クォ・ヴァディス 26

5-1

 オベル・ラズリルの敗残艦隊は、ラズリルのカタリナが派遣した船から補給を受けながら、傷ついた身をラズリルに向けた。
 そして四月二十日午前十一時、ついにラズリル沖三キロの地点まで到達した。
 ここでは、まずケネスの指揮するラズリル艦隊が先に入港し、オベル艦隊はしばし沖に待機することになる。
 リノ・エン・クルデスとラズリル海上騎士団長カタリナとの間で親書が取り交わされ、入港に関して、様々な取り決めが行われるのだ。
 リノ・エン・クルデスは、預かった艦隊の半数を失うという大失態を、カタリナに詫びた。
 それに対するカタリナからの返書は、リノ・エン・クルデスを愕然とさせた。

「こ、これが、カタリナからの返事だというのか……!」

 巨体を震わせながら親書を読むリノ・エン・クルデスの背後から、フレアとミレイが心配そうに顔を出している。
 カタリナが、オベル艦隊のラズリル入港のために出した条件は、苛烈を極めた。
 特にリノ・エン・クルデスを戦慄せしめたのは、第三項以降である。

 第一に、オベル沖海戦にて戦死した両軍の兵士の魂の安寧を祈り、オベル艦隊の入港を歓迎する。
 第二に、今後もラズリルはオベルとの協力関係を継続し、オベル奪還のために共闘する。
 第三に、今後のオベル王国奪還の作戦行動については、オベル側の意思を尊重し、ラズリルの主導によってこれを行うものとする。
 第四に、オベル艦隊の兵の所属については、第一に兵の自由意志を尊重するものとする。
 第五に、群島解放の象徴であるマクスウェルは、真の活躍の場あるまで、その故郷であるラズリルにて静養させるものとする。

「おのれ、足元を見おって……!」

 リノは、カタリナの親書を感情的に丸めてしまうと、床に叩きつけた。
 生真面目一方な性格だと思っていたカタリナが、ここまで強かな思惑の持ち主であることを、彼は予想していなかったのだ。

「読んでみろ!」

 言われたミレイとフレアが、くしゃくしゃにされてしまった親書を広げる。
 国王の顔色と親書とをかわるがわる見ながら、そして言葉を失った。
 オベル奪還はラズリルがやってやるから、オベルは大人しくついてくるがいい。
 オベルの兵がラズリルに来るというなら、ラズリルは受け入れてやる。
 そして、マクスウェルと罰の紋章をラズリルに引き渡せ。
 要約すれば、そのような内容であった。
 特に問題なのは、第四項である。
 オベル兵自身に、オベルに残るかラズリルに来るかを選択させろ、というのは、あからさまにオベル海軍の解体を狙った行為ではないか。
 これが果たして、同盟国としてやることか。

「これは……」

 ミレイが色を失った顔で、腕を組んだまま不機嫌に黙り込む国王を見上げた。

「陛下、これはオベルに対して、ラズリルの属国になれと言っているようなものではありませんか!
 私は反対です! オベル奪還の主導権を奪われ、かつマクスウェル様を渡すようなことがあれば、我々がミドルポートのみならず、ラズリルの足元にまで屈することを、自ら天下の耳目に向けて宣伝するようなものです!」

 ミレイは怒りに任せて言い放った。
 一つには、マクスウェルをまるで物のように扱うラズリル側に対して、嫌悪感を抱いてしまったせいかもしれない。
 だが、マクスウェルの意思に関係なく、彼に大きな政略的価値があるのは事実である。
 かつてマクスウェル自身が言明したように、マクスウェルは群島における最強にして最凶のカードである。
 群島最大の英雄としての偶像性が持つ「表の顔」と、罰の紋章の強大な破壊力が持つ「裏の顔」。
 そのどちらの面も、使い方によっては、使用者を大富豪にも乞食にもしてしまう、危険な切り札なのだ。
 そして、先のオベル沖海戦において、リノが直接使用したわけではないものの、オベル艦隊はその使い方を誤った。
 少なくとも、結果的にはそのようになる。
 ならば、オベルがマクスウェルを保護していたのは誤りではないか、と、考える者もいるのである。

「陛下、この条件は飲むべきではありません。
 ラズリルと一戦を交えても、オベルのプライドを貫き通すべきです!」

 まるでジェレミーの血気が乗り移ったかのように、ミレイは声を荒げる。
 ミレイの精神が、いまだに安定を取り戻していない影響もあったのだろう。
 リノは不機嫌な表情のまま、周囲を見渡した。
 習慣的に、一人の青年の姿を探してしまうが、いま彼はここにはおらず、急に現実に引き戻されたリノは、胸郭全体を使って、その体格にふさわしい大きなため息をついた。
 こういう会議のとき、荒れやすい若い重臣達をなだめるのは、トリスタンかマクスウェルの役割だった。その両名がいない今、彼の身近にいる重臣は、ミレイと娘のフレアのみであった。
 アカギとミズキもいるにはいたが、彼らを同席させるには、今のリノには勇気を必要とした。
 リノ・エン・クルデスは娘に視線を向けて頷いた。意見を言え、と促した。
 フレアは深呼吸を一つすると、静かに口を開いた。

「オベルの精神に、死を美化する要素はないはずよ。
 今日の屈辱は、明日の栄光ために。未来の詩人の涙よりも、泥の中でも今日の生を選ぶ。
 それゆえのオベルです。今は、生き残った者が生き延びることを考えることが先決です」

 フレアは意志の強い瞳を父王に向け、言葉を続けた。

「そしてオベル王たるもの、多くの人間を死に追いやった責任から逃れてはなりません。
 そのかばねと遺志の元に、再起を誓うべきです」

 ミレイの激怒とは対照的に、フレアは驚くほど落ち着いている。
 そう装っているだけなのかもしれないが、その冷静さ、あるいは冷静さを装える精神の強靭さに、将来の大器を感じる者もいたかもしれない。
 ともかく、フレアの進言が父王にある程度の冷静さを取り戻させたことは事実だった。

「よかろう!」

 リノ・エン・クルデスは、怒りの熱を全身にたぎらせながらも、決断した。

「フレアの意見を是とする。
 ミレイ、今は耐えよ。お前のその怒りを、オベル復活のいしずえとする。
 その時まで、この屈辱を忘れるな!
 午後二時に碇を上げ、ラズリル港に入港する。それまで待機!」

 それだけを叫ぶように言うと、リノ・エン・クルデスは全体重を床に叩きつけるように歩きながら、自室へと姿を消した。
 フレアも、ミレイの肩を一つたたいて、艦橋を後にした。

「マクスウェル様……」

 ミレイは小さく身体を震わせながら、呟いていた……。

5-2

 そして四月二十日、午後二時三十分。
 ラズリルにとってもオベルにとっても、歴史的な時がやってきた。
 先に入港していたラズリル艦隊旗艦ヤム・ナハルの脇に、オベル海軍旗艦オセアニセスが入港し、今や国土を失い、亡国の王となったリノ・エン・クルデスが姿を現す。
 ラズリル海上騎士団長カタリナは、主な腹心を連れて彼を出迎えた。

 カタリナは、今年三十二歳になる女性だ。
 柔らかな口元と、相反するように強い意思のこめられた目元が、その生真面目な性格を物語っている。
 かつて、ラズリル海上騎士団の前身であるガイエン海上騎士団の副団長を務め、群島解放戦争の後、ラズリルがガイエンから独立するに及んで同騎士団の崩壊を防ぎ、そのまま騎士団長の職に就いた。
 その道は、決して平坦だったわけではない。
 元来の性格は視野が狭く、周囲から狭量な人物だと思われがちであった。
 しかも、群島解放戦争の起こる直前、前騎士団長グレン・コットの死に関する出来事で、事件の真相を見抜くことができず、無実のマクスウェルをラズリルから追放してしまった人物、というレッテルを貼られてしまい、特にマクスウェルの人気の高いラズリルという土地では、人心を掌握するにも限界があった。
 結局、彼女を救ったものは、彼女自身の、凄まじい努力と献身だった。
 カタリナは寝食を忘れた。まるで尊敬するグレン団長の足跡を追うかのように、ひたすら身体と頭を動かし、市民とも積極的に交流した。
 そうした公正無私な態度が、頑ななラズリル市民の心を開いた。
 先代のラズリル領主であるフィンガーフート伯ビンセントが、戦争のどさくさにまぎれて逃走してしまって以降、その座は空位となっているが、現在、カタリナが事実上の領主として認識されている。

 そのカタリナが、長身のリノ・エン・クルデスの手を取って出迎えた。

「リノ・エン・クルデス陛下、よくぞご決心くださいましたわね。それでこそ、偉大なるオベル国王ですわ」

 リノは表情を変えぬまま、内心で言いたい事を百万回ほども叫び尽くした後、気持ちを入れ替えた。

「ラズリル兵の大半を失ってしまった大罪ある私を、こうして受け入れてくださる、その深き情に対し、言葉もありません」

 言って、その手を取り返した。
 悔しさはあるが、並行して罪の意識もあるのも確かである。現在が雌伏の時ならば、英気を回復することに徹するべきであろう。
 彼は、そう割り切った。

「今はお疲れでしょう。細々とした話は明日にいたしましょう。
 ささやかながら、部屋と料理を用意してありますわ。
 どうぞ、旅の癒しとなさってください」

 カタリナはリノのために、今は亡きグレン・コットの部屋を客室として整えていた。
 この部屋はグレンの死後、長く封印されていたもので、ラズリルにおける一種の聖域のような雰囲気すらあった。
 その一時でも、ラズリルがオベルに対して最高の礼儀を尽くして迎えていることがわかる。
 このことはリノも良く知っており、さすがに身に余るとして辞退したが、結果としてカタリナに押し切られてしまった。

 オベル海軍の他の者にも、部屋や宿が宛がわれた。
 とにかく休みたかった。それが、全員の心境であったろう。
 ささくれだった精神を少しでも休めるには、眠ることが最良の薬だった。
 気を失ったままのマクスウェルは、彼自身がガイエン海上騎士団時代に使っていた部屋に運ばれた。
 騎士団時代、故グレン団長の付き人のようなことをやっていたマクスウェルは、自室も他の団員とは違い、グレンの私室の至近に設けられていた。
 リノ・エン・クルデスとマクスウェルをごく近い部屋に宿泊させるのは、偶然か、それとも何か意図のあってのことか。
 リノは一瞬なりとも疑いの目を向けたが、それも健康的な発想ではなかった。

 マクスウェルの側には、アカギとミズキがひと時も離れずにくっついている。
 また、先にラズリル入りしていたケネスやポーラなどが引っ切り無しに彼を見舞い、彼の護衛を勤めていたはずのミレイは、その任務からも彼の傍からも、強制的に放り出されてしまった。
 マクスウェルがオベルからラズリル側に引き渡された以上、ミレイのマクスウェル護衛の任も宙に浮くことになる。
 それに、片時でも彼の存在に恐怖心を抱いてしまった自分が、どのような顔で彼に会えばいいのだろう。
 様々な思いがミレイの心中で螺旋状にもつれ合って、容易にほどけそうにはなかった。

 ミレイは割り当てられた宿に直行し、まだ時間的には昼間だったが、ベッドに身を投げ出してひたすら眠った。
 それで心の中の季節が変わるわけでもないが、自分の知らないところで少しでも時間が進んでくれればありがたかった。

5-3

 そうして四時間ほど泥のように眠った後、リノ・エン・クルデスは、カタリナから一人の人物に引き合わされた。
 ターニャ、というその若い女性は、リノ・エン・クルデスの記憶層に、エレノア・シルバーバーグの弟子の一人として強烈に刻印されている。
 群島解放戦争のとき、エレノアに弟子入りをする、その一事のためだけに強引に解放軍の旗艦に乗り込んできたほどの、歴史家志望の行動家だ。
 わずかに緑色を含んだ金色の長い髪を揺らしているが、細いその表情は、美人と評するには少々目元にけん・・がありすぎた。

 リノ・エン・クルデスは人に対しては度量が深く、大抵の人間は受け入れることができたが、群島解放戦争当時から、このターニャという女性だけはどうにも苦手だった。
 誰もが国王というリノ・エン・クルデスの立場に遠慮しながら発言する中で、リノ自身は、例えばマクスウェルのように、国王に対しても堂々と諫言できる硬骨の士を好んで身近に置いたが、このターニャは少しタイプが違う「硬骨」だった。

「国王陛下、まずはわが師、エレノアが御前に現れられぬことをお許しください。
 そして、恐れ多き事ながら緊急を要するゆえ、再会の挨拶も省かせて頂きます」

 出し抜けにそのようなことを言ったターニャの性格は、リノ・エン・クルデスの苦々しい記憶そのままであった。
 どんな状況でも「遠慮」という言葉から全く無縁であり、とにかく言いたいことをズケズケと言い放つ性格で、頭脳の明晰さを尊敬されながら、一方で良く思われないことも多かった。
 当然、オベル国王であり群島解放軍の重鎮でもあるリノ・エン・クルデスに対しても態度を変えることなく、彼に苛立ちの酒を何杯も飲ませた。
 もっとも、ターニャ自身は他人の評価などを一顧だにせず、師のエレノアも、その厚顔不遜、あるいは大胆不敵な性格を気に入っていたようである。
 同門のアグネスとは、様々な意味で対極的な存在であった。
 そのターニャが、エレノアの使者としてリノ・エン・クルデスの前に現れたのである。

「久しいな。エレノアは息災か?」

「は、おかげをもちまして息災でありますが、それはこの場の状況には関係のなきこと。
 陛下におかれましては、できればより大事をお尋ね頂きますように」

 これである。社交辞令の存在意義を、まっこうから切って捨てるストレートさで、ターニャは一国の王を非難した。
 彼女は歴史家志望ではあるが、圭角かどがありすぎ、要するに、一般の社会では受け入れられにくい性格なのであった。
 そういうところが、エレノアにも通じるところがあり、この師弟はお互いを受け入れたのであろう。
 リノ・エン・クルデスは強烈に苦虫を噛み潰しながらも、口に出しては何も言わなかった。
 関係のない話を続ければ、噛み潰す苦虫の数が無限に増殖するだけであろう。彼は別のことを口にした。

「エレノアがここまでお前をよこしたのは、どういう理由からだ。
 彼女はいまどこにいて、これからどうするつもりだ」

「わが師は現在、独自に行動を起こしており、その居場所は私にも知らされておりません。
 しかし、我らがこれまでに得た情報を陛下にお伝えするように、と言い付かっております」

 そして、エレノアが赤月やクールークで得た情報が、リノ・エン・クルデスに伝えられた。
 旧クールーク領の混乱も、そしてその旧クールークの一部が、群島諸国連合と協力したがっている、ということも。

「その証として、近いうちにこのラズリルに、旧クールークの勢力の一つから使者が来ます。
 わが師エレノアの提案もあり、彼らは陛下に対していくらかの戦力を提供するはずです。
 それをどうするかは陛下のご自由ですが、武力でもってオベル奪還を期するならば、それらを取り込んで、戦力の充実をはかればよろしい」

 先にリノ・エン・クルデスに対してシャルルマーニュが言った、「陛下がお求めのもの」の一つがこれであろう。
 それが本当なら、先の敗戦で戦力の大半を失ってしまった彼にとっては、身体中の水分がよだれになるほど魅力的な話ではあるが、素直に喜ぶわけにはいかなかった。
 群島諸国、とくにオベルの人間は、クールーク人に対して不信を抱いていることはなはだしい。
 群島解放戦争のきっかけはクールークの南進政策であるし、戦争中、オベルは一時的ながらクールークに占領されてしまっている。
 さらに、その戦後に休戦協定が結ばれた際も、クールーク側のほうからそれを一方的に反故にして、崩壊したエルイール要塞を秘密裏に再建しようとしていた。
 とにもかくにも、油断ならぬ。それが、オベルの旧クールークに対する先入観であった。

 だが、リノ・エン・クルデスは皮肉に口元をゆがめた。
 その懸念も、戦力の充実も、現在のリノ・エン・クルデスは、それを決断しえるリーダーシップを奪われてしまっているのだ。
 現在、それを決断すべきは、部屋の端で無言で二人のやり取りを聞いているカタリナであろう。
 リノ・エン・クルデスにできることは、せいぜいカタリナに「よろしくお願いします」と、頭を下げることくらいであった。

 リノ・エン・クルデスはゆっくりと目を閉じて、陰気な思考を頭から追放した。
 彼はターニャから、もう一つ聞かねばならないことがある。
 シャルルマーニュが言った、最も重要なこと。
 この事件の真相。
 当然、ターニャはこのことをエレノアから聞いているはずである。
 それを問い詰めると、ターニャは珍しく口元を曲げた。

「確かに伺っております。
 しかし、ことは恐らく、陛下が予想されている以上に深刻です。
 一から全てをご説明申し上げると、膨大な時間がかかります。ゆえに、要点だけを二三、申し上げます。
 不明な点があれば、後にお尋ねください」

「わかった」

 リノ・エン・クルデスがシンプルに頷くと、ターニャはいきなり真相を突いた。

「まずは、この事件の首謀者」

「それは分かっている。ミドルポートのラインバッハ二世だろう」

「違います。最後まで、人の話をお聞きあれ」

 妙に苛立った様子で、ターニャはリノを睨みつけた。

「確かに、一連の事件を具体的に企図したのはラインバッハ二世ですが、必要以上に彼を焚きつけた者がいるのです」

 リノ・エン・クルデスの目が驚きに支配される。
 限界まで見開かれた目が、ターニャを突き刺した。

「そんなヤツがいたのか。誰なのだ、その愚か者は」

「陛下も良くご存知の名前ですよ。
 ――――グレアム・クレイ、元クレイ商会会長です」

「クレイが……」

 リノ・エン・クルデスにとってはよほど意外な名前だったのか、彼は数秒間絶句した。
 グレアム・クレイ。
 それは、かつての群島解放戦争に関わった人間にとっては忘れられぬ名である。
 かつてクールークの皇王に取り入り、クールーク海軍を私物化して、その南進政策の目的を、群島諸国の制圧から【罰の紋章】の奪取という己の目的にすり替え、群島解放戦争を起こした。
 結局、マクスウェルらに阻まれ、その目的は達することはできなかったが、彼自身は死ぬこともなく、戦後は行方をくらましていた。
 そのグレアム・クレイが、再び歴史の表舞台に立ったというのか。

「しかし、戦争当時なら、クールークとの強い関係があったし、クレイ商会という存在もあった。要するに、クレイにも権力的な【力】があったわけだ。
 だが、クールークが崩壊した今、たとえクレイが生きていたとしても、力なき彼にラインバッハ二世が踊らされるとも思えん」

 リノ・エン・クルデスが当然の質問を発する。
 かつてケネスがマクスウェルに指摘したように、ラインバッハ二世は、自らに有利なフィールドが完成されなければ動かない慎重さと、その完成の機を見極めるに敏な眼力を併せ持つ人物である。
 その彼が、たかが一民間人であるグレアム・クレイの、それも個人的な欲望に対して心動かされるなどとは考えにくいのであった。
 唯一、二人が共闘するとすれば、クレイの野望を達成することによって、ラインバッハ二世にもなんらかのメリットが齎される場合であるが、果たしてそれがどのようなものなのか、リノ・エン・クルデスには予想もつかぬ。
 だが、その解答はすぐに提示された。

「いえ、その彼に力を貸す者があるのです。
 恐らく、この世でもっとも真の紋章に執着している、えらく長生きのお人がね」

 皮肉のスパイスを効かせたターニャのヒントを受け、リノ・エン・クルデスは再び愕然とする。

「まさか! ハルモニアが!?」

「ご名答、そのまさかです。ハルモニア神聖国建国の英雄、神官長ヒクサク」

 ターニャはリノ・エン・クルデスの視線を、まっすぐに跳ね返して言った。

「理由は分かりませんが、彼は真の紋章の収集に躍起になっていると聞いています。
 かつての群島解放戦争にも、その影がちらついていましたし。
 グレアム・クレイは現在、ヒクサクの庇護の元、【咆え猛る声の組合】の一員として行動しているようです。
 崩壊した旧クールーク海軍の一部を纏め上げ、ラインバッハ二世に提供したのも、彼です。
 たとえ真の紋章が手に入らなくても、クレイ一人と他国の軍人を使い捨てて済むのならば、ヒクサクが痛むべき何者もありません」

 リノ・エン・クルデスはため息を吐き出しながら腕を組んだ。
 なるほど、ラインバッハ二世がオベル占領に使った八隻の軍艦と多勢の兵力のうち、ミドルポートの戦力は半数でしかない。
 残りの半数はどこから来たのか、と思っていたのだが、クールーク海軍の残党だったわけだ。
 おおかた、ミドルポートの豊富な資金を利用して、クレイがかき集めたのであろう。
 なかなかどうして、闇商人としてのクレイの腕は、摩滅してはいなかったようである。

 エレノアはこれらハルモニア関係の情報を入手するのに、行商人ラマダの人脈や彼本人の肉体を、手ひどいほどに使っている。
 行商人ラマダは、アカギとミズキの元の雇い主で命の恩人でもあるが、本業は闇ブローカーであり、解放戦争以前はクレイ商会など、アンダーグランドな組織からのアンダーグラウンドな取引を多くこなしていた。
 戦後に至り、クレイ商会と縁が切れたこともあって、今後はまっとうな商人として一から出直そう、と決意したラマダであったが、エレノアと思わぬ再会を果たしてしまったことが、彼の運の尽きであった。

「クレイすら、ヒクサクの人形に過ぎんというのか」

「ヒクサクにとっても、ラインバッハ二世にとっても幸いなことに、たとえ人形であるにしても、クレイは優秀な人形です。
 彼を通じてハルモニア神聖国とよしみを結ぶことができれば、ラインバッハ二世は、経済的に大きな利益を手にすることができるでしょう」

「なるほどな。ミドルポートがハルモニアとの貿易での利益を独占しようとするならば、どうしても、群島全体で強力な経済圏を形成する【群島諸国連合】の存在は邪魔だ。
 ナ・ナルを潰し、オベルを潰し、【群島諸国連合】そのものを瓦解させることが、ラインバッハ二世の目的か」

「彼だけではありませんが、【群島諸国連合】の存在で利益を得るのは、その盟主であるオベル王国だけだ、と考えていた節があります。
 ヒクサクとクレイは、その「被害意識」につけこんだのでしょう。
 ラインバッハ二世の裏切りには、リノ・エン・クルデス陛下、あなた自身にも責任の所在がおありです」

「……………………」

 容赦のないターニャの指摘に、リノ・エン・クルデスは、再び苦虫を潰しながら沈黙した。
 それは、彼自身も常々感じており、群島諸国連合の今後の重大なテーマであったが、他人から手厳しく指摘されれば、快いはずもない。
 だが、懸命にもリノ・エン・クルデスは表情を一瞬で切り替え、話題を転じた。

「なるほど、これまでの話が正しいとして、ヒクサクやラインバッハ二世の目的には納得できる。
 ならば、当のクレイ本人の思惑はどうなのだ?
 彼はただ人形と化して、他人の風下に立つような人間ではない。彼がヒクサクの操り人形の立場に甘んじているのは、彼自身に何らかの強い目的意識があるからだろう。
 ヒクサクに近づいたことからも、クレイが【罰の紋章】に執着しているのはわかる。
 だが、彼がそこまで【罰の紋章】に拘泥する理由は何だ? それが分からなければ、対策を立てるのにも限界があろう」

 結局、事件の中心にいるのは、グレアム・クレイである。
 彼の真意が読み解けなければ、いかなる状況においても後手後手に回る可能性が高い。
「機先を制する」ということができなければ、受身の立場から脱することはできないのだ。
 ターニャは首を横に振った。

「わが師エレノアにはなんらかのお考えがあるようですが、私たちには、その胸の内の全てを語ってはくださいません。
 今は、御自分のお考えに確証を持つために動いておられるようです。
 完全な対策は、それ以降のこととなりましょう」

 リノは再び話題を転じた。

「もう一つ問題がある。
 お前は先ほど、クールークから助力があると言ったが、それはどれほどの数なのだ。
 ただでさえ、我々の戦力は少ないし、一方でミドルポートの戦力は増加する可能性もある。
 そのクールークからの助力を得ても、ミドルポートの戦力と拮抗するまでにできるかどうかはわからないし、そもそも命令系統の一本化も容易ではない。
 その点、エレノアはどう言っている?」

 リノ・エン・クルデスにしてみれば、これが最大の懸念であった。
 何よりも彼の目的はオベル王国の奪還であり、それを実行するには、カタリナなど他人に頼らなければならぬのが現状である。
 ラインバッハ二世は、クールーク海軍の残党に対して「金銭かね」という、最もシンプル、かつ最も強力な手段を用いて彼らを纏め上げたが、リノ・エン・クルデスはそれも不可能であった。
 旧クールークの諸侯が群島諸国連合に助力を差し伸べようとしているのは、そこに何らかの「利」があるからだ。
 恐らく、今のうちにオベルに貸しを作っておいて、将来、自らが旧クールーク領内で勢力を伸ばす、あるいは危機に陥ったときに助力を頼むときの布石を打っておきたいのであろう。
 また、ラインバッハ二世に組した別の一派に対する牽制も、目的の一つではあるかもしれない。
 王国の奪還は、あくまでリノ・エン・クルデス個人の目的であり、ただでさえオベルとの関係が薄い旧クールークの諸侯に、その目的のために命をかけろと強制するのは不可能であろう。
 それを解決する術こそ、現在の彼が求めるものだった。
 だが、ターニャは、明らかに失望したような表情で首を振った。

「それは、陛下ご自身が解決すべき問題で、現状を報告しに来ただけの私には関わりのないことです。
 わが師エレノアからも、そのことについては、何も伺ってはおりません。
 そもそも、オベル・ラズリル連合艦隊を半減させるほどの大敗北を喫したのは陛下ご自身であって、他の何者でもありませんよ。
 その解決を丸投げされても、エレノア師もお困りになるだけでしょう」

 ターニャの舌鋒は鋭すぎ、それゆえにリノ・エン・クルデスの肺腑とプライドとを、強烈にえぐりとった。

「ちっ!」

 周囲に聞こえるほど強烈な舌打ちをしておいて、彼は沈黙と不機嫌の底に沈んだ。
 噛み潰す苦虫の数も、万単位で増えていた。
 この姿厳雄偉の亡国王は、何もかもが気に入らなかった。
 事件を起こしたラインバッハ二世も、グレアム・クレイも。
 それを助長したヒクサクも、ていよく利用されたナ・ナルの島民も。
 敗北を喫した自分をあざ笑うかのように成功を引っさげて帰ってきたアカギもミズキも。
 全ての原因になっていると思われている【罰の紋章】も、それを持つマクスウェルも。
 そして、意味ありげな視線で自分を見ているカタリナも、目前で自分を斬って捨てたこの糞生意気な小娘も。
 要するに、この世に存在するありとあらゆるものが、彼の不機嫌を助長しているかのようだった。

 そんなリノ・エン・クルデスの姿に、ターニャは一秒ごとに失望の水位を上げていた。
 師エレノアは、たびたび、この国王について話して聞かせた。
 エレノアが人を評するに当たって、寛容が厳しさを凌駕する例は、ごく少ない。
 そして、その数少ない例の一人が、このリノ・エン・クルデスであったのだ。
 エレノアは、リノ・エン・クルデスを

「人心掌握に長け、果断速攻」「寛容と冷徹の絶妙な均衡」

 と評価している。全面肯定と言ってよい。
 その評価に比べれば、やはりエレノアが好意的に論じているキカやマクスウェルの評価でさえ、まだ厳しいといえる。
 エレノアがそこまで評価するリノ・エン・クルデスという存在が、このオベルにとって最大の難事といえる時期においてどのように行動するのか、ターニャには大変興味のあるところだった。
 だが、一目会って、彼女は失望した。
 いま、彼女の目の前にいるのは、まるでケンカに負けて拗ねている、身体が大きいだけの子供であった。
 とても、エレノアの評価に値するような大人物には見えなかった。

 実は、ターニャはエレノアから、オベル王国奪還のための秘策を授けられている。
 エレノアは自ら行動する前に、弟子のアグネスとターニャに、今後の策と行動を指示して送り出していた。
 今頃、アグネスもエレノアの秘策を持って、他の誰かに会っていることだろう。
 だが、ターニャはそのせっかくの策を、現在のリノ・エン・クルデスに伝える気はなかった。
 彼女の懐中にあるこの策は、とてもこのような狭量な人物に遂行できるものではない。
 ターニャにとって、リノ・エン・クルデスという存在に、そこまでの価値を見出せなかったのである。
 それにしても、今後自分はどのように行動すべきであろう。
 不機嫌の底に定住してしまったリノ・エン・クルデスとは別の意味で、ターニャも思案に沈んだ。
 カタリナは無言のまま、そんな二人を等分に眺めている。

COMMENT

(初:09.07.10)
(改:09.09.20)