そんな例外の一部は、ラズリル騎士団員たちであった。
 彼らは、酒のつまみに二人の先輩を無責任にネタにし、話題に花を咲かせて長い夜を過ごすのであろう。
 その一方の主役が、ラズリル港の一角にいた。
 今夜、最も時の長さと無常さを感じているのは、彼のはずであった。

 マクスウェルである。
 マクスウェルは、埠頭から真夜中の月を映す水面を、無表情に見つめている。
 二年前、ラズリル解放の歓喜のなか、ここから真紅に染まる海を仲間たちと見つめていたときは、心も身体も、とてつもない高揚感に包まれていた。
 しかし、今の彼の心境と境遇はどうであろう。
 マクスウェルの心は、月以外何も映さぬ、この闇の海面に似ていた。
 いや、月すらも映っていない。圧倒的な闇が、彼の心を支配している。
 過去への追憶も、未来への希望も何も無い。彼はただ、何の感情も無く、ただ立っているだけだった。

 マクスウェルは、自分が意識を失った後の記憶は無い。
 しかし、意識を失う前の記憶は、鮮明に持っている。
 ミドルポート艦隊を相手にしてのオベル沖海戦。その最中、自分自身がいったい何をしたのか。
【罰の紋章】の負のエネルギーがオベルを直撃したとき、マクスウェルも、その惨劇の様子を、しっかりと見ていたのである。

「やめろ────────────────ッッ!!」

 その瞬間、リノ・エン・クルデスは身体を乗り出し、ほとんど人生初めての悲鳴を張り上げた。
 その悲鳴は、マクスウェルの悲鳴と完全に重なった。
 マクスウェルも、その惨劇の瞬間、腹の底から悲鳴を軋み出していた。他ならぬ、彼自身の内側から。
 自分の所業に対する自分の無力が、体内の水分をすべて涙にしたのかと思えるほど、彼は無力に泣き叫んだ。
 無論、それによって、現実と結果の一グラムも変わりはしなかった。
 それは、彼自身の所業ではなかった。しかし、

「俺はやっていない」

 ……などと言ったところで、あの惨劇を目撃した人間の、誰が信じるであろう。
 マクスウェルは空を見上げた。
 無情の月が、彼の姿を見下ろしている。
 マクスウェルは無表情だった。表情を作る元気は、もう一分子も、マクスウェルの体内には残っていなかった。
 自分がどうしてラズリルで眠っていたのか。
 どうしてナ・ナルにいるはずのアカギとミズキが傍で眠っていたのか。

 ……もう、彼にとっては、どうでもいいことだった。

 マクスウェルは思い知らされた。
 結局、自分は【罰の紋章】に操られ、多くの人間の命を刈り取るための人形に過ぎなかったのだ。

「……ヨーン……」

 無意識の言葉が、マクスウェルの口から闇にこぼれ、溶けていく。

「……俺には、君が何を言っているのかわからない……。
 ……キリルなら……分かるとでも言うのか……」

 はは、と、マクスウェルは嗤った。
 自分に向けた冷笑だった。

「……俺は……もう……」

 不意に、彼は腰の鞘から剣を抜いた。
 いつものように二本ではない。一本だけを、その右腕に握る。
 衝動的な行動だからだろう、彼らしくも無く、剣を扱い損ねて無様に落とした。
 わずかに身体を震わせながら、マクスウェルを歯を噛みしめながらそれを拾った。
 わけもわからず、ボロボロと涙が止まらなかった。

「………………………………」

 剣を脇に挟み、マクスウェルは服の左袖を捲り上げる。
 手首には、【罰の紋章】がある。自分の人生を引っ掻き回してくれた、忌まわしい紋章が。
 マクスウェルは左腕を前方に突き出し、剣を右腕に持ち直す。
【罰の紋章】は、寄生主がなんらかの理由で命を失うか、強引に腕ごと切断してしまえば、その至近にいる命を次の寄生主として憑依する。
 かつて【罰の紋章】に寄生されたグレアム・クレイは、自らの腕を切断することで、【罰の紋章】がもたらす死の定めから逃れえた。
 そして、オベル遺跡でたった一人で命を潰えた冒険者は、【罰の紋章】を誰にも憑依させることなく、その場に留めておくことに成功した。
【罰の紋章】は、その意志さえあれば、人界から遠ざけることは、不可能ではないのだ。
 左腕を切断し、【罰の紋章】を、腕ごとラズリル湾に沈めてしまおう。そう、マクスウェルは決意した。
 自分自身の身体と紋章で、愛すべきオベル島を攻撃してしまったことは、この青年にとっては最悪の衝撃となってしまっていた。

「………………………………」

 マクスウェルは自分の左腕をにらみつける。
 その口元が、醜く歪んだ。

「こんな紋章……こんな紋章のために……」

 慟哭のように声を絞り出す。
 こんなちっぽけな紋章のために、グレン団長は命を失い、自分とスノウは人生を狂わされた。
 こんなちっぽけな紋章のために、リキエやキカは愛する人を失い、多くの命が無慈悲に失われた。
 こんなちっぽけな紋章のために。
 こんなちっぽけな紋章のために。
 こんなちっぽけな紋章のために。

「……くっ……ああああああああああああああッッ!!」

 マクスウェルは慟哭した。
 自らの心象世界で、【罰の紋章】に見せらつけれた数々の惨状。数々の慟哭。数々の命の散華。
 血の色に染まった悪夢の世界を、彼は瞬間で気に脳裏に蘇らせてしまった。
 マクスウェルは慟哭しながら、海に嘔吐した。
 精神状態が普通ではない。
 いや、ここまで普通に精神を保てたのも、マクスウェルだからこそだった。
 マクスウェルが、【罰の紋章】をその身に宿してから、もっとも長い期間、命を永らえている存在であることは事実だったし、紋章との相性は良かったのであろう。
 しかし、それも限界にきた、と見るべきであった。

 再び立ち上がったとき、その表情は狂気に支配されている。
 どうして自分がこのような目に遭わなければならないのか。
 そこに佇立しているのは、被害妄想のカタマリだった。
 そのカタマリは、左腕を突き出すと、右腕の剣を振り上げた。
 次の瞬間、その剣を振り下ろし、自分の左腕と【罰の紋章】を自分自身から切り離せば、この悪夢はすべて終わり、歴史は変わるであろう。
【罰の紋章】など、魚にでも食われてしまえばよいのだ。

「―――――――!!」

 獣のものとしか思えぬ奇声を張り上げて、その瞬間を謳歌しようとした、その途端だった。
 マクスウェルの剣が止まった。
 彼は、ぎょろりと眼を剥いて、自分の後方をにらみつけた。
 彼が振り向いたのは、後方にわずかな気配を感じたからだ。
 普通ならば感知しえぬほど小さなその気配に気付いてしまったのは、マクスウェルの感覚が極めて敏感になっていることを意味している。
 それも、あまり良くない意味で、だ。
 いま彼の心は、割れる直前の硝子瓶のようにひびだらけになっている。

 マクスウェルが尋常ではない視線と感覚で睨みつけた先には、一人の女性が立っていた。
 明るすぎる月光に照らされて、はっきりとその姿をマクスウェルの網膜に映していた。
 長身の女性だ。動きやすい衣装に身を包み、激しすぎる意志の強さが、切れ長の目元にはっきりと現れている。
 マクスウェルは剣を構えたままの姿勢で、その女性を視線で貫いた。

「あんた……ケイトさん……か?」

「おうさ」

 女性はぶっきらぼうに返答をよこした。
 ケイト。
 この名前は、この長い事件の中で、すでに一度登場している。
 第二次オベル沖海戦の直前、リノ・エン・クルデスがオベルに潜入させたスパイ・ロウセンの最後を看取った、別勢力からの使者であった。
 ケイトはオベル島での【仕事】を終え、予定のとおり、ラズリルに立ち寄っていたのである。
 元はアカギやミズキと同郷の忍びで、その里が壊滅して以降は行方をくらまし、闇の仕事に従事することが多かった。
 群島解放戦争において、マクスウェルに力を貸していた時期もあるが、戦後は再び行方をくらましていた。
 そのケイトが、再びマクスウェルの眼前に現れていた。

「なんか、雰囲気悪いね」

「何しに来た」

 マクスウェルの言葉に、かつての戦友に対する友好の要素は殆ど無い。

「あたしのことは気にしなくていい。
 あたしなんかより、あんたの方が用事があるんだろ。
 その腕を切り落とすのかい? あたしは邪魔しないから、やるなら早くやるといい。
 このままじゃ、朝になっちまうよ」

 まるで散歩にでも誘うような気軽さで、この女忍びは、想像を絶することを言ってのけた。
 マクスウェルは愕然とした。
 そして、迷走していた感情に一定の方向性が与えられたかのように、怒りに震え始める。

「あんた……なにもかも知ってて言ってるだろう」

 搾り出すようなマクスウェルの声を受けても、百戦錬磨のこの忍びの、緊張感の無い表情を変えることはできない。
 あるいはそれが演技だとしても、いまのマクスウェルが太刀打ちできるような相手ではないことは、明らかだった。

「ああ、もちろんさ。
【罰の紋章】は、近くに誰かがいると、その誰かに憑依して、惨劇を繰り返す。
 それが怖いから、あんたは誰もいないこんな時間の、こんな場所を選んだろう?
 だけどね」

 ケイトは口元を吊り上げる。
 馬鹿にされたようで、マクスウェルに強烈な負の印象を植え付けた。

「そんなことは、あんたの都合さ。あたしの都合じゃない。
 あんたが【罰の紋章】を手放すのなら、喜んであたしがその後釜になってあげるよ。
 そんな強大な力があれば、あたしも今後、色々と仕事がやりやすくなるしね」

「あんた……ッ!」

 マクスウェルは擦り切れそうなほどに歯を噛みしめた。
【罰の紋章】に対して自分が持っている様々な思いを、軽くあざ笑われたような気がした。
 マクスウェルが猛る。

「あんたも、この紋章の【力】しか見えない馬鹿か!
 あんたみたいな即物的な欲が、この紋章の惨劇を繰り替えすんじゃないか!
 大切なものを奪われた者がどうなるか、あんたは知っているっていうのか!?
 どうにもならない……! 決して埋まらない苦しみに、怒りに、悲しさに、心と体を苛まれ続けるんだ!
 それがどれほど苦しいか、それを見せ付けられることがどれほど悲しいか、【力】しか見えない近視眼のあんたに、なにがわかるって言うんだ!」

 意識が高ぶりすぎているせいか、彼の論旨はかなり不分明である。
 だがそれは、マクスウェルの長くもないこれまでの生涯を通じて、最高の激発だったに違いない。
 その激発を生み出したものが、彼にとって肯定的な要素でなかったことは、皮肉というほかない。
 彼は全てを許して英雄となったが、そのさなかで、彼自身は多くのものを失ってきた。
 確かに、多くの仲間との絆など、多大なものを得たことも事実である。
 だが、失ったものと得たものを天秤にかけて比較するなど、実際問題として不可能なのだ。
 マクスウェルは実に多くの仲間を得たが、だからといって、彼のただ一人の師であるグレン・コットが生き返ってくるわけでも、ただ一人の養父であるビンセント・フィンガーフートとの関係が修復するわけでもない。

 マクスウェルの狂気とも言える憎悪の視線を向けられても、なおケイトはひかない。
 驚くほど冷めた視線を、ケイトはマクスウェルに向けた。

「は! そりゃ、自分のカルマで自滅した負け犬の言い草だね。
【罰の紋章】の暴走で死んだ人間は、事故で死んだのと同じだ。運が悪かったのさ。
 あんたが明確な自分の意志で殺した人間が何人いるか知らないが、あんたみたいなアマちゃんが、そうそう人が殺せるとは思えない。
 たかが一人二人殺した程度の業で潰れちまう負け犬の遠吠えに、興味なんかないね」

 ケイトは闇の世界の人間である。
 確かに、色々ありながらも陽のあたる道を踏み外さなかったマクスウェルなどとは、世間の見方も、積み上げてきた業も、全く異質なものだろう。
 だが、ケイトの言葉が現実だというのなら、いったいなにをもって人間の尊厳とすればいいのか。
 マクスウェルは力を失ってうなだれながら、怪物を見るような目で、ケイトを見た。

「……あんたは、いったい何者なんだ。
 殺人鬼なのか、それとも、それ以外のなにかなのか」

「私はただ、自分の職務に忠実なだけ。殺人鬼と忍びの理屈は違う。
 殺すしか能がないのが殺人鬼。殺す相手、殺す手段を冷静に選べるのが忍びさ」

 何かに気付いたように、くくっ、と不意にケイトが笑った。
 つい先ほどまでの、挑発的な言動が嘘のように、穏やかな表情になって、マクスウェルに背を向けた。

「あたしから見りゃ、あんたなんか、まだまだケツが青いだけのガキだがね。
 それを放っておけない老婆心をくすぐる未熟さも、人徳っていやあ人徳なのかね」

「………………?
 なにを、言っているんだ?」

 不思議そうな顔で尋ねるマクスウェルを一瞥して、ケイトは壁に背を預ける。

「あんたは【罰の紋章】を自分から切断するのに、人のいない時間・場所を選んだつもりだ ろうが、あたし一人を追い返したところで無駄だってことさ」

 言って、ケイトは叫ぶ。

「隠れても無意味だよ。諦めて出てきな」

 何が起きているのか、瞬間には理解しかねた。
 だが、マクスウェルの怪訝な表情は、ケイトの声が埠頭に響いた次の瞬間に驚きに変わった。
 まず建物の物陰から、気まずそうに一人が姿を現す。
 それを契機に、夜陰の中、マクスウェルの前に、次々と人が現れた。
 アカギがいる。ミズキがいる。ケネスも、ミレイもいる。
 意外なところでは、エレノア・シルバーバーグの弟子であるアグネスがいる。
 また、群島解放戦争でマクスウェルの大きな力となった美貌の紋章師、ジーンの姿もある。
 みな、普通ではないマクスウェルの様子を見守っていたのである。
 未だに呆然としているマクスウェルの表情が、凍りついた。
 それらの人々の中央に、思いもしない人物の姿を見出した。

「……ポーラ……?」

 マクスウェルは小刻みに身体と声とを震わせながら、そのエルフの少女に近づく。
 片耳を失った彼の大切な友人は、一瞬、表情の選択に迷ったが、優しい笑顔でその質問に答えた。

「はい、ポーラですよ」

「君……、無事で……?」

「はい、私は無事に元気ですよ、マクスウェル」

 その声も、その表情も、マクスウェルが良く知るポーラだった。
 マクスウェルがその安否を心配し続けた友人が、無事な姿で目の前にいる。
 それを理解した瞬間、マクスウェルの心が弾けた。
 彼は剣を落し、自分とさして変わらぬ身長のポーラを、力いっぱい抱きしめた。
 衝動的な行動だった。
 瞬間、ポーラは身体をこわばらせたが、抵抗はしなかった。
 マクスウェルの複雑な表情に浮かんでいた、どうしようもないやるせなさが、ポーラに抵抗させなかった。
 マクスウェルの口から、嗚咽が漏れる。
 それはすぐに、しゃくりあげるような涙声に変わった。
 彼は泣いた。
 声をあげて泣いた。
 ただひたすら号泣した。

「ジュエルは死なせはしない。ポーラも必ず助ける。
 今はこの約束にこそ、俺は全てを賭けよう」

 ナ・ナル制圧艦隊がオベルから出撃する直前、彼はケネスにそう固く約束した。
 その約束を、マクスウェルは何一つ果たせていないのだ。
 ポーラは自分の知らないところで助け出され、ジュエルにいたっては、生きているかどうかすらわからない。

「何が【罰の紋章】だ。なにが英雄だ。
 俺は約束一つ守ることができない、ただの馬鹿者じゃないか」

 大口を叩いておきながら、何もできなかった自分の無力。
 それに対する、怒り、悲しみ、はがゆさ。
 それら全てが涙と慟哭に変わって、マクスウェルの身体から出ていった。

「…………………………」

 どうしてよいかわからず、しばらくなされるままにしていたポーラも、震えるマクスウェルの背中に腕を回し、無言のまま、優しくその身体を抱きしめる。
 誰も口を開けなかった。
 群島解放の象徴。強大な力を持つ【罰】の英雄。
 その慟哭だけが、空ろに月明かりを映す水面みなもの上を流れていく。

COMMENT

(初:09.07.12)
(改:09.09.19)
(改:15.03.03)