群島諸国の歴史に詳しい女性歴史家ターニャは、それまでの読書に一段落をつけると、読んでいた分厚い本を閉じた。
窓の外から入ってくる陽の光は、それが一日の中で最も旺盛に温度を上げる時刻であることを自己主張していた。
どうやら、自分はまた「やらかして」しまったらしい。
理解して、ターニャはため息をつく。
自分の欠点は、ターニャ自身が最もよく知るところである。
彼女は、いったん読書を始め、本の世界に埋没すると、ちょっとやそっとでは出てこなくなるのだ。
体力のあった若い頃ならば、多少の徹夜などにも耐えられたが、今はそういうわけにもいかぬ。
現在の彼女は、来年には年齢が九十に達する身である。
若い頃は知識欲からくる冒険にあけくれたせいか、現在でも年齢の割には体力も元気もあり、口の闊達さも同年代を圧倒したが、それでも若さには代えられぬ。
特に、読書の時間に疲れを感じるようになってからは、己の老いというものを、嫌でも理解させられた。
自分に残された時間は少ない。
それは、誰よりも自分自身が理解している。
その残された時間のうちに、彼女は自分の知る多くの歴史を後世のために遺しておかねばならなかった。
さて、その遺すべき歴史の中でも、特に現在の彼女が意を砕いているのは、先ほどまで読んでいた事件のことである。
ナ・ナル島住民によるマクスウェル襲撃から始まった一連の事件に、未だターニャの名は登場していない。
とはいえ、彼女がここまでまったくこの事件に無関係であったか、というと、そうでもない。
そうでもない、どころか、実は誰より早く、彼女の活躍は始まっている。
たまたま群島で頻発していた事件に直接的に関わっていなかっただけのことで、記録を遺したターニャ自身が自らのことを書いていないから、知られていないだけのことであった。
この時期、ターニャは同門のアグネス、そして師である軍師エレノア・シルバーバーグと行動を共にしていた。
事件が起こる以前から北の赤月帝国に潜伏していた彼女たちは、混沌を極めていた旧クールーク皇国の現状を知ることに注心していたのである。
事件の一年前のクールーク皇国崩壊以降、その旧領は、ほとんど瞬間的に告げられてしまった風雲急のせいで、何もかもが混乱していた。
中央のコントロールを失った地方領主たちは、各々の器量で己の領地を経営せざるをえなくなった。
当然、この混乱を利用して己の領地を広げようとする強者も現れれば、なすすべもなく歴史の闇に消えていった弱者もいる。
群雄割拠の時代に突入したのだ。
これはこれで相当に興味を引かれる事項ではあるが、その状況を整理して順序良く語ることは、困難を極める。
諸侯の領地は毎日その大きさを変え、毎日どこかで領主の名が入れ代わった。
クールークと対立していた北の赤月帝国も、この状況を黙って見ているわけもなく、南に向けて大規模な侵攻作戦を開始していた。
そうして一年が経ったとき、旧クールーク領は、大きく様変わりをしていた。
北方の三分の一が赤月帝国に呑みこまれ、新たな支配者の下で一応の安定を見た。
残りの三分の二は、未だに混乱の中にあったが、その最南端で特筆すべき動きが起こっていた。
ほとんど都市国家とまで言ってよいほど細分化した諸侯たちは、一つ一つが対立していては赤月の脅威に対抗できぬと気付き、それぞれが手を組み、横の連携を強め始めていたのだ。
その運動の中心となっていた小領主は、かつてクールーク海軍で勇名を馳せた父子であるという。
エレノアたちは、その父子に接近したのだ。
エレノアは、彼らのブレーンとして策を提供するかたわら、その威を利用して情報を旺盛に収集し、冷徹に分析していた。
この「父子」と「情報」が、群島での事件を大きく左右することになるが、それも後の話である。
ターニャが読み進めていた段階、すなわち、オベル沖海戦でリノ・エン・クルデスが敗北し、ナ・ナル島においてアカギとミズキが事件を解決していた段階では、誰も彼女たちの現状に興味を示す者はいなかったし、誰もそんな余裕など持っていなかった。
特に、エレノア・シルバーバーグと、彼女にその役割を負わされたシャルルマーニュに導かれてラズリルに向かっていたリノ・エン・クルデスの心境は、爽快とか明快とかいった単語とは完璧に無縁だった。
自らの敗北を恥じる意識と、部下であるアカギとミズキの成功に対する賞賛と嫉妬。
この三者がその巨体の中で複雑に絡み合い、単純ならざる無限回廊と化していたようである。
無論、当人の真意は予測するしかないが、状況証拠の一つには、リノは二人の成功を賞賛しながらも、それからしばらく、二人を自分の傍には近づけなかったことがあげられる。
二人にマクスウェルの警護と監視を命じ、オセアニセス号の艦長室に三人を押し込めてから、ラズリルに到着しても、自ら彼らには会おうとはしなかった。
他者から、巨大な成功という実績を得たこの二人と、ラズリルから兵を預かりながら一敗地に塗れた自分とを比較されることを、何よりも恐れたのであろう。
だが、そのリノ・エン・クルデスの配慮もむなしく、彼は全く意外な人物から、強烈に辱められることになった。
ラズリル海上騎士団長、カタリナである。
(初:09.05.10)